上 下
292 / 314
第六章・アレク×幸希編~蒼銀の誓いと咲き誇る騎士の花~

騎士の実家にて

しおりを挟む

 ――Side 幸希



「モンモ~! モォ……、モォ~」

「んっ、……こう、かな」

 もにゅっとした感触のお乳を慎重に動かし、交互に搾っていく。
 幼い頃に何度か体験した事のある作業だけど、う~ん……、やっぱり、難しい。
 青々とした牧草地の真ん中で、私は牛に似た生き物であるモンモーのお乳と睨めっこをするような顔で唸り続ける。

「ユキ……、力が入っていない。もう少し強くやっていい」

「そ、そうですか? う~ん……、えいっ」

「モンモォ~」

 私の隣に腰を屈めながらアドバイスをくれたアレクさんの言う通りにしてみると、お乳の下にスタンバイしていた専用の大きな容器へと、勢いよく白いミルクが飛び出した。
 
『そう、上手よ。その調子で頑張ってちょうだ~い』

 ご機嫌な様子でもっふりとした大きな尻尾を揺らし、麗しいマダムボイスで私を褒めてくれたのは、このモンモーだ。アレクさんと二人で彼女の顔を見ると、パチンっと励ましのウインクを貰った。
 地上の民だと、自分達と同系統の動物以外には術を使わないと言語の意思疎通が出来ないけれど、神として目覚めた者にとって、その煩わしさはない。
 だけど……。

「お色気ムンムンな方ですね……」

 声も艶のあるものだけど、何というか……、このモンモーは全体的に、外国人美女を思わせる気配を放っているのだ。歩くだけで異性を惹きつける魅力に溢れているモンモー……、恐るべし。

「動物にも個性というものがあるからな……。彼女は、子モンモーだった頃からこんな感じなんだ」

 それは凄い! 生まれながらのマダム・モンモーだった!!
 しかも、その名がヴィオラディーヌ。エリュセードに咲く、豪華な大輪の華と同じ名前だ。
 
『御機嫌よう。あら、今日は可愛いお嬢さんに搾って貰ってるのね。後で私もお願いしようかしら』

『ほほほっ、御機嫌よう。この子、筋が良いから期待できるわよ。それじゃ、また後でね。レディーナ』

『ええ、また』

 ……のどかな牧場なのに、会話と雰囲気が某麗しの宮廷仕様なのは何故!?
 モンモー達の上流階級さながらの様子に吃驚しながら動きを止めていた私は、アレクさんに肩を叩かれてようやく我に返る事が出来た。
 アレクさんが自分の口元に緩く握っている手を触れさせ、笑いを堪え切れない様に小さな音を漏らしている。

「俺の家族にとっては慣れ親しんでいる日常だが、見るのも、体験してみるのも、面白いだろう?」

 アレクさんのご家族がやっているこの牧場は、街中の賑わいから離れた場所にある。
 大通りの奥、その先から続くなだらかな坂道。
 活気に溢れた市場の声が遠ざかり、上って行く内に覚えるのは、ざわついていた感覚を洗い流すかのように訪れる、心地良い安らぎの気配。時の流れが、ゆっくりと……、見える世界を変えてゆくかのようだった。
 清々しい空気と、頭上に広がる真っ青で美しい天蓋に見守られながら、柵の中でのんびりと過ごしているモンモーや他の動物達。
 世界の危機とは無縁のように日常を送っているその世界は、願われるまでもなく、何もかもを忘れさせてくれるほどに、温かく、優しい楽園だった。
 微笑みながら頷くと、アレクさんが乳搾りを再開しようとする私の両手を大きな感触で包み込んだ。

「ユキ、今度は一緒にやってみよう」

「は、はい……っ」

 男の人の頼もしさを感じられる温もりと、耳元に顔を寄せてきたアレクさんの楽しそうな囁きに、見えない場所で、私の鼓動がトクンッと跳ねる。
 ただの、乳搾りのアドバイスと手伝いをしてくれているだけなのに……、やっぱり、私はおかしい。
 アレクさんが傍にいる、触れてくれている……と、そう思うと、彼の温もりを感じていると……、どうしようもなく、胸の高鳴りを覚える自分がいて。
 これが、少女期の過剰反応だと考える自分と、確かな変化の強まりだと感じる自分がぶつかり合う。
 アレクさんの教えに従って手を動かしていた私は、……恐る恐る、こっそりと視線を横に流してみた。
 彼の顔は相変わらず近く、私達の手元を見つめているその蒼は、どんな時でも力強く頼もしい輝きを秘めている。天上にいた頃も……、このエリュセードに戻って来てからも、私を守り続けてくれる……、優しい人。
 変わる事のない、アレクさんの思い遣りと……、与えられる愛情に返せるものは、何もない。
 それどころか……、最後には、償いきれない程の痛みと傷を、私はアレクさんに背負わせてしまうのだ。

