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第五章・アレク×幸希編~蒼銀の誓いと咲き誇る騎士の花~

蒼月の許、花開き始めるは……。

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 三人の御柱と、その眷属達が守護せし世界、――エリュセード。
 永遠の楽園という意味の込められた名を授けたのは、全ての神々にとって父とも言える、はじまりの十二神が一人、ソリュ・フェイト。
 彼(か)の神が後ろ盾として三人の御柱を支え、その理想通りに、いや、望んでいた以上に発展した世界。その幸福なる世界で、『彼ら』は愛おしき神々(かぞく)の傍に寄り添っていた。
 ソリュ・フェイトの息子、レイシュルーフェによって生み出された、眷属。
 主の妹神を守り、その世話をする役割を任された『彼ら』は、心を尽くして仕え続けた。
 自分達を創り出した神の命(めい)だからだけでなく、彼ら自身が、そうしたいと願ったのだ。
 どんな時も自分達を温かく包み込み、家族として愛し続けてくれた……、優しい人達。
『彼ら』にとって、ソリュ・フェイト達一家は何よりも大切な存在だった。
 けれど、終わりのない幸福は絶望へと様変わりし、……取り残されたのは、『彼ら』だけ。
 一度目の不幸は、自分達を生み出した主の父が死んだ時。
 二度目の不幸は、その妻であるファンドレアーラが災厄の女神となり、封じられた時。
 そして……、三度目の不幸は、『彼ら』が守り、愛し続けてきた『姫』が、御柱の一人に重傷を負わされ、解き放たれようとしていた災厄を鎮め、主と共に眠りに就いた、あの時。
 十二の災厄、その番人として残された『彼ら』は、主の命(めい)に従い続けた。
 いつか、愛する家族が天上へと還って来てくれる……、そう、信じて。
 だが、その日を待ち続ける時の流れは長すぎた。
 番人として役目を果たす日々はあまりに辛く、――耐え続けてきた『毒』に、心を壊されてしまう程に。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

「フィルク~、夕食後のデザートはどうかしら?」

 幸希達が塔へと向かう、一時間ほど前の事。
 セレスフィーナはフェリデロード本家において保護されているフィルクの許を訪れていた。
ウォルヴァンシアの城下で傷付き倒れていたところを幸希達に助けられ、記憶がない身でありながら、一時期は王宮医務室の雑用係として過ごしていたフィルク……。
 彼の記憶が戻ったのは、アレクディースが神として覚醒した際の……、あの、一度きり。
 自身を神の一人だと口にし、悪しき存在(もの)を封じる鍵となった存在だと。
 そう打ち明けたフィルクが、何故再びその記憶を失ってしまったのか……。
 いや、何故、……初めて出会った時に記憶を失い、傷付いた状態でウォルヴァンシアの城下にいたのか。セレスフィーナはテーブルの上を片付けているフィルクの様子をこっそりと窺いながら、ワゴンに乗せて持ってきたショートケーキの皿を並べ始める。
 
(あの時、フィルクはアレクや私達を助けてくれた……。ディオノアードの鏡と呼ばれる、その欠片の脅威から)

 フィルクの存在がなければ、自分達は欠片の力に支配されたアレクディースを相手に残酷な結末を迎えていたかもしれない。
 だから……、フィルクは味方だと、そう、信じてはいるものの……。
 幸希達がガデルフォーンに遊学中、彼が見せたあの姿。
 何かを恐れているかのように取り乱したフィルクは、その時の事さえ記憶にない。
 
「ふふ、美味しそうですね。頂きます」

 体調的には何の問題もなく、足りないのは記憶だけ……。
 生クリームとベリーの実で飾り立てられたケーキをフォークで切り分け、美味しそうに食べているフィルクの精神状態も、今のところは良好そうに見える。
 
