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第二章『竜呪』~漆黒の嵐来たれり、ウォルヴァンシア~
騎士の異変と竜の皇子の負傷
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それは、いつもと変わらない、穏やかな日のこと……。
朝食を終えて図書館に向かおうとしていた私は、普段より少し冷たい風の感触に腕を擦った。
「ユキ、大丈夫か?」
「はい。ちょっと今日は……、風が冷たいですね」
「そうだな。身体を冷やすといけないから、早く移動を済ませよう」
私を風から庇うように歩き出したアレクさんに頷いて、図書館への道を進もうとすると、ふと、私の視界の片隅に、人の姿が映り込んだ。
闇色の髪を背に流し、辛そうに森の図書館へと向かう道に入っていくあの人影は……。
「アレクさん、あれ……、カインさんですよね?」
「……」
私が促すように視線をカインさんらしき人影に向けると、私達二人の目には、腕を押さえて頼りない足取りでゆっくりと歩くカインさんの姿があった。
注意深く周囲の様子に意識を向けてみれば、カインさんの腕から流れる血が、芝生に染みを作っている。
「私、ちょっと声をかけてきます! 怪我をしてるなら、王宮医師のお二人に診て貰わないと!!」
カインさんの後を追って走り出そうとすると、それを引き止めるように右手を強い力で掴まれた。
痛みを感じるほどの握力……、振り返った先に見えたのは、戸惑いと……複雑な想いが混じり込んだ眼差し。一体どうしたのだろうかと、その名を呼ぶ。
「アレクさん……?」
「……」
ギリ……、と、さらに強まった拘束に、私は眉を顰めて痛みの声を上げた。
「あ、アレクさん……、痛い……です」
「――っ! ……すまない」
無自覚だったのかもしれない。アレクさんは我に返ったように手の力を緩めると、視線を暫し彷徨わせ、ぽつりと呟いた。
「どうして……」
「え?」
「どうして……、ユキは、『あの男』を追おうと……するんだ」
二回目の言葉は、真っ直ぐに私へと向けられた。
理解出来ない、どうして……。そんな気持ちが含まれているかのような問いかけに、私はカインさんが歩いて行った方を一度見遣って、もう一度アレクさんに告げた。
「だって、カインさんは怪我をしているかもしれないんですよ? 追いかけて治療を勧めないと……」
「それを……、お前が言いに行く必要があるのか?」
「え?」
「ユキが気にかけなくとも、アイツは自分で何とか出来るだろう。放っておいたところで、死ぬわけでもない」
「アレクさん、何を言ってるんですか? たとえ死ぬ事はなくても、怪我をしているんですよ! 早く治療しないと……。あ、そうだ。王宮医師のお二人を呼びに行った方が早いかも!! すみません、私、ちょっと行ってきますから!!」
心優しいアレクさんの発言だとは思えない。
怪我をしている人を見かけたのに、そのまま放置しても構わないなんて……。
でも、その事に対して言及している暇はない。
私は先に王宮医務室に向かう事を告げ、踵を返して目的地を変えようとする。
けれど、再び強まったアレクさんの拘束の力が、私を動けなくしてしまう。
「あの男は、ユキに傷を植え付けた存在だろう……。なのに……、どうして許す事が出来るんだ。お前の情を受ける権利など……、ありはしないのに……」
「アレクさん……?」
優しさの掻き消えた声音が、徐々に暗く苛立ちを滲ませるものに変わっていく。
森の図書館での出会い、憩いの庭園での出来事……。
カインさんが、私をどんな目に遭わせたのかを、思い出せ……そう言っているかのようだ。
「確かに、カインさんにはトラウマになるような事をされました。今だって、まだ完全に許したわけじゃありません。だけど、あの人と関わるようになってから、悪意だけの人じゃないって……」
そう思える部分があったから、交流を重ねるうちに、私の中の傷も和らいでいった。
少なくとも、もう傍に来られても嫌悪感はない。
ただ、いつからかいついでに意地悪をされるかという警戒はあるけれど。
「だから、もう、お友達みたいなものなのかなって。それに、怪我をしている人の事は、誰だって放ってはおけません。アレクさんだってそうでしょう?」
「ユキ、俺は……」
吐き出したい感情があるのに、それを堪えるかのように表情を歪ませた後、アレクさんは私の腕から手を離した。
「アレクさん……」
「ユキがあの男を助けたいなら、……もう俺に言う事はない。ルイ達を呼びに行こう」
淡々と向けられた低い声音の後、アレクさんは回廊に戻り、首元で縛って背に流してある銀の髪を風にそよがせた。
向けられた背中が、どこか遠く感じるのは気のせい……?
