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第二章『竜呪』~漆黒の嵐来たれり、ウォルヴァンシア~

小さな森の奥の図書館!

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 その日、暗闇の中に紛れて巨大な飛行物体がウォルヴァンシアの外れにある山の上を旋回していた。雄々しい漆黒の翼、真紅の力強い瞳、鋭く全てを斬り裂く威力をもった長い爪。
 体躯を象る像は、紛れもなく竜と呼ぶに相応しい姿を空に描いている。
 竜は眼下にある山を見下ろし、そこに向かって降下していく。
 眩い光に溶け消えるように、竜は徐々にその姿を急速に変えていった。
 木々に囲まれた山の中、地面に降り立った竜は人の姿へと我が身を変えていた。
 クセのある背中より少し長い漆黒の髪を手で払い、竜の時と同じ真紅の双眸で辺りを見回すと、その口許に嘲るような笑みを浮かべた。
 ここが、ウォルヴァンシアの地……。自国にいた時とは周囲の気配も違っている。
 青年が事前に調べた情報では、この国の者は皆、『親愛』を掲げ仲良しこよしの生活をしているのだという。おめでたい頭の連中が揃っているんだろうと、容易に想像がつく。
 今すぐにこの国を出て行きたい気持ちはあるが、青年にはそれが出来ない事情があった。
 定められた期間、このウォルヴァンシアという国に身を置き、終わりの日を迎えるまで過ごさなくてはならない。青年は山を下りる為に歩き出すと、面倒そうに……闇の中に息をひとつ、吐き出した……。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 ――Side 幸希

 いつものように、朝食の時間を皆と一緒に過ごしていた私は、窓の方に視線を向けながら難しい顔をしているレイフィード叔父さんに気付いた。
 この何日か、レイフィード叔父さんは時々、こういう顔をしている事がある。

「……」

 ただ、黙ったまま……、天気の悪い外の景色を……、違う。
 叔父さんが見ているのは、景色じゃない……。
 その向こうに何かを感じているような眼差しは、きっと遥か遠くに意識を傾けているように思える。

「ゆきちゃ~ん、おにく~」

「あ、ごめんね! はい、あ~んして~」

 膝の上に座っていた三つ子の一人、アシェル君にご飯を食べさせてあげていた事を思い出し、慌ててお肉を切り分けて、口許に運んであげた。

「あしぇる、ずる~い! ぼくも、ゆきちゃんのおひざのる~!!」

「ぼくもおにく、ゆきちゃんに、あ~んしてほしい~!!」

 次に私の膝の乗ってお肉を食べる順番を待っていたエルディム君とユゼル君が、我慢しきれなくなって足下で騒ぎ出してしまう。

「ごめんね、順番に食べさせてあげるから、もう少し待ってね」

 二人の頭を優しく撫でてお願いすると、「「は~い!」」と素直な返事が返ってきた。
 三つ子ちゃん達の良いところは、駄々を捏ねてもお願いすれば言う事を素直に聞いてくれるところだろう。アシェル君と交代で、今度はエルディム君を抱き上げる。

「はい、あ~ん」

「あ~ん! もぐもぐ……おいしい!!」

「すまいな、ユキ。弟達が迷惑をかけて……」

「ふふ、大丈夫だよ、レイル君。三つ子ちゃん達はとっても可愛いし、弟が出来たみたいで楽しいよ」

「そうか……、ありがとう、ユキ」

 私が今度はユゼル君にお肉を食べさせながらそう言うと、レイル君はほっとしたように笑みを浮かべた。普段は、レイル君が三つ子ちゃん達がご飯をちゃんと食べ進められるようにお世話をしているんだけど、最初に自分の席でご飯を食べていたアシェル君が、私のところに来てしまったのが事のはじまり。美味しいお肉を私の手から食べたいと言い出して、それに便乗するように他の二人も順番待ちに加わってしまったのだ。
 可愛いから、全然私としては構わないのだけど、レイル君は色々心配しているみたい。

