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森林の破壊者編
過去編 狐と竜とマレビトと。 その7
しおりを挟むココノビは焼け野原の中心で一人、膝を抱えて座ったまま『の』『の』『の』と地面に文字を書いていた。
いじけた時などはこうするものと父から教わったが、深い意味は不明だ。学がないから語源なんて知らんとのことらしい。
理屈云々を抜きに文化を伝える時の父はたまにわけがわからないと彼女でも思う。春の初めに、イワシの頭や柊の葉を軒先に吊るし始めた時にはどこぞの蛮族の風習かと言葉を失ったものだった。
異邦の知識に準じるマレビトは、概してこんな人種ばかりなのだろう。
今のココノビとしてはそんな意味の分からない紛らわしより、優しく撫でてくれる手の方が万倍恋しかった。
「でもお父様やハチとの合流はエルフの村ですし、帰り道はわからないですし……」
ナトは三十分ほど前に出たまま、未だに帰ってきていない。
いつまでに合流するといった相談も彼女とは交わしていなかったのが非常に悔やまれる。
これだけ広大かつ深い森では下手に歩き回っても迷子になるだけなので彼女は膝を抱えるしかなかったのだ。
のの字をいくら書いても気分が晴れるわけはなく、惨めさが一層増して「ううー……」と声が漏れた。
彼女の耳や尾は青菜に塩をかけたように萎れ、元気を失っている。
「お父様たちはもう戦いを終わらせて帰っていますわよね……」
つい数分ほど前に大きな爆音と煙が立ち上っていた。
それは十中八九、ハチと相加術を放ったということだろう。それならば勝敗はもう見えている。一戦を終えた彼らは今頃帰路についているはずだ。
こちらから現場へ駆けつけても森を走るココノビには気付かず、すれ違ってしまうだろう。合流は予定通りにエルフの集落で行うしかない。
そういうわけで、彼女はひたすらナトを待つしかなかった。
「どうしてこう、わたしって他人と歩調を合わせられないんでしょうか……」
膝を抱えたまま、項垂れる。
生来のテンポの違いはすでに取り繕いようのないものなのだろうか。努力していないわけではないが、そう思うと落ち込んでしまう。
そうして下ばかり向いていた時、彼女はふと自分の影が一段と濃くなったことに気付いた。自分の影に別の大きな影が重なったのである。
今さらながらに気付いた彼女は耳を立て、慌てて音を拾う。
すると頭上から風を切る音が聞こえ――直後、土砂をひっくり返すほどの衝撃と共に大きな影が着地した。
「ひゃっ!?」
総身の毛を立てて驚いた彼女であったが、それに反して獣の本能は即座に鎌首をもたげる。予期せぬタイミングで背後に現れたものに爪を立てようとする猫と同じだ。
興奮で細まった瞳は背後に着地した何かを鋭く捉え、反射的に掌に溜めた炎の塊で迎撃する。炎は狙いに寸分違わず的中し、激しく炸裂した。
それは並の魔物では吹き飛び、多少強い魔物でも確実に怯むほどの爆発だ。
けれども受けたはずの影は微動だにしない。もくもくと立ち込めた黒煙に浮かんだ巨大なシルエットは苦々しそうに呟いた。
『このうつけ者が。かような土地で気を緩めるな』
耳の奥に不思議と響く音だ。
耳慣れたその音を聞いた途端、ココノビは我を取り戻す。
「ううっ、ハチぃ~~っ!」
鱗が煙たくなるだのとハチが愚痴を零していたところ、ココノビは巨大な顎に抱き着いた。
『……』
口を塞がれては喋るに喋れない。
眉間に皺を寄らせたハチは無言のまま彼女の首根っこを咥えると自分の背に乗る伏見に預けた。
ココノビは彼の膝の上についてしまうと一分もしないうちに機嫌を直し、和みきった猫のようになってしまう。
ハチがため息交じりに『小娘が』と毒づくと、伏見は笑った。
本来の合流地点であるエルフの集落に直接戻らず、わざわざこの場を見に来た他ならないハチだ。彼は誰に言われるでもなく翼をここに向けていたのである。
『して、小娘よ。欠片は灰にしたのであろう? 何故ここにあのエルフがおらぬ?』
「それが、ヒュージスライムは浅い水脈に根を張っていたようでナトは下流を見に行ったきり、戻ってこないの。どのくらいの距離があるかはわからないけど、流石に遅くて待ちぼうけていました」
