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第3章 志の原点
第33話 息づいているもの ①
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明け方、日原は目を覚ました。
大動物の共同飼育をしている生徒の朝は早い。どうもその玄関開閉音が微妙に聞こえたのが影響したらしい。
まあ、睡眠時間的には十分だ。
以前のように犬の散歩や大動物の世話をベランダから眺めた後、予習をするでもいいだろう。
これもよくあることだ。
そう思って身を起こそうとしたところ、肩から腕にかけて引っかかる重みを感じた。
どうやらコウがクッションから抜け出てベッドで寝ていたらしい。もしかしたら、手ごね作業もしていたのかもしれない。
くすりと笑みを漏らしながら体を向け、撫でようとその体に触れた。
すると違和感に気付く。
――体温が、低い。
普段感じる温もりより冷たいというレベルではない。冬に凍えた手足のように冷ややかさの方が目立つ体温だった。
「……あっ」
胴体が冷えかけているだけではない。脚先はもっと冷たく、関節は曲がりにくかった。乾いた鼻先に触れても吐息は感じ取れない。
そして、心音を聞こうと体を起こした時、噛まれていたのかコウの口に引っかかっていた服が滑り抜けた。
半開きの口は、開いたまま閉じようとはしなかった。
これがどういうことなのかは、理解できる。
「~~っ。……そっか。うん、そうなんだね……」
身を起こして抱きかかえ、引きつったようになりかけた口を閉じさせる。
伸びようとしていた関節も、ゆっくりと曲げほぐして楽に寝る格好に近づけてやった。
死後硬直は咬筋や脚の伸展がわかりやすく出ると聞く。
生物の教科書で見た限りでは、死後数十分から数時間で出てくるのだっただろうか。この体温といい、蘇生がもう無駄なのは理解できた。
とうとう、お迎えが来てしまったらしい。
喉奥のひりひりとした疼きで堰き止められていた息を吐く。
「おはようじゃ、ないね……。また、おやすみになっちゃったか……」
もしかしたら口からは感情が漏れ出ていたのかもしれない。
悲しいなどと真っ当な思いに結びつく前に流れ出てしまい、過程をすっ飛ばして涙腺や喉が反応していた。
すでに腎不全の状態で引き取り、四月から十月まで生きた。
残った腎機能の割合にもよるが、半年以内に亡くなる子が多いと聞く中では延命できた方だろうか。
世話としてはよくやった。
なら、最期の時は苦しませなかっただろうかと気になる。
単なる推測でしかないが、苦しんではいないように思えた。
以前も先程と同じく腕に乗っかり、前脚で揉み込みながら服を吸っていたことがある。コウの死に様はまるで、そのまま死後硬直したかのようだった。
苦しみ悶えたのではない。
甘えた格好で眠るように逝ったのなら、それは良い最期だったと思える。
そう、良い最期だ。
コウは苦しまずに息を引き取り、自分は最後の瞬間まで傍にいたいと思える飼い主でいられた。そんな事実が伝わり、心に沁みる。
事実を一つ一つ理解していくと、ぽたぽたと涙が滴り落ちた。
悲しいとか辛いといった感情は追いつかない。先程からずっと、その感情を捉える前に溢れて漏れている。
そんな時、廊下を歩く音が聞こえた。
「おはよう、日原君! 昨日の勉強でクッチーから聞いた話でも――」
渡瀬の声だ。
彼女は週に何度も来ていることもあって、玄関のドアをかけ忘れているといちいち鍵を開ける手間を省くためにもそのまま入ってくる癖がついた。
いつものようにリビングにいると思ったのだろう。すたすたと歩く彼女は廊下を通り過ぎようとしてこちらに気付いた。
「うあっ、まだ寝てるところだったの? ごめんね!? って、どうかした……?」
ベッドで上体を起こした状態でコウを撫でたまま、返答をしない。そんなところに違和感を覚えたのだろう。
息を飲んだ彼女は日原が流している涙によって事実に気付いたようだ。
「もしかして、コウちゃん……」
「……うん。この夜に。まだ少し体温が残っているくらい」
涙を拭って渡瀬に目を向けると、彼女は鼻をすすった。
自分のペットがそうなったように涙を浮かべ、へたり込むとコウの体を撫でる。
「そうなんだ。うん、頑張ったね。コウちゃん……」
全然近寄ってもらえなかったところから徐々に仲良くなったという積み重ねが彼女にもある。それらを撫でながらに思い出しているのだろう。
涙を浮かべると、嗚咽を堪えながらうつむいていたのだった。
――それから半日後。
コウの遺体は大学の設備で火葬する運びとなった。
獣医学部棟に隣接されたこの炉は随分と立派だ。
というのも、そもそも解剖残渣を処理するための炉だったかららしい。
引き出された火葬台車にコウの遺体を乗せ、最期の別れを前にその体を撫でる。
見送りには渡瀬の他、鹿島と朽木も加わってくれていた。また、火葬設備は担任の武智教授が動かしてくれている。
入学から約半年間、仲の良い三人もほぼ毎日顔を合わせていたのだ。心が強そうな鹿島ですら、見送りで撫でた後は目頭を押さえていた。
保健所から引き取るパートナー動物は病気を患った高齢ペットが多い。見送る辛さがあるとは言われていたが、覚悟しきれるものではなかった。
