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第二章『恋蕾』~黒竜と銀狼・その想いの名は~
第二章~エピローグ~
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「ユキ姫様、申し訳ありません……。弟のせいでこのような疲労困憊に」
「私からもお詫び申し上げます。ユキ姫様にとって副団長の暴走がどれだけのご負担をおかけするのかをわかっていながら……」
王宮内に響き渡った大運動会のような逃亡劇が終わった後……。
私はセレスフィーナさんとロゼリアさんに介抱されながら、東屋のソファーに倒れ込んでいた。
自分が走ったわけでもないのに、この壮大なる疲労感は何なのだろうか……。
パーティー会場であるこの庭園に戻って来るまでの道のりは、とても恐ろしいものだった。
私をお姫様抱っこで駆け抜けるルイヴェルさんの背後から、剣や矢が飛んでくるわ、挙句の果てには炎や氷といった魔術の類までもが容赦なく襲い掛かってきたりと……。
あの王宮医師様一人に沢山の人達が手のひらの上で遊ばれたと言ってもいい。
そして私は、……精神的な疲労困憊中というわけだったりする。
「うぅ……、ご迷惑をおかけします」
「あぁっ、ユキ姫様! すぐに癒しの術をおかけしますので、暫しの御辛抱をっ」
「ルイヴェル殿……、なんと罪深い事をなさるのですか。ユキ姫様、とりあえずこの飲み物をっ」
陸に上がって干からびかけている魚、とでも言えばいいのだろうか。
アレクさんとカインさんからの許容量オーバーの愛情表現で真っ赤になっていた私の顔は一気に青ざめ、心臓の鼓動は疲労のせいで弱くなっている気がする。
うぅ、全部ルイヴェルさんのせいだっ。あの人の困った性格のせいで私も皆さんも大変な目にっ。
今は東屋の外でお父さんやレイフィード叔父さん達に怒られている王宮医師様に恨みがましい念を向けながら、私はロゼリアさんが近づけてくれたグラスの中身に口をつけた。
上半身を起こし、夢中になってその冷たくスッキリとした味わいのジュースを飲み干していく。
「おーい、生きてるか~、ユキ? ……って、まだ駄目そうだなぁ」
「ユキ、顔色が悪い……。やはり部屋に戻って休んだ方が」
「あ、アレクさん、それにカインさんも……」
開いていた東屋の扉から心配そうに声をかけて入って来たのは、疲れているのかそれぞれに正装の胸元を着崩しているアレクさんとカインさんだった。
ルイヴェルさんに振り回されて疲弊しきった私を気遣って訪れてくれたのだろう。
どうにか笑顔を浮かべて出迎えようとすると、二人がすぐ近くまで来たその瞬間、私の目の前に二つの手が庇うように差し出されてきた。
「せ、セレスフィーナさん? ロゼリアさん?」
「アレク、カイン皇子……、申し訳ないのですけど、暫くユキ姫様に近づくのは禁止です」
「お二人に悪気がないのはわかっているのですが……、私もセレスフィーナ殿に同意です。真にユキ姫様の事を想われているのなら、どうぞお下がりを」
麗しの女性陣二人から道を阻まれてしまったアレクさんとカインさんが、一瞬ぽかんと口を開けるのが見えた。さっきの自分達の言動を思い出したのか、疲労顔の私を申し訳なさそうに眺め、やがて溜息と共に背中を向けてしまう。
話をするぐらいなら大丈夫なのだけど、多分、セレスフィーナさんとロゼリアさん的には、また口説きモードに入らないかと心配してくれているのかもしれない。
「ユキ……、すまなかった。お前の負担を思えば、自重するべきなのだろうが……。それでも、あの時は引けなかったんだ。俺は、望みがある限り……」
「はぁ……、わかってるって。もうさっきみてぇな事はやらねぇよ。……暫くの間はな?」
「いえ、私が悪かったんですから……、気にしないでください。でも、やっぱり私には、もう少し、お手柔らかに、ですね」
「「約束は出来ない」」
だから、何でこんな時ばっかり息が合うの!!
私に対する罪悪感的な気配は伝わってくるものの、これからもあの熱烈なアタックをしてくる事は自重しないと言ったも同然の二人に、がっくりと肩が落ちる。
アレクさんの方はある程度遠慮してくれそうな気はするのだけど……、はぁ、問題はカインさん、かな。顔を伏せてこれからの未来に涙していると、外へと向かいかけていた足音が止まった。
恋愛初心者に対する宣戦布告の笑みが、暖かな陽の光に照らされて振り返ってくる。
「約束は出来ないが……、お前を傷つけるような真似はしないと誓う。それと、この不埒な礼儀知らずの竜の事も」
「痛ぁああっ!! テメェっ、このっ、番犬野郎!! 何しやがる!!」
相変わらずの事だけど、言葉遣いだけでなく……、カインさんへの仕打ちも厳しいアレクさん。
その指先が容赦なくカインさんの耳を引っ張り、おまけにその足まで踏みつけている。
真っ赤に腫れていくお耳と、半泣きの竜の皇子様。
噛み付くように怒鳴られても、アレクさんはその手を放さずにカインさんをズルズルと引き摺って外に出て行ってしまった。
その姿を見送り終わると、私達は同時に疲労の息を大きくひとつ。
「アレクの言葉を信じたいところですけど……」
「副団長も、ユキ姫様の事になると周りが見えなくなる危うい部分がありますので……、どうにも安心しきれませんね。セレスフィーナ殿」
「そうなのよねぇ……。ふとした瞬間プッツンしちゃうんじゃないか、って、その心配があるから。とりあえず、一週間くらいユキ姫様から離しておく必要があると思うわね。ついでに……、あの困った弟も」
それは間違いなくルイヴェルさんの事だろう。
アレクさんとカインさんはともかくとして、あの王宮医師様とは暫く距離を取っていたいと心から思えるのは、度を越した意地悪と騒動を体験させられたからだ。
「あ、あの、パーティーが終わったらゆっくり休みますから、そうしたら、またアレクさんとカインさんに向き合えると思うんです。だから」
あまり警戒しなくても大丈夫ですと疲れ顔の二人にお願いすると、
「じゃ、ルイヴェルの方を何とかしておきますね」
「ルイヴェル殿の動きを牽制出来る何か……、弱味でも探してみます。万事お任せを」
自業自得の王宮医師様を警戒し牽制する絶対の誓いが目の前で交わされたのだった。
大切に想っている双子のお姉さんから怒られて牽制されるルイヴェルさんへの同情は、ない。
皆さんを振り回した罰です。私は心から、――あの人がしっかりと反省してくれる事を望みます!!
