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第四章『恋惑』~揺れる記憶~
夢の誘い
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フェリデロードの本家を訪れる前夜の事……。私は、不思議な夢を見た。
誰かに自分の名前を愛おしそうに、ゆっくりと、何度も、何度も、呼ばれながら……、額や頬にキスを受ける夢。
その抱かれている腕の感触で、何となく、それが男性のものであるという事はわかったのだけど、この人は誰なんだろう……。
片手を持ち上げられ、今度はその手の甲に柔らかな感触が触れてくる。
『だ……、れ』
夢現の中、触れられた部分に温かな優しい熱を感じながら尋ねると、その人は私の耳元に囁いた。
『お前の傍は……、心地良い』
『んっ……』
肌に触れていた唇らしき感触が、やがて私の大切な温もりへと触れたかと思うと、小鳥同士の可愛い戯れのように唇を求めてくる。
抵抗しなきゃ……、そう思うのに、何故だろう。
身体に力が入らず、意識も朧なままだ。
けれど、不思議とそこに嫌悪の情はなく、触れられる度に何だか落ち着くような情が生まれていく。
せめて、相手の顔だけでも確かめないと……、何とか瞼を押し上げようとした矢先。私の意識は幻のようにふんわりとしたこの世界ではなく、暗い闇の中で目覚めた。
「あ、れ……」
ここは、どこ……。徐々に覚醒していく意識を感じながら目を瞬く。
闇の中慣れ始めた視界が、ふわりとそれを手助けするように生じた淡い光のお蔭で、ここが自分の自室である事を悟った。そうか、私……、眠っていたんだ。
という事は、さっきの心地良い感覚も、夢、だったんだ。
誰かもわからない人にキスされるような夢を見て、心地良いって……、ちょっとおかしいような気もするけれど。
「……ふぅ」
でも、触れられる度に、その温もりを受けるのが当たり前のような気もして……。
鼓動は落ち着いているけれど、妙に生々しく肌に熱が残っているような気がして、すっきりとしない。あれは……、夢だった、はず。
「はぁ……」
一度起きて、冷たい物でも飲もう。
そう考えて身を起そうとしたのだけど……、あれ? う、動けない。
一体何が。平静を保って状況を確認しようとした私が視線を逸らし、動ける範囲で身動ぎすると、あれ、目の前に……、誰かがいる気配が。
「……え」
そろりと動かした両手で、目の前のそれをペタペタと触ってみる。
膨らみ、なし。固い、というか、多分、これ……、きん、にく?
一旦深呼吸して、心を落ち着ける。駄目、叫んじゃ、駄目。
これでも、アレクさんやカインさん、ついでに一番の強敵であるルイヴェルさんのせいで、この心臓はそれなりに鍛えられてきたのだから。うん、大丈夫。
もう、目の前に男性の胸板のひとつやふたつ……。
いや、深夜に男性がベッドの中にいる事自体が緊急事態なのだけど、ここはひとつ、落ち着いて事に当たらなければ。
……でも、このシチュエーション、前にもどこかで。
恐る恐る上げた視線の先、ゆっくりと確認した私の目に映ったのは。
「あ、アレク……、さん?」
彼の穏やかな寝顔を見つけた私は、急速に過去の出来事を思い出す。
まだ、アレクさんの狼としての姿しか知らず、異世界に不慣れな私の心を慰める為に、彼がその姿で夜毎その温もりで寄り添ってくれていた日々。
一度、私とアレクさんの関係に亀裂が入った、あの朝の出来事……。
あの時も……、こうやって目が覚めたら、目の前にアレクさんの姿があって。
朝と深夜の違いはあれど、まるで同じこの状況。
待って、レイフィード叔父さんに部屋の鍵やセキュリティを強固な物に変えて貰ったはず、だよね?
それなのにどうして……、アレクさんが私のベッドの中にいるの!?
しっかりと腕の中に抱き込まれている私は、彼の存在に戸惑う。
助けを呼ぶのは簡単だ。今この場で叫んでしまえばいい。
そうすれば、きっとレイフィード叔父さんか別の誰かが駆けつけてくれるはず。
だけど……。
「ん……」
「アレクさん……」
不意に、アレクさんの瞼が薄らと開き……、ぼんやりとした眼差しで私の存在を捉えた、その瞬間。
「ユキ……、愛してる」
「――っ」
夢と現実を揺蕩うかのように、私を強く抱き寄せたアレクさんが、――私の心を丸ごと包み込んでくるかのように、幸せそうに笑ってみせた。
普段の穏やかで優しい表情でもなく、凛々しい副団長様のそれでもなく……。
アレクディース・アメジスティーという、一人の男性が、その心に確かな幸せを覚えている、あどけない笑顔。
それまで強引に平静を保とうとしていた私の鼓動が、熱を帯びて加速していく。
――ふ、不意打ち……!!