「俺の家族は、父さんが騎士団を辞めて暫くの間は王都に住んでいたんだがな……。気付いたら、俺の知らぬ間に何度も引っ越しを繰り返していた」

「そ、そうなんですか」

「あぁ。その度に帰る町が変わって……、時には、他国にまで馬を走らせる羽目になった事もある。十年程前に、この町で牧場を始めると言って落ち着いてくれたお陰で、今は安心しているんだが」

 元々、旅が好きなアレクさんのお母さんが、引っ越しの原因だったらしい。
 旦那様が騎士団を辞めたのなら、もう王都に留まっている必要もないだろうと考え、その考えに賛同したアレクさんの弟妹さん達も一緒に盛り上がり、各地を転々とする引っ越し祭りが始まった、と。
 時には引っ越した事実を知らず、家族がいたはずの町に辿り着いてみると……。
 別の人が住んでいたり、空き家になっていたりとしたハプニングもあったとか。
 困った思い出を語ってくれたアレクさんだったけど、その声に滲むのは微笑ましさを抱く懐かしさだ。
 アレクさんのお母さんとは私が幼い頃に何度か会った事があって、今日一緒に付いてくる形になってしまった私に動揺する事なく、嬉しそうに迎え入れてくれた。勿論、アレクさんの弟妹さん達も一緒に。
 女性言葉よりも男性寄りの言葉遣いを使うアレクさんのお母さんは、一言でいえば、姐さん女房の気質がある人だと思う。アレクさんのお父さんが騎士としての心構えや私との距離感についてお説教をしている時も、問答無用で自分の旦那様を叱りつけ、助け船を出してくれた。
 そのお陰で、こうやって触れ合っていても、アレクさんのお父さんが怒鳴り込んでくる事はない。

「だが……、母さんが望めば、また別の場所に引っ越す事になるだろう。その土地の事は、住んでみなければわからないと言い張る人だからな」

「有言実行型のお母様なんですね。……あ、そうなった場合、この牧場はどうするんですか?」

「人に代理で任せるか、牧場ごと譲り渡すか、だな」

「……そうなると、この子達が寂しがりますね。一緒に付いて行きたいと、そう思うでしょうし……」

 アレクさんのご家族と、この牧場の子達は家族同然のはずだ。
 術を使えば会話も出来るし、毎日顔を合わせて暮らしを共にしている。
 アレクさんのお母さんだって、牧場の事を楽しそうに話してくれていたから、きっとあの子達を手放す事はしないはず。そう、信じたいのだけど……。
 

「……そう、だな。共に在りたいと、そう思うのは当然の事だろう。俺も……、同じだ」

 アレクさんの手の動きが止まり、擽るような感覚が私の指を撫で始めた。
 寂しそうな、切なそうな吐息が耳の奥へと沁み込んでくる。

「愛する者に残されて……、置き去りにされる未来は、……辛い」

 牧場の子達の事を想っての事なのか、それとも……。
 向けられた双眸の揺らめきに、葛藤の気配を秘めたその蒼に……、また、胸の奥で抑えきれない何かが疼く。
 余計な事を口にしてしまったと気付いた私は、すぐに視線を逸らして前を見た。

「で、でもっ、こんなに可愛い子達がいるんですから、きっと大丈夫ですよね? アレクさんのお母さんも、旅に出たいとか、言ってませんでしたしっ」

「……多分、な。まぁ、その場合は、母さんが一人で旅行に出る可能性が出てくるわけだが……。母さんの不在が起こると、父さんが寂しがって面倒な落ち込み方をするんだ。その場合、弟妹達が苦労する」

「そ、そうなんですか……っ。た、大変、ですね」

 三日間の約束。互いに、何もかもを忘れて、ただの幸希とアレクディースとして過ごす。
 その通りに、アレクさんは私に逃げ道を作ってくれた。
 今の私と彼に、神々の世界の話は……、関係ないと。改めてその心を示すかのように。
 その後は、お互いに黙ったまま、静かにモンモーのミルクを搾り続けた。
 気まずさを抱きながらも、心地良く感じられるその温もりに……、身を委ねて。
 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「アレク兄さ~ん! ユキさ~ん!!」

 必要な量のミルクを搾り終えた頃、元気な声が柵の外から聞こえてきた。
 銀の長い髪を揺らし、放牧スペースへと走ってくるロングスカートの女性。
 勝気な瞳が印象的なその人の名は、シャルフィアさん。
 アレクさんの妹さんで……、あ!!