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「レイフィード叔父さん、ちょっとこちらにいいですか?」
休憩を終えて外に出た私は、メイドさん達と一緒に厨房へと向かい、事前に用意しておいた贈り物を庭園へと運び込むと、レイフィード叔父さんを呼び寄せた。
一か所だけ空けておいたレースクロスの広がる大きなテーブルに陣取った、まだ姿を見せない贈り物達。そして、私の手には大きな花束が抱えられている。
淡い黄色のフィリエという花をメインに、雪のひとひらを寄せ集めたかのように真白の小さな蕾が特徴的な、可愛らしいピュアノの花。レイフィード叔父さんの大好きなそれらをひとつに纏めて花束にした私は、まずそれをレイフィード叔父さんに手渡した。
「ユキちゃん……、これは?」
「今日のパーティーは、王宮の皆さんへの感謝の気持ちと、それから……、私達家族を笑顔でこの国に迎えてくれた、大好きなレイフィード叔父さんへんの恩返しの気持ちを表したいと思ったイベントでもあったんです」
「僕に……?」
「はい。レイフィード叔父さん、いつもその温かい笑顔で、心優しい想いで私を見守ってくださって、本当に……、ありがとうございます」
驚きと共に目を丸くして花束と私を見比べていたレイフィード叔父さんが、ぎゅっとその花達を抱き締めて、うるりと大粒の涙をその目に浮かべた。
「ユキちゃ……、ううっ、叔父さん、叔父さん……っ、こんなにも幸せでいいのかな? 大切な民や家族、可愛い姪御のユキちゃんに囲まれて、あぁっ、上手く言えないや。だけど、僕……、ユキちゃんの叔父さんで良かったよ~!!」
「れ、レイフィード叔父さん!?」
花束を間に挟むように私を力の限りに抱き締めたレイフィード叔父さんが、周囲の目も憚らずに大声を上げて喜びの声を響かせ始める。
サプライズのつもりではあったけれど、こんなにも予想以上の喜ばれ方をして貰えるなんて……。
お父さんやお母さん、この場に集まっている人達が、微笑ましそうに私達を眺めている。
「僕はこのウォルヴァンシア一の!! いいや!! エリュセード一の幸せ者だよ~!! もうどうしたらいいのかな!! 嬉し過ぎて幸せ過ぎてっ」
「あ、はは……。喜んで貰えて私も嬉しいです。それと、ですね」
はしゃぐレイフィード叔父さんを一旦宥め、私は傍にいたお母さんから小さなラッピング袋を受け取り、それを差し出した。
「趣味で作ったものなんですけど……」
私に促され、レイフィード叔父さんはドキドキとした様子で袋の中身を取り出した。
そして、手のひらに乗った存在を目にした途端、遥か天空まで届くかのような大声で一言。
「ユキちゃんお手製、僕仕様のマスコットぉおおおおおおおおおおおお!!」
庭園内、いや、王宮どころか、ウォルヴァンシアの国内中に響き渡るかのような喜びの声。
レイフィード叔父さんは花束をその隣に立っていたお父さんへと預け、私が作り上げた可愛らしい自分似のマスコットを両手に包み込んで顔をずいっと寄せてきた。
「これもっ、これもユキちゃんが作ってくれたのかい!?」
「は、はいっ。レイフィード叔父さんをミニキャラ仕様でイメージして、贈り物のひとつにしてみました。迷惑じゃ……、なかったですか?」
「ああっ!! 本当にもうどうしよう!! ユーディス兄上!! 僕幸せ過ぎて死んじゃいそうですよ!! このまま昇天してもいいですか!?」
「お前が召されると、私が自動的に王位に収まってしまうだろう? ほどほどのラインで戻って来なさい。はぁ……、この弟は全く」
本当に、予想以上どころか、凄まじい感動と喜びがレイフィード叔父さんの全身から溢れ出している。お父さんから馬を宥めるように背中を擦られてもまだ、興奮は収まってくれないらしい。
でも……、サプライズを考えて良かった。恩返しの一歩を踏み出したばかりだけど、レイフィード叔父さんの笑顔が、向けてくれる優しい喜びの眼差しが、私の心も幸せにしてくれる。
本当に、このウォルヴァンシアの人達は、温かい人達ばかりだ。
その幸福が、涙が出る程に嬉しくて……。
「見てくださいよ~!! このマスコット、胸の中央に無病息災の意味を持つ小さなお守りの石が縫い付けてあるんです!! それに、僕の人型だけじゃなくて、ミニサイズの狼まで一緒に!! ああっ、もうもうっ、幸せが止まりませんよ~!! 僕どうしたらいいんでしょうね!! ユーディス兄上教えてくださいよ~!!」
「誰か、この子供みたいな弟をどうにかしてくれないか……」
次から次へと大粒の嬉し涙で頬を濡らすレイフィード叔父さんの顔面に、お父さんが呆れ交じりと微笑ましさを含ませた眼差しでハンカチ……、ではなく、メイドさんから渡された分厚いタオルをべしんとぶつける。でも、そのタオルもすぐに涙でじゅわ~……と。
レイフィード叔父さん、体内の水分大丈夫ですか!?