少女期の私には、異性が向けてくる恋愛感情の全てが刺激的で、受け止めるには大きすぎるものばかり。声も、表情も、ぬくもりも、全て……。
ドキドキとパニックに陥っていく鼓動に困りながら、傍にいる騎士様をどうすればいいのかと悩んでいると。
「……え」
一時的に寝ぼけた状態で起きたものの、すぐにまた眠りに入ったはずのアレクさん。だけど、顔を上げて私が見たものは、しっかりと瞼を開けて私を見下ろしている蒼の双眸だった。ね、寝てなかった!?
「あ、あのっ」
ある種の熱を湛えている蒼の双眸が、一心に私を見つめ……。
その顔に、どこか泣きそうな気配を感じた直後、私はアレクさんの両腕に囚われてしまった。最初は優しく、だんだんと、きつく、強く、縋るように。
「あ、アレク、さっ、……んっ、は、離して、くだ、さぃっ」
「ユキ……、ユキっ。……俺は、……俺は、お前、に」
起きてはいる。だけど、今のアレクさんはいつもと違う。
寝惚けている時や、感情の昂ぶりによって暴走した時とは全く違う、別の面が表に表れているような気がする。アレクさん本人である事は間違いない。
だけど、彼という存在にブレのようなものを感じてしまうのは……、気のせい、なの?
「ユキ……、どう、……償え、ば、……うぅっ」
「アレクさん? アレクさんっ!! しっかりしてください!!」
「……はぁ、はぁ。……――ユ、キ」
私を拘束していた力が弱まったかと思うと、アレクさんが顔を上げて私の名を呼んだ。愛おしさの籠った、その音……。とても、辛そうに歪められている、表情、が。
「あ……、アレク、さん」
「ユキ……、俺の、……俺、の、……触れ、る、事、は、……禁、忌」
「え?」
「触れては、……くっ」
私の中の何かが、今のアレクさんに対して悲痛な叫びをあげているようで……。
彼が苦しそうに喋っている言葉の意味よりも、その切ない蒼に意識が引き寄せられてしまう。アレクさんだけど、……何かが、違う気がする、この人の音と、その瞳から伝わってくる気配。私は、私は……。
「ユ、キ……っ、すま、な……」
「アレクさんっ!?」
私に何かを伝えようとしていたアレクさんの瞼がきつく閉じられ、……やがて、その眉間の皺が消えた直後。
「アレク、……さん?」
「ん……」
今までの出来事などなかったかのように、健やかな寝息を立て始めたアレクさん。
私がその頬を触り、身体を揺すってみても……、眠りが深いせいなのか、目を覚ましてくれない。
「……禁、忌」
「……」
何とか聞き取れた言葉。アレクさんは私に何かを伝えたがっていた。
自分の何かに触れる事が禁忌だと……。
毛布の中でその意味を考えていたけれど、肝心な部分がわからない。
「……んっ」
私はどうにかその腕の中を抜け出すと、アレクさんが忍び込んで来たらしき窓張りの扉であるフレンチドアが開いている様を見つめ、その向こうへと足を伸ばした。
冷たい夜風が私の蒼く柔らかな長い髪を揺らし、薄い雲間がゆっくりと過ぎ去り、エリュセードを守護する三つの月が、慈愛に満ちたその姿を現す。
「神様……」
胸に揺れる不安を抱きながら、瞼を閉じる……。
明日のフェリデロード本家での診察と治療。
彼が残した言葉は、予言のように……、私の心を揺らし続けていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ユキ姫様、見えて参りましたよ」
馬上で俯いていた私は、セレスフィーナさんの声でようやく我に返った。
ウォルヴァンシア王国、王宮の背後を守るようにぐるりと逆半月を描くように広大な敷地を有し、深い森の中にひっそりと佇む……、魔術と医術の叡智を秘めた聖域とも呼ばれる場所。
そして、その前に聳える重厚な門。あそこを通り抜ければ、フェリデロード一族の領域というわけだ。
「うわ~……、懐かしい」
幼い頃、何度もセレスフィーナさんとルイヴェルさんに連れて来て貰った覚えがある懐かしい場所。ルイヴェルさんが手綱を操る馬に同乗させて貰っていた私は、遠い昔に慣れ親しんだフェリデロード家の門前に目を細めながら、そこに二人の人影を見つけた。
あれは……。
「お父様、ディーク兄様、只今、戻りました」
馬を止め、しなやかな動作で地面へと下りたセレスフィーナさんが、出迎えに出て来てくれていたフェリデロード家の当主であり、自分のお父さんと軽い抱擁を交わす。私もルイヴェルさんの手を借りて馬を下り、その傍へと寄って行く。
