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第四章

第九十二話 どうでもいい

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 発動させるのは闇属性魔法【領域生成イザニコス】。設定した対象範囲内にあるすべての魔力を自在に操ることのできる魔法だ。

 一見すると最強に見えるこの魔法にも実際には色々制限があるのだが、それは相手が手練てだれである場合のみ。
 相手が格下である場合や今回の沙希さきのように気を失っているなら、文字通り空也くうやの意のままに魔力を操ることが可能だ。

 沙希の魔力構造を思い出しながら、彼女の体内の魔力の流れをあるべき形へと戻していく。

『ねえ、そのまま普通に治しちゃって良いの? 沙希を君好みの身体にカスタマイズすることだって——』

 ——黙れ。

 脳内で楽しそうに話し始めたその声を一蹴する。

 ——誰だか知らないけど、君に用はない。消えろ。

 普段はあまり使わない乱暴な言葉で吐き捨てると、頭の隅に残っていたモヤモヤが晴れていくのを感じた。
 空也は確信した。今の自分なら絶対に大丈夫だ、と。

 それから程なくして、沙希は目を覚ました。



◇   ◇   ◇



「んっ……」

 目を開けると、視界に肌色が広がった。
 少しして、自分がテントの中にいるのだと気づく。

「沙希……?」

 すぐ横から震えた声で名前を呼ばれ、沙希は視線をそちらに向けた。
 ——予想通り、目に涙を浮かべた空也がいた。

「空也……」
「良かったっ……目を覚ましたんだ……!」

 髪と同じ空色の瞳から雫がポタポタとこぼれ落ちる。まるで、空が泣いているようだ。

「空也——」

 沙希は手を伸ばした。
 空也もそれに応えるように手を伸ばしてくるが、彼は途中でその手を止め、引っ込めた。

「空也……?」
「僕は……僕は君を殺しかけたんだ……」

 うつむき加減の空也の口らか漏れた声は、わずかにかすれていた。

「でも、こうして助けてくれた。だから別に問題ない」
「それでもっ」

 空也が拳を握りしめて叫んだ。

「僕のせいで沙希が死にかけたという事実に変わりはないっ」

 その剣幕に、沙希は恐怖よりも危うさを感じた。このまま彼を放っては置けないと、そう思った。
 だから沙希は重い頭を持ち上げ——、

「そんな僕が、君に触れる権利なんて——」
「うるさい」

 空也の後頭部を押さえて、自分の唇を空也のそれに押し当てた。
 彼の少年にしては丸い瞳が、さらに真ん丸に見開かれる。

 三秒ほど経ってから、沙希は顔を離した。

「沙希……」

 呆然としている空也の目を正面から見据える。

「権利なんてどうでも良い。私と空也の関係は、そんなものには左右されない」

 しばしの間、空也と沙希は見つめあったままだった。
 やがて、空也が先に目を逸らした。その髪から覗く耳はほんのりと朱色に染まっている。

「……沙希には敵わないね」

 ふっと笑い、空也の視線が再び沙希を捉えた。

「沙希」
「うん」
「君が好きだ。愛している」
「——私も」

 今度は空也が沙希の後頭部に手を添え、顔を寄せてくる。沙希は目を閉じた。

 それは、先程よりも長いキスだった。
 顔を離すとなんだか気恥ずかしくなり、沙希は空也の胸に顔を埋めた。空也の手が、背中や頭を撫でてくれる。

 その細くも引きしまった胸から感じられると体温と鼓動、こちらを安心させるような優しい手つきに心が安らぐ。
 やがて襲ってきた眠気に、沙希は逆らわなかった。



◇   ◇   ◇



 寝てしまった沙希を医療用の簡易ベッドに横たわらせ、空也はテントの外に顔を出した。
 目的の人物は、ちょうどこちらに向かってきていた。

「ヒナ」
「はい」

 要件を言う必要はなかった。
 空也が欲しているもの、上裸の沙希のための衣服を彼女はすでに持っていたからだ。

 沙希が目を覚ましたときに——おそらくは二人を気遣って——テントを出て行ったヒナは、すぐに沙希の衣服を屋敷まで取りに行ってくれていたのだろう。
 ドジな一面もあるけどやっぱり優秀なメイドだな、と空也が感嘆の念を抱いていると、

