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第九章

第224話 絶望的な状況

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 増渕ますぶちのスライディングを足首に受け、たくみは悶絶した。

「巧、大丈夫か⁉︎」

 真っ先に駆け寄ってきたのは誠治せいじだ。
 地面に横向きでうずくまっていた巧は、痛みのあまり答えることができなかった。

 審判がすぐにストレッチャーパーソンを呼び寄せた。
 担架に乗せて運ばれていく巧を、咲麗しょうれいイレブンは呆然とした表情で見送った。
 そのまま医務室に直行する彼に、京極きょうごく香奈かなが付き添った。

 誠治は巧のすぐそばにいた。
 増渕のスライディングが巧の足を狙った故意のラフプレーであることは、一目瞭然だった。

 親友がピッチを去るや否や、彼の怒りは爆発した。
 増渕に詰め寄り、胸ぐらを掴まんばかりの勢いで、

「てめえっ、わざとやりやがったな!」
「よせ、誠治! ここでお前が退場にでもなったらどうする⁉︎」
「でもっ——」
「巧もそんなのは望んでねえぞ」
「っ……!」

 飛鳥あすか水田みずたに諭され、誠治は唇を噛みしめた。
 増渕は鼻を鳴らし、口角を吊り上げた。

「わざと? おいおい、冗談はやめてくれよ。ただの事故だっつーの。サッカーに怪我はつきもんってことくらい、強豪の咲麗さんならわかってると思ったけどなぁ?」
「てんめえっ……!」

 誠治は握りしめた拳をぷるぷると震わせた。気を抜いたら殴ってしまいそうだった。
 増渕は勝ち誇ったように再度鼻を鳴らし、その場を離れていった。

「クソ野郎が……!」
「誠治、落ち着いてプレーしろよ。あんなの相手にするだけ損だ」
「……わかってるっす」

 誠治はふぅー、と長く息を吐き出した。
 巧だったら内心でブチギレてはいても、取り乱すことはないだろう——。
 その考えが彼の理性を繋ぎ止めていた。

 増渕にはイエローカードが与えられた。レッドカードでもおかしくないだろうという声があちこちから漏れた。
 高校サッカーで一発退場となるケースはプロより少ないが、もっと咲麗のチャンスであったり、増渕が少しでも足裏を見せていたのであれば間違いなくカードの色は違っただろう。

 巧の代わりにまことが投入されて試合は再開した。
 誠治が失ったボールが増渕に渡った瞬間、真がまるで狙っていたかのようにスライディングをした。

「がっ……!」

 真はボールごと増渕の足を刈り取った。
 すぐに審判が笛を吹き、真にイエローカードが提示された。
 ——その足元では、増渕が足を押さえて転がっていた。

「て、めえ……!」

 真は睨みつけてくる増渕に視線を向けることなく、平然とした表情のままポジションについた。
 増渕は起き上がることができなかった。様子を見にきたトレーナーが、ベンチに向かってバツを示した。

 真の本当の狙いはどうあれ、周囲からすれば完全な報復プレーだった。
 最高峰のイングランドプレミアリーグなどではよく見られる光景だが、これは日本の高校サッカーのプレミアリーグだ。滅多に起きない事態に会場は騒然となった。

 観客は当然、咲麗ベンチもまたざわついていた。

「今のは明らかにわざとだわ……如月きさらぎ君のファールに対する報復?」
「状況を見ればそうなるが、西宮にしみやのガラじゃねえよな」
「あぁ、やられたのが巧ならなおさらだ」
「でもまあ、とりあえずイエローでよかったわ」
「そりゃそうだろ。巧へのあれでレッドじゃねえなら、真のだってそうだ」

 一人の選手がそう吐き捨てると、周囲もこぞって同意した。
 ベンチも含めて一気に緊張感が高まったが、幸いどちらのチームもこれ以上の怪我人を出すことなく、試合は六対〇で咲麗が大勝を収めた。

 試合が終わるや否や、巧は病院に直行した。京極も香奈も一緒だ。
 そこで、残酷な真実が告げられた。

「足首の靭帯損傷、全治六週間です」

 ——選手権決勝は五週間後だった。

「選手権は……どうなりますか?」
「治りが早ければ不可能ではありませんが、現状は厳しいと思われます」
「……わかりました」

 巧は努めて静かな口調で答えた。
 目の前の気の毒そうな表情を浮かべる医師は、ただ自分の責務を果たしているだけだ。喚いても仕方ない。

 今後について——主にリハビリのスケジュールなど——の話を聞いてから病院を出た。少しでも早く治すため、松葉杖を借りた。
 京極はマンションまで送ってくれた。道中も「諦めなければ可能性がゼロになることはない」と慰めてくれた。

 彼も香奈も明るく振る舞ってくれたため、少し気は楽になった。
 しかし同時に、彼らに心配をかけまいとポジティヴな発言をするのもしんどかった。

 選手権に出られないというのはそれだけでショックだったし、治ってもスタメンに復帰できる保証はない。離脱している間に他の選手が台頭して、巧の居場所はなくなっているかもしれない。
 考えでも無駄であることはわかっていても、ネガティヴな精神状態では負の思考を止められなかった。
 これまでの努力がガラガラと音を立てて崩れ落ちていくような気さえした。

 ——香奈は表面上は明るく振る舞いつつも、巧が負のスパイラルに陥っていることに気づいていた。
 自身も相当なショックを受けていたが、自分が支えるんだという使命感が彼女を突き動かしていた。

 巧をソファーに座らせ、足を置けるようにオットマンをその前に設置した。
 その隣に座り、おもむろに彼の顔を抱き寄せた。

「か、香奈?」
「辛いときは泣いていいんですよ」
「っ……!」

 巧がビクッと体を震わせた。
 香奈はその頭を毛流れに沿って優しく撫でた。かつて自分が落ち込んでいたときに、いつも彼がそうしてくれたように。

「溜めるのはよくないです。全部吐き出しちゃっていいですよ。私が受け止めますから」
「……ごめん、ちょっとだけ借りるね」
「どうぞどうぞ。私の全部は巧先輩のものなんですから、いつでも好きに使っちゃってください」
「うん、ありがとうっ……!」

 香奈の肩から胸にかけて顔を埋め、巧は静かに涙を流した。

 彼の頭や背中を撫でつつ、なぜ誰よりも頑張ってきた彼がこんな目に遭わなければならないのかと、香奈はやるせない気持ちになった。
 増渕への怒りも再燃した。因縁をつけられた経緯は巧から聞いているが、ただの八つ当たりではないか。

(ふざけんなよあいつマジで……!)

 香奈の心はハリケーンのように吹き荒れていた。
 それでもまだ平静を保っていられるのは、巧の前であること、増渕も一応は報いが与えられたこと、そしてその増渕を削った真に対する疑念があるからこそだった。

 これまでのことを考えても、巧のためとは考えられない。
 だが、他に可能性も思いつかなかった。
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