後ろの方では、アレクさんと、その後ろに同乗させて貰っていた記憶喪失の青年、王宮医務室で保護されて生活していたフィルクさんも、地に足を下ろし始めている。
……アレクさんは、私の部屋に侵入しベッドに潜り込んで来た事を、実はまだ知らない。
通信道具で密かにルイヴェルさんに助けを求めた私は、こっそりとアレクさんを引き取って貰い、昨夜の件は秘密裏に処理した。
だから、アレクさんは何も知らず、騎士団の寮にある自室で普通通りに目覚めた、というわけだ。
だけど、私の方は昨夜の事をバッチリと覚えているから……。
昨夜の出来事、アレクさんが見せた表情や謎の言葉。
ルイヴェルさんに事情を伝えておいたから少しは安心出来るのだけど……。
王宮を出発する際に自分の馬に乗るようにと誘ってくれたアレクさんを、私は断ってしまった。多分、変に思われたような気もするし、傷付けたような気もするけれど……。今は……、彼に近付いてはいけないと、改めて念を押されてしまったから。
(ごめんなさい、アレクさん……)
背中に注がれている視線の気配は、間違いなくアレクさんのものだ。
ちらりと振り向くと、寂しそうな蒼の双眸とぶつかってしまう。
「ユ」
「……」
何だか気まずくて、どう接していいのかわからなくて、私は顔を背けてしまう。
アレクさん……、本当にごめんなさい。
「ユキ姫様、我がフェリデロード家へ、ようこそおいでくださいました。当主レゼノス、心より歓迎申し上げます」
「レゼノスおじ様、今日は、どうかよろしくお願いします」
「アレクの事は、万事我らにお任せを」
レゼノスおじ様に頭を下げると、その横にいる、一見すると長い漆黒の髪という印象が強いのだけど、その中に銀の色が混じった二十代前半程の男性が私の方に歩み出て来た。
セルフェディーク・フェリデロードさん、ルイヴェルさんの従兄であり、カインさんのお師匠様でもある人だ。ちなみに、カインさんのあの口調の悪さは、ディークさん譲りらしい。
用事があるからとガデルフォーンで別れたのだけど、もう終わったのだろうか?
「お、今日はウチの馬鹿弟子はいねぇのか?」
「はい。カインさんはガデルフォーンに……」
「あぁ、サージェスの鬼畜仕様の修行か。まぁ、うるさくねぇし丁度良いか」
大事なお弟子さんが、サージェスさんの無慈悲な修行に赴いたと知っても、ディークさんが心配する気配は微塵もない。むしろ心底面白そうだ。
レゼノスおじ様と一緒に私達をフェリデロード家の領域に導きながら、他愛のない談笑をしているディークさん。
その途中、ディークさんが私の横に並び、ちらりと後ろを振り返った。
「アレクの事だが……、厄介なモンが出てくるかもしれねぇな」
「ディークさん?」
「ここに戻って来る前、女帝から話を聞いた。ガデルフォーンの至宝たる宝玉は、元々エリュセードの神が与えたもんだ。アレクみたいな一介の騎士がどうこう出来るモンじゃねぇ……」
「それは、私も気になっていました……」
「俺やラシュも宝玉を見せてもらったが……、永い歴史を経て弱まりつつあった宝玉に、目に見えてその力が戻ってやがったからな。どう考えても不自然だ」
神々が与えた神秘の宝玉。ガデルフォーンの世界を生み出し、その存在を維持し、皇帝や女帝、それに連なる者達に恩恵をもたらす至宝。
それに力を与えたらしきアレクさんは、その時も異変に支配されていたらしい。
私がルイヴェルさんに伝えたその事も、ディークさんは把握しているらしく……。
視線を前に戻して、険しげな音を零した。
「ここまで判断に関する材料が揃いすぎると怖い気もするが……、まさかな」
「ディークさん、アレクさんは……、どうなってしまうんでしょうか」
「可能性の段階でしか言えねぇが……、俺達の手には負えねぇモンが出て来るかもしれねぇ。その辺は覚悟しとけ」
「……はい」
フェリデロード家の広大な敷地内。
その中心にある大きな神殿めいた建物に入ると、背後でアレクさんと一緒に並んで歩いていたフィルクさんが私の許に駆け寄って来た。
「ユキさん、フェリデロードの本家って凄いんですね……。魔力の気配が濃いというか、僕、心臓がドキドキしてきました」
「ふふ、そうですね。私も久しぶりに来ましたけど、身が引き締まります」
ウォルヴァンシアに帰還した際に、暫くの間体調を崩して伏せっていたと聞いていたけれど、今のフィルクさんはとても元気そうだ。本当に良かった。
初めて訪れたフェリデロード本家の敷地内にあるこの大神殿の中を興味深そうに見まわし、すれ違う人達に愛想の良い挨拶を向けたりしている。