「ごめんなさいね、フィルク……。貴方には、あの日から窮屈な思いをさせてしまって」

 アレクの覚醒後、フィルクはフェリデロード本家で保護されるのと同時に、一族の敷地から出られなくなってしまった。散歩に出かける時は必ず、自分と父、そして、従兄であるセルフェディークの付き添いを義務付けられている。
 記憶のないフィルクを守るという意味もあったが、彼からすれば監視下に置かれた籠の鳥。
 そう、思っている事だろう。
 しかし、フィルクは不満など口にする事はなく、いつもの優しい笑顔で首を振った。

「そんな風に感じた事なんて、一度もありませんよ。元々、記憶がなく得体の知れない僕にとっては贅沢過ぎる程に恵まれた好待遇です。……そのご恩に酬いたくて、出来れば早く記憶を取り戻したいと、そう思ってはいるんですが」

「フィルク……」

「一度だけ、僕が本当の自分を取り出したというあの時の事は、やっぱりまだ思い出せません。でも、レゼノスさんとルイさんが僕に教えてくれました。記憶を取り戻す為の、本当の僕の姿を。頑張りますから、もう少しだけ……、待っていてくれますか?」

「勿論よ。でも、記憶を取り戻す事に必死になり過ぎて、自分に無理をさせては駄目よ? その気持ちだけで、私達は十分だから」

 たとえ、フィルクの抱えているものを、その過去を知りたくとも、無理だけはさせたくない。
 それに、記憶を取り戻してしまう事が本当に良い事なのかどうか……。

(フィルクは……、失った記憶に怯えていたわ。まるで、本当の自分に戻りたくないと、必死に抗っていたように見えた。なら、……記憶の解放は、フィルクを苦しめるだけなんじゃ……)

 いや、……きっと気のせいだ。一度記憶を取り戻したあの時、フィルクは自身に怯えた様子はなく、冷静な状態を保っていたのだから。

(大丈夫、大丈夫よ……。記憶を取り戻しても、悪い事は何も起こらない。きっと……)

 セレスフィーナは一抹の不安を抱えたまま、フィルクとのひとときを複雑な思いで過ごした。
 フェリデロード本家に張られた、新たな結界の存在に掻き乱されるような胸騒ぎを覚えながら……。
 

 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 ――Side 幸希

 滅びた人形の身体から離れ、解呪の場へと向かった災厄の力。
 三人の神が張り巡らせた結界が効力を失っている事に戦慄を覚えながら、階段を駆け下りてゆく。
 ディオノアードの鏡に宿る災厄の力は結界という障害を物ともせずに飛び越え、そこに辿り着いていた……。私が幸希として、幼い日に見たあの場所へと。

「アレクさん!! ルイヴェルさん!!」

「レイシュ!!」

 フェルシアナ様の転生体、ウォルヴァンシアの王妃様。
 彼女を生かす為に配された魔術の陣模様が光輝いている石畳の空間。
 宙に浮かぶ神々の術式。……発動はしているけれど、意図的に進行を止められている。
 まだ……、解呪は成されていない。
 私達の目の前には、災厄の力と対峙しているアレクさん達の背中がある。
 そして、……その向こう側。寝台の前には、妖しい微笑を携えた一人の女性の姿が。
 レイル君と同じ色合いをした、美しい水銀色の長い髪。
 天上の御柱たる、フェルシアナ神と瓜二つの面差し……。
 
「王妃様……」

 間違いなく、彼女はレイル君のお母さんで、この国王妃様。
 だけど……、その身は災厄の力によって支配されてしまっている。
 恐らくは、初めから王妃様の身体に狙いを絞り、この場所に飛び込み、事を成したのだろう。
 ディオノアードの鏡。その欠片に宿る……、災厄の意思。
 その場へと現れた私達の姿に、三人が一度だけ視線を寄越してまた前を向いた。

