ショートな時間

レン太郎

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現場からは以上です

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 八尋麻衣子、二十八歳、主婦。家賃二万七千円の二階建てのアパートで、酒乱癖のある夫の暴力に怯えながら細々と暮らしている。
 麻衣子は、アナウンサーになるのを夢見て、九州は福岡から上京していた。アルバイトをしながら、アナウンス学校へ通い、卒業と共に、その夢の第一歩を大きく踏み出すはずだった。だが結局は、麻衣子は夢を叶えることなく、主婦をしていた。
 早朝から洗濯を済まし、朝ご飯の準備に取り掛かりながら、ふと夫を見る。四畳半の部屋で、せんべい布団に横たわっている。地鳴りのようないびきを奏でていて、起きる様子はまったくない。麻衣子は呆れた顔をして、ため息をひとつ吐いた。
 麻衣子は先月より、パン工場でパートを始めていた。理由は、夫が働いてくれないから。
 麻衣子の夫、八尋直人は、エリートのサラリーマンで、出世街道をまっしぐらだった。麻衣子は、そんな直人と、アナウンス学校に通っている時に出会い、恋に落ち、瞬く間に結婚に至ったというわけだ。
 結婚した当初、麻衣子は幸せだった。直人は会社でバリバリと仕事をこなし、麻衣子は当時住んでたマンションで、家事をこなし、夫の帰りを待つ健気な妻。しかし、その幸せも長くは続かなかった。
 直人の会社で横領事件が発生し、その犯人に直人が仕立てられてしまったのだ。直人は、必死で無実を訴えたが、誰もかばってはくれず、結果として、直人は会社を追われた。そして現在は、働く気力を失い、酒に溺れる毎日。
 立ち直ることを願い、支え続けてきた麻衣子であったが、その精神力も、そろそろ限界に近付きつちあった。

 パートは午前八時から。麻衣子はいそいそと、ドレッサーの前で身仕度を始めた。まだ二十代にしては、かなりやつれた顔。化粧でごまかそうにも、その化粧品すらも、試供品でまかなっていたので、軽目の薄化粧で済ます。そして、くたびれたコートを羽織り、まだ寝ている夫を尻目にパートに出掛けた。


 陽もとっぷりと暮れ、午後八時に帰宅する麻衣子。疲れた身体を引きずるように、アパートの扉を開く。すると案の定、せんべい布団の上で、直人は酒をかっくらっていた。
 疲れた身体に追い討ちをかけるように、絶望感が麻衣子を支配する。これまでは、夫が立ち直ることを信じて支えてきたが、もう麻衣子の精神力は限界を迎えていた。

「もう、いい加減にしてよ!」

 麻衣子は、今までの鬱憤を晴らすかのように、直人に詰め寄った。しかし直人は、知らぬ顔をして酒を飲み続けた。
 そんな直人に怒り心頭の麻衣子。鞄から一枚の紙を取り出し、直人の眼前へと突き付けた。

「離婚してください」

 麻衣子が手にしているのは離婚届。既に、麻衣子の名前も書かれ、判もつかれていた。
 そう、麻衣子は離婚をして、また再び、夢を追い掛けたかったのだ。直人と結婚してなければ、自分は今頃、アナウンサーとして活躍していたのかもしれない。いや、今からでも遅くはない。また、アナウンス学校へ通い、その夢を叶えるのだと考えていた。そして、自分がそうなるには、夫は邪魔な存在だと判断したのだ。

「なんだこりゃ」

 酔った虚ろな目で、突き付けられた紙を見る直人。そして、それが離婚届だと認識すると、その顔色をみるみると変え、麻衣子から離婚届を奪い、そのまま破り捨てた。

「ふざけんじゃねえよ!」

 一升瓶を振りかざし、暴れ回る直人。戸棚から物が散乱し、食器が割れ、もう麻衣子は、どうしていいのかわからない。
 ひとしきり暴れると、直人はにやけながら、麻衣子ににじり寄った。だらしない無精髭。薄汚れたタンクトップにトランクス。この時、麻衣子の身体は、視界に入る夫の姿を完全に拒絶していた。
 麻衣子は、ふとテーブルの上にある、硝子製の灰皿に目がとまる。麻衣子は、その灰皿に飛び付き、夫の顔面に目掛け振り下ろした。
 すると、鈍い音と共に、直人はうめき声をあげのけ反って倒れた。そして、さらに麻衣子は、追い討ちをかけるように、鼻血を出してもがいている、直人の頭に灰皿を振り下ろした。

 何度も、何度も何度も──。

 気が付けば、直人は動かなくなっていた。麻衣子は、血塗られた灰皿を持ちながら、ドレッサーを覗き込む。顔に、夫の返り血が点滴とついていた。
 麻衣子は、はっとして灰皿を落とす。動かなくなった夫に、恐る恐ると近付き、そっと背中を揺らす。

「ねえ、冗談でしょ」

 しかし、返事はない。取り返しのつかないことをしてしまったと判断し、頭を抱えた。呼吸をととのえ、冷静になるよう自分に言い聞かせた。そして、一枚の紙を戸棚から取り出したかと思えば、一心不乱に何かを書き始めたのである。
 麻衣子は、それを書き終えると、携帯電話を取り出した。そして、まだ震える指で1、1、0と番号を押した。

「はい、110番です。事件ですか、事故ですか」

 電話が繋がったのを確認した麻衣子は、マイクを持つように口先に携帯電話を構え、背筋をピンと伸ばした。そして、先に書いておいた紙を取り出し、それを流暢に読み上げていった。

「東京都内の木造二階建てアパートの一室で、殺人事件が発生しました。被害者は八尋直人さん、三十歳の男性。頭や顔を、鈍器のような物で何度も殴られたのが死因とみられています。容疑者は、直人さんの妻でパン工場勤務の、八尋麻衣子さん、二十八歳と判明いたしました。麻衣子容疑者の供述によりますと、夫が働かずに酒を飲み、暴力を振るっていたのが、殺人の動機とみられますが、麻衣子容疑者は、殺すつもりはなかったと訴えております。なお、この事件は、容疑者本人の通報により明らかとなりました。現場からは以上です」

 そして麻衣子は、電話を切った後、長い原稿を一度も噛まずに読めたことに対し、小さくガッツポーズを決めた。
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