カインさんとの件を、私以上に重く捉えてくれているアレクさんにとっては、また私が彼の手によって傷つくかもしれないという危惧があるんだろう。
(私がカインさんに関わろうとする事は、アレクさんの心を傷付けてしまう事なのかもしれない……)
この異世界エリュセードに来てから、ずっと私を見守ってくれていた人……。
その優しい心を苦しめてしまうのかもしれないと思うと、どうしようもなく胸が痛みを抱かずにはいられない。だけど……、それでも、……カインさんを放っておく事は出来ない。
確かに出会いは最低最悪だったけれど、私は知ってしまったから……。
カインさんという人の内面を、言葉を交わす度に伝わってくる不器用な部分や優しい面を……。
レイフィード叔父さんや教師の皆さんに対する態度は褒められたものではないけれど。
三つ子ちゃん達と接している時や、ふとした時に見せる意外な表情を思い出すと、やっぱり……。
(放っておく事なんて……出来ない)
アレクさんには、これから何度でも話してカインさんの事をわかってもらおう。
だから、今は……。
私はカインさんの怪我を診て貰う為に、王宮医師のお二人のいる医務室へと急ぎ始めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「はぁ……、まさかお二人とも用事で出かけているなんて」
タイミングが悪すぎた。私達が王宮医務室に着く十分ほど前に、お二人はお仕事の関係で出られてしまったらしい。
ちなみに、この情報は、通りがかったメイドのリィーナさんからのもの。
戻るのは昼過ぎだろうという話で、私はどうしたものかとカインさんの件を彼女に相談した。
すると、一旦メイドさん達が集まる休憩所へと戻ったリィーナさんが、包帯と傷薬の入った救急箱を手に戻ってきてくれた。
術での治療には劣るけれど、何もしないよりはきっと効果があるはずだから、と。
それを手に持って森の図書館に足を運んだのだけれど……。
古びた扉を押し開き、アレクさんと一緒に中へと足を踏み入れた。
吹き抜けの上にある円筒状の天窓から暖かな陽射しが降り注ぎ、館内を柔らかく照らし出している。訪れるのはまだ二度目だけれど、前に来た時と同じように神秘的な空間が目の前に広がっていた。
「あ……、血が」
床に……、赤黒い染みが奥へと続くように沁み込んでいる……。
その点々と続く血の痕を辿ってカインさんの姿を探しながら進んでいくと、最初に出会った一番奥の通路に、壁に背を預けているその姿を見つける事が出来た。
左腕の上の方を押さえ、苦しそうに呼吸を繰り返しながら下を向いているカインさん。
血が滲み出ている傷口を押さえている右手のひらから、淡い光が漏れ出している。
「カインさん!! 大丈夫ですか!!」
「……何で、……お前がここに……っ」
私の声に顔を上げたカインさんが、一瞬、「げっ」と眉を顰めて、まずいところを見つかったような表情になった。傷口を見せないうように身体をずらし、私の視線から逃れようとする。
「隠そうとしても駄目ですよ!! カインさん、どこでそんな怪我をしてきたんですか!!」
「ちょっとドジっちまっただけだ……。心配ねぇよ。治癒の術も……こうやってかけてるしな。そのうち、……治る、だろ」
「せめて止血を先にしましょうっ。カインさんの腕、血がいっぱい溢れてきて……」
救急箱を開け、止血の為に使う清潔な布を取り出し、カインさんの腕に当てようとすると、カインさんは首を振って、それから逃れようとする。
動いた為に、傷口の痛みがカインさんを苛むように苦痛の声を引き出す。
「くっ……、俺の事は、心配すんな……。このくらいの傷、どうって事ねぇんだからよ……」
「強がってどうするんですか!! 傷口が術で塞がるまで、どれだけかかるかわかりませんけど、血を早く止めないと……!!」
「このお人好し……。はぁ……、箱、だけ、置いていけ……。あとは……、自分でやる……から」
「いいえ、私がやりますから、だから、傷口を見せてくださいっ」
いつまでも血を流していては、術が効果を表す前に出血多量にでもなってしまいかねない。
私はズズイ! とカインさんを追い詰めるように近付いた。
「お前にやってもらう必要はねぇって言ってんだろうが……。はぁ……落ち着いて治療も出来やしねぇ……。後ろの殺気駄々漏れの番犬と一緒に、さっさと戻れ」
「……え?」
ずるずると床に身体を倒したカインさんが、面倒そうに私の背後を見つめる。
番犬って……、アレクさんの事?
恐る恐る振り返ってみると……、私はその表情を見た瞬間、心臓を冷たい水底に引き摺りこまれたかのような錯覚を覚えた。
私の背後に立っていたアレクさんは……。
今まで見た事もないほどの……背筋が凍り付くような冷たい……怖い、顔。
いつも、凪いだ海のように穏やかさを感じさせてくれる蒼の双眸が、闇を思わせる暗さを纏い、カインさんを冷酷さえ感じさせる眼差しで見下ろしている……。
これは……『誰』? 私の知ってるアレクさんじゃ……ない。
「アレク……さん?」
「……」
「番犬様のお怒り……ってな。……俺の事は本当に心配しなくていい。だから……早く行け」
「カインさん……、でも……あっ」
そのままになんてしておけない、と言い募ろうとする私の身体が、前触れもなく浮き上がる。
驚いて視線を彷徨わせていると、手に持っていた布が床へと落ちてしまった。
そして、すぐ近くで……、一切の感情を殺ぎ落としたかのような声音が耳に届く。
「俺達の助けなど、そいつは必要としていない。戻るぞ……ユキ」