「もうすぐ、おひ、――ぎゃぁあああんっ!!!!」

「シャル……、いつも通りだな」

「だ、大丈夫ですか!? シャルフィアさんっ!!」

 勢いをつけて柵を飛び越えようとした彼女に起こった悲劇!!
 飛ぶ寸前に足を柵の一部に引っ掛けてしまったシャルフィアさんが、そのまま牧草サイドに顔面からズサァアアッ!! と……、まるで、ギャグ漫画のような体(てい)で飛び転んでしまった!!
 さらに、転倒してしまった彼女の背中を、もっふりとしたまぁるいい大きな鳥類がドシドシ! と、踏み越えていく始末。あぁっ、何という負の連鎖っ!!
 大急ぎで彼女の許に駆け寄ると、シャルフィアさんがピクピクと指先を震わせながら呻く声が聞こえた。

「うぅ~っ、アイツら……、後で、ぶ、ぶっ飛ばすっ、――うぐぅうっ!!」

「ピィイイッ!」

 と、トドメ……、のように、今度は空からさっきの鳥より一回りは大きい子がシャルフィアさんの背中にどっしりとダイブしてしまった。

「シャル……、一日に必ず一度はドジな目に遭うのが、お前の運命だ。諦めろ」

「あ、アレクさん……、何てことをっ」

 突っ伏している妹さんの頭を大きな手のひらで撫で、起きるのを手伝い始めたアレクさんの無慈悲な言葉。
 それにショックを受けたのか、シャルフィナさんが泣き出しそうな顔を怒りの気配に変え、アレクさんの顎目がけて容赦なく頭突きを以って報復に転じた! い、痛そう……っ。

「ぐっ……」

「ふんっ!! こんなのっ、運命なんて言わないんだから!! ちょ、ちょっと転んだだけだし!!」

「……ちょっと、か」

「何よその目はぁああああっ!! む、昔よりは被害の度合いが減ってるんだから、進歩してるでしょうが!!」

 シャルフィアさん……、さっきのも十分に酷い不運だと思いますよ~……。
 むしろ、あれよりも凄い不運なドジって一体……?
 
「アレクさん、少しは妹さんの事を心配しましょうよ」

「そ、そうよそうよ!! 最初に優しく大丈夫か? って、そう聞くのが兄の見本でしょうが!!」

「大丈夫だ。お前は図太い。どこもかしこも……、ぐっ!!」

 アレクさんにしては珍しい、デリカシーのない発言。
 女性に対してそういう事を言うと大抵は睨まれるか怒鳴られるか……、と思ったら。
 シャルフィアさんの力強い右ストレートが彼の顎裏へと鮮やかに繰り出され、

「アレクさぁあああああんっ!!」

 宙へと舞い、ドシャリと牧草地に叩き付けられたアレクさんの身体。
 これがカインさんだったら自業自得だとスッキリ気分を味わえたのだろうけれど……。
 今回はそれがアレクさんだっただけに、何とも複雑な気分になってしまう。
 何というか、こうなる事がわかっていて、わざと怒らせた……、そんな印象があるのだ。
 その証拠に、怒涛の勢いで罵声を浴びせるシャルフィナさんを倒れ込んだ状態で眺めながら、アレクさんが満足そうに微笑む様子が見えた。
 
「女の子の心は砂糖菓子よりも甘くて繊細なのよ!! 少しはデリカシーを持ちなさい!! デリカシーをっ!! ……まさかと思うけど、ユキさんにも同じような事をしてるんじゃないでしょうね?」

 ギロリ……!!
 怒れるシャルフィアさんの背後に巨大な狼の姿を目撃し、ぞぞぞっ!! と震え上がった私とは逆に、アレクさんは何のダメージも受けていないかのように立ち上がり、首を横に振った。

「俺は……、ユキにそんな仕打ちをする事は、死んでも出来な、――ぐっ!!」

 あぁ、今度は鳩尾に荒ぶる鉄拳が……!!
 確かに怒る気持ちはわかるけれど、シャルフィアさんのこれは……、多分、お父さんの血のせいなのだろう。
 蹲るアレクさんを冷ややかに見下ろすその瞳に宿る気配がまるで同じ。間違いない、遺伝だ!
 