この建物は一応フェリデロード家を守護する神様を祀っている大神殿、というのが表向きの体裁なのだけど、中には沢山の部屋……、もとい、研究室を含んだ部屋が数多く存在している。
何が起こっても強固な結界のお蔭で外に被害が出ない事が自慢らしい。
幼い頃は、凄い凄いとはしゃいでいたものだけど、成長して改めて思うのは……。
「自分達の神様を祀る大神殿で……、魔術の実験とかしていいのかなぁ」
小声で素直な感想を零しただけだったというのに、レゼノスおじ様とルイヴェルさんが速度を緩めて私のいる方に並んできた。
「ユキ、俺達フェリデロード家の神は、医術と魔術を司る存在だ。その体内とも言えるこの場所で、新たな発展を見守る事は、神にとっても有意義な事だと思うぞ」
「愚息と同意見というのは腑に落ちませんが……、我らの神は伝承によると、とても好奇心と探求心に溢れた、素晴らしい存在だったそうです」
だから、大神殿で何が起こっても、特に気にはしない。多分。
そう真顔で言ってくる冷静な親子に、確かな血の繋がりを感じた瞬間だった。
だけど、セレスフィーナさんとディークさんは違う。
視線が……、この魔術馬鹿共め、という微妙な距離感を表している。
フェリデロード家の全員がルイヴェルさん達のようなものではないと知って、ほっとひと安心、かな?
暫く大神殿の中を歩き続けると、やがて拓けた広い空間に辿り着いた。
「この日の為に色々と用意をしておいたからな。狭い診察室よりは有事に対応できる筈だ」
ガデルフォーンの魔術師団施設で見たものと同じような光景が目の前に広がっている。沢山の数値や複雑な紋様の陣が浮かび上がっている映像の世界、とでも言えばいいだろうか。
その下では、術者の人達が準備を終えた状態で私達に一礼し、出迎えてくれた。
空間の真ん中には、きらきらと光る大きな円盤のような存在が浮いている。
「アレク、何が起こっても、お前は俺達が必ず助ける。だから、安心しろ」
「あぁ……。迷惑をかけてすまないな。今日はよろしく頼む」
まず、もう一度身体の異常がないかを確認し、次に精神領域、そして最後に、魂への干渉を行うと口にしたルイヴェルさんが、アレクさんを中央に連れて行く。
「アレクさん……。――アレクさん!!」
診察と治療に臨む彼を追いかけて、私は衝動的に駆け寄って行った。
きっと、今一番不安を抱いているのはアレクさん自身だ。
それなのに、王宮を出発する時、その心を傷つけてしまった。だから……。
「アレクさん、どうか……、頑張ってください」
その両手を取り、しっかりと握り締める。
私に出来る事なんて何もないけれど……。それでも、彼の心を支えたかった。
「ユキ……、有難う。大丈夫だ、ルイやディーク、それに、レゼノス様もいるからな。何も心配はない。……だが」
アレクさんは、少しだけ戸惑うように視線を逸らすと、目の前にいる私をそっと抱き寄せ、その腕の中に閉じ込めた。
心配はない、そう言ったけれど……、心の中に抑えている不安があるのだろう。
強まった力に温もりを抱き締められ、私は抗う事も考えられず、縋ってくるかのようなアレクさんを、自分からも抱き締めた。
「大丈夫……、大丈夫ですよ、アレクさん」
「ユキ……」
どうしてだろう……。この人に抱き締められると、自然と心の中が優しく溶けていくかのような感覚を覚えてしまう。
今までもずっと守って貰っていたけれど、それよりもずっと前から……、このぬくもりを感じていたような気がして、仕方がない。
「お前達……、もういいか?」
「はぁ……、馬鹿弟子がいなくて本当に良かったぜ……」
ルイヴェルさんとディークさんの言葉で我に返った私は、慌ててアレクさんの傍を離れた。
い、今のは……、その、アレクさんを励ます為、というか、別に他意は……っ。
微笑ましそうに見守ってくれていたセレスフィーナさんに呼ばれ、私は頬に熱を覚えながら端に駆けて行く。
「す、すみません。診察の前だっていうのに……」
「ふふ、お気になさらずに。アレクの表情からも不安の気配が消えましたし、感謝いたしますわ」
セレスフィーナさんの待つ隣に辿り着いた私は、壁に背を預けてアレクさんの方を見遣った。
確かに、さっきよりも表情に迷いがない気がする。少しは、あの人の力になれたのだろうか。
トクトクと少しだけ早足になった鼓動を感じながら、私は胸の前で両手を祈る形に組み、ついに始まった診察の時を見守り始めた。