ナトが向かったはずの方向と、裂け谷とやらについて語ると伏見とハチは表情が険しくなった。
そのような場所を見に行って一向に戻らないとなると最悪の場合を想像せずにはいられないのだ。
「ハチ、ついでだ。その地を見てから戻るぞ」
『しぶとい下等生物めが、我が翼を煩わせよって。今度こそ破片も残さず焼き尽くしてやろうぞ』
忌々しげに口を歪めたハチはその裂け谷を目指して羽ばたき始める。
この緑に覆われた森にそのような谷があるのだとすれば空から見渡せばすぐに見つかることだろう。
そして、案の定。
高度を上げるだけでそれらしき場所を捉えたハチは滑空してその場を目指した。空から行けばほんの数分の距離である。
しかし到着まで待たされる合間、ココノビは不安げな表情を隠しきれていなかった。
それに気付いた伏見は娘の頭にぽんと手を置く。
「ココノビ。わかっているとは思うが、この距離でなかなか戻ってこなかったんだ。あまり期待はするな」
「…………はい」
「水脈を流れたというのにエルフの戦士を捉えるくらいの欠片を行き着かせるなんて正直、想定していないことだ。よほどこの地の水が豊かだったのだろう。下は俺が確かめてくる。お前はハチと一緒にいるんだ」
伏見は穏やかにそう言うがココノビの不安げな表情は一向に溶けなかった。
「私もついていった方がお父様も安全ではないですか?」
「確かにな。だがお前は人を焼くのはまだ躊躇うだろう? その一瞬が危ういから連れて行かない」
ココノビは瞬時に律法を発動できるし、身体能力も人間のそれとは比べ物にならないが、戦闘力には揺れ幅が大きいのだ。
感情を抑え、いつでも安定した結果を残せるのは戦士としての最低条件である。
そういう意味で言えばまだまだ見習いだとココノビを撫でてあやした。
だが、別にそれは悪いことではない。心もなく力を振り回せる人間なんて凶器と同じである。いつまでも甘えていられるならそれに越したことはない。
「避けられるうちは避けていけばいい。ハチのようにしかめっ面で長い人生を生きていくなんて、何とも言い難いものだ。感情を抑えられるようになっても良いことなんて何もないぞ。他人が泣いて、笑えるのを羨むようになるだけだ。だから今はまだ俺に任せておけ」
「……はい」
『話はそこまでだ。ついたぞ』
「おう」
またも萎れてしまった狐耳を撫でてあやした伏見はハチが裂け谷に着地したので降り立った。
上空からも確認していたがこの谷は見かけだけならば特に変化がない。しかし細かな横穴はどうであろうかと彼は確かめるために足を運んだ。
先に進めば進むほど薄暗くなる。
ヒュージスライムのような黒い生物ならば容易に紛れてしまえそうな場所だ。伏見は火を灯して周囲を明るくしようと呪文を口にしようとする。
と、その時のこと。
「だーれだ?」
何の気配もなかったはずなのだが、背後から視界を塞がれる。
このやたらと無邪気で温厚そうな声色にはよくよく覚えがあった彼は、取り乱さずに手を下ろさせた。
「このような場で悪戯なんてされても困る。ドリアード殿はこんなところで俺に何の用だ?」
振り返るとそこにはドリアードがいた。
触媒である細かな根を森中に行き渡らせている彼女は山岳樹周辺どころか、どこにだってこの姿を生み出すことができる。この体は彼女が律法で生み出した木偶人形のようなものだ。
彼女はほんの僅かにおどけて肩を竦めたが、すぐに真剣な眼差しとなった。
「その先はね、行き止まりなの。行ってはダメ」
「行ってはいけない?」
ぼそりと詠唱をした伏見は浮遊する火の玉を生み出し、場を照らす。
ただの行き止まりに見えた最奥は岩や土が作ったものではなく、太い植物の根によって作られた壁だったらしい。暗がりでは樹皮の隆起が岩に混同して見えてしまったようだ。
けれど不自然だ。
こんな谷深くまで太い根を張る植物なんているはずはない。これはドリアードが故意に生み出したものと考えるのが正しいのだろう。
推測して視線を戻すと彼女は言葉を続けた。
「この先にはヒュージスライムがいるの。私がそれに気付いたのはエルフがここに向かっていると森の植物から聞いた後。ここに来た時にはもう、エルフはスライムに食いつかれて手遅れだった」
「……だから手を出さないでいいと言ったはずだったんだがな」