「はい、終了。皆お席に戻ろうね~」

「「「は~い! ありがとう、ゆきちゃん!!」」」

 ぱたぱたと駆け足でまた席に戻って行く三つ子ちゃん達を眺めながら、私は再びレイフィード叔父さんへと意識を向けた。
 さっきと同じように、遠いどこかを見つめる眼差し……。
 レイフィード叔父さんの様子には、お父さんも気付いているはずなのに、声をかける様子はない。

(そっとしておいた方がいいって事かな……)

 でも、食事も進んでいないようだし、一度こちらに意識を引き戻した方がいい気がする。
 じっとレイフィード叔父さんを心配と共に見つめていると、私の視線に気付いたのかやっと叔父さんの視線が動いた。

「あ、ユキちゃん。どうしたの? 」

「いえ、あの、……外を見ていたから、どうしたのかなって思って……」

 窺うように訊ねると、レイフィード叔父さんは表情を和らげて苦笑を漏らした。

「ごめんね。僕の事を心配してくれたんだよね、ユキちゃん」

「叔父さんが、なんだか難しい顔をしていたので……気になってしまったんです」

 景色にではなく、その意識はどこに向かっていたのか……。
 イリューヴェルの第三皇子様が遊学に来るとわかってからは、レイフィード叔父さんの気配がどこかピリピリしているというか、時々考え事をしているように見えた。
 私やレイル君、お父さんや皆で励ましたあの日は元気になってくれていたのに、また何か新しい問題でも出て来たのか、少し不安になってしまうのだ。

「ユキちゃんは本当に優しい子だね。叔父さん、とっても嬉しいよ。……実はね、気配を探っていたんだよ」

「気配……ですか?」

「そう。一応下準備はしてあるけど……、そろそろ来る頃じゃないかと思ってね」

「もしかして……、イリューヴェルの第三皇子様の事ですか?」

 レイフィード叔父さんから話を聞かされて、数日が経過した。
 遥か北の大国から来るという話だったから、結構な日数がかかるのではと思っていたのだけど……。

「イリューヴェル皇国は、竜の国だからね。竜型になればあっという間に飛んで来る事が出来る。案の定、少し前にウォルヴァンシア国内に竜の気配が入ったのは感知したんだけどね」

「じゃあ、もう近くに……?」

「……」

 レイフィード叔父さんが口許に手を当て、まだ何か気にしている事があるのか視線をテーブルへと落とした。国内にはもう入っているというイリューヴェル皇国の第三皇子様。
 彼は今……どこにいるのだろうか。

「ごめんね。ユキちゃんは何も心配しなくてもいいから。政務が終わったら、叔父さんが正確な居所を突き止めておくからね」

「はい……」

 正直、ルディーさんの話で聞いたイリューヴェルの第三皇子様に対しての不安と怯えは心の中に在る。レイフィード叔父さんや皆が傍にいてくれるから、危険な目には遭わないと信じているのだけど……。国内に入っているという事は、近日中にはこの王宮に現れるかもしれないという事だ。

(なんだか……、怖い)

 事前情報が濃すぎて、心が会う事を拒んでいる。
 出来れば、会わずに一ヶ月を過ごせればそれに越した事はないのだけれど……。
 やっぱり、皇子様相手に挨拶なしっていうのは、失礼だよね。
 となると……、初対面の挨拶だけ、どうにか気を張って頑張って、あとは会わないように行動範囲を調べて、どうにか一ヶ月を乗り切るしかないよね。