「ふふ、レイちゃんたらあんなに喜んで……。準備した甲斐があったわね、幸希」
「うん。ちょっと反応が予想外過ぎて吃驚したけど、……すっごく嬉しい」
「それは仕方のない事かもしれないわねぇ……。レイちゃんは、幸希の事を本当に心の底から可愛がってくれていたから。ユーディスとも、何度も喧嘩したのよ。貴女から記憶を奪って、向こうの世界で普通の人間として育てていく、って、そう話した時にね」
私が覚えていない、……封じられた記憶。
幼い頃に、何度もこの異世界エリュセードに、ウォルヴァンシア王国に里帰りをしていたという私達家族。セレスフィーナさん達のお父さんが戻って来てたら封印を解いて貰えるらしいのだけど、やっぱり……、少し寂しく感じられる。
この国で出会った皆さんは私の事を覚えているのに、私は覚えていない……。
時折向けられる懐かしさを含んだ寂しげな眼差しを感じる度に、申し訳なくて……。
出来れば一日も早く記憶を取り戻したいと願っている。
「ねぇ、お母さん……。セレスフィーナさん達のお父さんって、まだ帰って来ないのかな?」
「そうねぇ。まだちょっと時間がかかるみたいなんだけど、そんなに焦らなくても大丈夫よ」
「お母さん?」
「たとえ記憶がなくても、幸希の中にはちゃんと皆への想いが在り続けているはずよ。何度だってやり直せる、一番大切なものがね」
私の胸の真ん中を、にっこりと優しく微笑むお母さんの指先がトン、と小さく打った。
トク、トク……と、穏やかな鼓動が一瞬だけ強く跳ねる。
まるで、私の奥深くで眠っている何かが、お母さんに返事をするかのように。
「ウォルヴァンシアの皆は、貴女が自分達の記憶を持っていなくても、絆が消えたわけじゃない、って……、そうわかっているのよ」
「絆……」
「ええ。だから記憶が戻る日が来るまでは、ありのままの自分で皆と向き合いなさい。新しい想い出を、昔に負けないくらい、沢山作る為にね」
お母さんは、どんな時でも笑顔を失わない。
私が不安を抱いていても、それを見抜いて優しくその大きな心で包んでくれる……。
思わず潤みそうになる瞳の熱を抑え、お母さんの手を取った。
ぎゅっと強く握って、しっかりと頷く。
「ありがとう……、お母さん」
「ふふ、幸希も歳を重ねれば、お母さんみたいに図太くなるわよ~」
「ず、図太くって……」
まぁ、確かにその通りなんだけど……。
お母さんも、色んな経験を積んで、今が在るって事なんだろうなぁ。
辛い事や悲しい事を経験しなかったわけじゃない。
それを全部乗り越えて、沢山の涙を流して人生を歩んできたのだろう。
(私も、いつかお母さんみたいな、強くて優しい人になりたいな……)
ううん、なりたいじゃなくて……、いつか、絶対になれるように努力していこう。
今は支えがないとすぐにふらついてしまう私の心だけど、どんな困難からも逃げなければ、きっと。
「お母さん、これからも未熟者の娘をどうかよろしくお願いします。ね?」
「いいわよ~。可愛い娘が最強の奥さんになれるように、私が傍で鍛えてあげるから~。ふふ、なんてね?」
それは楽しみだと、お母さんと一緒に笑い合っていると、すぐ傍にアレクさんがやって来た。
「良かったな、ユキ……。お前の頑張りと陛下への想いが、しっかりと実を結んでいる」
自分の事のように喜んでくれるアレクさんの嬉しそうな微笑。
すぐ傍に温もりを感じていると、やっぱりあの時の急ぎ足な鼓動が戻って来てしまうのだけど……。私はアレクさんの隣から逃げようとはしなかった。
こつん……と、触れ合った互いの手の甲。アレクさんの大きな温もりが、そっと私の左手を絡めとる。
「やはり……、これでも負担になるだろうか?」
「アレクさん……。いいえ、大丈夫です。これくらい、なら……」
包み込んでくれている温もりが心地良くて、その返事は自然に口から零れ出た。
このエリュセードの地で、私を不安から掬い上げてくれた人。
逃げ場を与えられずに迫られる時とは違う、安心できるその感触を包み返した私は、右側に現れた別の誰かに気付くのが遅れてしまった。
アレクさんと同じように私の右手を包んだその人を見上げると、少しだけ強く力が籠ったのを感じる。
「これぐらいならセーフなわけか……。じゃあ、当然俺もいいよな?」
「カインさん……」
自信満々にいつもの笑みを浮かべながらも、繋がれている右手からは微かに懇願しているかのような気配が伝わってくる……。気のせいかなと思ったものの、カインさんが力を緩めて指を絡め直すと、窺うような視線が向けられた。
「駄目なのかよ……?」
「駄目、……って言ったら、どうするんですか?」
試すようにそう微笑んで返せば、うっと怯む様子を見せたカインさんが、手元に視線を落として悔しそうに表情を歪めてしまう。
どうやら駄目だと拒絶すれば引き下がる気があったらしい。
本当に……、自分勝手で態度も大きくて、口も悪い乱暴なところもある人だけど……。
私は寂しそうな真紅の双眸を受け止めながら、離されかけた温もりを自分から捉えた。
「ユキ?」
「手を繋ぐだけです。それだけなら……、どうぞ」
「ふぅん……。なら、繋いでおいて、……やるよ」
素直じゃない竜の皇子様だけど、その心根がアレクさんと同じように温かい事を、私はもう知っている。二人の手から伝わってくる私への想いがじんわりと胸の奥へと流れ込んでくるから……。
だから、このくらいの愛情表現なら、きっと今の私でも受け入れる事が出来る。
そう思って繋いだはず……、だったのだけど。
「……すまない、ユキ」
はい? 突然零れ落ちたアレクさんの謝罪の音に振り向くと、ふわりと……、頬に何か柔らかいものが触れた。ぎゅっと、強く繋がれる左手の感触。
一体何が……、顔をずらしたアレクさんのそれが、すぐ目の前にある。
私の隣で、カインさんが怒りに打ち震えた低い呻き声で唸り出したのが聞こえてきた。
「あの……、アレク、さん?」
「もう今日はお前の負担にならないようにと考えていたが……、竜の方ばかりを気にかけられたので、主張してみた」
「な、なにをでしょうか……っ」
言われなくてもわかっている事だけど、頬に残された熱を感じながらつい尋ねてしまった私は、アレクさんの切なげな蒼から逃れられない。
あぁ、右手の方がっ、カインさんと繋いでいる右手が、ギリギリと恐ろしい痛みをっ。
「その竜も手が早いが、俺も……、決して大人しくしているわけではない、と」
だ、だから私の頬にキスを? というか、舌先で軽く舐められたような気もするのだけど!!