「あ、アレクさん!! ちょっと待ってください!! カインさんの怪我を手当てしないとっ」
下ろしてほしいと訴えて暴れるけれど、アレクさんの力が緩む事はない。
踵を返したアレクさんの足が、図書館を出る為に歩き始める。
本棚を曲がってしまったせいで、カインさんの姿が見えなくなる。
残されたのは、私が持って来た救急箱と、床に落ちてしまった止血の為の布……、そして、怪我を負ったカインさんの苦痛を帯びた表情……、だけ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「アレクさん!! 止まってください!!」
「……」
小さな森を抜け、回廊付近まで戻って来た私は、何度も戻るようにとアレクさんに訴え続けながら道を辿ってきた。
私の頭の中には、左腕から流れる痛々しいほどの血の色と、戻るようにと見送ったカインさんの苦しそうな表情が焼き付いている。
「アレクさん!! お願いだからっ!!」
私の必死の声に、アレクさんが回廊通路でピタリと足を止めた。
「そんなに……、あの男の事が心配なのか……」
「え? だ、だって、カインさん、あんなに血を流して……っ」
さっきと同じ……。恐怖さえ感じさせるかのような……冷たい……音。
私を見つめるアレクさんの表情が……、辛そうに歪んでいく……。
「あ、アレクさ……きゃっ!!」
急に私を地面へと下ろしたかと思うと、すぐ傍の壁へと私の身体を押し付けた。
左手が……、喰い込むほどに私の右腕を壁面に縫い止めている。
「ユキ……、お前の優しさを分け与えるほど……、あの男にそんな価値があるというのか……?」
「アレクさん……い、痛いっ」
「お前を傷付けた存在なのに……、どうして……その心に、あの男の存在を……」
「何を言ってるんですか……、アレクさんっ」
森の図書館に行く前も、様子が少しおかしいと思っていたけれど、今のアレクさんは、誰が見てもわかるほどに……、心の在り様が乱れてしまっている。
緩まない指先の力……、吐息を感じられるぐらいに近付いたアレクさんの顔……。
一体何が起こっているのか……、私は萎縮してしまって身動きさえとれない。
「ユキ……、俺は……」
「副団長?」
アレクさんの身体が、回廊の向こうから聞こえてきた凛とした美しい女性の低音に、びくりと震えた。そして、ゆっくりと身体を離し、近付いて来る女性に気まずい視線を投じたアレクさん。
書類を腕に抱え、丁度良かったと歩みを向けて来たのは、騎士団の副団長補佐官であるロゼリアさんだった。距離をとるように離れた私とアレクさんを見遣って、眉を顰める。
「副団長……、今、ユキ姫様に何を……」
「あ、あの!! わ、私、ちょっと用事があるので、席を外しますね!!」
ロゼリアさんが通りがかってくれたのをいい事に、私は逃げるように森の図書館への道を走り出した。アレクさんの掴んでいた右腕を支えながら、後ろから聞こえるロゼリアさんの声にも振り返らずに……。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ただ前だけを見て走り続けた先に見えた森の図書館。
私は、そこに逃げ込むように古い扉の中へと身を滑り込ませた。
ドクドクと不自然な速さで鼓動を刻む胸元を押さえながら、床に座り込む。
「……アレクさん」
一体さっきのは何だったんだろう……。
凄い力で腕を押さえ付けられて……、痛いと訴えても離してくれなくて……。
それなのに……、アレクさんの瞳は……その痛みよりも深い辛さを抱えているようで……。
私がカインさんと関わる事を、心底拒んでいる様子だった。
そんな風に思ってしまう原因を作ってしまったのは私だけど、あの様子は……、なんだかそれだけじゃない気がする。
「あ、そうだ。カインさんの手当てをしなくちゃっ」
アレクさんの事も気になるけれど、今はカインさんの様子を見に行く方が先決だ。
私は立ち上がって奥の本棚の方へを駆け出した。
「カインさん!!」
「……何で、戻って来てんだよ、お前は」
奥の通路に駆け込むと、ここを出ていく時と同じように、カインさんは横になったままだった。
腕に手を当てたまま、治癒の術が生み出す淡い光が周囲を照らしている。
「だって、一人じゃ止血が難しいと思って……」
「……術が効いてるから、心配ねぇよ」
「でも、さっきよりも顔色が悪いですよ!! 私、やっぱり王宮医師のお二人に、すぐに帰って来て貰えないか連絡しにっ」
「大丈夫だって言ってんだろ。こっちは温室育ちのお前と違って、怪我や荒事には慣れてんだからよ。……それより、お前の過保護な番犬はどうした?」
「アレクさんは……えっと」
逃げるようにここに来た、とは言えなくて……。
私は言葉を濁しながら、止血の為の布を床から手繰り寄せた。
「お前……、一人で戻って来たな?」
「うっ……」
傷のせいで痛む身体を無理に起こしたカインさんが、壁に寄りかかって、呆れたように私を見つめてくる。
「じ、自己満足だとは思ってますよ……。カインさんは大丈夫だって言ってるのに、自分が心配で戻って来ただけなので……」
俯いて小さくそう言った私に、カインさんが傷口から手を離して、それを私へと伸ばそうとしてきた。けれど、触れる直前で動きが止まり、その手がカインさんの許へと戻っていく。
血に濡れた手を見下ろして、少し悲しそうにカインさんが呟いた。
「これじゃ……無理だよな」
「カインさん?」
自嘲気味な笑みが零れたかと思うと、傷口に痛みが走ったのか、カインさんが小さく呻いた。
