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第四章 過去が呪いになる話
第8話 醜い感情
しおりを挟む人は苦労した分だけ、後で大きな幸福を手にする。
人に優しく、自分に厳しく。
自分より他の人を思いやって、頑張って生きていれば、必ず報われる。愛されて素敵な人生になる。
人は皆平等。誰だって幸せになる権利がある。
物語の世界の中で見てきた綺麗なものを、ただ信じていた。
***
遠くからアラームの音が聞こえた。
自分でセットしたのに、とても憎らしく感じる。
まだ夢の中にいたいが、諦めて目を開ける。鳴り続けていたアラームを止めて体を起こせば、簡素な自分の部屋と仕事用のスーツが見えた。
「今日も仕事か……」
重たい溜め息を吐き出す。ベッドから出て部屋にある姿見を見れば、不幸そうな顔をした女が映っていた。
「ひっどい顔……」
日和は自嘲的な笑みを浮かべた。
日和の人生はうまくいかない事ばかりだ。
幼い頃から家族関係は良好とは言えず、学校でも良好な人間関係を築く事が出来なかった。
特別で立派な人間になろうと、アルバイトをして学費を稼ぎながら、情報処理系の専門学校へ通った。
手に職をつけて将来困らない様にと、睡眠時間も遊ぶ時間も削って勉強した。専門的な職業を目指して就職活動も頑張ったが、努力も虚しく、一社も受からずにアルバイト生活。
アルバイト先はブラックな会社で、残業させる癖に残業代を支払わない。それでも、ようやく働けたのだからと頑張っていれば、経営不振で潰れた。
夢を諦め、他の人が言う『普通の幸せ』を目指す事にした。自分に出来る仕事をして、結婚して家庭を築けたのなら、周りも認めてくれると思った。
新しく見つけたデパートの販売の仕事で手酷いパワハラに遭って消化器官を壊し、二ヶ月で退社した。体重も十八キロ落ちてしまい、暫く通院しなければならなくなった。
痩せすぎた結果、子供が産めない体になっていると医者から診断されたのは、二十三歳の時。
温かな家庭を築く事を夢見た日和にとっては、絶望でしかなかった。
無職期間で徐々に体を回復させて、アルバイトや契約社員として別の職場で働いた。
二年半ほど勤めていた会社が再び経営不振で潰れた時には、気がつけば二十八歳目前だった。
『正社員になっておかないと人生終了する』と周りに言われて、正社員を目指して就職活動を頑張った。転職回数が多く、度々無職期間もある為、職歴は悲惨だった。資格を取得しても、うまく活かせない。就職活動は難航した。
二十八歳の八月。半年の就職活動の末に、小さな企業の事務員の内定をもらった。職場から通勤しやすい場所に引っ越しをして、九月から働き始めた。
世間が認めてくれる『正社員』という肩書きを手に入れる事が出来た日和は心底安堵した。
『失敗作』
子供の頃に、母親から言われた言葉。日和の心を凍らせる呪いの言葉は、事あるごとに蘇り、心を騒つかせる。
(仕事、行きたくないな……)
そろそろ家を出なければならない時間だ。身支度を終えた日和は、鞄を持って玄関へ向かう。
「頑張るしかないんだ。ちゃんとしなくちゃ」
自分を叱咤して、玄関のドアノブを握りしめる。
この部屋を出れば、戦いの世界だ。
(今日はミスしませんように。怒られたり、嫌な事が起きませんように)
日和は切実に祈りながら外へ出た。
「おはようございます」
職場に到着した日和は、明るく挨拶をする。同じ部署の女性上司二人は無反応だった。
(今日の機嫌は大丈夫かな?)