「レイシュ、お前達は下がれ。あれの相手は俺がする」

「……今の今まで雲隠れしていた人が、勝手な指図をしないでくれるかな?」

 共通の敵を前にしているのに、レイフィード叔父さんはお父様の言葉を冷ややかな音で退けてしまう。
  ……相変わらず、妹であり姪御である私にはベタ甘でも、お父様に対してはデレのない人だ。
 でも、今はお父様の助けを拒む場面じゃない。
 三人の神が張り巡らせた結界を破壊し、この場へと現れた災厄の影。
 ディオノアードの欠片は、それぞれに有している力の違いがあるけれど……。
 恐らく、あれは欠片ひとつ分から生じた存在(もの)じゃない。
 アヴェル君が集めた幾つかの欠片からのものか、それとも……。
 
「レイシュ、俺に対して文句を言いたいのはわかるが、今は引け。まだ解呪が終わっていない以上、お前に無理をさせる事は、王妃の命を脅かす事に他ならん」

「……」

「ふふ、いつまで経っても父親に対して素直になれないところは変わっていないのねぇ。私の可愛いレイシュ・ルーフェ。貴方は昔から私達両親に対して中々甘えてくれなくて……」

「黙れ。汚らわしい災厄の分際で僕を語るな」

 王妃様の身体を支配している災厄は、まるで本物のお母様のようにレイフィード叔父さんに親しみを込めた声を掛けてくる。
 お母様の魂から生まれた、十二の災厄。悪しき力によって変わり果てた、その心。
 災厄は今回、あえてその人格を模して現れた……。恐らくは、何らかの目的の為に。
 親子の再会を喜ぶように歩み寄ろうとした災厄を、レイフィード叔父さんが神の力によって阻み、その隙に乗じてお父様が一気に間合いを詰めて浄化の光を叩き込む。
 王妃様の腰を支えながら、ずぶりと胸の中に突き入れられたお父様の手。
 その手元から溢れ出した、おぞましき災厄の光。
 集められた欠片から生じている存在とはいえ、神々が悪しき存在(もの)との戦いで疲弊していた時とは違う。覚醒を遂げている神に、いいえ、お父様に存在を掴まれた以上、もう逃げ場はない。――だけど。

「ふふふ……。浄化しても無駄な事くらい、貴方ならわかっているでしょうに」

「王妃の身体から、いや、このウォルヴァンシアから追い出せれば今はいい。――消えろ」

 お父様のその一言と共に、地下の空間に光の波が溢れんばかりに広がっていった。
 悪しき力がこの場から、ウォルヴァンシアから消えていく……。
 ようやく、今夜の騒動も収束を迎える。
 王妃様の呪いも解かれ、御柱たるフェルシアナ様が目覚めを迎える。……そう安堵していたら。
 

『ふふ、――あの真実を、貴女はいつ知る事になるのかしらねぇ?』

「――え?」

 光の奔流に飲み込まれている最中に感じた、肌を蛇にでも這われたかのような強い悪感。
 お母様の声音を模した災厄の愉し気な嗤い声と共に、その囁きがすぐ耳元で聞こえた。
 まるであの時と同じ……。お母様が災厄の女神となった、悪夢のような……、遠い日の記憶。
 断片的な古の記憶が頭の中を駆け巡り、最後に見たお母様の言葉が……、蘇ってくる。