穏やかになりかけていた鼓動が一気に騒ぎ始め、私はまた頬を真っ赤に噴火させてしまう。
直後、抑え込もうとしていた怒りが大爆発してしまったのか、カインさんが私の手を離さずにアレクさんの胸倉へと掴みかかった。
「テメェ……っ、今日はやめとくって言っただろうが!! 何勝手に唾つけてんだよ!!」
「ふん……、貴様の許可など微塵も必要ない。その手を離せ、ユキの肌に竜臭さが擦り込まれる」
「そりゃあこっちの台詞だろうがよ!! ユキ!! こっち向け!! 番犬野郎の汚ねぇマーキングを消し去ってやる!!」
せっかくレイフィード叔父さんにも喜んで貰えて、穏やかに楽しく終われそうだと思ったのに……。私の目の前で互いの胸倉を空いている手で掴み合い罵倒の限りをぶつけ始めたアレクさんとカインさんが、やがて繋いでいた温もりを離した。
穏やかな風が、少しだけ肌に寂しさを残して撫でていく。
「ふふ、幸希は本当に愛されているわね~」
「だからね、笑い事じゃないし、パーティーの場が壊れるでしょう? もう……、アレクさん!! カインさん!! 喧嘩しないでください!!」
喜びの中にいたレイフィード叔父さんも、落ち着かせようとしていたお父さんも、周りの皆さんも、やれやれと残念な視線を取っ組み合いの大喧嘩に発展しそうな二人に向け始める。
どうしてこうも、子供のように争い始めてしまうのか……。
原因が自分であるという事実にさらなる疲労を覚えながら、私は意を決して足を踏み出す。
「アレクさん!! カインさん!! いい加減にっ、きゃあああっ」
「「ユキ!?」」
それは一瞬の出来事だった。今まで眼下に見えていた芝生や周囲の景色が物凄い速さで遠ざかり、気が付けば大空の真っ只中で私は捕らわれていた。
片腕一本、腰を抱かれて拘束されている私は、その感触なしには下へ真っ逆さまだ。
以前にも、禁呪との件で闇夜の大空にご招待されたり地上へと向かって墜落させられかけた事があるけれど、これはこれでやっぱり怖い!
一体こんな酷い仕打ちをするのは誰だろうとその顔を仰げば、――懲りるという事を知らない不敵な笑みを抱く王宮医師様の美麗顔が。
「またですか!! ルイヴェルさん!!」
「あのまま喧嘩の最中に割り込んでいれば、陛下達の怒りがアレクとカインを襲う事になっただろうからな。お前達の保護者的な者として、救いの手を差し伸べてやったつもりなんだが、不服か?」
「それならルイヴェルさんが二人を止めてくれれば良かったんじゃないですかああ!! うぅ、こんな高い所にまで来ちゃって……、ぜ、絶対に落とさないで下さいよ!!」
「素直に感謝の言葉を述べられない王兄姫殿下の凍えるような御心のせいか、このルイヴェル……、うっかり力を失ってしまいそうに」
と、またまた胡散臭いわざとらしい物言いで一瞬だけ腰から手を離そうとした大魔王様に、私は全力でその首にしがみついて大声で謝罪の言葉を泣き叫ぶ。
「ごめんなさい!! ごめんなさい!! 嘘ですから!! 助けて貰って感謝してますから!! だ、だからっ、お、落とさないでください!!」
「ほぉ……、この哀れな臣下に慈悲をくれる気になったか?」
お慈悲が欲しいのは私ですからあああああ!!