「さてと、ユキさん、昼食の支度が出来たから、家にどうぞ。あ、そっちの馬鹿兄は放置でオッケーだから。牧草でも食べさせといて~」

「は、はぁ……、あ、ありがとう、ございます」

 今度は転ばずに柵を飛び越え、シャルフィアさんが颯爽と去っていく。
 さながら、敵との大激闘を終えた後の、戦士のような貫録を滲ませて……。
 
「ふぅ……」

「あ、アレクさん、大丈夫ですか?」

「元気な様子には安心するが……、やはりまだ、生温いな」

「え?」

「シャルの事だ。前に会った時から、あまり拳の威力が変わっていない……。あれでは、暴漢にでも襲われた時、上手く相手を沈められるかどうか……」

 はい? 神妙な顔でシャルフィアさんの背中を見送りながら呟くアレクさんに、私の頭の中で疑問符が発生する。暴漢者相手と、大事な家族に対する対応が違うのは当たり前なんじゃ……。

「「「ピィッ、ピィッ、ピィッ!」」」
 
 私とアレクさんの側を、一列に並んでいるまぁるい鳥達が暢気に通り過ぎていく。

「昔から言い聞かせているんだ。男相手に容赦はするな、攻撃する時は本気でやれ、と」

「……い、妹さんの攻撃力を計る為に、わざと怒らせているんですか?」

「兄として心配なんだ……」

 う~ん、私も……、天上で暮らしていた頃は、お父様とお兄様から戦闘訓練を受けていたものだけど……。
 そういえば、やり方は違うけれど、あの二人も私に同じ事をさせていたような気も?
 どこの家でも、娘や妹に対する男性家族の心配の情というものには、並々ならぬものがある模様。
 
「昼食が終わったら、久しぶりに鍛えてやる必要があるな……」

 そして、この迷いなき指導者の目。
 アレクさんはブツブツと呟きながら家の方に歩みだそうとし、けれど、すぐに私の方へと振り向いた。
 一歩、詰められた距離に落ち着かない鼓動の音を感じている私の手を掴み、険しげだった彼の表情が和らぐ。

「行こう。母さんとシャルがユキの為に腕を振るうと言っていた。いつもよりは、豪勢な昼食を期待出来そうだ」

 お屋敷、とまではいかないけれど、それなりに大きな作りの家から漂ってくる美味しそうな匂いに向かって、アレクさんはご機嫌な様子で私を引っ張って行く。
 朝着いた時には出掛けていた弟妹さん達も戻っているだろう、お前を紹介するのが楽しみだ、そう嬉しそうに語ってくれるアレクさんの顔を見上げながら、私も微笑む。
 王宮にいる時の彼でも、神としての彼でもない、私の知らなかった一面を、この人は見せてくれようとしている。妹さんへの、兄としての顔。ご両親を前にした時の息子さんとしての顔。
 これからの三日間、私はどれだけの、新しいこの人を見つける事が出来るだろうか。
 ……出来る事なら、もっと、もっと、アレクさんの事を知りたい。色んな表情を、見てみたい。
 胸の奥から込み上げてくるのは、好奇心にも似た、子供のようなわくわくとした気持ち。
 
「アレクさん……」

「ん?」

「……お昼も楽しみなんですけど、それが終わったら……、アレクさんのご家族の事や、幼い頃の事、とか、教えて貰えますか?」

「……あぁ、勿論、構わない。ただし、俺の恥ずかしい話に関してはなしで頼みたいところだが」

「ふふ、それも是非、お願いします」

 進んで冗談を言ったりするタイプじゃないのに、今日のアレクさんは、どこかお茶目な気配を漂わせている。
 妹さんをわざと怒らせたり、自分から過去の失敗談や恥ずかしい話を匂わせてみたり……。
 普段も心を開いてくれている人だけど、それよりも、もっと……、温かく砕けた印象が強く感じられるのだった。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「だぁああああああっ!! 離せぇええええええっ!! 離しやがれっ、クソがぁああああっ!!」

「はぁ~……。皇子さん、少しは大人になってくれよぉ……。皇子さんが押しかけて行ったら、あっちの家族が困るだろうが」

「んなの知るかぁああああっ!! 俺は行く!! ユキを、ユキを番犬野郎から取り戻ぉおおおすっ!!」

 王妃の部屋を後にし、息子達の様子を見に行こうと王宮内を歩いていた矢先。
 レイフィードは広い廊下の真ん中でその光景を目にしていた。
 騎士団の団長ルディーを筆頭に、何人かの騎士達がイリューヴェルの第三皇子を下敷きに奮闘している、その図を。