『ユキ、貴女が……、……に、……れ、た、時、……に、……わ』

 駄目……。まだ、あの時の言葉を全て思い出す事が出来ない。
 収束していく光の波を目にしながら、ずっと……、私はアレクさんから声をかけられるまでその場に呆然と立ち尽くす事しか出来なかった。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 無事に王妃様の解呪を終え、その身を王宮へと移す事が出来た夜更けの事。
 私は一人で塔の近くへと足を向けていた。
 もう、マリディヴィアンナも、パルディナのオルゴール箱を持っていた人形の女性も、お母様の人格を模していた災厄の気配も、ない。
 穏やかな夜風の舞うその場所に腰を下ろし、塔の壁に背を預けながら夜空を見上げる。
 あの騒動の余韻など、もうどこにも残っていない……、煌く星々の踊り場。
 あれは、ひとつひとつが別世界の輝きを宿しているから、きっと向こうの世界の人達も、見上げた先にある星空の中に、私のいるエリュセードの光を目にしている事だろう。
 時を忘れて見惚れる程に美しい……、数多の世界が放つ輝き。
 だけど……、今の私は頭の中で別の事を考えてばかりだ。
 王妃様の体内から災厄が浄化された、あの瞬間。すぐ耳の傍で聞こえた災厄の声。
 アレクさんやルイヴェルさん達に尋ねてみようと思ったけれど、王妃様を王宮に運ぶ事になったり、塔に駆け付けてくれたレゼノスおじ様達と話をする必要があったりと……。
 結局、誰にも災厄が残して行った言葉に関しては聞けずじまい。
 
「はぁ……」

 真実、って、何? 私の知らない何かに、私自身が関係していると示していた物言い。
 それに……、災厄はもうひとつ、最後にこんな囁きを残していた。

『――セレネフィオーラ』

 あの災厄が、愛おしそうに呼んだ……、恐らくは、誰かの名前。
 響き的に女性の名前である事はわかったけれど、私には聞き覚えがない音だった。
 それに……。セレネフィオーラ……、災厄がそう囁きかけたのは、私自身に対してだったように思う。でも、他の人達にも聞こえていたのなら、……違う、のかな?
 星空から視線を落とし、足元に生えている草をブチブチと毟っていると。

『ユキ、そろそろ部屋に戻った方がいいんじゃないか?』

「え?」

 案じるように囁かれた低い声音に顔を上げると、ふわりと大きなもふもふの体躯が私の身体を包み込んできた。優しい白銀の光を思わせる、銀毛の狼。
 
「心配して……、様子を見に来てくれたんですか?」

『……この塔での一件の後、元気がなかったからな。迷惑か?』

「いえ。……ふふ、あったかい」

 何故だろう。昼間にこの人の前から逃げ出してしまったのは私なのに、多忙なところを抜け出して傍に来てくれたアレクさんの優しさが嬉しくて……。
 顔を近づけてきた大きな狼さんの顔を両手に包み込み、自分から頬を寄せてしまった。
 天上で暮らしていた頃も、幸希としてこのウォルヴァンシアに戻ってきた移住の時も、アレクさんは私の悲しみや戸惑いにいち早く気付いて、……こうやって、寄り添ってくれる。
 いまだに答えられる想いが私の中にないと、そうわかっているのに。
 でも……、不思議と、今自分の傍にいてくれるのがこの人で良かった、と、そう感じている自分がいて。

「ありがとうございます、アレクさん……」

『俺がお前の傍にいたいから、堪え性もなく近付いてしまうだけだ。気にするな』

「……昼間に、私がアレクさんの許から逃げ出してしまった事、……怒ってないんですか?」

 最高の手触りをしている毛並みを撫でながら恐る恐る尋ねてみると、アレクさんは少しだけ無言になった後、ぐわりと牙を剥き出しにして私を睨んだ。
 
『怒っている……』

「うっ、……ご、ごめんなさい」

『よりにもよって、……俺をあの竜と正面衝突させた上、あんな無様な醜態を晒させて』

「……ほ、本当に、も、申し訳、なくっ」

 人の姿の時よりも大きな蒼い瞳が恨み辛みを込めた冷ややかな視線を私に注いでくる。
 余程、カインさんとのモッチモチー!! なひとときが苦痛だったご様子だ。
 アレクさんにしては珍しく、本当に珍しく私に対する怒りの気配を隠していない。
 思わず逃亡の体(てい)に入りかけた私の退路をふさふさのもふもふ尻尾で塞ぎ、ずいっと顔を近づけて一言。