私急いで救急箱と止血の布を抱えて彼の傍へと近づくと、確認を取り始める。
「カインさん、術の上から手当てをしても、大丈夫ですか?」
「……っ、……あぁ」
清潔な布を強く傷口に押し当て、圧迫する。
一枚じゃ心許ないから、追加で二、三枚ほど念の為重ね、包帯できつめに縛り上げていく。
これで血が止まるといいのだけど……。
私は手当てを終えると、今度はカインさんの右手を綺麗にし始めた。
「おい、お前何やってんだよ……」
「どうせなら、こっちも綺麗にしておいた方がいいと思うんです」
「そっちはいい。……おい、聞いてんのか」
私は自分の手が汚れる事さえどうでもよくて、自分のハンカチを取り出してカインさんの右手の血を拭っていく。お湯か何かがあればいいのだけど……、生憎とここは森の図書館。
それは望めそうにもなかった。
手を引っ込めようとするカインさんの腕をグイッとこっちに引き寄せると、一番聞きたかった事を口にした。
「どこで……、どんな状況で……、こんな事になったんですか」
「お前には関係ない。……いいから、離せ」
どこで怪我をしたのか、何が原因でこんな事になったのか……。
カインさんは、急に声のトーンを冷たく落として視線を逸らした。
「言いたくないって……事なんですか?」
「……」
「……わかりました。もうこれ以上は聞きません。でも……、今度からは、もっと気を付けて行動してください。大怪我を負ってからじゃ……遅いんですから」
誰にだって、他人には離せない事柄が存在する。
踏み込んではいけない領域、カインさんは……今、私の前に境界線を敷いた。
それを悟った私は、ハンカチで血を拭った後、カインさんの右手を両手で包んだ。
「それに……、カインさん」
「な……何だよ」
「……熱あるでしょう?」
「……ない」
「手が熱いです。それに……」
傷のせいで上手く動けないカインさんの額に手を押し当てると、私の予想通り、触れた温もりが嫌な熱を手のひらに伝えて来た。
多分、傷のせいで発熱してる。手当てだけじゃ足りない……。
「カインさん、少ししたら自分の部屋に戻りましょう。まだ王宮医師のお二人が戻ってませんから、お薬は誰かに相談して用意するとして、このままここにいるのは身体の為にもなりませんから」
「必要ねぇよ。こんな怪我と熱くらい……、寝てりゃ治る」
「だ・め・で・す! ここで少し休んだら、移動しますよ」
「何でお前に命令されなきゃならねぇんだよ……。俺が平気だって言ってるんだ。お前こそ、さっさと番犬野郎のとこに戻れよ」
「嫌です!! カインさんこそ、大人しく私の言う事を聞いてください!!」
お互いに一歩も引かない意志を込めて睨み合うと、カインさんが意地悪な笑みを表情に刻んで、私の方に身を乗り出した。
血を拭った右手が、私の胸をドン! と前に押し、身体が後ろへと倒れ込んでいく。
「きゃっ」
傷の痛みがあるはずなのに、カインさんは私の上に覆いかぶさると、最初の出会いの時のように、真紅の瞳で私を見下ろしてきた。
「お人好しも大概にしとかねぇと……、俺みたいな男に隙を突かれて……泣く羽目になるぜ?」
「カインさん……」
「どうする? お前の言う事を聞く代わりに、俺に襲われてみるか?」
わざとだ……。
私をここから追い出す為に、カインさんはあえて最初の出会いを彷彿とさせる行動をしている。
歪められた口端も、私を見つめる愉快そうな真紅の瞳も……、全て……作りものだ。
そう思えるのは、私の心と身体が、彼の行動に怯えていないから。
何を思ってこんな行動に出ているのか、それを私は知っている。
だから……。
「えい!」
「――っ!!!!!!!!」
私が思いっきり強く包帯の上から傷口を掴んだショックで、カインさんがその痛みを堪えるように、小さく悲鳴を押し殺した。
「お前……、何しやがる……っ」
「いい加減にしてください。本気の籠ってない脅しなんて……私は怖くなんてないんですから」
「……ちっ」
カインさんを真っ直ぐに見上げ、毅然とした態度で告げた私に、傷口を押さえたカインさんが、苦虫を噛み潰したような表情になって瞼を閉じた。
そして、唇から漏れた諦めの溜息。
「最初の頃なら怯えたでしょうけど、もう悪意がないって……知ってますから」
「万が一とか……考えねぇのかよ」
「大丈夫ですよ。レイフィード叔父さんから防犯用の術をまた幾つか教わったので、もしカインさんが万が一を起こしても、遠慮なく反撃させてもらいますから」
そう言葉にして微笑んでみても、私は『そんな事にはならない』と強く確信している。
カインさんは、私にこれ以上迷惑をかけたくないから、こんな風に仕掛けてきたんだ。
だから……、全然怖くなんてない。
私の笑みに、カインさんが目を見開いたかと思うと、その身体が後ろへと引いた。
下を向いて、バツが悪そうに漆黒の髪を掻き上げると、またひとつ、大きな溜息。
真紅の瞳を困惑気に揺らめかせて、上半身を起き上がらせた私にちらりと視線を向けてくる。
「お前……、意外に強ぇよな」
「はい?」
「何でもねぇよ……」
カインさんはゆっくりと身を起こすと、私の前に腰を屈めて右手を差し出した。
首を傾げて彼を見上げると、少し拗ねたような表情で一言。
「俺の部屋まで手ぇ貸してくれるんだろ?」
「カインさん……、はいっ」
「はぁ、とんでもねぇ頑固姫に捕まったもんだ。お人好しの上にお節介気質とか最悪だな」
「なんとでも言ってください。これが私なんですから、変えようがありませんしね」