「幸希、リラックスよ~」

「お母さん?」

 憂鬱気分で食事を進めていた私の膝に、ポンポンとお母さんの手の温もりが触れた。
 右側に振り向けば、お母さんが笑みを浮かべて私を見ている。

「この王宮には、頼りになる人がたくさんいるのよ? 何が来ようと、怖がる必要なんてどこにもないわ。リラックス、リラックス~。……ね?」

 茶目っ気を含んだ笑み、安心させるように穏やかで明るい声音。
 そういえば、幼い時にも自分にとって怖い事が待っている前の日にも、こうやってお母さんが宥めてくれたっけ。自分にとって怖いと思う存在は、自分の殻に籠って怖い怖いと思い続ければ、どんどん恐ろしい物へと膨らんでいく。
 お母さんは幼かった私に、身振り手振りを使ってそう教えてくれた。
 自分の心の持ちようで、いくらでも怖い物を小さくする事は出来る。
 だから、最初から怖がるのは損な事だと……、お母さんは笑顔で私の頭を撫でながら諭してくれた。

「お母さん、……ありがとう」

「ふふ、色々と警戒するのも大事だけれど、肩の力を抜くのも大切よ」

「うん!」

 イリューヴェルの第三皇子様に対して抱いていた、怖いという思いが心の中ですぅっと薄らいでいく。確かに、事前情報ではとんでもない人だけど、この王宮には私を支えてくれるたくさんの人達がいる。まだ会った事のない人を、必要以上に恐れても意味はないんだから、もっと心を強く持とう。
 怖がって萎縮するよりは、その方が絶対に色々上手くいきそうな気がする。
 お母さんのお蔭で元気を取り戻した私は、料理長さんの美味しいご飯を心行くまで味わう事が出来たのだった。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 朝の勉強を終えた私は、アレクさんにある相談をしようと思い騎士団を訪れていた。
 団員さん達の気合の入った掛け声を聞きながら、アレクさんの姿をキョロキョロと探す。

「あれ? ユキ姫様じゃないですか~!! どうしたんですか? もしかして、俺達の稽古の応援に来てくれたとかっ」

 私の姿に気付いた団員さんの一人が、満面の笑みを浮かべて近寄ってくる。
 その声に、他の団員さん達もわらわらと集まり始め、アレクさんの姿を探そうにも周りに壁が出来てしまった。歓迎してくれるのは嬉しいのだけど、ど、どうしようっ。肝心のアレクさんを探せないっ。

「す、すみませんっ。今日は、アレクさんに用事があるんです!」

「ユキ……?」

 大声を上げてそう伝えると、人壁の向こうからアレクさんの声が聞こえた。
 団員さん達が左右に分れると、その間を通ってアレクさんが私の許へと歩いてくる。
 良かった、一時はどうなる事かと思ったけれど、ちゃんと会う事が出来た。

「何か俺に用事があったのか?」

「アレクさん、今って、お時間頂く事は出来ますか?」

 時々、この時間帯に私の部屋を訪れる事もあったアレクさんだから、
 もしかしたら、今の時間なら相談に乗って貰えるかなと思って来たのだけど……。
 団員さん達が騒いでいた事といい、稽古中だったらしい。
 一応時間を貰えるか聞いてみたものの、邪魔になるだろうし一度出直した方がいい気もする。
 だけど、アレクさんは迷うことなく「構わない」と答えて、団員さん達に指示を出し始めた。

「お前達、俺が戻るまで、自主稽古を行っていてくれ」

「え? アレクさん、いいんですか」

「ユキがせっかく訪ねて来てくれたんだ。団員達は自主稽古でも問題はないからな。気にするな」

「ありがとうございます」

 いつも私を気遣ってくれる優しい笑みにお礼を言って、アレクさんと一緒に騎士団を出ようとすると、私達の背後で、ひそひそと団員さん達の内緒話が聞こえてきた。

「なぁ、今の見たか……!?」

「あぁ、……笑って……たよな、副団長!!」

「いつも真面目顔なのに、なんだ、あの女にモテそうな笑顔!!」

「あれかっ、ユキ姫様はやっぱり特別なのか!!」

 意外過ぎるものを見た! と小声で騒ぐ団員さん達の声は、勿論私の隣にいるアレクさんにも筒抜けだ。くるりと団員さん達に振り返り、大股で歩み寄った瞬間、――アレクさんの抜身の剣が、団員さん達に突き付けられていた。
 え? ちょっと待って……。いつ鞘から剣を抜いたの!? そして、なんで団員さん達に、切っ先を向けているの!?