「では、始めるぞ」
「……はい」
火葬台車が収められ、教授は炉を稼働させた。
大動物の共同飼育をしている生徒の朝は早い。どうもその玄関開閉音が微妙に聞こえたのが影響したらしい。
まあ、睡眠時間的には十分だ。
以前のように犬の散歩や大動物の世話をベランダから眺めた後、予習をするでもいいだろう。
これもよくあることだ。
そう思って身を起こそうとしたところ、肩から腕にかけて引っかかる重みを感じた。
どうやらコウがクッションから抜け出てベッドで寝ていたらしい。もしかしたら、手ごね作業もしていたのかもしれない。
くすりと笑みを漏らしながら体を向け、撫でようとその体に触れた。
すると違和感に気付く。
――体温が、低い。
普段感じる温もりより冷たいというレベルではない。冬に凍えた手足のように冷ややかさの方が目立つ体温だった。
「……あっ」
胴体が冷えかけているだけではない。脚先はもっと冷たく、関節は曲がりにくかった。乾いた鼻先に触れても吐息は感じ取れない。
そして、心音を聞こうと体を起こした時、噛まれていたのかコウの口に引っかかっていた服が滑り抜けた。
半開きの口は、開いたまま閉じようとはしなかった。
これがどういうことなのかは、理解できる。
「~~っ。……そっか。うん、そうなんだね……」
身を起こして抱きかかえ、引きつったようになりかけた口を閉じさせる。
伸びようとしていた関節も、ゆっくりと曲げほぐして楽に寝る格好に近づけてやった。
死後硬直は咬筋や脚の伸展がわかりやすく出ると聞く。
生物の教科書で見た限りでは、死後数十分から数時間で出てくるのだっただろうか。この体温といい、蘇生がもう無駄なのは理解できた。
とうとう、お迎えが来てしまったらしい。
喉奥のひりひりとした疼きで堰き止められていた息を吐く。
「おはようじゃ、ないね……。また、おやすみになっちゃったか……」
もしかしたら口からは感情が漏れ出ていたのかもしれない。
悲しいなどと真っ当な思いに結びつく前に流れ出てしまい、過程をすっ飛ばして涙腺や喉が反応していた。
すでに腎不全の状態で引き取り、四月から十月まで生きた。
残った腎機能の割合にもよるが、半年以内に亡くなる子が多いと聞く中では延命できた方だろうか。
世話としてはよくやった。
なら、最期の時は苦しませなかっただろうかと気になる。
単なる推測でしかないが、苦しんではいないように思えた。
以前も先程と同じく腕に乗っかり、前脚で揉み込みながら服を吸っていたことがある。コウの死に様はまるで、そのまま死後硬直したかのようだった。
苦しみ悶えたのではない。
甘えた格好で眠るように逝ったのなら、それは良い最期だったと思える。
そう、良い最期だ。
コウは苦しまずに息を引き取り、自分は最後の瞬間まで傍にいたいと思える飼い主でいられた。そんな事実が伝わり、心に沁みる。
事実を一つ一つ理解していくと、ぽたぽたと涙が滴り落ちた。
悲しいとか辛いといった感情は追いつかない。先程からずっと、その感情を捉える前に溢れて漏れている。
そんな時、廊下を歩く音が聞こえた。
「おはよう、日原君! 昨日の勉強でクッチーから聞いた話でも――」
渡瀬の声だ。
彼女は週に何度も来ていることもあって、玄関のドアをかけ忘れているといちいち鍵を開ける手間を省くためにもそのまま入ってくる癖がついた。
いつものようにリビングにいると思ったのだろう。すたすたと歩く彼女は廊下を通り過ぎようとしてこちらに気付いた。
「うあっ、まだ寝てるところだったの? ごめんね!? って、どうかした……?」
ベッドで上体を起こした状態でコウを撫でたまま、返答をしない。そんなところに違和感を覚えたのだろう。
息を飲んだ彼女は日原が流している涙によって事実に気付いたようだ。
「もしかして、コウちゃん……」
「……うん。この夜に。まだ少し体温が残っているくらい」
涙を拭って渡瀬に目を向けると、彼女は鼻をすすった。
自分のペットがそうなったように涙を浮かべ、へたり込むとコウの体を撫でる。
「そうなんだ。うん、頑張ったね。コウちゃん……」
全然近寄ってもらえなかったところから徐々に仲良くなったという積み重ねが彼女にもある。それらを撫でながらに思い出しているのだろう。
涙を浮かべると、嗚咽を堪えながらうつむいていたのだった。
――それから半日後。
コウの遺体は大学の設備で火葬する運びとなった。
獣医学部棟に隣接されたこの炉は随分と立派だ。
というのも、そもそも解剖残渣を処理するための炉だったかららしい。
引き出された火葬台車にコウの遺体を乗せ、最期の別れを前にその体を撫でる。
見送りには渡瀬の他、鹿島と朽木も加わってくれていた。また、火葬設備は担任の武智教授が動かしてくれている。
入学から約半年間、仲の良い三人もほぼ毎日顔を合わせていたのだ。心が強そうな鹿島ですら、見送りで撫でた後は目頭を押さえていた。
保健所から引き取るパートナー動物は病気を患った高齢ペットが多い。見送る辛さがあるとは言われていたが、覚悟しきれるものではなかった。
「では、始めるぞ」
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