『もう二度と、あんなのは御免だ……っ』

「は、はいっ。肝に銘じておきます!!」

 ルイヴェルさんに負けずとも劣らない、アレクさんの大魔王バージョン!!
 私がペコペコと謝ると、アレクさんは鼻をふんっ!! と鳴らして、気配を変えた。
 胸に苦しいものを抱えているかのような、酷く辛そうな顔を向けられてしまう。

『お前に逃げられると、……胸が、張り裂けそうだ』

 それは、昼間の事だけじゃない。
 天上で、その想いに気付かないフリをしていたあの頃や、十二の災厄を鎮めて眠りに就いた事。
 そして、幸希として生を受け、このエリュセードに戻って来てからも……。
 お母様のようになってしまう不安は消えない。だけど……。
 私は傷付いているアレクさんの頬に唇を寄せ、正直な気持ちを伝える事にした。

「あの……、イリュレイオス様に導かれた場所で、アレクさんが私を招こうとしてくれていたあの場所で、言いましたよね? ……私は、誰かを愛する事が怖い、って」

『ファンドレアーラ様のようになりたくない、と……。そう言っていたな』

「はい……。誰にも言った事のない、今まで誰にも言えなかった私の本音です。それを、アレクさんはあの場所で引き摺り出してしまった……。誰にも、知られたくなかったのに」

「天上に在った頃から、その思いには気付いていた……。だが、お前の口から本音を引き出す事が必要だと、あの時はそう思ったんだ。何もかも吐いてしまえば、少しはスッキリとするだろう? だから……」

「怒ってはいません」

 そう、怒ってはいない。アレクさんがしてくれた事は、きっと必要な事だったから。
 心の奥で……、一人ぼっちで泣いていた『私』を、貴方は暗く寒い場所から連れ出してくれた。
 言葉にして、抱え込んできた澱を吐き出して、少しだけ軽くなった心。
 感謝の気持ちを伝えながら、私は副団長室でアレクさんの前から何故逃げたのか、それを打ち明けてみる。――自分の中で、何かが、少しずつ動き出し、変わり始めている事を。
 アレクさんは私の話に耳を傾け、やがて、人の姿へと戻った。
 災厄の気配が消え去ったウォルヴァンシアの空はとても晴れやかで、清らかな月明りを受けて浮かび上がるその人の表情は、私の全てを包み込んでくれるかのように優しいもので……。

「怖いと、その場に留まりたくなるような思いに囚われるのは、人も神も同じだ」

「アレクさん……」

「動きたくとも動けず、長い長い時の中……、蹲ってしまう事もある」

「……」

「だが、――いつか必ず、光に満ちた温かな場所に導かれるはずだ」

 周囲を漂う冷たい風の気配を感じながら、アレクさんの右手が私の頬を包み込んでいく。
 その温もりが心地よくて……、言葉も忘れて、蒼く美しい双眸に囚われてしまう。
 
「ユキ……、俺はお前の、光になりたい。たとえ俺に想いを抱かずとも、お前が暗闇の中から出てこられるように……、支えてやりたいと、心から望んでいる」

 思い遣りに溢れた温もりが、そっと額に触れてくる。
 アレクさんの心が、私をお母様の呪縛から救いたいという想いが、寒々しい闇の世界で膝を抱えている『私』の手を力強く引いて……、導いてくれるかのよう。
 
「どうし」

「どうして、はナシだ。これは、俺が望み、俺が叶えたいと思っている願いだからな」

 困る……。私には何も返せるものがないのに、こんな風に甘やかされていいわけがない。
 それなのに、どうして私は……。
 動けない。アレクさんがもう片方の手のひらを私の頬に添えていくのを感じながら、どうしようもなく、この温もりが愛おしいと、そう心地よさを覚えてしまう自分がいて……。
 おかしい……。以前は、アレクさん達に想いを向けられ、その一途な眼差しを、積極的な触れ方をされる度に全身が真っ赤になって、心臓が抑えきれないくらいにドキドキしていた。
 その場から逃げ出したくなるくらいに動揺してしまって、何もかもがわからなくなる感覚があったのに……。そう、以前と同じはず、なのに……、同じようでいて、何かが違う、そう感じている自分がいて……。