「お前達、……自主稽古に追加メニューを言い渡す。素振り千回と、ウォルヴァンシアの城下町の外にある城壁周りを十週……。通常のメニューと併せて行っておけ」

「「「無茶振りキタアアアアアアアアア!!」」」

「副団長~!! 酷過ぎでしょ~!!」

「俺達が何をしたって言うんだ~!!」

「団長に言い付けてやりますからね~!!」

 いきなりの地獄の追加メニューに、団員さん達は心底青ざめた顔つきで悲鳴を上げ始めた。
 聞いていた私も、さすがにそれは逞しい騎士団の皆さんでも辛すぎるに違いないと同情を覚えてしまう。だけど、アレクさんはスタスタとこっちに戻って来て、「ユキ、行こう」と私の肩を抱いて歩き始めてしまった。
 背後では、団員さん達の悲鳴が大ボリュームで響き渡っているんだけど……、本当に、いいのかな? 私が騎士団を訪ねた事で、団員の皆さんに可哀相な事をしてしまった気がするっ。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 暫く歩き続け、私はアレクさんと共に憩いの庭園へとやってきた。
 花々の奏でる心地よい音色が、私達を歓迎するように東屋へと誘う。
 中に入り、ぐるっと下半月を描くように配置されているソファーに、アレクさんが座るように私を促す。

「ここなら、ゆっくり話せるだろう。何かあったのか?」

「はい、実は、少し前から考えていた事がありまして……」

 私は、ゆっくりと言葉を選びながら、相談内容をアレクさんに聞いてもらい始めた。
 この異世界エリュセードに、ウォルヴァンシアで暮らすようになって、もう三ヶ月が経つ。
 お父さんやお母さん、王宮の皆さんに、この国での生活の仕方やルールを教えてもらって、なんとかやってこれた三ヶ月。本当に皆さんにはたくさんお世話になっている。
 その中でも、……特にレイフィード叔父さんには溢れんばかりに愛情と気遣いを貰っていると言えるだろう。私達家族の帰還を、心から喜んで歓迎してくれたレイフィード叔父さん。
 本当に何から何まで、尽くし過ぎるほどに私達に惜しみない愛情を向けてくれた叔父さんに、私は返しきれないご恩を、どうやって感謝の気持ちと共に伝えればいいかを悩んでいた。

「それに、最近はイリューヴェルの第三皇子様の件で、叔父さんも色々悩んだりお疲れみたいですし……」

 私やレイル君達の励ましで、一度は元気にノリノリになって復活していたレイフィード叔父さんだけど、やっぱり、ここ数日間の気の張り方や、何かを考えているような難しい顔をしている様子が気になっていた。私達を心配させないように、元気になったフリをしていたんじゃないかって、そう思えてしまって……。

「何か、レイフィード叔父さんを喜ばせる事をしたいなって思ってるんです。今までのお礼と感謝の気持ちを伝える意味合いと、少しでも叔父さんの疲れを癒せたらなって」

「お前のその気持ちを陛下が聞かれたら、泣いて喜ばれるだろうな……」

「でも、肝心のお礼の中身をどうしようかと悩んでいて……」

「お前がいつも元気で笑顔でいてくれる事が、陛下の喜びに繋がると俺は思うぞ?
 あの方は、自分の愛する者達に無償の愛を与える御方だからな。見返りも何も期待はしていない。ただ、愛する者が笑顔であればいいと、そんな風に考えられる御方だ」

「はい。レイフィード叔父さんは本当に優しい人です。だけど、やっぱり何か形にして感謝の気持ちを伝えたいって思うんですよね」

 言葉だけじゃなくて、レイフィードの叔父さんの心に残る物を贈りたい。
 アレクさんにそう伝えると、頭を撫でられて「ユキはいい子だな」と微笑まれた。
 ルディーさんに撫でられた時もそうだったけど、アレクさんの手のひらの感触にも、とても安心感を覚える。アレクさんは、この異世界に来て初めて出来た友人で、私を気遣ってくれる優しい人。
 狼さんの姿の時から、その優しい眼差しで私を見守ってくれる、お兄さんのようにも感じられる存在だ。この温もりを感じていると、心の中の不安も溶け消えていく気がするから……。