――フェリデロード本家での診察が、何を引き起こすかも知らずに。
誰かに自分の名前を愛おしそうに、ゆっくりと、何度も、何度も、呼ばれながら……、額や頬にキスを受ける夢。
その抱かれている腕の感触で、何となく、それが男性のものであるという事はわかったのだけど、この人は誰なんだろう……。
片手を持ち上げられ、今度はその手の甲に柔らかな感触が触れてくる。
『だ……、れ』
夢現の中、触れられた部分に温かな優しい熱を感じながら尋ねると、その人は私の耳元に囁いた。
『お前の傍は……、心地良い』
『んっ……』
肌に触れていた唇らしき感触が、やがて私の大切な温もりへと触れたかと思うと、小鳥同士の可愛い戯れのように唇を求めてくる。
抵抗しなきゃ……、そう思うのに、何故だろう。
身体に力が入らず、意識も朧なままだ。
けれど、不思議とそこに嫌悪の情はなく、触れられる度に何だか落ち着くような情が生まれていく。
せめて、相手の顔だけでも確かめないと……、何とか瞼を押し上げようとした矢先。私の意識は幻のようにふんわりとしたこの世界ではなく、暗い闇の中で目覚めた。
「あ、れ……」
ここは、どこ……。徐々に覚醒していく意識を感じながら目を瞬く。
闇の中慣れ始めた視界が、ふわりとそれを手助けするように生じた淡い光のお蔭で、ここが自分の自室である事を悟った。そうか、私……、眠っていたんだ。
という事は、さっきの心地良い感覚も、夢、だったんだ。
誰かもわからない人にキスされるような夢を見て、心地良いって……、ちょっとおかしいような気もするけれど。
「……ふぅ」
でも、触れられる度に、その温もりを受けるのが当たり前のような気もして……。
鼓動は落ち着いているけれど、妙に生々しく肌に熱が残っているような気がして、すっきりとしない。あれは……、夢だった、はず。
「はぁ……」
一度起きて、冷たい物でも飲もう。
そう考えて身を起そうとしたのだけど……、あれ? う、動けない。
一体何が。平静を保って状況を確認しようとした私が視線を逸らし、動ける範囲で身動ぎすると、あれ、目の前に……、誰かがいる気配が。
「……え」
そろりと動かした両手で、目の前のそれをペタペタと触ってみる。
膨らみ、なし。固い、というか、多分、これ……、きん、にく?
一旦深呼吸して、心を落ち着ける。駄目、叫んじゃ、駄目。
これでも、アレクさんやカインさん、ついでに一番の強敵であるルイヴェルさんのせいで、この心臓はそれなりに鍛えられてきたのだから。うん、大丈夫。
もう、目の前に男性の胸板のひとつやふたつ……。
いや、深夜に男性がベッドの中にいる事自体が緊急事態なのだけど、ここはひとつ、落ち着いて事に当たらなければ。
……でも、このシチュエーション、前にもどこかで。
恐る恐る上げた視線の先、ゆっくりと確認した私の目に映ったのは。
「あ、アレク……、さん?」
彼の穏やかな寝顔を見つけた私は、急速に過去の出来事を思い出す。
まだ、アレクさんの狼としての姿しか知らず、異世界に不慣れな私の心を慰める為に、彼がその姿で夜毎その温もりで寄り添ってくれていた日々。
一度、私とアレクさんの関係に亀裂が入った、あの朝の出来事……。
あの時も……、こうやって目が覚めたら、目の前にアレクさんの姿があって。
朝と深夜の違いはあれど、まるで同じこの状況。
待って、レイフィード叔父さんに部屋の鍵やセキュリティを強固な物に変えて貰ったはず、だよね?
それなのにどうして……、アレクさんが私のベッドの中にいるの!?
しっかりと腕の中に抱き込まれている私は、彼の存在に戸惑う。
助けを呼ぶのは簡単だ。今この場で叫んでしまえばいい。
そうすれば、きっとレイフィード叔父さんか別の誰かが駆けつけてくれるはず。
だけど……。
「ん……」
「アレクさん……」
不意に、アレクさんの瞼が薄らと開き……、ぼんやりとした眼差しで私の存在を捉えた、その瞬間。
「ユキ……、愛してる」
「――っ」
夢と現実を揺蕩うかのように、私を強く抱き寄せたアレクさんが、――私の心を丸ごと包み込んでくるかのように、幸せそうに笑ってみせた。
普段の穏やかで優しい表情でもなく、凛々しい副団長様のそれでもなく……。
アレクディース・アメジスティーという、一人の男性が、その心に確かな幸せを覚えている、あどけない笑顔。
それまで強引に平静を保とうとしていた私の鼓動が、熱を帯びて加速していく。
――ふ、不意打ち……!!
