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第3章 志の原点

第28話 マッチョ養成講座?とニクダシ ③

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「はぁ。今日は失敗したなぁ」
「事故がなかっただけいいんじゃないか?」

 溜息を吐くと、鹿島が軽く返してくる。彼はあまり気にしていない様子だ。

「そうだね。それは運がよかったんだけど……」

 実のところ、引きずっているのは失敗のせいではない。それとは別のところだった。

 栗原先輩が解剖実習は第一段階と言い、生理学の先輩がこれくらいは越えないといけないと言っていた意味が少しばかり理解できた。
 そして何より、単に解剖を乗り越えるだけではないことに気付いたので余計に気がかりになっている。

「なんと言うかさ、ニクダシの光景を見たら解剖実習が怖くなっちゃったな。ただ解剖するだけじゃない。僕らは解剖研究室の先輩に解剖牛の世話も頼まれている。ということは、世話をした動物を目の前で安楽殺して解剖することになるんだよね?」
「そういえばそう、だよね……」

 渡瀬は今になって気づいた様子で声を漏らす。
 手が滑ったのも、あの光景にいろんな思いが渦巻いて血の気が引いてしまったためだと日原自身は考えていた。

 一方、鹿島は狼狽えない。ふむと顎を揉んで考えた様子だ。

「まあ、愛護団体とかは単なる動物実験なら批判するよな。ただ、大学側もそういうのを言われるのはわかっているから、実験での苦痛を減らすとか、検体をできるだけ減らすとか、代替を利用するって原則は自分たちでも打ち出している。意味もなく解剖ってことはないと思うが」
「どんな意味があるんだろう? 教科書や教材で補えるものではないのかな……?」

 もちろん、薬の開発における動物実験の意義は理解している。
 副作用もなんのそのとどんな薬でも認可する社会ではないのだから、どこかで精査する実験が必要なのだ。

 けれどもそれと実習はわけが違う。
 小中学生の理科だって、実験がなければ身につかないというわけでもないだろう。

 そんな疑問をぶつけてみると、流石の鹿島も腕を組んで唸る。

「すまん、そこまでは知らん。ただ、親はこういう代替物のニュースを見ると個体差を知る機会が失われるとは言っていたな。例えば肝動脈、肝静脈、肝門脈っていう大きな血管は牛なら牛で大体同じ配置らしい。ただ、甲状腺とか小さい臓器になると出入りする血管の本数すら変わることがあるそうだ。そういう個体差を知らないのは、解剖や外科的にはかなり危ういことだろうな」
「命をもらうんだから、そういう些細な違いでもしっかりと学び取らなきゃいけないって意味はあるよね」

 日原は頷く。

 そう、間違いではない考え方だ。
 ただしこれは倫理的に教科書通り過ぎて、どこか釈然としない。自分なりの納得が出来ず、消化不良気味だ。

 すると、静かに勉強をしていた朽木が口を開いた。

「無駄な解剖ではないっていうのは大切かも。あの解剖残渣は牛の割合が多かったけど、馬とか、その他にも動物園の動物やイルカも混ざっているって聞いた」
「へっ?」

 あれらは全て実験動物。その命をちゃんと活かせるだろうか――?
 そんな風に思い悩んでいた日原は予想外の発言に目を丸くする。

「海外の一部の獣医大学は動物を使った実習が減ってるって話。知ってる?」
「ああ、うん。なんとなくだけど。実習器具で代替したり、自然に死んだ動物を解剖に使うって形にしたりするべきだって働きかけがあったりしたんだっけ」

 それは今まさに思い悩んでいた部分の実例だろう。
 こくりと頷いた朽木は話しを続けた。

「馬はそんな感じで、オーナーが善意で提供してくれたものって聞いた。あと、動物園や水族館の動物は死因を大学で調べてもらうために解剖されてるって。打ち上げられたイルカもそういうことで死因究明をすることがあるらしいよ。野生動物保護のサークルだと、それをおこなう時はメールが来るから見学できるんだって」

 珍しい動物に関してはアンテナが広い朽木ならではの情報だ。いつの間にかこんな話まで聞いていたようだ。

 あの光景だけを目の当たりにした日原としては血の気が失せてしまった。
 けれどもたった今聞いた話のように、そこにある背景まで聞けば捉え方は大きく変わってくるのかもしれない。

 少なくとも検体として提供された動物や、後世のための死因究明は非難されるようなことでないのは確かだ。

「僕たちがまだまだ知らないだけで、もしかすると解剖実習にもそういう意味が隠れていたりするのかな?」

 そうであってくれればいいなと期待を込めて呟く。
 無論、まだ実習が始まっていないのだから解剖実習の意義を知らないのは当たり前だ。

 ただし、知るのは早い方がいいだろう。この胸のわだかまりに慣れて忘れてしまうのではなく、ちゃんと消化して向き合いたいという思いがあった。

「うん、そういうのを知っていけたらいいよね。でも、ひとまずは立ちはだかるテストが相手だ……!」

 こんな分野に進んだのだ。誰だって意味もなく動物に痛みを与えたり、命を奪ったりしたいなんて考えはしない。

 すぐに調べたい気もするが、まずは渡瀬が言うようにまずはテストである。こちらで赤点でも取れば他に費やす時間も奪われてしまう。
 勉強再開だ。四人で意思を同じくして、ペンを取る。

 そんな時、にゃーんと鳴き声がした。クローゼットに隠れていたコウがいつまでも帰らない三人に痺れを切らして出てきたらしい。
 歩いてきたコウは、くんくんと日原の匂いを妙に嗅いでくる。

「もしかしてニクダシの臭いが気になるんじゃないか?」
「なるほど、確かに」

 全員がシャワーを浴びてきたものの、動物の鼻としては気になるのかもしれない。
 プラスチックコンテナを持つなど、最も臭いがついたと思われる指を差し出してみると神妙な顔をしてくんくんされた。

 じっくりと十数秒臭いを嗅いだコウは口を開け、こちらを見る。
 何、この臭い……!? とショックを受けたような顔、フレーメン反応だ。

「あ、うん。妙な臭いでごめんよ」

 謝ってみたところ、それからしばらくはコウによってぐりぐりと額をこすりつけられたり、体をすりすりされたりと匂い付けが始まった。
 ひとしきり続けると、今度は二番目に好かれている朽木のもとで匂い付けである。

 渡瀬は勉強の手も止めてそちらを凝視し、呟いた。

「私のとこ、来るかな……!?」
「うーん。そうしてもらうためにも、あまり見ない方がいいんじゃないかな?」

 朽木はコウにほとんど構わないところに寄り付かれていた。そんなことを思い浮かべると、接しに行くのは逆効果だろう。
 渡瀬は欲望を堪え、深く頷くと勉強に集中し直した。

 そしてしばらくすると、コウは素っ気なく渡瀬の背中に体側をこすりつける。
 来た……! と、ビンゴの時を前にしたようにそわそわし始めた彼女は体をそちらへ向けようとしながら、顔で是非を窺ってくる。

 まあ、問題ないのではないだろうか。そんな気持ちで頷きを返してみると、彼女はそちらを向いて手を差し出した。
 コウはその手の臭いをまた嗅いでいる。

 そして首をそこにこすりつけ始めたところで渡瀬はコウを抱き上げ、自分の膝の上に置いた。
 コウの表情は少しばかりムッとしていたが、体を優しく撫でられるとまあいいかと諦めて脱力する。

 渡瀬はわなわなと震えながら口元を緩め、拳を握った。

「やった……。ついにやったよ、私……!?」

 ひたすらに絞った声で、彼女は勝利を宣言したのだった。
 

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