「ルディー、それと、君達もご苦労様。もういいよ、後は僕がその子に言い聞かせるから」

「だってよ。皇子さん、もう観念するんだな。俺達と違って、陛下の仕置きは怖ぇーぞ」

「ぐぐ……っ!!」

 今日の朝、騎士団のアレクディースがレイフィードの可愛い姪御を連れて行ってしまった事を知るのは、極一部の者だけだ。
 ルディーとロゼリアが報告してくるまでもなく、愛しい気配が王宮から消えた時点で、レイフィードにはある程度の察しがついていた。あの男なら、与えられた休息の時を無駄にせず、何らかの行動に出るだろう、と。
 止める事は可能だった。ユキを取り戻す事も……。
 だが、レイフィードは報告を受けても、アレクディース達を追わせるような命令は下さなかった。
 長い長い、古い記憶の底で……、大切な妹を傷付け、眠りに追いやる原因を作った相手。 
 憎み、殺したいとまで思った男だが……、それでも、レイフィードが想うのは、姪御であり妹でもあるユキの幸せだ。共に罰を受けよう。共に、終わりなき永遠(とわ)の業苦に身を委ねよう。
 そう、自分に言った少女の辛い運命を、レイフィードは受け入れていない。
 自分はシルフィールとユシィールの創造主だ。罰を受けるのは当然の事。
 だが、ユキに罪はない。あの子は、母親が災厄の女神となってから、天上の神々に心無い仕打ちを受け続け、それに耐え続けてきた。
 情を向けてくれる者達どころか、兄である自分の前でさえ泣こうとしなかった妹。
 信頼されていないとか、自分が想うほど、家族として愛されていなかったとか、そういうわけじゃなかった。
 あの子は……、ユキは、愛している者達相手だからこそ、その本心を見せられなかったのだ。
 泣いて弱気になっている姿を見せれば、心配させてしまう、迷惑をかけてしまう……、と、そう思っていたから。そんな妹が……、無理矢理にとはいえ、アレクディースの前で泣き顔を晒した。
 溜め込んできた弱さを吐き出し、辛かった頃の事を語った……。
 そう教えてくれたのは、神としての父、ソリュ・フェイトだ。
 
『娘が幸せになってくれるのなら、相手が誰であろうと構わん。ユキの弱さを受け止め、共に支え合い、歩んでくれる者ならば……。避けられぬ運命さえも、その想いで変えてくれると信じられるからな』

 ユキとレイフィードが辿る未来。
 十二の災厄のひとつを解き放ち、天上と地上に戦火をもたらした……、許されざる罪人。
 その責を、自分達が背負い、御柱によって裁かれる時は……、必ず、来る。
 だが、ソリュ・フェイトは、父は期待しているのだ。
 アレクディースの抱く、ユキへの想いが……、訪れるその時を、覆してくれるだろう、奇跡の瞬間を。

「ほら、カイン。僕と一緒にレイル君達の所でお茶でもしようじゃないか」

「ぐぇえっ!!」

 個人的には、色々と受け入れられない部分もある……、が、今だけはあの御柱を見逃してやろう。
 レイフィードはそんな複雑極まりない思いを抱えながら、竜の子の前に立ち、その首根っこを掴んで歩き始めた。勿論、苦痛と抗議で大暴れしようとする困った子なので、時折、その頭をベシベシと叩きながらの道だ。
 その後ろから、騎士団員達を解散させたルディーが駆け足で追ってくる。

「陛下……、ちょっと聞きたい事があるんで、一緒に行ってもいいですか?」

「ん~? あぁ、いいよ~」

 団長として多忙な日々を送っているルディーだが、仕事を抜け出してでも知りたい事があるとすれば……。
 突然、ユキを攫って王都を飛び出したアレクの事と……、一応は大雑把に話してある神々の事についてだろう。
 神として目覚めている者以外に与えられた情報には、不明確な部分が多い。
 たとえば、……ユキが眠りに就く原因となったのが、某二人のせいだったり。
『悪しき存在(モノ)』の件を引き起こしたのが、ユシィールではなく、シルフィールだった事や、先日の天上での件も……。彼らが知らない事は多い。
 レイフィード自身も、教えられる事に関しては打ち明けようと思っているが、……ユキと自分が辿るこれからの未来を語る気はない。勿論、某二人の恋愛トラブルで起きたあの晩の事も。

(どちらも、個人的な事情で怒りそうだしねぇ……)

 ルディーの場合は、御柱としての辛い責務を果たさなくてはならないアレクの方に同情してしまうだろうし。
 カインの場合は、アレクに対する憎悪の芽生えと、ユキを失うかもしれない恐怖に憑りつかれ、手がつけられないくらいに荒れるだろう事は目に見えている。
 そうなっては困る。エリュセードの危機を乗り越えてもいないのに、内側から混乱を引き起こすような事だけは。

(アレクの……、いや、アヴェルオードの生み出した子供の事もあるしねぇ……。誰かが負を抱え込みでもしたら、嬉々として付け込みにくるのが目に見えてる)