クックッと喉の奥で笑うルイヴェルさんの表情は、しがみついている私には見えない。
けれど、絶対に大魔王の笑みで勝利に酔い痴れている事は確かだろう。
後を追って来てくれたらしきアレクさんとカインさんが現れると、今度は空中での大運動会が始まり、晴れやかな青の世界を賑やかで騒がしい声が満たしていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
異世界エリュセード……。狼王族の王国、ウォルヴァンシア。
穏やかな日常の中に困った事件や騒動を散りばめながら、私は今日もこの場所で生きている。
心優しい皆さんと、想いを寄せてくれる人達と、少々困った一部の人と、これからも胸に残る想い出を一日、一日と……、私は綴っていく。
まだまだ一人では何も出来なくて、誰かの手を借りてでしか歩めない雛鳥のような自分。
羽ばたけるようになるのはいつの日か……。
それはまだわからないけれど、私はその一歩一歩をしっかりと歩んでいきたい。
私を助けてくれる皆さんに、少しでも注いで貰った愛情を返していけるように……。
沢山悩んで、沢山泣いて、沢山笑って……、私は、この異世界の住人となっていく。
まだ元の世界に対する未練は消える事なく残っているけれど、それでも。
――私は、この世界を愛し始めている。
世界を巡る青の世界の中で、視界いっぱいに広がる緑の漣と人々の営みの鼓動を感じながら、私はウォルヴァンシアの地で……、この胸の奥で育まれている優しい想いと共に。
私の存在が、異世界エリュセードで生きるひとつの生命として、この世界に確かな根を張り始めている事を感じながら。
「私からもお詫び申し上げます。ユキ姫様にとって副団長の暴走がどれだけのご負担をおかけするのかをわかっていながら……」
王宮内に響き渡った大運動会のような逃亡劇が終わった後……。
私はセレスフィーナさんとロゼリアさんに介抱されながら、東屋のソファーに倒れ込んでいた。
自分が走ったわけでもないのに、この壮大なる疲労感は何なのだろうか……。
パーティー会場であるこの庭園に戻って来るまでの道のりは、とても恐ろしいものだった。
私をお姫様抱っこで駆け抜けるルイヴェルさんの背後から、剣や矢が飛んでくるわ、挙句の果てには炎や氷といった魔術の類までもが容赦なく襲い掛かってきたりと……。
あの王宮医師様一人に沢山の人達が手のひらの上で遊ばれたと言ってもいい。
そして私は、……精神的な疲労困憊中というわけだったりする。
「うぅ……、ご迷惑をおかけします」
「あぁっ、ユキ姫様! すぐに癒しの術をおかけしますので、暫しの御辛抱をっ」
「ルイヴェル殿……、なんと罪深い事をなさるのですか。ユキ姫様、とりあえずこの飲み物をっ」
陸に上がって干からびかけている魚、とでも言えばいいのだろうか。
アレクさんとカインさんからの許容量オーバーの愛情表現で真っ赤になっていた私の顔は一気に青ざめ、心臓の鼓動は疲労のせいで弱くなっている気がする。
うぅ、全部ルイヴェルさんのせいだっ。あの人の困った性格のせいで私も皆さんも大変な目にっ。
今は東屋の外でお父さんやレイフィード叔父さん達に怒られている王宮医師様に恨みがましい念を向けながら、私はロゼリアさんが近づけてくれたグラスの中身に口をつけた。
上半身を起こし、夢中になってその冷たくスッキリとした味わいのジュースを飲み干していく。
「おーい、生きてるか~、ユキ? ……って、まだ駄目そうだなぁ」
「ユキ、顔色が悪い……。やはり部屋に戻って休んだ方が」
「あ、アレクさん、それにカインさんも……」
開いていた東屋の扉から心配そうに声をかけて入って来たのは、疲れているのかそれぞれに正装の胸元を着崩しているアレクさんとカインさんだった。
ルイヴェルさんに振り回されて疲弊しきった私を気遣って訪れてくれたのだろう。
どうにか笑顔を浮かべて出迎えようとすると、二人がすぐ近くまで来たその瞬間、私の目の前に二つの手が庇うように差し出されてきた。
「せ、セレスフィーナさん? ロゼリアさん?」
「アレク、カイン皇子……、申し訳ないのですけど、暫くユキ姫様に近づくのは禁止です」
「お二人に悪気がないのはわかっているのですが……、私もセレスフィーナ殿に同意です。真にユキ姫様の事を想われているのなら、どうぞお下がりを」
麗しの女性陣二人から道を阻まれてしまったアレクさんとカインさんが、一瞬ぽかんと口を開けるのが見えた。さっきの自分達の言動を思い出したのか、疲労顔の私を申し訳なさそうに眺め、やがて溜息と共に背中を向けてしまう。
話をするぐらいなら大丈夫なのだけど、多分、セレスフィーナさんとロゼリアさん的には、また口説きモードに入らないかと心配してくれているのかもしれない。
「ユキ……、すまなかった。お前の負担を思えば、自重するべきなのだろうが……。それでも、あの時は引けなかったんだ。俺は、望みがある限り……」
「はぁ……、わかってるって。もうさっきみてぇな事はやらねぇよ。……暫くの間はな?」
「いえ、私が悪かったんですから……、気にしないでください。でも、やっぱり私には、もう少し、お手柔らかに、ですね」
「「約束は出来ない」」
だから、何でこんな時ばっかり息が合うの!!
私に対する罪悪感的な気配は伝わってくるものの、これからもあの熱烈なアタックをしてくる事は自重しないと言ったも同然の二人に、がっくりと肩が落ちる。
アレクさんの方はある程度遠慮してくれそうな気はするのだけど……、はぁ、問題はカインさん、かな。顔を伏せてこれからの未来に涙していると、外へと向かいかけていた足音が止まった。
恋愛初心者に対する宣戦布告の笑みが、暖かな陽の光に照らされて振り返ってくる。
「約束は出来ないが……、お前を傷つけるような真似はしないと誓う。それと、この不埒な礼儀知らずの竜の事も」
「痛ぁああっ!! テメェっ、このっ、番犬野郎!! 何しやがる!!」
相変わらずの事だけど、言葉遣いだけでなく……、カインさんへの仕打ちも厳しいアレクさん。
その指先が容赦なくカインさんの耳を引っ張り、おまけにその足まで踏みつけている。
真っ赤に腫れていくお耳と、半泣きの竜の皇子様。
噛み付くように怒鳴られても、アレクさんはその手を放さずにカインさんをズルズルと引き摺って外に出て行ってしまった。
その姿を見送り終わると、私達は同時に疲労の息を大きくひとつ。
「アレクの言葉を信じたいところですけど……」
「副団長も、ユキ姫様の事になると周りが見えなくなる危うい部分がありますので……、どうにも安心しきれませんね。セレスフィーナ殿」
「そうなのよねぇ……。ふとした瞬間プッツンしちゃうんじゃないか、って、その心配があるから。とりあえず、一週間くらいユキ姫様から離しておく必要があると思うわね。ついでに……、あの困った弟も」
それは間違いなくルイヴェルさんの事だろう。
アレクさんとカインさんはともかくとして、あの王宮医師様とは暫く距離を取っていたいと心から思えるのは、度を越した意地悪と騒動を体験させられたからだ。
「あ、あの、パーティーが終わったらゆっくり休みますから、そうしたら、またアレクさんとカインさんに向き合えると思うんです。だから」
あまり警戒しなくても大丈夫ですと疲れ顔の二人にお願いすると、
「じゃ、ルイヴェルの方を何とかしておきますね」
「ルイヴェル殿の動きを牽制出来る何か……、弱味でも探してみます。万事お任せを」
自業自得の王宮医師様を警戒し牽制する絶対の誓いが目の前で交わされたのだった。
大切に想っている双子のお姉さんから怒られて牽制されるルイヴェルさんへの同情は、ない。
皆さんを振り回した罰です。私は心から、――あの人がしっかりと反省してくれる事を望みます!!