「俺にとっちゃ、面倒極まりねぇがな。……だけど、……ありがとな」
私の手を引いて立ち上がらせたカインさんが発した言葉は、最後の方だけ小さくて、だけど……ちゃんと私の耳には聞こえていた。
私から顔を背けて横を向いてはいるけれど……、仄かに頬が赤くなっている。
「カインさんて……、意外に、照れ屋さんなんですね?」
少しだけ悪戯心でそう言ってみると、ギロリと真紅の瞳が不機嫌そうに私を見た。
でも、迫力はない。だって、……頬の赤みが増しているもの。
クスリと笑いを零した私は、「怖くないですよ~」と微笑んで、カインさんの身体を支えて歩き出した。最初の出会いではあんなに恐ろしくて堪らなかった相手なのに、カインさんという人を知るようになってから、自分でも驚くくらいに心に変化が訪れたように思う。
俺様的な捻くれたどうしようもない人かと思っていたのに、蓋を開けてみれば、意地っ張りで……、素直じゃなくて……、だけど、どこか放っておけない人。
三つ子ちゃん達も、カインさんの内面に気付いていたから、懐いたんだろうなぁ。
私はまたひとつ笑みを零して、不器用な竜の皇子様を支えて一歩ずつ進んで行くのだった。
朝食を終えて図書館に向かおうとしていた私は、普段より少し冷たい風の感触に腕を擦った。
「ユキ、大丈夫か?」
「はい。ちょっと今日は……、風が冷たいですね」
「そうだな。身体を冷やすといけないから、早く移動を済ませよう」
私を風から庇うように歩き出したアレクさんに頷いて、図書館への道を進もうとすると、ふと、私の視界の片隅に、人の姿が映り込んだ。
闇色の髪を背に流し、辛そうに森の図書館へと向かう道に入っていくあの人影は……。
「アレクさん、あれ……、カインさんですよね?」
「……」
私が促すように視線をカインさんらしき人影に向けると、私達二人の目には、腕を押さえて頼りない足取りでゆっくりと歩くカインさんの姿があった。
注意深く周囲の様子に意識を向けてみれば、カインさんの腕から流れる血が、芝生に染みを作っている。
「私、ちょっと声をかけてきます! 怪我をしてるなら、王宮医師のお二人に診て貰わないと!!」
カインさんの後を追って走り出そうとすると、それを引き止めるように右手を強い力で掴まれた。
痛みを感じるほどの握力……、振り返った先に見えたのは、戸惑いと……複雑な想いが混じり込んだ眼差し。一体どうしたのだろうかと、その名を呼ぶ。
「アレクさん……?」
「……」
ギリ……、と、さらに強まった拘束に、私は眉を顰めて痛みの声を上げた。
「あ、アレクさん……、痛い……です」
「――っ! ……すまない」
無自覚だったのかもしれない。アレクさんは我に返ったように手の力を緩めると、視線を暫し彷徨わせ、ぽつりと呟いた。
「どうして……」
「え?」
「どうして……、ユキは、『あの男』を追おうと……するんだ」
二回目の言葉は、真っ直ぐに私へと向けられた。
理解出来ない、どうして……。そんな気持ちが含まれているかのような問いかけに、私はカインさんが歩いて行った方を一度見遣って、もう一度アレクさんに告げた。
「だって、カインさんは怪我をしているかもしれないんですよ? 追いかけて治療を勧めないと……」
「それを……、お前が言いに行く必要があるのか?」
「え?」
「ユキが気にかけなくとも、アイツは自分で何とか出来るだろう。放っておいたところで、死ぬわけでもない」
「アレクさん、何を言ってるんですか? たとえ死ぬ事はなくても、怪我をしているんですよ! 早く治療しないと……。あ、そうだ。王宮医師のお二人を呼びに行った方が早いかも!! すみません、私、ちょっと行ってきますから!!」
心優しいアレクさんの発言だとは思えない。
怪我をしている人を見かけたのに、そのまま放置しても構わないなんて……。
でも、その事に対して言及している暇はない。
私は先に王宮医務室に向かう事を告げ、踵を返して目的地を変えようとする。
けれど、再び強まったアレクさんの拘束の力が、私を動けなくしてしまう。
「あの男は、ユキに傷を植え付けた存在だろう……。なのに……、どうして許す事が出来るんだ。お前の情を受ける権利など……、ありはしないのに……」
「アレクさん……?」
優しさの掻き消えた声音が、徐々に暗く苛立ちを滲ませるものに変わっていく。
森の図書館での出会い、憩いの庭園での出来事……。
カインさんが、私をどんな目に遭わせたのかを、思い出せ……そう言っているかのようだ。
「確かに、カインさんにはトラウマになるような事をされました。今だって、まだ完全に許したわけじゃありません。だけど、あの人と関わるようになってから、悪意だけの人じゃないって……」
そう思える部分があったから、交流を重ねるうちに、私の中の傷も和らいでいった。
少なくとも、もう傍に来られても嫌悪感はない。
ただ、いつからかいついでに意地悪をされるかという警戒はあるけれど。
「だから、もう、お友達みたいなものなのかなって。それに、怪我をしている人の事は、誰だって放ってはおけません。アレクさんだってそうでしょう?」
「ユキ、俺は……」
吐き出したい感情があるのに、それを堪えるかのように表情を歪ませた後、アレクさんは私の腕から手を離した。
「アレクさん……」
「ユキがあの男を助けたいなら、……もう俺に言う事はない。ルイ達を呼びに行こう」
淡々と向けられた低い声音の後、アレクさんは回廊に戻り、首元で縛って背に流してある銀の髪を風にそよがせた。
向けられた背中が、どこか遠く感じるのは気のせい……?