「俺には、贈り物に関する適切な助言は上手く出来ないが、ユキが気持ちを込めて贈った物なら、陛下にとっては至上の宝になるだろう」

「アレクさん……。はい、ありがとうございます。私、レイフィード叔父さんに喜んでもらえるように、もう少し考えてみます」

「あまり根を詰めないようにな? お前は真面目なところがあるから、俺としては少々心配だ。もし何か手伝える事があれば、俺はいつでもお前の力になるから、無理をせずに頼ってくれ」

「はい! その時はお願いしますね!! ……あ、そうだ。あの、アレクさん、さっきの団員さん達の事なんですけど」

「どうした?」

「あの自主稽古の追加メニュー、さすがに可哀想ですよ。私が稽古を邪魔する形でアレクさんに時間を頂いたんですから、団員さん達の追加メニュー、取り消してあげてください」

 アレクさんの手を握ってそうお願いすると、複雑そうな顔をして黙り込んでしまったので、私はもう一度「お願いします!」と身を乗り出してお願いしてみた。

「……ユキが、そう言うなら……仕方ない」

「本当ですか!? 良かった~。私のせいで団員さん達が辛い目に遭うなんて耐えられませんから」

追加メニュー取り消しの言質を取れた私は、嬉々としてアレクさんにお礼を言った。
これで、団員さん達も本来の平穏な一日を取り戻せる。

「それじゃあ、私そろそろ行きますね。貴重なお時間、本当にありがとうございました!」

「いや、俺もお前が頼ってくれて嬉しかった。また何かあれば呼んでほしい」

 アレクさんと憩いの庭園の入り口で別れた私は、レイフィード叔父さんへの贈り物の案を考える為に、ウォルヴァンシア王宮内にヒントがないかと歩き出した。
 けれど、この行動が……後(のち)に最悪の出来事を引き起こす事を、私は知る由もなかった。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 ウォルヴァンシア王宮の北東付近に位置する一角に、まだ行った事のなかった場所があった。
 メイドのリィーナさんが教えてくれた、もうひとつの王宮図書館。
 それは、王宮から行く事の出来る小さな森を抜けた先にある建物で、神秘的な雰囲気の漂う小さな図書館だった。小鳥達の囀る声を聞きながら、森の木々の合間から差し込む陽光に照らされた図書館の扉のノブに手をかける。
 古びた扉が、鈍い音を立てながら中へと向かって開いていく。
 足を踏み入れた瞬間、扉と同様に足元が軋んだ脆い音を立てた。

「ここが……、もうひとつの図書館」

 王宮の二階にも、立派な広い図書館がある。
 だけど、今日の私の気分はリィーナさんの勧めてくれたこの図書館に向いた。
 まだ行った事のない場所を訪れる楽しみに惹かれたのもあるかもしれない。
 図書館の中を見上げると、天井は吹き抜けになっており、上空から降り注ぐ光の恩恵を受けて館内を照らし出していた。
 薄暗いのに怖くない……。差し込む光の柔らかさが、この図書館を温かみのある場所だと私の心に印象付けている。
 ゆっくりと奥へと進むと、大きな背の高い本棚が立ち並び、様々な書籍が収まっていた。
 異世界に来て三ヶ月、文字の読み書きは少しだけど上達している。

「私に読めそうで、尚且つレイフィード叔父さんへの贈り物のヒントになりそうな本は……」

 その時、見上げた視線の先に、『花の図鑑』と書かれた本があった。
 花……。レイフィード叔父さんなら、綺麗な物も好きそうだから、何か叔父さんのイメージに合った花がないか見つけてみるのもありかもしれない。
 私はその本を取ろうと、ぐっと背を伸ばして手を上げたけれど、生憎と身長が足りなかった。
 図書館なら、高い所にある本を取る為の脚立か補助具があるはずだ。
 私は、館内を回りながらそれを探す事にした。