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「レイフィード叔父さん、ちょっとこちらにいいですか?」
休憩を終えて外に出た私は、メイドさん達と一緒に厨房へと向かい、事前に用意しておいた贈り物を庭園へと運び込むと、レイフィード叔父さんを呼び寄せた。
一か所だけ空けておいたレースクロスの広がる大きなテーブルに陣取った、まだ姿を見せない贈り物達。そして、私の手には大きな花束が抱えられている。
淡い黄色のフィリエという花をメインに、雪のひとひらを寄せ集めたかのように真白の小さな蕾が特徴的な、可愛らしいピュアノの花。レイフィード叔父さんの大好きなそれらをひとつに纏めて花束にした私は、まずそれをレイフィード叔父さんに手渡した。
「ユキちゃん……、これは?」
「今日のパーティーは、王宮の皆さんへの感謝の気持ちと、それから……、私達家族を笑顔でこの国に迎えてくれた、大好きなレイフィード叔父さんへんの恩返しの気持ちを表したいと思ったイベントでもあったんです」
「僕に……?」
「はい。レイフィード叔父さん、いつもその温かい笑顔で、心優しい想いで私を見守ってくださって、本当に……、ありがとうございます」
驚きと共に目を丸くして花束と私を見比べていたレイフィード叔父さんが、ぎゅっとその花達を抱き締めて、うるりと大粒の涙をその目に浮かべた。
「ユキちゃ……、ううっ、叔父さん、叔父さん……っ、こんなにも幸せでいいのかな? 大切な民や家族、可愛い姪御のユキちゃんに囲まれて、あぁっ、上手く言えないや。だけど、僕……、ユキちゃんの叔父さんで良かったよ~!!」
「れ、レイフィード叔父さん!?」
花束を間に挟むように私を力の限りに抱き締めたレイフィード叔父さんが、周囲の目も憚らずに大声を上げて喜びの声を響かせ始める。
サプライズのつもりではあったけれど、こんなにも予想以上の喜ばれ方をして貰えるなんて……。
お父さんやお母さん、この場に集まっている人達が、微笑ましそうに私達を眺めている。
「僕はこのウォルヴァンシア一の!! いいや!! エリュセード一の幸せ者だよ~!! もうどうしたらいいのかな!! 嬉し過ぎて幸せ過ぎてっ」
「あ、はは……。喜んで貰えて私も嬉しいです。それと、ですね」
はしゃぐレイフィード叔父さんを一旦宥め、私は傍にいたお母さんから小さなラッピング袋を受け取り、それを差し出した。
「趣味で作ったものなんですけど……」
私に促され、レイフィード叔父さんはドキドキとした様子で袋の中身を取り出した。
そして、手のひらに乗った存在を目にした途端、遥か天空まで届くかのような大声で一言。
「ユキちゃんお手製、僕仕様のマスコットぉおおおおおおおおおおおお!!」
庭園内、いや、王宮どころか、ウォルヴァンシアの国内中に響き渡るかのような喜びの声。
レイフィード叔父さんは花束をその隣に立っていたお父さんへと預け、私が作り上げた可愛らしい自分似のマスコットを両手に包み込んで顔をずいっと寄せてきた。
「これもっ、これもユキちゃんが作ってくれたのかい!?」
「は、はいっ。レイフィード叔父さんをミニキャラ仕様でイメージして、贈り物のひとつにしてみました。迷惑じゃ……、なかったですか?」
「ああっ!! 本当にもうどうしよう!! ユーディス兄上!! 僕幸せ過ぎて死んじゃいそうですよ!! このまま昇天してもいいですか!?」
「お前が召されると、私が自動的に王位に収まってしまうだろう? ほどほどのラインで戻って来なさい。はぁ……、この弟は全く」
本当に、予想以上どころか、凄まじい感動と喜びがレイフィード叔父さんの全身から溢れ出している。お父さんから馬を宥めるように背中を擦られてもまだ、興奮は収まってくれないらしい。
でも……、サプライズを考えて良かった。恩返しの一歩を踏み出したばかりだけど、レイフィード叔父さんの笑顔が、向けてくれる優しい喜びの眼差しが、私の心も幸せにしてくれる。
本当に、このウォルヴァンシアの人達は、温かい人達ばかりだ。
その幸福が、涙が出る程に嬉しくて……。
「見てくださいよ~!! このマスコット、胸の中央に無病息災の意味を持つ小さなお守りの石が縫い付けてあるんです!! それに、僕の人型だけじゃなくて、ミニサイズの狼まで一緒に!! ああっ、もうもうっ、幸せが止まりませんよ~!! 僕どうしたらいいんでしょうね!! ユーディス兄上教えてくださいよ~!!」
「誰か、この子供みたいな弟をどうにかしてくれないか……」
次から次へと大粒の嬉し涙で頬を濡らすレイフィード叔父さんの顔面に、お父さんが呆れ交じりと微笑ましさを含ませた眼差しでハンカチ……、ではなく、メイドさんから渡された分厚いタオルをべしんとぶつける。でも、そのタオルもすぐに涙でじゅわ~……と。
レイフィード叔父さん、体内の水分大丈夫ですか!?