こういう例を何度か経験している伏見としては早まらないようにと何度か念を押していたはずだったのだが、配慮が足りなかったらしい。
エルフは仲間意識が特に強いと言うし、彼女は寡黙ながらも正義感は人一倍強かったのだろう。
「せめて、介錯してやろうか」
ヒュージスライムに取り付かれてからでは助ける方法がない。
彼女がやろうとしたように、周囲に害を広めないことがせめてもの弔いだろうと彼は刀に手を掛ける。
が、ドリアードはそれを止めた。
「ダメ。この先はもう全部を閉じてしまったもの。今さらそれを開いてはダメ。ヒュージスライムは破片が大きな塊に集まる習性があるの。そもそも、そうでなければ本来の生息地である鍾乳洞からだって地下水に乗って際限なく広がってしまうでしょう? ここに封じられたのなら、この塊だけは残しておいた方が被害を防げる」
「……だが、それでは封じるだけで何の解決にもならないぞ?」
「いいえ。真っ向勝負では負けてしまうけれど、それなら暗がりの中、ゆっくりと時間を掛けてスライムを食べてしまえばいい。それができる植物はもう中に入れておいたわ。自然はね、そういうのが得意なの。生物も、毒も、何でも受け入れるのが私たち。もうこれは受け入れ、包んでしまった。そうして出来たものを、エルフ一人のために揺るがすことはできないわ。だから許さない」
穏やかな物言いだが、それ以外は認めないという言外の圧力をひしひしと感じる視線だった。
彼女はただ単に力があるだけの魔獣ではない。
この土地の頂点としてあり続け、数千年と森を仕切ってきた名君なのだ。外から来た若造がそれに異を唱えることなんてできない。
この森にはこの森なりの規律がある。
しばし沈黙していた彼は「わかった」と頷き、その場を後にする。
すると、その場に残っていたドリアードの姿も間もなく消えたのだった。
□
「その後、戻ってきたお父様と一緒に事の顛末を伝え、わたくしたちは森を離れました。そしてエルフは元の平穏な暮らしを取り戻し、周辺の集落と合併しながらゆっくりと発展した――そんなところですわ」
風見の腕に寄り添って語っていたキュウビはそう締め括った。
主に彼女が語り、部分部分をエルフの族長が補足する形で進んでいた昔話はこんなところで終わってしまうらしい。
けれどここで終わると一つ疑問が残ってしまう。
風見は手が届く範囲に座っているナトを不思議そうな顔で見つめた。
「でも、それなら今ここにいるナトは何なんだ? その事件がそこで終わっていたらナトがここにいるはずがない。ナトは無詠唱の律法も使っていたし、当時のような普通のエルフのままってわけでもないんだろ?」
聞いた話によれば彼女は風の律法を扱っただけでなく、爪を植物のように伸ばして武器にしたり、いきなりふっと現れたりもした。
それはもうエルフの域を越えているだろう。
問いかけてみるとキュウビは否定しなかった。
「シンゴ様は桜の木の下には死体が埋まっているというお話をご存知ですか? それと同じですわ。今の彼女はヒュージスライムと彼女の亡骸を元に育った樹が作った亡霊みたいなものです。ドリアード様に近いかもしれないし、スライムが操るスケルトンに近いかもしれない。どちらにせよ、もうエルフではありません。ある意味で言えばわたくしのような魔物とのハーフに近いのかもしれませんわ」
キュウビの言葉に、ナトはこくりと頷く。
エルフではなく魔物になったことに辛さを感じているかと思ったが、意外なことに表情の変化はなかった。彼女は人形のように無表情のままである。
かつて人間種の一つ、エルフだったというのに感情の名残はほとんど見ることができない。
風見としては彼女が最初から魔物だったと言われた方がよほどしっくりきそうだ。
すると、族長は風見の心境を察したのだろう。ナトに視線を向けるばかりだった彼と目が合うと「無理もなかろうて」と言葉を向けてくる。
「その裂け谷からナトゥレルが解放されたのは二、三百年後の話じゃった。その時のこやつには生前の記憶なんてなかった。額縁通りの精霊として、エルフとも敵対しておった。じゃが段々と記憶を取り戻していったのじゃろうな。次第にナトゥレルは出会っただけでは手を出さなくなり、そして今では森の禁忌として知られる、ここでの規律を破った者だけにしか攻撃をせんようになった。こやつは今でもエルフという種を守るために戦士をしておる。リードベルトとの違いは、立ち位置だけなんじゃよ。ナトゥレルがおらねば、我らは未だに森に散在する少数民族だったやもしれぬな」