カインさんとの件を、私以上に重く捉えてくれているアレクさんにとっては、また私が彼の手によって傷つくかもしれないという危惧があるんだろう。
(私がカインさんに関わろうとする事は、アレクさんの心を傷付けてしまう事なのかもしれない……)
この異世界エリュセードに来てから、ずっと私を見守ってくれていた人……。
その優しい心を苦しめてしまうのかもしれないと思うと、どうしようもなく胸が痛みを抱かずにはいられない。だけど……、それでも、……カインさんを放っておく事は出来ない。
確かに出会いは最低最悪だったけれど、私は知ってしまったから……。
カインさんという人の内面を、言葉を交わす度に伝わってくる不器用な部分や優しい面を……。
レイフィード叔父さんや教師の皆さんに対する態度は褒められたものではないけれど。
三つ子ちゃん達と接している時や、ふとした時に見せる意外な表情を思い出すと、やっぱり……。
(放っておく事なんて……出来ない)
アレクさんには、これから何度でも話してカインさんの事をわかってもらおう。
だから、今は……。
私はカインさんの怪我を診て貰う為に、王宮医師のお二人のいる医務室へと急ぎ始めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「はぁ……、まさかお二人とも用事で出かけているなんて」
タイミングが悪すぎた。私達が王宮医務室に着く十分ほど前に、お二人はお仕事の関係で出られてしまったらしい。
ちなみに、この情報は、通りがかったメイドのリィーナさんからのもの。
戻るのは昼過ぎだろうという話で、私はどうしたものかとカインさんの件を彼女に相談した。
すると、一旦メイドさん達が集まる休憩所へと戻ったリィーナさんが、包帯と傷薬の入った救急箱を手に戻ってきてくれた。
術での治療には劣るけれど、何もしないよりはきっと効果があるはずだから、と。
それを手に持って森の図書館に足を運んだのだけれど……。
古びた扉を押し開き、アレクさんと一緒に中へと足を踏み入れた。
吹き抜けの上にある円筒状の天窓から暖かな陽射しが降り注ぎ、館内を柔らかく照らし出している。訪れるのはまだ二度目だけれど、前に来た時と同じように神秘的な空間が目の前に広がっていた。
「あ……、血が」
床に……、赤黒い染みが奥へと続くように沁み込んでいる……。
その点々と続く血の痕を辿ってカインさんの姿を探しながら進んでいくと、最初に出会った一番奥の通路に、壁に背を預けているその姿を見つける事が出来た。
左腕の上の方を押さえ、苦しそうに呼吸を繰り返しながら下を向いているカインさん。
血が滲み出ている傷口を押さえている右手のひらから、淡い光が漏れ出している。
「カインさん!! 大丈夫ですか!!」
「……何で、……お前がここに……っ」
私の声に顔を上げたカインさんが、一瞬、「げっ」と眉を顰めて、まずいところを見つかったような表情になった。傷口を見せないうように身体をずらし、私の視線から逃れようとする。
「隠そうとしても駄目ですよ!! カインさん、どこでそんな怪我をしてきたんですか!!」
「ちょっとドジっちまっただけだ……。心配ねぇよ。治癒の術も……こうやってかけてるしな。そのうち、……治る、だろ」
「せめて止血を先にしましょうっ。カインさんの腕、血がいっぱい溢れてきて……」
救急箱を開け、止血の為に使う清潔な布を取り出し、カインさんの腕に当てようとすると、カインさんは首を振って、それから逃れようとする。
動いた為に、傷口の痛みがカインさんを苛むように苦痛の声を引き出す。
「くっ……、俺の事は、心配すんな……。このくらいの傷、どうって事ねぇんだからよ……」
「強がってどうするんですか!! 傷口が術で塞がるまで、どれだけかかるかわかりませんけど、血を早く止めないと……!!」
「このお人好し……。はぁ……、箱、だけ、置いていけ……。あとは……、自分でやる……から」
「いいえ、私がやりますから、だから、傷口を見せてくださいっ」
いつまでも血を流していては、術が効果を表す前に出血多量にでもなってしまいかねない。
私はズズイ! とカインさんを追い詰めるように近付いた。
「お前にやってもらう必要はねぇって言ってんだろうが……。はぁ……落ち着いて治療も出来やしねぇ……。後ろの殺気駄々漏れの番犬と一緒に、さっさと戻れ」
「……え?」
ずるずると床に身体を倒したカインさんが、面倒そうに私の背後を見つめる。
番犬って……、アレクさんの事?
恐る恐る振り返ってみると……、私はその表情を見た瞬間、心臓を冷たい水底に引き摺りこまれたかのような錯覚を覚えた。
私の背後に立っていたアレクさんは……。
今まで見た事もないほどの……背筋が凍り付くような冷たい……怖い、顔。
いつも、凪いだ海のように穏やかさを感じさせてくれる蒼の双眸が、闇を思わせる暗さを纏い、カインさんを冷酷さえ感じさせる眼差しで見下ろしている……。
これは……『誰』? 私の知ってるアレクさんじゃ……ない。
「アレク……さん?」
「……」
「番犬様のお怒り……ってな。……俺の事は本当に心配しなくていい。だから……早く行け」
「カインさん……、でも……あっ」
そのままになんてしておけない、と言い募ろうとする私の身体が、前触れもなく浮き上がる。
驚いて視線を彷徨わせていると、手に持っていた布が床へと落ちてしまった。
そして、すぐ近くで……、一切の感情を殺ぎ落としたかのような声音が耳に届く。
「俺達の助けなど、そいつは必要としていない。戻るぞ……ユキ」
「あ、アレクさん!! ちょっと待ってください!! カインさんの怪我を手当てしないとっ」
下ろしてほしいと訴えて暴れるけれど、アレクさんの力が緩む事はない。
踵を返したアレクさんの足が、図書館を出る為に歩き始める。
本棚を曲がってしまったせいで、カインさんの姿が見えなくなる。