「ふふ、レイちゃんたらあんなに喜んで……。準備した甲斐があったわね、幸希」
「うん。ちょっと反応が予想外過ぎて吃驚したけど、……すっごく嬉しい」
「それは仕方のない事かもしれないわねぇ……。レイちゃんは、幸希の事を本当に心の底から可愛がってくれていたから。ユーディスとも、何度も喧嘩したのよ。貴女から記憶を奪って、向こうの世界で普通の人間として育てていく、って、そう話した時にね」
私が覚えていない、……封じられた記憶。
幼い頃に、何度もこの異世界エリュセードに、ウォルヴァンシア王国に里帰りをしていたという私達家族。セレスフィーナさん達のお父さんが戻って来てたら封印を解いて貰えるらしいのだけど、やっぱり……、少し寂しく感じられる。
この国で出会った皆さんは私の事を覚えているのに、私は覚えていない……。
時折向けられる懐かしさを含んだ寂しげな眼差しを感じる度に、申し訳なくて……。
出来れば一日も早く記憶を取り戻したいと願っている。
「ねぇ、お母さん……。セレスフィーナさん達のお父さんって、まだ帰って来ないのかな?」
「そうねぇ。まだちょっと時間がかかるみたいなんだけど、そんなに焦らなくても大丈夫よ」
「お母さん?」
「たとえ記憶がなくても、幸希の中にはちゃんと皆への想いが在り続けているはずよ。何度だってやり直せる、一番大切なものがね」
私の胸の真ん中を、にっこりと優しく微笑むお母さんの指先がトン、と小さく打った。
トク、トク……と、穏やかな鼓動が一瞬だけ強く跳ねる。
まるで、私の奥深くで眠っている何かが、お母さんに返事をするかのように。
「ウォルヴァンシアの皆は、貴女が自分達の記憶を持っていなくても、絆が消えたわけじゃない、って……、そうわかっているのよ」
「絆……」
「ええ。だから記憶が戻る日が来るまでは、ありのままの自分で皆と向き合いなさい。新しい想い出を、昔に負けないくらい、沢山作る為にね」
お母さんは、どんな時でも笑顔を失わない。
私が不安を抱いていても、それを見抜いて優しくその大きな心で包んでくれる……。
思わず潤みそうになる瞳の熱を抑え、お母さんの手を取った。
ぎゅっと強く握って、しっかりと頷く。
「ありがとう……、お母さん」
「ふふ、幸希も歳を重ねれば、お母さんみたいに図太くなるわよ~」
「ず、図太くって……」
まぁ、確かにその通りなんだけど……。
お母さんも、色んな経験を積んで、今が在るって事なんだろうなぁ。
辛い事や悲しい事を経験しなかったわけじゃない。
それを全部乗り越えて、沢山の涙を流して人生を歩んできたのだろう。
(私も、いつかお母さんみたいな、強くて優しい人になりたいな……)
ううん、なりたいじゃなくて……、いつか、絶対になれるように努力していこう。
今は支えがないとすぐにふらついてしまう私の心だけど、どんな困難からも逃げなければ、きっと。
「お母さん、これからも未熟者の娘をどうかよろしくお願いします。ね?」
「いいわよ~。可愛い娘が最強の奥さんになれるように、私が傍で鍛えてあげるから~。ふふ、なんてね?」
それは楽しみだと、お母さんと一緒に笑い合っていると、すぐ傍にアレクさんがやって来た。
「良かったな、ユキ……。お前の頑張りと陛下への想いが、しっかりと実を結んでいる」
自分の事のように喜んでくれるアレクさんの嬉しそうな微笑。
すぐ傍に温もりを感じていると、やっぱりあの時の急ぎ足な鼓動が戻って来てしまうのだけど……。私はアレクさんの隣から逃げようとはしなかった。
こつん……と、触れ合った互いの手の甲。アレクさんの大きな温もりが、そっと私の左手を絡めとる。
「やはり……、これでも負担になるだろうか?」
「アレクさん……。いいえ、大丈夫です。これくらい、なら……」
包み込んでくれている温もりが心地良くて、その返事は自然に口から零れ出た。
このエリュセードの地で、私を不安から掬い上げてくれた人。
逃げ場を与えられずに迫られる時とは違う、安心できるその感触を包み返した私は、右側に現れた別の誰かに気付くのが遅れてしまった。
アレクさんと同じように私の右手を包んだその人を見上げると、少しだけ強く力が籠ったのを感じる。
「これぐらいならセーフなわけか……。じゃあ、当然俺もいいよな?」
「カインさん……」
自信満々にいつもの笑みを浮かべながらも、繋がれている右手からは微かに懇願しているかのような気配が伝わってくる……。気のせいかなと思ったものの、カインさんが力を緩めて指を絡め直すと、窺うような視線が向けられた。
「駄目なのかよ……?」
「駄目、……って言ったら、どうするんですか?」
試すようにそう微笑んで返せば、うっと怯む様子を見せたカインさんが、手元に視線を落として悔しそうに表情を歪めてしまう。
どうやら駄目だと拒絶すれば引き下がる気があったらしい。
本当に……、自分勝手で態度も大きくて、口も悪い乱暴なところもある人だけど……。
私は寂しそうな真紅の双眸を受け止めながら、離されかけた温もりを自分から捉えた。
「ユキ?」
「手を繋ぐだけです。それだけなら……、どうぞ」
「ふぅん……。なら、繋いでおいて、……やるよ」
素直じゃない竜の皇子様だけど、その心根がアレクさんと同じように温かい事を、私はもう知っている。二人の手から伝わってくる私への想いがじんわりと胸の奥へと流れ込んでくるから……。
だから、このくらいの愛情表現なら、きっと今の私でも受け入れる事が出来る。
そう思って繋いだはず……、だったのだけど。
「……すまない、ユキ」
はい? 突然零れ落ちたアレクさんの謝罪の音に振り向くと、ふわりと……、頬に何か柔らかいものが触れた。ぎゅっと、強く繋がれる左手の感触。
一体何が……、顔をずらしたアレクさんのそれが、すぐ目の前にある。
私の隣で、カインさんが怒りに打ち震えた低い呻き声で唸り出したのが聞こえてきた。
「あの……、アレク、さん?」
「もう今日はお前の負担にならないようにと考えていたが……、竜の方ばかりを気にかけられたので、主張してみた」
「な、なにをでしょうか……っ」
言われなくてもわかっている事だけど、頬に残された熱を感じながらつい尋ねてしまった私は、アレクさんの切なげな蒼から逃れられない。
あぁ、右手の方がっ、カインさんと繋いでいる右手が、ギリギリと恐ろしい痛みをっ。
「その竜も手が早いが、俺も……、決して大人しくしているわけではない、と」
だ、だから私の頬にキスを? というか、舌先で軽く舐められたような気もするのだけど!!