「おわっ⁉︎」

 テントの前でヒナが小石につまずいた。その手から衣服が飛び出る。
 これまでに何度も見てきたその光景に懐かしさを覚えながら、空也はまず服をキャッチした。次いで地面に衝突寸前のヒナの身体を支える。程よく筋肉と脂肪のついたお腹が腕に食い込んだ。

「あはは……またやっちゃいました」

 身を起こしながら、ヒナが照れたように笑って舌を出した。

「ありがとうございます、と言いたいところですけど……空也さん」

 ヒナがジト目を向けてきた。

「何?」
「今、私より服を優先しましたよね⁉︎」

 ずいっと顔を近づけてくるヒナから視線を逸らし、空也は答えた。

「その観察力があるなら、まず足元をちゃんと見よっか」
「あっ、誤魔化した!」
「そんなことないよ」

 唇を尖らせるヒナを適当にあしらい、テントの中に押しやる。

「まあこうしてどっちも無事だったわけだし、早く沙希に着せてあげて。風邪引いちゃうかもだから」
「むっ、うまく沙希を使いましたね」

 ニヤリと笑い、ヒナが沙希に近づいた。

「手伝う?」
「そうですね、お願いします」

 寝ている人間ってどうしてこんなに重いんですかね、と愚痴りながら、ヒナが沙希の身体を持ち上げた。空也も反対側から沙希を支える。
 ヒナの手際が良かったため、着せ替えショー——というよりただ着せただけだが——はすぐに終了した。

 ヒナに手伝ってもらい、沙希を背中に乗せる。

「……それにしても、空也さんってすごいですね」

 ヒナがしみじみと言った。

「どうしたの? 急に」
「いえ……」

 空也の目を見ていたその視線が下にずらされる。

「好きな子の上裸を前に、よくもう一つのテントを勃てなかったなって思って」

 空也は苦笑した。
 あはは、と能天気に笑うその脳天に一発かましてやろうか迷うが、背中で沙希が眠っていることを思い出して諦める。

 それにヒナの突然の下ネタは——彼女が下ネタにオープンであることを考慮しても——場を和ませる類のものであることはわかっていたため、空也は珍しくそれに乗っかった。

「そりゃあ、沙希のことは大切にしたいからね」
「くーっ、なんかムカつきます!」

 言葉とは裏腹に、ヒナの顔には明るい笑顔が浮かんでいる。
 空也の口から、自然と言葉がこぼれ落ちた。

「ありがとう、ヒナ」
「——お互い様ですよ」

 ヒナがニカっと笑い、右手の人差し指と中指でVサインを作った。



「話は変わるけどさ、ヒナ」
「はい」

 空也の口調から真面目な話であることを察したのだろう。ヒナは表情を真剣なものに戻した。

「ミサはどうなった?」
「とりあえず毒は抜けたようで、魔力の消耗ペースはかなり遅くなっています」
「そっか……」

 空也はホッと息を吐いた。

「まだ危険な状態ではありますが……現在は『ウルフ』の米倉よねくらすぐるさんでしたっけ? 彼ともう一人の魔法師と一緒にこちらに向かってきていて、もうすぐ到着するはずです」