残されたのは、私が持って来た救急箱と、床に落ちてしまった止血の為の布……、そして、怪我を負ったカインさんの苦痛を帯びた表情……、だけ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「アレクさん!! 止まってください!!」
「……」
小さな森を抜け、回廊付近まで戻って来た私は、何度も戻るようにとアレクさんに訴え続けながら道を辿ってきた。
私の頭の中には、左腕から流れる痛々しいほどの血の色と、戻るようにと見送ったカインさんの苦しそうな表情が焼き付いている。
「アレクさん!! お願いだからっ!!」
私の必死の声に、アレクさんが回廊通路でピタリと足を止めた。
「そんなに……、あの男の事が心配なのか……」
「え? だ、だって、カインさん、あんなに血を流して……っ」
さっきと同じ……。恐怖さえ感じさせるかのような……冷たい……音。
私を見つめるアレクさんの表情が……、辛そうに歪んでいく……。
「あ、アレクさ……きゃっ!!」
急に私を地面へと下ろしたかと思うと、すぐ傍の壁へと私の身体を押し付けた。
左手が……、喰い込むほどに私の右腕を壁面に縫い止めている。
「ユキ……、お前の優しさを分け与えるほど……、あの男にそんな価値があるというのか……?」
「アレクさん……い、痛いっ」
「お前を傷付けた存在なのに……、どうして……その心に、あの男の存在を……」
「何を言ってるんですか……、アレクさんっ」
森の図書館に行く前も、様子が少しおかしいと思っていたけれど、今のアレクさんは、誰が見てもわかるほどに……、心の在り様が乱れてしまっている。
緩まない指先の力……、吐息を感じられるぐらいに近付いたアレクさんの顔……。
一体何が起こっているのか……、私は萎縮してしまって身動きさえとれない。
「ユキ……、俺は……」
「副団長?」
アレクさんの身体が、回廊の向こうから聞こえてきた凛とした美しい女性の低音に、びくりと震えた。そして、ゆっくりと身体を離し、近付いて来る女性に気まずい視線を投じたアレクさん。
書類を腕に抱え、丁度良かったと歩みを向けて来たのは、騎士団の副団長補佐官であるロゼリアさんだった。距離をとるように離れた私とアレクさんを見遣って、眉を顰める。
「副団長……、今、ユキ姫様に何を……」
「あ、あの!! わ、私、ちょっと用事があるので、席を外しますね!!」
ロゼリアさんが通りがかってくれたのをいい事に、私は逃げるように森の図書館への道を走り出した。アレクさんの掴んでいた右腕を支えながら、後ろから聞こえるロゼリアさんの声にも振り返らずに……。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ただ前だけを見て走り続けた先に見えた森の図書館。
私は、そこに逃げ込むように古い扉の中へと身を滑り込ませた。
ドクドクと不自然な速さで鼓動を刻む胸元を押さえながら、床に座り込む。
「……アレクさん」
一体さっきのは何だったんだろう……。
凄い力で腕を押さえ付けられて……、痛いと訴えても離してくれなくて……。
それなのに……、アレクさんの瞳は……その痛みよりも深い辛さを抱えているようで……。
私がカインさんと関わる事を、心底拒んでいる様子だった。
そんな風に思ってしまう原因を作ってしまったのは私だけど、あの様子は……、なんだかそれだけじゃない気がする。
「あ、そうだ。カインさんの手当てをしなくちゃっ」
アレクさんの事も気になるけれど、今はカインさんの様子を見に行く方が先決だ。
私は立ち上がって奥の本棚の方へを駆け出した。
「カインさん!!」
「……何で、戻って来てんだよ、お前は」
奥の通路に駆け込むと、ここを出ていく時と同じように、カインさんは横になったままだった。
腕に手を当てたまま、治癒の術が生み出す淡い光が周囲を照らしている。
「だって、一人じゃ止血が難しいと思って……」
「……術が効いてるから、心配ねぇよ」
「でも、さっきよりも顔色が悪いですよ!! 私、やっぱり王宮医師のお二人に、すぐに帰って来て貰えないか連絡しにっ」
「大丈夫だって言ってんだろ。こっちは温室育ちのお前と違って、怪我や荒事には慣れてんだからよ。……それより、お前の過保護な番犬はどうした?」
「アレクさんは……えっと」
逃げるようにここに来た、とは言えなくて……。
私は言葉を濁しながら、止血の為の布を床から手繰り寄せた。
「お前……、一人で戻って来たな?」
「うっ……」
傷のせいで痛む身体を無理に起こしたカインさんが、壁に寄りかかって、呆れたように私を見つめてくる。
「じ、自己満足だとは思ってますよ……。カインさんは大丈夫だって言ってるのに、自分が心配で戻って来ただけなので……」
俯いて小さくそう言った私に、カインさんが傷口から手を離して、それを私へと伸ばそうとしてきた。けれど、触れる直前で動きが止まり、その手がカインさんの許へと戻っていく。
血に濡れた手を見下ろして、少し悲しそうにカインさんが呟いた。
「これじゃ……無理だよな」
「カインさん?」
自嘲気味な笑みが零れたかと思うと、傷口に痛みが走ったのか、カインさんが小さく呻いた。
私急いで救急箱と止血の布を抱えて彼の傍へと近づくと、確認を取り始める。
「カインさん、術の上から手当てをしても、大丈夫ですか?」
「……っ、……あぁ」
清潔な布を強く傷口に押し当て、圧迫する。
一枚じゃ心許ないから、追加で二、三枚ほど念の為重ね、包帯できつめに縛り上げていく。
これで血が止まるといいのだけど……。
私は手当てを終えると、今度はカインさんの右手を綺麗にし始めた。
「おい、お前何やってんだよ……」
「どうせなら、こっちも綺麗にしておいた方がいいと思うんです」
「そっちはいい。……おい、聞いてんのか」
私は自分の手が汚れる事さえどうでもよくて、自分のハンカチを取り出してカインさんの右手の血を拭っていく。お湯か何かがあればいいのだけど……、生憎とここは森の図書館。