 特に、利用されやすいのはカインだ。
 ユキへの恋心の事もあり、アレクに先を越されていると本人も気付いているはずだ。
 初めて本気になった、唯ひとつの愛。
 どんな歴史の中でも、人の恋心や嫉妬は、奇跡と狂気を生み続けてきた。
 自分と妹が天上で眠りに就いたあの晩も……、それが原因だったのだから。
 だから、レイフィードは口にしない。アヴェルオードと、もう一人の神が犯した罪の事も。
 これからの、自分と妹の行き着く先に関しても。――あの時以上の悲劇を、二度と引き起こさない為に。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


「……父上、茶をしに来て下さったのはいいのですが」

「ん~? 何かなぁ?」

「ルディーはともかく、……そっちの二人が、あの」

 息子のレイルが政務を行っている執務室に足を運んだレイフィードが連れて来た、――同行者三名。
 大人しく壁の方に背を預けているルディーとは違い、ソファーに座っている残りの二人が問題だった。
 レイフィードの術によって動きを封じられ、爆発出来ない怒りを腹に抱え込んでいるカイン。
 そして……、どこかに出掛けようとしている現場を押さえられ、カインと同じく襟首を引き摺られてこの部屋へと連行されてきた……、王宮医師のルイヴェル。
 後者の方は動きを制限される術を掛けられてはいないが、メイドやレイルが威圧感を受けるような不機嫌全開の冷たい気配を放っている。

「あ~、気にしないでいいよ~。それよりも、身体の調子はどうかな? 何か不調が出たり、気になる事があったら、すぐに言ってね。レイル君」

「は、はぁ……。身体の方は大丈夫、なんですが……。呪いが解けた事によって元の形を取り戻したせいか、少年期の肉体とは少々勝手が違って……、まだ、慣れない感じがします」

 カインとルイヴェルの真ん中に腰を据えて笑顔を浮かべているレイフィードの目に映っているのは、以前のような少年期の姿の息子ではなく、立派に成長を遂げた大人の男性だ。
 外見の容姿はカインと同じく、二十代前半ほど。母親譲りの水銀髪の長い髪と、父親であるレイフィード似の、理知的な顔立ち。中世性的だった印象は残っているが、身体が大人のものへと変化した事で、しっかりと男性的な肉付きが服の上からでもわかるようになった。
 この執務室にはいない、もう三人の息子達も同じように、成熟期を迎えた大人の姿になっている。
 三つ子の方に関しては、呪いにより幼子となった瞬間に封じられていた当時の記憶も蘇り、精神的な戸惑いが大きいようだが、徐々に身体と今の状況に慣れていく事が出来るだろう。

「長かったからね……。本来の時間を奪われてから」

「俺はまだマシな方でしたよ。母上に関する記憶も、当時からの事も全て覚えていましたから。弟達は身体どころか、心と記憶まで子供になってしまって……。一時期は、永遠にこのままか、と、そう心配していましたから」

「うん……」

 神として、長寿の種族として考えれば、たかが三十年程の話だろう。
 だが、レイフィード達家族にとって、王妃ルフェルディーナが呪いを受けてから始まった日々は、あまりにも辛く、恐ろしいほどに長く感じられる時の流れの中にあったのだ。
 けれど、その悲しい日々も、終わりを告げた。王妃ルフェルディーナは彼らの許で目覚め、また、家族が笑顔で過ごせるようになった。幸せな、幸せな……、このひととき。
 
(でも、……次は僕がこの子を、愛する家族をおいていく)

 レイルにはまだ話していないが、近いうちに託さねばならないだろう。
 兄であるユーディスに後見役とサポートの役を頼み、レイルを新王として即位させる。
 
(僕が即位した時よりも遥かに若く、幼い……。だけど、ユーディス兄上や皆がこの子を支えてくれる)

 レイルは賢い。民を思い遣り、政務に関しても真面目で期待出来る器を持っている。
 いずれは……、国中から慕われる、尊き王になってくれる事だろう。
 
(ごめんね……、レイル君)

 息子は、父である自分を憎むだろうか。
 自分が歩む道を打ち明けた時、その顔に浮かぶ感情を想像すると……、らしくもなく、恐れを抱いてしまう。
 身勝手だと、勝手にいなくなる事など許さない、と、荒れてしまうだろうか。悲しませて、しまうのだろう。
 天上では得られなかった、愛する人との子供。
 何だかんだとお説教の多い息子だが、彼が自分を、この父を慕ってくれている事を、ちゃんと知っている。
 父上、父上、と、幼い頃は常にレイフィードの後を付いて来ていた息子との想い出を振り返りながら、レイフィードは俯いたその陰で、辛そうに瞼を閉じた。
 
(……ごめん)

 レイフィードが裏切ろうとしているのは、大切な家族だけではない。
 仕えてくれている者達や、友人達、そして、この国の民……。
 裁きを受ける事になり、罰が下されれば……、天上の神々は望むだろう。
 地上の器も、天上で眠っている神器も、……神花も、全て破壊してしまえ、と。
 本当は、自分やユキ達家族を疎み、災いそのものだと蔑む目で見ていた神々に掛けた迷惑など、どうでもいい。
 