 ヒナの言葉通り、間もなくして傑がミサを背負ってやってきた。
 医療隊員が複数人ですぐに治療にあたる。

 空也は邪魔にならないようにその様子を見ていたが——魔力構造に手を加えることはできても治癒魔法は苦手なのだ——、背後に人の気配を感じて振り返った。

「よお」

 そのそっけない挨拶は傑のものだ。

「米倉さん。お疲れ様です」
「魔物は全部殺したのか?」
「はい」

 やや唐突感のある質問に、空也は首を縦に振った。お前がやったのか、と聞いてこないところがいかにも彼らしい。

「アイツの容態が少し持ち直したのも、さっきの紫のやつの効果か?」

 傑がミサに目を向けながら尋ねてくる。紫のやつとは【分解サナトス】のことだろう。

「はい。【スペックル・スティンガー】の毒だけを消滅させました。成功したみたいで良かったです」
「相変わらず発想がバグってんな」

 傑が苦笑した。

「後で詳しく聞かせてもらうぞ」
「はい……それで、こちらの方は?」

 空也は傑の斜め後ろで所在なさげに立つ青年に目を向けた。
 傑と同じく二十代前半だろうか。その端正たんせいな顔立ちは見たことがないものだが、魔力には覚えがある。傑やミサとともにスペックル・スティンガーや【ファング・ハント】と戦っていた人物だ。

「こいつは第二隊特別作戦係、通称『タイガー』の成瀬なるせ蒼士そうじだ」
「えっ?」

 空也は驚愕きょうがくと意外感を覚えた。

 蒼士の名は空也も知っていた。タイガーの中でも最強の魔法師だと、もっぱら噂になっていたからだ。
 優秀な魔法師であることは予想していたが、目の前の優しそうな青年がよもやそんな大物だとは想像していなかった。

「成瀬蒼士です。お初にお目にかかります、瀬川せがわ君」
「初めまして。瀬川空也です」

 差し出された手を握る。
 年下の空也に対するその丁寧な対応は、秘密裁判などで何回か顔を合わせている第三隊の狭間はざま真司しんじを思い起こさせた。

「第三隊特別作戦係『ウルフ』にとてつもない少年魔法師が入ったとは聞いていましたが……本当に素晴らしい才能をお持ちなのですね」

 蒼士の言葉は、探りを入れるというよりは純粋に感嘆しているようだった。

「第二隊最強の成瀬さんにそう言っていただけて、すごく嬉しいです」
「いえ、最強だなんてとんでもない」

 自分はまだまだです、と蒼士が謙遜した。その視線がミサに向く。

「瀬川君の魔法がなければ、彼女は今頃死んでいたでしょうから。ありがとうございます、本当に」
「成瀬さんと米倉さんが耐えてくれていたから間に合ったんです。お礼を言うのはこちらのほうですよ」
「……若いのにしっかりしていらっしゃいますね」

 空也としては本心を述べただけだったが、蒼士は感心したように頷いた。
 彼は先輩、と傑を見た。

「良い後輩を持ちましたね」
「生意気なだけだ」

 そのぶっきらぼうな言葉に、空也と蒼士は揃って苦笑した。

「ところで、お二人は以前から交流があるのですか?」
「同門なんです。私のほうが後に入門しました」
「なるほど。それで先輩なんですね」

 ええ、と蒼士が柔らかい表情で頷いた。彼は空也に顔を近づけてきた。

「私からも一つ、質問してもよろしいですか?」
「ええ、僕に答えられることなら」

 空也は少し警戒しつつ頷いた。第二隊は決して第三隊と敵対的ではないが、用心しておくに越したことはないからだ。
 しかし、それは杞憂きゆうだった。

「なぜ、両頬にもみじマークがついているのです?」
「えっ? ああ、これですか」

 空也は自分の両頬に触れた。自分では確認できないが、ヒナと和人にビンタされたところが跡になっているのだろう。
 自然と笑みが浮かぶのを感じながら、答えた。

「——僕が周囲に恵まれている証拠です」



◇   ◇   ◇



 それから一時間後——、

 空也は王宮にある第三隊支部の一室にいた。
 隣に座るヒナから緊張の色が見て取れたため、その背を軽く叩いてやる。

 一瞬驚きの表情を浮かべたヒナは、笑顔になって小声でありがとうございます、と言った。

 そんな二人をチラリと見てから、上座に座る銀髪の少女——イース王国第二王女、夜桜よざくら玲良れいらは口を開いた。

「それでは、今回の大規模魔物ハザードについて、説明をお願いします」
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