「どこかなぁ……」

 本棚の向こう側とか……かな。
 もう少し奥に入っていくと、徐々に光が届かなくなり図書館の一番奥まで来てしまった。
 行き止まり……。横には行けるようだけど……。
 左の方に行ってみようかと足を向けた私は、次の瞬間、何か硬い物に躓いて一気に前へと倒れ込んでしまった。

「きゃあっ!!」

「――っ!!」

 床に衝突してしまうかと思ったものの、倒れ込んだ先は……何か温かい感触のする場所だった。
 私の右腕を、意図を持った力強い手がしっかりと掴む。
 それが、人の手の感触だと気付くのに十秒ほど……。
 さらに、自分が身を倒して触れているのは……、誰かの身体の上だと気付くのに、さらに十秒。
 ま……、まさか……。そんな思いで暗闇の中、目を凝らした先にいたのは……。

「誰だ、お前……」

 寝起きと思われる気だるげな掠れ気味の低音が、私の耳に飛び込んでくる。
 それが、男性の声なのだと認識した時にはもう遅く、私は男性と至近距離で見つめ合う体勢になっていた。徐々に慣れてきた闇の中の視界、男性の周囲に淡い光の球体が浮かび上がる。
 それに照らされて露わになったのは、――魔性とも呼ぶべき、魅惑的な青年の顔。
 格好良いとか、そういう次元じゃない。囚われたら最後、抜け出せない危険な色香を感じさせる美だった。

「結構可愛い顔してるな……」

「え……」

 私を見つめる真紅の瞳が、妖しい光を湛え、口許に笑みを浮かべる。
 背中に回された腕が、一気に私の視界を反転させ、お互いの位置を入れ替えた。
 いつの間にか、私の背には床の感触……。見上げた先には、青年の愉しそうな表情が見えた。

「あ、あのっ、何するんですか!!」

「お前、自分が押し倒されてる自覚ないのか? この態勢で、やる事と言えば……ひとつしかないだろ?」

「な、何言って!!」

「せっかく気持ちよく昼寝をしてたんだ……。勝手に起こしておいて、責任取らないわけないよな?」

 私の顔に、青年の背中より少し長いクセのある漆黒の髪がさらりと触れる距離に落ちてくる。
 責任がどうのと言われているけれど、私はただ図書館に調べ物に来ただけで、昼間から寝ているような人に、こんな事をされる覚えはない。

「いやっ、離してください!!」

 本気で抵抗の意志を見せて、私は逃げる為に必死で暴れた。
 けれど、青年は愉しそうに笑みを深めるばかりで動じる気配もない。
 私の両手首を男性特有の強い力で押さえ付け、首筋にその唇が軽く吸い付いた。

「んっ……いやぁっ」

「良い匂いがするな、お前……」

 耳元に唇が寄せられ、掠れた低い声が鼓膜を嬲るように熱のこもった囁きを落とす。
 嫌だ……っ、嫌だ……!! 怖くてたまらない!!
 だけど、今この場所にいるのは、この青年と私だけで……。
 力では到底敵わない、隙を突いて逃げる事さえ難しい。

(どうしたら……っ!)

 どろどろとした恐怖が身体中に広がって、思考さえも正常に働かなくなりそうだ。
 助けて……、助けて……、誰か、誰か……!!
 心の中で絶叫にも似た叫び声を上げた時、私はあるひとつの記憶を思い出した。
 それは、レイフィード叔父さんが教えてくれた……自分の身を守る方法。

(確か……、詠唱は……)

 叔父さんが、もしもの時にと私に教えてくれた緊急時用の術。
 何かあった時、周りに助けを求められない状況になった時に……。

『ユキちゃん、不埒な輩に遠慮はいらないからね。遠慮なく、術を相手に向かって叩き付けてやりなさい』

(レイフィード叔父さん!!)