「アレク、さん……」

 逃げられない。……いいえ、逃げたくない。
 アレクさんの傍にいたい。この真摯で優しい眼差しを、ずっと、ずっと、受け止めていたい。
 この人の温もりを……、もっと、もっと近くに。
 今までにはなかった感覚が、アレクさんに対して抱き始めている新しい何かが……、私の頭の中を甘い痺れと共に蕩かしていく。――これは、何?
 私はアレクさんの視線を抱き締めながら……、自分の頬を包んでいる両手に温もりを重ねた。

「ユキ……? ――ッ」

 アレクさんの、騎士として生きてきた……、訓練を重ねて出来た手のひらの硬い感触。
 そういえば、天上にいた頃も同じだった。
 お父様の許で剣を習っていたアヴェルオード様は、エリュセードの皆を守れるように強く、神の力以外でも立ち向かえるように、何事にも真面目に努力を積み重ねる神(ひと)で……。
 あぁ、そうだった……。私は、あの頃からこの手が大好きで……、アレクさんの、アヴェルオード様の穏やかな眼差しに見守られていると、心から安心する事が出来ていた。
 それは今も同じ。だけど、やっぱり……、同じようで、同じじゃない。

「アレクさん……、私」

「ユキ……」

「え?」

 瞼を閉じていた私は、気付かなかった。
 視界を取り戻した至近距離に、――アレクさんの綺麗な顔が迫っていた事に。
 ぴったりと寄り添ったお互いの身体。蒼い瞳に揺らめく熱。
 銀の髪がさらりと私の肌に触れたかと思うと、そのまま……。

『おい!!』

「――っ!!」

 その大声が割って入らなければ、多分……、アレクさんの感触が唇に重なっていた事だろう。
 何かのスイッチが切れるかのように、自分の中で止まっていた時が動き出す。
 私はアレクさんから大慌てで離れ、声のした方に顔を向けた。
 塔の手前。こちらへと続いている森の小道の方から黒い影が飛び出し、アレクさんへと襲いかかる!

『番犬野郎!! テメェ、今ユキに何しやがった!!』

「ぐっ!! ……放れ、ろ!!」

 アレクさんの顔にべったりと貼り付いて離れない、真っ黒な……、生き物。
 本来であれば相当に大きな生き物であるはずのそれは、便利に小さくなって喚いている。
 姿、というか、声を聞いたら丸わかりの正体だ。

「カインさん!! や、やめて下さい!! み、未遂です!! 未遂ですから!! キスなんかしてませんから!!」

『うるせぇっ!! この野郎がお前にまたかまそうとしたのは事実だろうが!!』

 そ、それは、……え~と。た、確かに、気付いたらアレクさんの顔が間近にあって、その……。
 何故アレクさんがそんな行動に出たのかはわからないけれど、とにかく二人の喧嘩を止めないと!! 漆黒の竜を背中側から鷲掴み、全力でそれを引き剥がしにかかる!!
 ゼクレシアウォードで見た時よりも大きなサイズになっているけど、本来の壮大サイズに比べればこのくら……、こ、このくらいぃいいいいっ!!