それは望めそうにもなかった。
手を引っ込めようとするカインさんの腕をグイッとこっちに引き寄せると、一番聞きたかった事を口にした。
「どこで……、どんな状況で……、こんな事になったんですか」
「お前には関係ない。……いいから、離せ」
どこで怪我をしたのか、何が原因でこんな事になったのか……。
カインさんは、急に声のトーンを冷たく落として視線を逸らした。
「言いたくないって……事なんですか?」
「……」
「……わかりました。もうこれ以上は聞きません。でも……、今度からは、もっと気を付けて行動してください。大怪我を負ってからじゃ……遅いんですから」
誰にだって、他人には離せない事柄が存在する。
踏み込んではいけない領域、カインさんは……今、私の前に境界線を敷いた。
それを悟った私は、ハンカチで血を拭った後、カインさんの右手を両手で包んだ。
「それに……、カインさん」
「な……何だよ」
「……熱あるでしょう?」
「……ない」
「手が熱いです。それに……」
傷のせいで上手く動けないカインさんの額に手を押し当てると、私の予想通り、触れた温もりが嫌な熱を手のひらに伝えて来た。
多分、傷のせいで発熱してる。手当てだけじゃ足りない……。
「カインさん、少ししたら自分の部屋に戻りましょう。まだ王宮医師のお二人が戻ってませんから、お薬は誰かに相談して用意するとして、このままここにいるのは身体の為にもなりませんから」
「必要ねぇよ。こんな怪我と熱くらい……、寝てりゃ治る」
「だ・め・で・す! ここで少し休んだら、移動しますよ」
「何でお前に命令されなきゃならねぇんだよ……。俺が平気だって言ってるんだ。お前こそ、さっさと番犬野郎のとこに戻れよ」
「嫌です!! カインさんこそ、大人しく私の言う事を聞いてください!!」
お互いに一歩も引かない意志を込めて睨み合うと、カインさんが意地悪な笑みを表情に刻んで、私の方に身を乗り出した。
血を拭った右手が、私の胸をドン! と前に押し、身体が後ろへと倒れ込んでいく。
「きゃっ」
傷の痛みがあるはずなのに、カインさんは私の上に覆いかぶさると、最初の出会いの時のように、真紅の瞳で私を見下ろしてきた。
「お人好しも大概にしとかねぇと……、俺みたいな男に隙を突かれて……泣く羽目になるぜ?」
「カインさん……」
「どうする? お前の言う事を聞く代わりに、俺に襲われてみるか?」
わざとだ……。
私をここから追い出す為に、カインさんはあえて最初の出会いを彷彿とさせる行動をしている。
歪められた口端も、私を見つめる愉快そうな真紅の瞳も……、全て……作りものだ。
そう思えるのは、私の心と身体が、彼の行動に怯えていないから。
何を思ってこんな行動に出ているのか、それを私は知っている。
だから……。
「えい!」
「――っ!!!!!!!!」
私が思いっきり強く包帯の上から傷口を掴んだショックで、カインさんがその痛みを堪えるように、小さく悲鳴を押し殺した。
「お前……、何しやがる……っ」
「いい加減にしてください。本気の籠ってない脅しなんて……私は怖くなんてないんですから」
「……ちっ」
カインさんを真っ直ぐに見上げ、毅然とした態度で告げた私に、傷口を押さえたカインさんが、苦虫を噛み潰したような表情になって瞼を閉じた。
そして、唇から漏れた諦めの溜息。
「最初の頃なら怯えたでしょうけど、もう悪意がないって……知ってますから」
「万が一とか……考えねぇのかよ」
「大丈夫ですよ。レイフィード叔父さんから防犯用の術をまた幾つか教わったので、もしカインさんが万が一を起こしても、遠慮なく反撃させてもらいますから」
そう言葉にして微笑んでみても、私は『そんな事にはならない』と強く確信している。
カインさんは、私にこれ以上迷惑をかけたくないから、こんな風に仕掛けてきたんだ。
だから……、全然怖くなんてない。
私の笑みに、カインさんが目を見開いたかと思うと、その身体が後ろへと引いた。
下を向いて、バツが悪そうに漆黒の髪を掻き上げると、またひとつ、大きな溜息。
真紅の瞳を困惑気に揺らめかせて、上半身を起き上がらせた私にちらりと視線を向けてくる。
「お前……、意外に強ぇよな」
「はい?」
「何でもねぇよ……」
カインさんはゆっくりと身を起こすと、私の前に腰を屈めて右手を差し出した。
首を傾げて彼を見上げると、少し拗ねたような表情で一言。
「俺の部屋まで手ぇ貸してくれるんだろ?」
「カインさん……、はいっ」
「はぁ、とんでもねぇ頑固姫に捕まったもんだ。お人好しの上にお節介気質とか最悪だな」
「なんとでも言ってください。これが私なんですから、変えようがありませんしね」
「俺にとっちゃ、面倒極まりねぇがな。……だけど、……ありがとな」
私の手を引いて立ち上がらせたカインさんが発した言葉は、最後の方だけ小さくて、だけど……ちゃんと私の耳には聞こえていた。
私から顔を背けて横を向いてはいるけれど……、仄かに頬が赤くなっている。
「カインさんて……、意外に、照れ屋さんなんですね?」
少しだけ悪戯心でそう言ってみると、ギロリと真紅の瞳が不機嫌そうに私を見た。
でも、迫力はない。だって、……頬の赤みが増しているもの。
クスリと笑いを零した私は、「怖くないですよ~」と微笑んで、カインさんの身体を支えて歩き出した。最初の出会いではあんなに恐ろしくて堪らなかった相手なのに、カインさんという人を知るようになってから、自分でも驚くくらいに心に変化が訪れたように思う。
俺様的な捻くれたどうしようもない人かと思っていたのに、蓋を開けてみれば、意地っ張りで……、素直じゃなくて……、だけど、どこか放っておけない人。
三つ子ちゃん達も、カインさんの内面に気付いていたから、懐いたんだろうなぁ。
私はまたひとつ笑みを零して、不器用な竜の皇子様を支えて一歩ずつ進んで行くのだった。
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