少女期の私には、異性が向けてくる恋愛感情の全てが刺激的で、受け止めるには大きすぎるものばかり。声も、表情も、ぬくもりも、全て……。
ドキドキとパニックに陥っていく鼓動に困りながら、傍にいる騎士様をどうすればいいのかと悩んでいると。
「……え」
一時的に寝ぼけた状態で起きたものの、すぐにまた眠りに入ったはずのアレクさん。だけど、顔を上げて私が見たものは、しっかりと瞼を開けて私を見下ろしている蒼の双眸だった。ね、寝てなかった!?
「あ、あのっ」
ある種の熱を湛えている蒼の双眸が、一心に私を見つめ……。
その顔に、どこか泣きそうな気配を感じた直後、私はアレクさんの両腕に囚われてしまった。最初は優しく、だんだんと、きつく、強く、縋るように。
「あ、アレク、さっ、……んっ、は、離して、くだ、さぃっ」
「ユキ……、ユキっ。……俺は、……俺は、お前、に」
起きてはいる。だけど、今のアレクさんはいつもと違う。
寝惚けている時や、感情の昂ぶりによって暴走した時とは全く違う、別の面が表に表れているような気がする。アレクさん本人である事は間違いない。
だけど、彼という存在にブレのようなものを感じてしまうのは……、気のせい、なの?
「ユキ……、どう、……償え、ば、……うぅっ」
「アレクさん? アレクさんっ!! しっかりしてください!!」
「……はぁ、はぁ。……――ユ、キ」
私を拘束していた力が弱まったかと思うと、アレクさんが顔を上げて私の名を呼んだ。愛おしさの籠った、その音……。とても、辛そうに歪められている、表情、が。
「あ……、アレク、さん」
「ユキ……、俺の、……俺、の、……触れ、る、事、は、……禁、忌」
「え?」
「触れては、……くっ」
私の中の何かが、今のアレクさんに対して悲痛な叫びをあげているようで……。
彼が苦しそうに喋っている言葉の意味よりも、その切ない蒼に意識が引き寄せられてしまう。アレクさんだけど、……何かが、違う気がする、この人の音と、その瞳から伝わってくる気配。私は、私は……。
「ユ、キ……っ、すま、な……」
「アレクさんっ!?」
私に何かを伝えようとしていたアレクさんの瞼がきつく閉じられ、……やがて、その眉間の皺が消えた直後。
「アレク、……さん?」
「ん……」
今までの出来事などなかったかのように、健やかな寝息を立て始めたアレクさん。
私がその頬を触り、身体を揺すってみても……、眠りが深いせいなのか、目を覚ましてくれない。
「……禁、忌」
「……」
何とか聞き取れた言葉。アレクさんは私に何かを伝えたがっていた。
自分の何かに触れる事が禁忌だと……。
毛布の中でその意味を考えていたけれど、肝心な部分がわからない。
「……んっ」
私はどうにかその腕の中を抜け出すと、アレクさんが忍び込んで来たらしき窓張りの扉であるフレンチドアが開いている様を見つめ、その向こうへと足を伸ばした。
冷たい夜風が私の蒼く柔らかな長い髪を揺らし、薄い雲間がゆっくりと過ぎ去り、エリュセードを守護する三つの月が、慈愛に満ちたその姿を現す。
「神様……」
胸に揺れる不安を抱きながら、瞼を閉じる……。
明日のフェリデロード本家での診察と治療。
彼が残した言葉は、予言のように……、私の心を揺らし続けていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ユキ姫様、見えて参りましたよ」
馬上で俯いていた私は、セレスフィーナさんの声でようやく我に返った。
ウォルヴァンシア王国、王宮の背後を守るようにぐるりと逆半月を描くように広大な敷地を有し、深い森の中にひっそりと佇む……、魔術と医術の叡智を秘めた聖域とも呼ばれる場所。
そして、その前に聳える重厚な門。あそこを通り抜ければ、フェリデロード一族の領域というわけだ。
「うわ~……、懐かしい」
幼い頃、何度もセレスフィーナさんとルイヴェルさんに連れて来て貰った覚えがある懐かしい場所。ルイヴェルさんが手綱を操る馬に同乗させて貰っていた私は、遠い昔に慣れ親しんだフェリデロード家の門前に目を細めながら、そこに二人の人影を見つけた。
あれは……。
「お父様、ディーク兄様、只今、戻りました」
馬を止め、しなやかな動作で地面へと下りたセレスフィーナさんが、出迎えに出て来てくれていたフェリデロード家の当主であり、自分のお父さんと軽い抱擁を交わす。私もルイヴェルさんの手を借りて馬を下り、その傍へと寄って行く。
後ろの方では、アレクさんと、その後ろに同乗させて貰っていた記憶喪失の青年、王宮医務室で保護されて生活していたフィルクさんも、地に足を下ろし始めている。