「んぐぐぐううううううううううううう!! は~な~れ~て~く~だ~さ~いぃいいいいいっ!!」

『八つ裂きにしてやるぅううううっ!! このクソ野郎ぉおおおおおお!!』

「~~っ!! その前に、俺が貴様を細切れに斬り裂いてっ、ぐぐっ、丸焼きにしてやる……!!」

『ぉおおおっ!? やれるもんならやってみやがれ!! 犬っころがあああああっ!!』

 闇夜に響き渡る、非常に残念な低レベルの罵り合い。
 ようやく私がカインさんを引き剥がせた時には、騒動を聞きつけたルディーさん達がこっちに向かって来るところだった。ロゼリアさんも一緒だ。

「お~い……、こんな真夜中に何やってんだよお前ら……」

「まぁ、何も言われずとも大体の事情は理解出来ますが……」

「また姫ちゃん取り合って喧嘩してたんだろ~? はぁ、……そうやってガキみたいな事やってると、姫ちゃんに愛想尽かされるぞ~」

「うっせぇよ!! ……ユキの気持ちがまだ定まってねぇのに、番犬野郎がまた抜け駆けしてやがったから、つい……」

 引き離されても睨み合いをやめないアレクさんと人の姿に戻ったカインさんに、私達三人の溜息が漏れる。恋敵云々の前に、元からの相性が悪すぎるとしか言えない二人を歩み寄らせるには、きっと十年や二十年じゃ足りないのだろう。
 
「大体な、お前も少しは抵抗ってモンを覚えろよ!! 好きでもねぇ男にキスされそうになったんだぞ!! つか、一回やられてんだぞ!!」

「皇子さ~ん……、あのなぁ、それじゃ姫ちゃんが誤解されちまうだろうが。あと、アレク。お前も暴走すんな。積極的なのはいいが、やりすぎなのは駄目だぞ~、……ん?」

 ルディーさんがお説教を途中でやめてしまったのは、私とアレクさんがいつの間にか見つめ合ってしまっていたから。言葉じゃなくて、心で話をしているような、そんな視線だった。
 カインさんが二度目のキスを止めてくれて良かった。
 ……そう、ほっとするべきなのに、アレクさんとの距離が離れてしまった事が寂しくて。
 あのまま、流れに身を任せてしまいたかったと、そんな風に思う自分がいて。
 まだ、確かな形を成してはいないけれど、私の中で、何かがようやく歩み出したような心地だった。

「ユ」

「……おい」

「え? な、何ですか? カインさん」

 アレクさんが私の名前を呼ぼうとした瞬間、それを遮るようにカインさんが私の腕を掴んできた。
 さっきの事に対する怒りが収まらない。いや……、さらに感情が嫌な方向へと荒ぶったかのようだ。真紅の双眸が一度アレクさんを射殺す程に睨み付け、私の腕を引いて歩きだす。

「か、カインさん!?」

「待て。ユキをどこに連れて行くつもりだ」

 勿論、アレクさんがカインさんの行動を見逃すはずはなく、もう片方の手をがしっと後ろから掴まれてしまう。あぁ、……二回戦開幕の予感が!
 心なしか、森の茂みや木々も落ち着きなく騒いでいるかのような錯覚を覚える。
 肌をピリピリと……、なんて生易しい表現が逃げ出して行く程に、アレクさんとカインさんとの間に流れている空気は恐ろしい張り詰め方をしていた。
 まさに、触れればザックリと身を引き裂かれる! そんな表現がぴったりのこの状況……。
 
「ユキに話があるだけだ。それを止める権利が、テメェにあると思ってんのか?」

「疲れているユキに無理をさせるな」

「ユキ、お前はどうなんだ? 番犬野郎とはゆっくり過ごせて、俺の場合は駄目なのか?」

「い、いえ、そんな事は……っ」

 本当は、もう部屋に戻って寝たい。
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「だ、大丈夫ですよ……。ははっ、だいじょーぶ、だいじょーぶ、です。少しお話をしたら、そのまま部屋に戻りますから。アレクさん達も早く休んでください。今日は本当に、ありがとうございました」

 そう、何事もなければすぐに終わる、はず……。
 大股で歩き出したカインさんに手を引かれながら、……きっと長引くんだろうなぁ、と、思いっきり確定の未来を想像しながら、私は疲れ切った溜息を零した。
 
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