 私は意を決して、自由になっている口を小さく動かして詠唱を始めた。
 成功するかはわからない。だけど、もう他に方法がない!!
 レイフィード叔父さん、お願い、私に力を貸して……!!

「ん……、どうした。急に大人しく……」

 詠唱に集中し始めた私に、青年が顔を覗き込むように真紅の瞳を向けた瞬間、

「――ぐっ!!」

 術が正常に発動し、青年の身体全体に強い電撃のようなものが流れ始めた!
 青年が苦痛に顔を歪め、ロングスカートの中に差し入れていた手をどけて後ろに下がる。
 目にも見えるぐらいの電撃の光が、青年の動きを封じ込めるように身体を戒めていく。

「くそっ……、なんだ……っ」

 その隙に、私は恐怖で震える身体を叱咤して起き上がった。
 今しかない……。早く逃げないと……!!
 青年に背を向け、私は本棚の間を一生懸命足を動かして出口へと向かう。

(急がなきゃ……っ!!)

 足下がぐらつくのを必死に支えながら、入って来た時と同じように扉を軋ませて外へと身を逃がした。
 まだ……駄目。ここじゃ安心できない……。
 青年が追いかけて来ないように祈りながら、私は王宮の中へと助けを求めるようにビクビクと震える足をどうにか動かして急いだ。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 ―― Side ???

  くそっ……。最悪の寝覚めだ……。
  壁に身を預け、身体中を戒める強い痺れを打ち消す為に詠唱を行う。
  気乗りしねぇ遊学にわざわざ来てやったっていうのに、酷い目に遭ったもんだ。
  数日前にウォルヴァンシアの郊外に辿り着いて、適当に町で遊び歩いて王都までやってきた。
  別に、いつ到着するかは伝えてなかったしな。
  先に王宮の中に忍び込んで、中の様子を見てまわろうと思った矢先に、この古びた図書館を見つけた。隠れて昼寝するには丁度良い場所で、暗く静かな雰囲気に誘われるまま、
  俺は旅の疲れを癒す意味も含めて眠り込んだ。
  しかし……、さっきの変な女のせいで全てが台無しになったと言えるだろう。
  気付けば上に乗っかられ、安眠を邪魔された鬱憤を晴らす為にからかいついでに相手をしてやろうと思ったら、

「術を使ってくるとはな……、酷ぇ女」

  強力な電撃を身体に流し込んでくるとは、正直予想外だった。
  何も出来なさそうな、大人しい女に見えたからな。
  まだ暫くはここで休んでいくしかないだろう。
  あの女が刻み付けた痛みと痺れに自嘲の笑みを零した俺は、礼は何がいいだろうかと考え始める。
  王宮内にいて、しかし、恰好がメイドのそれじゃない奴。
  覚えている服の生地の感触とデザインから考えると……、貴族の娘か?
  いや……、温室育ちの貴族娘が、のこのこと一人で出歩くわけもないか。
  じゃあ……、あれは一体誰だ?

「……ん?」

  ちらりと横に目を向けた俺は、ある事に気付いた。
  手の届く場所に、白色の刺繍入りのハンカチが落ちている。
  痺れが支配する腕を伸ばしてそれを引き寄せると、あの女と同じ匂いを感じた。

「これも……、上質のもんだよなぁ」

  一般庶民でもありえない。かといって、貴族の娘にしては違和感があった。
 だが、王宮の住人であるのは確かだと言えるだろう。
  肩までの黒髪の女……。顔と気配は覚えているから、あとでゆっくりと探してやるか。
  俺は身を横たえると、自分をこんな目に遭わせた女の顔を思い浮かべながら笑みを浮かべた。
  次は俺の番だぜ? お前がくれた痛みの分だけ、礼はしっかりと刻み込んでやる。
  これから狩る獲物に思いを馳せながら、俺は真紅の双眸を瞼の奥に閉じ込め眠りへと落ちていった。
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