……アレクさんは、私の部屋に侵入しベッドに潜り込んで来た事を、実はまだ知らない。
通信道具で密かにルイヴェルさんに助けを求めた私は、こっそりとアレクさんを引き取って貰い、昨夜の件は秘密裏に処理した。
だから、アレクさんは何も知らず、騎士団の寮にある自室で普通通りに目覚めた、というわけだ。
だけど、私の方は昨夜の事をバッチリと覚えているから……。
昨夜の出来事、アレクさんが見せた表情や謎の言葉。
ルイヴェルさんに事情を伝えておいたから少しは安心出来るのだけど……。
王宮を出発する際に自分の馬に乗るようにと誘ってくれたアレクさんを、私は断ってしまった。多分、変に思われたような気もするし、傷付けたような気もするけれど……。今は……、彼に近付いてはいけないと、改めて念を押されてしまったから。
(ごめんなさい、アレクさん……)
背中に注がれている視線の気配は、間違いなくアレクさんのものだ。
ちらりと振り向くと、寂しそうな蒼の双眸とぶつかってしまう。
「ユ」
「……」
何だか気まずくて、どう接していいのかわからなくて、私は顔を背けてしまう。
アレクさん……、本当にごめんなさい。
「ユキ姫様、我がフェリデロード家へ、ようこそおいでくださいました。当主レゼノス、心より歓迎申し上げます」
「レゼノスおじ様、今日は、どうかよろしくお願いします」
「アレクの事は、万事我らにお任せを」
レゼノスおじ様に頭を下げると、その横にいる、一見すると長い漆黒の髪という印象が強いのだけど、その中に銀の色が混じった二十代前半程の男性が私の方に歩み出て来た。
セルフェディーク・フェリデロードさん、ルイヴェルさんの従兄であり、カインさんのお師匠様でもある人だ。ちなみに、カインさんのあの口調の悪さは、ディークさん譲りらしい。
用事があるからとガデルフォーンで別れたのだけど、もう終わったのだろうか?
「お、今日はウチの馬鹿弟子はいねぇのか?」
「はい。カインさんはガデルフォーンに……」
「あぁ、サージェスの鬼畜仕様の修行か。まぁ、うるさくねぇし丁度良いか」
大事なお弟子さんが、サージェスさんの無慈悲な修行に赴いたと知っても、ディークさんが心配する気配は微塵もない。むしろ心底面白そうだ。
レゼノスおじ様と一緒に私達をフェリデロード家の領域に導きながら、他愛のない談笑をしているディークさん。
その途中、ディークさんが私の横に並び、ちらりと後ろを振り返った。
「アレクの事だが……、厄介なモンが出てくるかもしれねぇな」
「ディークさん?」
「ここに戻って来る前、女帝から話を聞いた。ガデルフォーンの至宝たる宝玉は、元々エリュセードの神が与えたもんだ。アレクみたいな一介の騎士がどうこう出来るモンじゃねぇ……」
「それは、私も気になっていました……」
「俺やラシュも宝玉を見せてもらったが……、永い歴史を経て弱まりつつあった宝玉に、目に見えてその力が戻ってやがったからな。どう考えても不自然だ」
神々が与えた神秘の宝玉。ガデルフォーンの世界を生み出し、その存在を維持し、皇帝や女帝、それに連なる者達に恩恵をもたらす至宝。
それに力を与えたらしきアレクさんは、その時も異変に支配されていたらしい。
私がルイヴェルさんに伝えたその事も、ディークさんは把握しているらしく……。
視線を前に戻して、険しげな音を零した。
「ここまで判断に関する材料が揃いすぎると怖い気もするが……、まさかな」
「ディークさん、アレクさんは……、どうなってしまうんでしょうか」
「可能性の段階でしか言えねぇが……、俺達の手には負えねぇモンが出て来るかもしれねぇ。その辺は覚悟しとけ」
「……はい」
フェリデロード家の広大な敷地内。
その中心にある大きな神殿めいた建物に入ると、背後でアレクさんと一緒に並んで歩いていたフィルクさんが私の許に駆け寄って来た。
「ユキさん、フェリデロードの本家って凄いんですね……。魔力の気配が濃いというか、僕、心臓がドキドキしてきました」
「ふふ、そうですね。私も久しぶりに来ましたけど、身が引き締まります」
ウォルヴァンシアに帰還した際に、暫くの間体調を崩して伏せっていたと聞いていたけれど、今のフィルクさんはとても元気そうだ。本当に良かった。
初めて訪れたフェリデロード本家の敷地内にあるこの大神殿の中を興味深そうに見まわし、すれ違う人達に愛想の良い挨拶を向けたりしている。