それに深く感謝をしており、同時に悲しくも思っていると族長は複雑そうな心境をしわがれた顔に表していた。
彼はそのままナトゥレルを見つめるが、彼女から返る言葉は何一つない。事実は事実と頷いて肯定するだけである。
きっと一部の記憶は思い出せても人間らしい感情は未だに思い出せないのだろう。
だが、風見としてはこれでようやく繋がった気がした。
以前、彼女にどうして森を守ろうと行動に出たのか問いかけた時、彼女は自分が生まれ育った場所だからと答えた。
それはきっと、“エルフとして生まれ育った場所”だからなのだろう。そんな彼女が本当に守っているのは森でも、魔物でもない。彼女が未だに守ろうとしているのは、エルフだ。
感情を忘れてしまっても、仲間は守らねばいけないと体に刻まれた記憶に突き動かされているのだろう。
ナトは魔物としてエルフの過ぎた行為は律することで大を守り続け――結果、エルフは今のように大きな集団となることができた。
だがそんな彼女でも現在のエルフとは仲裁のしようがなくなり、困った末に風見を森へ連れ込んだのだ。
魔物側としてエルフを律することしかできなくなってしまった彼女としては、それがエルフに対して出来る精一杯だったのだろう。
エルフの中にはこの族長以外に当時の彼女を覚えている者はおらず、エルフ殺しの精霊と憎まれてさえいるにもかかわらず、彼女は今でもそうあり続けている。
族長が悲しげに見つめる理由が、風見にもようやく理解できた。
「……ナトは、そのために一人で頑張ってきたんだな」
「知らない。覚えてもいない。森が上手くいくならそれでいい。重要なのはそれだけ」
ナトは首を振る。
族長が言うような理由を、彼女ははっきりとは覚えていないようだ。
SFの話で、主のいなくなった家をアンドロイドがずっと守り続けるというものを見た覚えがあるが、風見はそれと似たような切なさを覚えた。
こんなひたむきな話に彼は弱い。
例え昔のことを覚えていなくともたった一人でここまでやって来た彼女は報われて欲しいし、協力したいと思ってしまう。
彼女らの間にある誤解を解くことまではできないかもしれないが、少なくともエルフと森の仲裁くらいならやり遂げてやりたかった。
そう。頼られたのなら、それに応えるのが男というものだろう。
風見は改めて族長に向き直る。
「お話ありがとうございます、族長さん。そういう話を聞けて、何というかとても安心しました。エルフも魔物も、武器を取っていがみ合っているなんて思っていたけど、本当はそんな形だったんですね。それだけ聞ければ満足です」
ナトの言い分だけでは絶対にそんなところまでわからなかっただろうなと思った彼は横目で彼女を見やる。
彼女はもうアイアンクローはやめてくれていたが。未だに風見を逃がすまいと服の裾を握りしめたままだ。頭蓋骨はやめてくれという言葉を聞き入れてくれてから、ずっとこんな調子である。
帝都から突然拉致したり、クロエを連れ去ったり。
そんなことをしなくても言葉を介してくれたら苦労はなかっただろう。この困らせ者にせめてもの復讐として、風見はむにぃと頬をつねってやった。
しかし彼女は手を避けもしないし、顔を背けもしない。困った顔もしないで見つめ返してくるだけである。
「…………」
「やられたい放題だな、ナトは」
「いふぁくないから。ふぉれくらい、ふきにしていい」
両手でくにくにとやってもナトはされるがままである。
彼女はこんな調子で、目的のためなら自分に降りかかるどんな辛さも甘んじて受けてきたのだろう。誰かを守って立つ戦士長とはそういうものだという意識を、気が遠くなるほどの期間も守り続けてきたのだ。
ここまで自分の扱いが不器用な人間は風見も初めて見た。やれやれとため息をつき、悪戯をやめる。
「俺は俺に出来ることを精一杯する。それですぐにクロエを返してもらうからな? ただし、クロエに何かがあったら承知しないぞ」
「善処する」
「善処じゃダメだ。約束してくれ」