日和は横目で上司達の顔色を伺う。
女性上司達は、入社当時から日和に冷たかった。
機嫌が悪い時には理不尽な事を言われる上に、陰口も日常茶飯事。クレーム対応など嫌な仕事も押し付けられる。人の目を異常に気にしてしまう日和は、精神的な苦痛を感じていた。
「おはようございます。赤間さん」
振り向くと、美しい笑顔を浮かべる同僚の湖坂がいた。
湖坂は大学生の時にモデルをしていたらしく、美人でスタイルが良かった。男性社員や取引先の男性達からも大人気だ。
「おはようございます。今日は体は大丈夫ですか?」
日和が尋ねると、湖坂は微笑みながら愛おしそうに自身のお腹を撫でた。
「今日は調子がいいんです」
三ヶ月前に妊娠が分かった彼女は、とても幸せそうだった。
「赤間さん! おしゃべりしないで仕事して!!」
棘のある声がフロアに響く。恐る恐る振り返ると、女性上司の一人が日和を睨みつけていた。
時刻は始業の二十分前。おしゃべりしていても問題無い時間だった。
しかし、ここで反論すれば、空気が悪くなる。平和に過ごす為にも言う通りにした方がいい。
「はい。すみません」
日和は頭を下げて仕事に取り掛かる。
湖坂は出勤してきた男性上司と和やかにお喋りをしていた。
ようやく訪れた休憩時間。
女性社員だけが使う狭く簡素な休憩室の椅子に沈むように腰掛ける。
最低限の人数で仕事を回しているので忙しい。休憩が一人ずつなので、一人きりになれる時間があるのは有り難かった。
フルで動かした頭が熱と痛みを訴える。
今日も、他の部署の社員の仕事を押し付けられた。日和が断れないと分かっているのだ。仕事を押し付けてきた男性社員達は、楽しそうに湖坂と談笑していた。それを見る度に、日和はモヤモヤとした思いを抱いてしまう。
(そんな風に思っちゃダメだ。下っ端だから、仕事を押し付けられるのは当然だし。私が認めてもらうには、人の何倍も努力しなくちゃいけないんだから。頑張れば、いつか必ず報われる時がくる。だから、頑張ろう!)
休憩後も忙しい時間が流れた。
女性上司達も湖坂も先に帰宅し、日和は一人で仕事をしていた。
自分の部署の四人分の仕事が一気にやってくる。問い合わせの電話、窓口の応対。他の部署のミスの対処が一気に押し寄せる。
「おい。赤間」
別部署の男性上司が携帯を手にして、日和に声を掛けてくる。
「アプリのダウンロードがわからん。やれ」
日和は内心舌打ちしたい気持ちだった。
何度も教えているのだが、男性上司は「わからないからやれ」と命じてくる。こちらが忙しくてもお構いなしだ。
「すみません。今は忙しいので、また後で……」
「は!? できん!! 今すぐやれ!!」
男性上司に怒られ、日和は渋々と応じた。
(やばい。さっきの問い合わせの返信をしないと!)
日和は慌ててメールを打つ。男性上司はアプリゲームで遊びながら、日和を鼻で笑った。
「お前はいつも忙しい振りばっかりだな。俺みたいに余裕で仕事出来る様にならなきゃいかんぞ」
(忙しい振り!? あなたやあなたの部下達が、私に自分の仕事を押し付けるからでしょう!?)