この建物は一応フェリデロード家を守護する神様を祀っている大神殿、というのが表向きの体裁なのだけど、中には沢山の部屋……、もとい、研究室を含んだ部屋が数多く存在している。
何が起こっても強固な結界のお蔭で外に被害が出ない事が自慢らしい。
幼い頃は、凄い凄いとはしゃいでいたものだけど、成長して改めて思うのは……。
「自分達の神様を祀る大神殿で……、魔術の実験とかしていいのかなぁ」
小声で素直な感想を零しただけだったというのに、レゼノスおじ様とルイヴェルさんが速度を緩めて私のいる方に並んできた。
「ユキ、俺達フェリデロード家の神は、医術と魔術を司る存在だ。その体内とも言えるこの場所で、新たな発展を見守る事は、神にとっても有意義な事だと思うぞ」
「愚息と同意見というのは腑に落ちませんが……、我らの神は伝承によると、とても好奇心と探求心に溢れた、素晴らしい存在だったそうです」
だから、大神殿で何が起こっても、特に気にはしない。多分。
そう真顔で言ってくる冷静な親子に、確かな血の繋がりを感じた瞬間だった。
だけど、セレスフィーナさんとディークさんは違う。
視線が……、この魔術馬鹿共め、という微妙な距離感を表している。
フェリデロード家の全員がルイヴェルさん達のようなものではないと知って、ほっとひと安心、かな?
暫く大神殿の中を歩き続けると、やがて拓けた広い空間に辿り着いた。
「この日の為に色々と用意をしておいたからな。狭い診察室よりは有事に対応できる筈だ」
ガデルフォーンの魔術師団施設で見たものと同じような光景が目の前に広がっている。沢山の数値や複雑な紋様の陣が浮かび上がっている映像の世界、とでも言えばいいだろうか。
その下では、術者の人達が準備を終えた状態で私達に一礼し、出迎えてくれた。
空間の真ん中には、きらきらと光る大きな円盤のような存在が浮いている。
「アレク、何が起こっても、お前は俺達が必ず助ける。だから、安心しろ」
「あぁ……。迷惑をかけてすまないな。今日はよろしく頼む」
まず、もう一度身体の異常がないかを確認し、次に精神領域、そして最後に、魂への干渉を行うと口にしたルイヴェルさんが、アレクさんを中央に連れて行く。
「アレクさん……。――アレクさん!!」
診察と治療に臨む彼を追いかけて、私は衝動的に駆け寄って行った。
きっと、今一番不安を抱いているのはアレクさん自身だ。
それなのに、王宮を出発する時、その心を傷つけてしまった。だから……。
「アレクさん、どうか……、頑張ってください」
その両手を取り、しっかりと握り締める。
私に出来る事なんて何もないけれど……。それでも、彼の心を支えたかった。
「ユキ……、有難う。大丈夫だ、ルイやディーク、それに、レゼノス様もいるからな。何も心配はない。……だが」
アレクさんは、少しだけ戸惑うように視線を逸らすと、目の前にいる私をそっと抱き寄せ、その腕の中に閉じ込めた。
心配はない、そう言ったけれど……、心の中に抑えている不安があるのだろう。
強まった力に温もりを抱き締められ、私は抗う事も考えられず、縋ってくるかのようなアレクさんを、自分からも抱き締めた。
「大丈夫……、大丈夫ですよ、アレクさん」
「ユキ……」
どうしてだろう……。この人に抱き締められると、自然と心の中が優しく溶けていくかのような感覚を覚えてしまう。
今までもずっと守って貰っていたけれど、それよりもずっと前から……、このぬくもりを感じていたような気がして、仕方がない。
「お前達……、もういいか?」
「はぁ……、馬鹿弟子がいなくて本当に良かったぜ……」
ルイヴェルさんとディークさんの言葉で我に返った私は、慌ててアレクさんの傍を離れた。
い、今のは……、その、アレクさんを励ます為、というか、別に他意は……っ。
微笑ましそうに見守ってくれていたセレスフィーナさんに呼ばれ、私は頬に熱を覚えながら端に駆けて行く。
「す、すみません。診察の前だっていうのに……」
「ふふ、お気になさらずに。アレクの表情からも不安の気配が消えましたし、感謝いたしますわ」
セレスフィーナさんの待つ隣に辿り着いた私は、壁に背を預けてアレクさんの方を見遣った。
確かに、さっきよりも表情に迷いがない気がする。少しは、あの人の力になれたのだろうか。
トクトクと少しだけ早足になった鼓動を感じながら、私は胸の前で両手を祈る形に組み、ついに始まった診察の時を見守り始めた。
――フェリデロード本家での診察が、何を引き起こすかも知らずに。
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