あまり信用ならないナトの声に苦笑を浮かべた風見は、念を押す。
それだけは絶対に譲らないと力を込めて言うと、彼女は僅かな沈黙の後に「……わかった」と頷いた。
一度そう言ってくれたからには、彼女はきっと愚直に守り続けてくれるだろう。
風見はそれでようやく安心し、表情を緩める。すると、そんな彼の顔にぽつりと一滴の雨が落ちてきた。
ふと空を見上げるとぽつぽつと続いて数滴の雨粒が落ちてくる。
その感触に目を覚ましたタマも大きな頭を持ち上げ、空を見上げ始めた。
「うわっ、雨か」
「あらあら、これは荒れますわね。シンゴ様、流石に今日は戻らないと大変ですよ?」
キュウビとしては、それを聞いた風見は今晩の寝床問題でナトとまた面白いやり取りでもするかと思っていたのだが、実際は違った。
急に思案顔となった風見は「大雨か?」と意味深に問いかけてくる。
恐らく秋最後の嵐にでもなるのではないかとキュウビが返すと、彼はエルフの集落へと視線を向けた。
建物の配置を思い出しているのか、それに関することをぶつぶつと呟き始めている。
そうしてしばしの思考を終えた風見は族長に視線を向けた。
「族長さん。ここは川の周囲ですし、大雨になると冠水する部分もありますか?」
「まあ、そりゃあのう。わしらも土地を選べるほどの暮らしは出来ておらん。土を盛ってはおるが、数軒は床に水が染み出してくることはあるのが困りもんじゃ」
どうやら風見としてはこの言葉が重要だったらしい。だったらやっぱりいろいろとする必要があるとまた思考を整理していた。
程なく行動が決まったらしく、彼はすっくと立ち上がる。
「族長さんは嵐が来るなら対策の指示を出さないといけないですよね?」
「ああ、そうじゃの。体も冷えてしまったし、そろそろお暇させて頂く。お前さんも雨に降られては困るからついてくるじゃろう?」
「いや、俺はここにいることにします。それに関して族長さんには二、三、お願いがあるんですけどいいですか?」
立ち上がった彼の裾をナトがまだ万力のように掴んで離さないというのもあるが、本当の理由は別にありそうな表情だ。
てっきり彼は帰るものと思って砂を払って立ち上がっていたキュウビまで族長と一緒になって意外そうに見つめてくる。
「まず、衛兵の人に俺から目を離さないように言っておいてください。それが一つ目です」
「……? まあ、やれと言うなら構わんのじゃが……」
風見を不審がるエルフは少なからずいる。
そういった者は、監視を強化すべきだ! と荒々しく直訴してくるくらいなのでそれに関しては全く問題がなかった。客人に対する無礼を許してくれるのなら、族長としても気兼ねがいらない。
「二つ目に、手が空いている人で倉庫や家にネズミ返しを設置しておいてください。大雨で野ネズミが民家などに入り込んでくることがあります。細かい説明は省きますが、そいつらがいくらでも入ってくるとよろしくないことが起きるんです」
「ふぅむ。食料を食い荒らされることもあるし、そういう手配もあれば備えとなるじゃろうか」
それは盲点だったと族長は頷く。
「最後に。嵐の間、建物の補強などで走り回る人がいると思います。そういう人は跳ね返りの泥などで汚れた手は必ずよく洗うように言ってください。口に入った時はうがいして、食べ物を食べる時は加熱したものを綺麗な手や食器を使って食べてください」
「うぅむ? そうじゃな。それが必要というなら大した手間ではないだろうし、出来るだけ守るように言っておこうかの」
マレビトはこのような突拍子もないことを言うものと理解している族長はそれほど無理がないと認めると前向きに検討する形で話を進め、杖を突きながら帰っていった。
それを見送った風見はその場にまだ残っているキュウビにも視線を向ける。
「キュウビは良いのか? ここいたら雨に打たれるぞ?」
「構いませんわ。それに、わたくしがここにいなければシンゴ様が凍えてしまうではありませんか。濡れ着ならわたくしが乾かしましょう」
そんなことを言った彼女は後ろに回り込むと腕を絡め、抱きついてくる。
彼女のゆったりとした着物はまるで毛布が被さったかのように温かく、風見としては願ってもない申し出であった。
「そっか。ありがとな、キュウ――」
「ココノビとお呼びくださいな」