ただでさえ、自分の部署の四人分の仕事を押し付けられている。その上、他部署の仕事も毎度複数人から押し付けられているのだ。
言い返したい気持ちをグッと堪えて、日和は仕事をこなした。
仕事が終わり、一人暮らしの暗く冷たい部屋に帰る。
カバンを下ろしてスーツを脱ぐと、ようやく解放されたような気分になった。
「疲れた……」
日和はグッタリと床の上に座り込んだ。
求人内容が詐欺でしかない、週六日勤務で手取り十二万円の仕事。
けれど、辞める訳にはいかない。
実家は頼れない。
父は、日和が高校生の時から無職だ。健康には何の問題もない。「人に頭を下げるのが嫌だから働きたくない」と言い出し、突然仕事を辞めてきてしまった。
母が正社員で働いて家計を支えているが、給料は少ない。父は家族に無関心で、毎日携帯アプリのゲームをしているだけ。
お金が無いと心に余裕がなくなり、家族関係は崩壊する。
「私が、もっと頑張らなくちゃ」
立派な人間になって、苦労してきた母を安心させたい。良い物を買ってあげたい。自分を産んで良かったと言ってもらいたい。『失敗作』という言葉を打ち消してほしい。
日和は目を閉じる。涙が一粒零れ落ちた。
***
「まだ産まれていないのに、両親がベビーベッドとか洋服とか買ってきちゃって。旦那も子供の将来の為に仕事頑張るって張り切っちゃって。お兄ちゃんも弟も安産守りを買ってきてくれたんですよ」
(幸せな家族って、フィクションの世界じゃなかったんだな……)
湖坂の顔を見ながら、日和はそんな事を思った。
温かく、裕福な家庭。子供を待ち望む人達。愛する旦那さん。そして、赤ちゃん。
湖坂の天真爛漫な笑顔と愛される事が当然という感覚は日和とは対照的で、全てが眩しく感じた。
その日の午後、日和は人事部の男性上司から会議室に呼び出された。
「湖坂さんは妊娠していて、体調的にも仕事で出来ない事が多いから、君が彼女の分も働いてね」
「はい」
仕事のお叱りではなかった事に、日和は安堵する。言われなくても、既に湖坂の分の仕事をやっている。
「湖坂さんは大事な存在だから。美人だし、お客さんの評判もいい。……それにしても」
上司は日和を上から下まで眺めた後、鼻で笑った。
「君、その見た目はどうなの? 湖坂さんとは大違いだよね。スタイルよくないし。女は、やっぱり見た目が良くないと価値が無いと思うよ。事務員は会社の顔なわけでしょ? お客さんも不愉快だと思うだろうし。わかるかな?」
日和は呆然としたまま、人を貶めて笑っている上司を見ていた。
「君はどうでも良い存在なんだから。湖坂さんの為に、せいぜい役立ってね。それじゃあ、これからも馬車馬の如く働いてね」
上司は上機嫌に会議室から出て行く。日和の心臓がドクドクと嫌な音を立て、指先から血の気が引いていく。
(……戻らないと)
席に戻って仕事をしなければ。あまり長い時間デスクから離れていると、女性上司の機嫌も悪くなる。またヒステリーを起こされたら怖い。
席に戻った日和の元に、湖坂が笑顔でやってきた。
「赤間さん! ちょうど良いところに!! 今、赤ちゃんがお腹を蹴ったんです! 触ってください」
湖坂は無邪気に笑って日和の手を取り、自分のお腹へ添えさせる。
(どうして?)
日和の心にドロリとした感情が流れ込んだ。
”人類は皆平等である”という言葉が嘘だという事を、日和は理解した。
恵まれた容姿を持ち、仕事をしなくても怒られず、周りから贔屓される。愛のある家庭で育ち、幸せな結婚して、赤ちゃんまで手に入れている。
日和が欲しいものを、何の苦労もなく手に入れている。
(私は将来、子供を産めないって言われたのに……。頑張ってきたのに、どうして、いつも手に入れられないの? どうして、私は幸せじゃないの?)
日和は湖坂のお腹を見つめる。
(赤ちゃん。死んじゃえば良いのに。そうしたら……)
自分の感情にゾッとして、日和は湖坂のお腹から手を離した。
「あ! 今動いたのわかりました? もう、元気すぎて困っちゃいます」
湖坂が幸せそうにお腹を撫でる。
「……無事に産まれるといいですね」
日和はぎこちない笑みを浮かべて、綺麗な言葉を吐いた。
(今、私は何の罪も無い命の死を……いや、違う! 私は、そんな事は望んでいない! 私はそんな嫌な人間じゃない。私は、私は!!)
心の中に生まれたドロドロとした醜い感情が恐ろしい。そんな事を一瞬でも思った事を信じたくなかった。
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