穏やかになりかけていた鼓動が一気に騒ぎ始め、私はまた頬を真っ赤に噴火させてしまう。
直後、抑え込もうとしていた怒りが大爆発してしまったのか、カインさんが私の手を離さずにアレクさんの胸倉へと掴みかかった。
「テメェ……っ、今日はやめとくって言っただろうが!! 何勝手に唾つけてんだよ!!」
「ふん……、貴様の許可など微塵も必要ない。その手を離せ、ユキの肌に竜臭さが擦り込まれる」
「そりゃあこっちの台詞だろうがよ!! ユキ!! こっち向け!! 番犬野郎の汚ねぇマーキングを消し去ってやる!!」
せっかくレイフィード叔父さんにも喜んで貰えて、穏やかに楽しく終われそうだと思ったのに……。私の目の前で互いの胸倉を空いている手で掴み合い罵倒の限りをぶつけ始めたアレクさんとカインさんが、やがて繋いでいた温もりを離した。
穏やかな風が、少しだけ肌に寂しさを残して撫でていく。
「ふふ、幸希は本当に愛されているわね~」
「だからね、笑い事じゃないし、パーティーの場が壊れるでしょう? もう……、アレクさん!! カインさん!! 喧嘩しないでください!!」
喜びの中にいたレイフィード叔父さんも、落ち着かせようとしていたお父さんも、周りの皆さんも、やれやれと残念な視線を取っ組み合いの大喧嘩に発展しそうな二人に向け始める。
どうしてこうも、子供のように争い始めてしまうのか……。
原因が自分であるという事実にさらなる疲労を覚えながら、私は意を決して足を踏み出す。
「アレクさん!! カインさん!! いい加減にっ、きゃあああっ」
「「ユキ!?」」
それは一瞬の出来事だった。今まで眼下に見えていた芝生や周囲の景色が物凄い速さで遠ざかり、気が付けば大空の真っ只中で私は捕らわれていた。
片腕一本、腰を抱かれて拘束されている私は、その感触なしには下へ真っ逆さまだ。
以前にも、禁呪との件で闇夜の大空にご招待されたり地上へと向かって墜落させられかけた事があるけれど、これはこれでやっぱり怖い!
一体こんな酷い仕打ちをするのは誰だろうとその顔を仰げば、――懲りるという事を知らない不敵な笑みを抱く王宮医師様の美麗顔が。
「またですか!! ルイヴェルさん!!」
「あのまま喧嘩の最中に割り込んでいれば、陛下達の怒りがアレクとカインを襲う事になっただろうからな。お前達の保護者的な者として、救いの手を差し伸べてやったつもりなんだが、不服か?」
「それならルイヴェルさんが二人を止めてくれれば良かったんじゃないですかああ!! うぅ、こんな高い所にまで来ちゃって……、ぜ、絶対に落とさないで下さいよ!!」
「素直に感謝の言葉を述べられない王兄姫殿下の凍えるような御心のせいか、このルイヴェル……、うっかり力を失ってしまいそうに」
と、またまた胡散臭いわざとらしい物言いで一瞬だけ腰から手を離そうとした大魔王様に、私は全力でその首にしがみついて大声で謝罪の言葉を泣き叫ぶ。
「ごめんなさい!! ごめんなさい!! 嘘ですから!! 助けて貰って感謝してますから!! だ、だからっ、お、落とさないでください!!」
「ほぉ……、この哀れな臣下に慈悲をくれる気になったか?」
お慈悲が欲しいのは私ですからあああああ!!
クックッと喉の奥で笑うルイヴェルさんの表情は、しがみついている私には見えない。
けれど、絶対に大魔王の笑みで勝利に酔い痴れている事は確かだろう。
後を追って来てくれたらしきアレクさんとカインさんが現れると、今度は空中での大運動会が始まり、晴れやかな青の世界を賑やかで騒がしい声が満たしていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
異世界エリュセード……。狼王族の王国、ウォルヴァンシア。
穏やかな日常の中に困った事件や騒動を散りばめながら、私は今日もこの場所で生きている。
心優しい皆さんと、想いを寄せてくれる人達と、少々困った一部の人と、これからも胸に残る想い出を一日、一日と……、私は綴っていく。
まだまだ一人では何も出来なくて、誰かの手を借りてでしか歩めない雛鳥のような自分。
羽ばたけるようになるのはいつの日か……。
それはまだわからないけれど、私はその一歩一歩をしっかりと歩んでいきたい。
私を助けてくれる皆さんに、少しでも注いで貰った愛情を返していけるように……。
沢山悩んで、沢山泣いて、沢山笑って……、私は、この異世界の住人となっていく。
まだ元の世界に対する未練は消える事なく残っているけれど、それでも。
――私は、この世界を愛し始めている。
世界を巡る青の世界の中で、視界いっぱいに広がる緑の漣と人々の営みの鼓動を感じながら、私はウォルヴァンシアの地で……、この胸の奥で育まれている優しい想いと共に。
私の存在が、異世界エリュセードで生きるひとつの生命として、この世界に確かな根を張り始めている事を感じながら。
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