「え、でもそれって偽名みたいに隠してた名前じゃないのか?」
「はい。ですがシンゴ様なら構いません。わたくしはこんな生まれですから悪名も数知れずあるのです。そんな文言でお父様から頂いた名前を汚したくなかっただけで、親しい相手にまで隠す名前ではございませんから」
だからどうぞお呼びくださいと彼女は耳元で甘い声を出す。
そんな色香にぞわぞわと色欲が刺激されそうになるのだが、今日のキュウビは悪戯だ。自分からすっと離れると正面に居直って正座をし、「では、呼んでくださいな」と狐耳を立ててくるのである。
それはまるで話の中に出たココノビがそのまま成長したような様子だ。どことなくいつもと雰囲気が違い、攻め方が卑怯にも思える。
風見は思いの外、苦戦させられながらも彼女が待ち望んでいる名前で呼んだ。
「わ、わかった。ココノビ、一緒にいてくれるなら嬉しい」
「シンゴ様、そのままくしゃくしゃと頭を撫でてくださいな。こう、十秒くらいかけてゆっくりと」
「この上にもっとなのか!?」
はいと貞淑な表情でほほ笑んだ彼女は風見の手を拾うと誘導する。
躊躇いがちだった彼の手がひとりでに動き出すまで補助をし、その後は目を閉じて感触を味わっていた。
自分よりもずっと長生きをしている女性にこんなことをすると、かえって失礼なんじゃと風見は困り顔のまま続ける。
「な、なあ。こんなのでいいのか?」
「ええ。むしろこれが良いのです。こうしてくれる人なんて、ずっといませんでしたから」
「……」
柔らかく答えた彼女に返す言葉が風見には思いつかなかった。
たったこれだけのことなのに、そこに詰まった重みが彼には計りきれなかった。
そのまま彼女が望むだけ続けた末に手を放すと彼女は思い出したように話を再開させる。
「あの指示は何も考えがなくいったものとは思えません。それでシンゴ様は一体何をしようとされているのですか?」
「前にフラムが言っていたけど、ナトが誤解される理由になった事件を二つ聞いたんだ。一つは蜂蜜や肉類の加工品に似たような毒を盛られたこと。二つ目は水に出血毒かなんかを混ぜられたことって。俺はその誤解を解こうと思ってる。俺が知っているのと似た病気ならこれが絶好の機会だし、蔓延を未然に防げるタイミングだと思ったんだ」
「そんな病があるのですか? なるほど。これを聞くのは本来、クロエの役目なのでしょうが今日はわたくしが代わりましょう。嵐が去るまでまだまだ時間はありそうですし、いくらでも語ってくださいな」
「んー、そうだな。じゃあココノビ用に、どうせならまずは基本からいってみようか?」
「…………」
あ、しまったと彼女は心の中で声を漏らす。
ついつい言ってしまったが、彼はこうなると難易度高めなことを初心者にも容赦なく懇切丁寧に説明してくれるのだと今さらながらに思い出していたのであった。
************************************************
以前、ナトにしたという質問は「背後を取りました」のお話のことです
結構前のことなのでお忘れの方はどうぞ
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無事完結…ですか。最後まで書いてくださって感謝の気持ちで一杯です。
やっぱり風見はハッピーエンドがお似合いですね!笑
スピード感ある展開にハラハラさせられました。
亜人と人とのハーフがどうなるのか気になるところです笑
終わってしまって、もう風見達に会えないと思うと、とても寂しいのが正直な所ですが…。
素敵な作品をどうもありがとうございました。
作者様の他の作品も拝読していきたいので、これからも執筆作業頑張って下さい!
最後まで追っかけてくださり、ありがとうございます!
本当にやりたい放題の大団円にさせてもらいました。しかし、風見さんなら絶対にあの終わりを求めていたので、これでいいのだと思います(笑
時間が許せば、年内にでもエピローグに関する外伝と後書きをなろうで投稿しようかなと思っています。
お知らせはツイッターではすると思うので、そちらを見てもらえたらいいかもしれません。
応援、ありがとうございました!
退会済ユーザのコメントです
一気に読みました!面白かったけど!どうなったか気になるなー