(僕は……、ユキちゃんほど優しくはないから)

御柱や味方になってくれていた神々には申し訳なさを感じているが、レイフィードが一番重要視をしていたのは、当時、ディオノアードの鏡によってもたらされた戦火の被害者達。
 訳もわからず正体のわからない災厄を前に、散っていった……、地上の命。
 レイフィードは、その失われた命達の事を思うと……。
 憂い表情で顔を俯けた父の様子に、レイルも気付いたようだった。

「父上……?」

 低く落ち着いたその声に、レイフィードは一瞬遅れて笑みを浮かべ、テーブルに並べられている菓子の皿へと手を伸ばす。

「ん~! 料理長のお菓子は、今日も絶品だね~!!」

「おい……っ! 菓子食って上機嫌になってる場合じゃねぇだろうがよっ。――んぐっ!!」

 レイフィードの力を打ち破ろうと水面下で必死に奮闘していたカインだが、焼き立てのマドレーヌを口の中に突っ込まれ、今度は言葉まで封じられてしまった。
 幸希とアレクディースの現状に焦りを感じ、早く追いかけて割り込みたい気持ちはわかるのだが……。
 レイフィードには別の意味でカインをこの王宮に留めておく必要があった。

「さて、じゃあお茶でも飲みながら皆で仲良く、エリュセードの危機について話でもしようか」

「陛下、それ、全然楽しめない話題だと思うんですけど」

「うん。ぜんっぜん面白くも何ともない、最悪の話だからね~。だから、せめて気分だけでも前向きにしておきたいんだよ。料理長の甘いお菓子なら、それを可能にしてくれるだろう?」

 ソファーの近くへと寄って来たルディーがげんなりと眉を顰め、その手にパンケーキの一つを掴み上げる。
 いくらウォルヴァンシアの料理長が料理上手で、食べた物を一瞬で幸せのビッグウェーブに飲み込むとはいっても、……流石に、エリュセードに関わる重大事を前にしては、無理があるだろう。
 ルディーや他の者達の複雑そうな視線を受けて、レイフィードは苦笑を漏らす。

「う~ん、少しでも場の空気を明るいものにしたかったんだけどね~。まぁ、仕方ないか。それじゃ、今までに至る要点と流れの説明、そして、これからの事に関して――」

 まるで昔話を語るかのように、レイフィードは神々の世界で起こった事を打ち明けていく。
 勿論、幸希と二人の神によって起こされた悲劇と、自分と彼女が抱いている覚悟については巧みに水面下の奥へと隠し通した。……話を聞き終えた面々は、いや、ルイヴェルとレイフィード以外の顔色は悪い。
 まぁ、当たり前だろう。エリュセードという世界の至るところに『災厄の種』が根付いており、十二神達の故郷である『はじまりの世界』まで引き寄せているのだ。恐ろしい元凶と共に……。
 この話を民に知られてしまったら、世界中が大パニックに陥ってしまう。
 だから、知るべき者は限られていなければならない。
 
「ルディーには、指示しておいた通り、あの子供達の動向や、国内で起きる異変への注意をお願いしておいたけど、もう一度言うよ。――あの子供達の姿を見かけても、絶対に手出しをしない事。報告と動向の監視だけでいいからね」

「わかってますよ。けど、ウチの団員共は仕事熱心なもんで、誰か火傷を負うような予感もしますけどね」

「じゃあ、僕が今したように、君から何度でもいいから念押しをしておいてくれるかな? ――あの子達に手を出せば、命がない、ってね」

「……御意」

 ルディーの表情には、僅かな不満の気配が見てとれる。
 何故、アヴェルオードの生み出した子供であるアヴェルとその仲間を、ソリュ・フェイトという偉大な神は放置しているのか。さっさと捕らえておけば、不安要素の排除に繋がるだろう……、と。
 レイフィードも同意見だが……。父は、ソリュ・フェイトはこう言ったのだ。
 アヴェルと名乗る子供と、その仲間の動向を監視し、不穏の種を蒔こうとするのなら、それを阻め。
 ただし、マリディヴィアンナともう一人の男の魂は回収しても良いが、アヴェルにだけは手を出すな、と。
 何故なのか……。それに関しての説明は、父が去る前に邪魔が入り聞けずじまいだ。
 
「ん~!! んんんん~!!」

「カイン、うるさいぞ。黙って陛下の話を聞いていろ」

「んぐぅうううっ!! ん~!! ん~!!」

 カインは一個目のマドレーヌを何とか食べ終えても、次から次へと別の菓子を口に放り込まれていたのだ。
 ルイヴェルとレイフィードの二人に。
 今も、大きめのクッキーを三枚同時に突っ込まれている為に、話に入る以前の問題だ。

「父上、ルイヴェル……。カイン皇子が可哀相だろう? そろそろ解放してやってくれ」

「ん~!! んんんん~!!」

 レイル、お前だけは俺の味方だよな!! と……、そう言いたいのだろう。
 真紅の瞳を輝かせているカインに呆れまじりの笑みを向け、レイフィードは仕方なくその拘束を解いた。
 案の定、解き放たれた獣、いや、竜の皇子はレイフィードの胸倉を掴もうと暴れ出したが、

「ぐっ!! 痛だだだだだだだだっ!!」

「陛下に無礼を働くな」

 どこかに出掛けようとしていたのを無理矢理に連れて来てしまった為、ルイヴェルは一通りの話が終わるまで沈黙という壁を作っていたのだが……。ようやく、少しは機嫌が直ってきたようだ。
 カインの頭をその手に鷲掴み、ギリギリと締め上げる様は大魔王そのものだが。
 ルイヴェルは神であった頃の関係性でアレクと険悪になるでもなく、冷静に事を進める為の姿勢を見せてくれている。……恋心を自ら封じてしまった、哀れな神。
 
(まぁ、僕としては……、自業自得だと、ルイヴェルに同情しないのが当然なんだろうけど、……ねぇ)

 アヴェルオードは恋心を封じる事も出来ず、自分の身代わりを生み出し、永遠に眠る道を選ぼうとした。
 そう……、あれだけの事をしでかし、愛する者を眠りに就かせたにも関わらず、だ。
 幸希への想いを忘れてしまうくらいなら、死んだ方がマシだと思い詰めるほどに……。
 なら、ルイヴェルはどうして……、アヴェルオードには出来なかったそれを、自らに課す事が出来たのだろうか? あんなにも……、面倒な執愛を抱いていたのに。
 
(まぁ、騒動を起こさないでいてくれるのなら、感謝すべきなんだろうけどね)
 
 カインに食ってかかられているルイヴェルを注意深く横目で観察した後、レイフィードは話の続きをするべく口を開いた。

「まぁ、あれだね。地上の民が出来る事は自衛くらいのものだから、重要部分は全て父さんや僕達神々に任せてくれればいい。不安だろうけど、心を強く持って……、これからに備えておいておくれ」

「はい……。あと、アレクの事に関してなんですけど」

「それは、また後で話そう。大丈夫だよ、ちゃんと話してあげるから」

「……はい」

 何事にも察しの良いルディーを相手に、さて……、どこまで誤魔化しきれるかな。
 微かに零した苦笑と共に、レイフィードは意識を横に向けて困った重りを片手に鷲掴む。

「で、君はどこに行こうとしているのかな? カイン」

「げっ!!」

 自由を取り戻した途端にこれだ。
 話が終わったのならもういいだろうと主張し、幸希とアレクディースの許に向かおうとするカインを席に引き戻し、もう一度呪縛の術をかける。

「カイ~ン……、皆への話は確かに終わったけどねぇ? 君個人への話は……、まだなんだよ?」

「お、俺に何の用があるってんだよっ! 俺は神じゃねぇしっ、自由に行動したって」

「ソル団長……、いや、偉大なる原初の神が、君に用があるんだって。大事な大事な、ね」

「な、なんで……っ、あのおっさんがっ」

 予想外過ぎて意味がわからないのだろう。
 エリュセードにおける、地上に生きる命のひとつでしかない自分が、何故、想い人のもうひとりの父親に呼び出されるのか。だが、カインはすぐに気付いた。間違った方向に。
 断崖絶壁から蹴り落されて絶望の海にドボンッ! と落とされていくかのような顔色だ。

「ふふ、大丈夫だよ、大丈夫大丈夫。大事な娘に手を出してる子へのお仕置きとは、また別問題らしいからね。安心して、――逝っておいで」

「逝って来い、カイン」

「皇子さん、頑張って逝って来いよ」

「カイン王子……、無事の生還を祈る」

「お前らぁああああっ!! レイル以外、酷ぇニュアンスじゃねぇか!! 行けじゃなくて、逝けってか!! この鬼畜野郎共ぉおおおおおっ!!」

 まったく、毎度の事ながら大袈裟な子だ。
 原初の神を相手に逃げおおせるはずもなく、カインは全力で抵抗しながらも、レイフィードの開いた転移の陣へと全員の手によって放り込まれ……。
 哀れな子羊の悲鳴がフェードアウトしていったのだった。
しおりを挟む

処理中です...