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第2章 テストに向けて紆余曲折

第23話 氷砂糖の儀式 ②

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「大学の教授というものは教師でもあるが、研究者でもあるというのは知っているね?」
「はい。オムニバス形式の授業で時間が余ったら研究について紹介してくれますし」

 一年生向けの授業なので教授陣もそれこそ気を利かしてくれているのだろう。あとは科学研究費助成事業に通った、落ちたなどの話題も聞いた覚えがある。
 それを伝えてみると、教授はうむうむと頷いた。

「そういうことだね。研究者でもある教授陣の中でも基礎分野の面々は、特にアジア諸国の大学と連携して研究をする傾向があるんだ」
「臨床系は違うんですか?」

 確かに分野が大きく違うので状況が異なるのも頷ける。
 教授は自らもコップに紹興酒を注ぐと、それについて語ってくれた。

「そうだね。臨床系は海外で学んでくるというより、英語の論文を読んで実践したり、自ら考案した治療成績を論文にしたり、国内の動物病院向けに技術伝達のセミナーを開いたりという方が多いだろうかな。一方、基礎系は本当の意味での研究が多くてね、そもそも研究材料がないと始まらないんだよ」
「なるほど。研究材料を探すなら発展途上国の方が効率がいいって話ですか」
「そういうことだね」

 日原が自己解釈を口にしたところ、教授は本やポスターを取ってくる。

「例えばバイオテロの危険性で有名なあの炭疽菌。日本でも昭和の半ばくらいまでは毎年数人の発生があったんだ。けれど、適切な対処のおかげで平成になってからはほぼ見なくなった。発展途上のアジア諸国はまさにそういった厄介な病気打倒の最中でね、基本的な衛生技術や鑑別法を学びたいと考え、こちらにやってくる。また、動物でもトキやカワウソのように日本では絶滅した動物の近縁種の素材をもらってきて研究に使うことがある。そういう時にギブアンドテイクでやり取りをするわけだね」

 つまり、この紹興酒は研究で海外に出向いた際のお土産。そういうことでいいのだろう。
 ようやく関連性が見えてきたところ、教授は氷砂糖に手を伸ばした。

「私も随分昔からあちらに出張していたのだけれども、助教や准教授の時はお金がなくてね、安い紹興酒しか買えなかった。安い日本酒はアルコール臭がする一方、高い日本酒はフルーティな香りがあって味も奥深い。そんな差があるように、安い紹興酒は酸味があって飲みにくかったりする。それを紛らわすのが、この氷砂糖を入れる飲み方なんだよ」

 袋を破って氷砂糖を一つ摘まみ上げた教授は、飲むのに苦戦していた鹿島のコップにそれを入れる。

 甘みが増え、飲み口が柔らかくなる――ちょうど、チューハイの飲みやすさと似たことだろう。
 味に苦戦していた鹿島も、それならまだ飲めるようだった。

 微笑んだ教授は自らのコップにも氷砂糖を入れる。

「一人で行くばかりではなくてね、関係がある学生は研究費で連れていけることもある。そうして現地の研究員や学生と一緒に安酒をかっ食らった名残だね。私はどうも高い紹興酒でも氷砂糖を入れた味の方が好みになってしまったようだよ」

 昔を思い出したのだろう。教授は遠い目をしながら語った。
 海外に行くだけでもわくわくするというのに、そちらでも大学などのバックヤードを覗けるなんて実に楽しそうなイベントである。

 これに興味を抱くのは朽木だけではない。旅好きな渡瀬も、珍しいこと好きの鹿島もその体験について詳しく聞きたそうに身を乗り出し始めていた。
 無論、日原もこれには興味をそそられている。

 そんな食いつきを見て、教授は楽しそうに笑っていた。

「あ、次はウチも氷砂糖を入れてみたいです!」
「そうだね、試してみるといい」

 割とぐびぐび飲んでいた朽木は新たに一杯をもらうと共に氷砂糖を試していた。
 興奮なのかお酒の力なのか、彼女の頬は紅潮している。

「あと気になるのは動物のことです。現地での研究内容、聞かせてください……!」
「ああ、それはね――」

 朽木の問いかけに、教授は慣れた様子で答えようとする。

 そうしてたっぷりと一時間程度は話し込んだだろうか。
 最早、他の研究室巡りよりも詳しい内容を知るところとなっただろう。

 先輩に掴まされた面倒事かと思いきや、とんでもない。
 テストの教材も手に入れることができたし、研究室で体験できるものの幅広さにも気付くことができた。

 獣医学部棟から寮への帰り道、四人の表情に浮かぶのは今後の研究室選びへの大きな期待だった。
 臨床系への興味に満ちていた渡瀬も今日の話を経て悩ましそうに腕を組んでいる。

「ううーん、そっかぁ。海外での体験も面白そうだったね。基礎系って地味な研究が多いのかと思ったけど、こんな面白さもあるなんてびっくりだよ」

 彼女の意識の変化は基礎系押しである朽木にとっては鼻が高いのだろう。彼女はふふんと胸を反らせた。

「地道な世界ならでは。寄生虫講座とか凄いお話を持っていそう」
「ひえっ、寄生虫……!?」

 テグーの餌になるデュビアの件もあって虫と名がつくものへの耐性が下がっているのだろうか。渡瀬は近づきがたそうにしている。

 けれども教授の話で世界観が変わったこともあり、食わず嫌いかもしれないという気持ちは芽生えたのだろう。
 朽木の言葉に揺らいでいる様子だ。

 では薬理や生化学のような研究らしい分野に興味を示していた鹿島はどうなのだろうか。
 日原は問いかけてみる。

「鹿島はまだ気が変わったりはしていないの?」
「今日みたいなこともありそうだし、研究室への加入は四年生からだし、判断するには早いだろ。例えば中央畜産会っていう畜産系の公益社団法人や大学が獣医の卵に対して一週間程度の臨床実習や行政体験を年に一度企画してくれるらしい。それで将来をもっと定めてからでも遅くない。あとは日本獣医学生協会JAVSに入って全国の獣医学生と交流するのもいい。知識を入れる機会は活用しないとな」
「そんなものもあるのっ!?」

 渡瀬は先輩との繋がりが強いが、鹿島は親が獣医ということもあって別方向での情報を持っている。
 渡瀬でさえ初耳だったらしく、勢いよく食いついていた。

 エセ優等生は眼鏡を光らせ、その情報を語る。

「獣医は希少だからな。地方公務員になる気なら、一年生から月十万円の奨学金をもらえる制度なんてのもあるぞ。もらった期間の一.五倍の期間働けば返還義務はないそうだ。こういう情報もなく学生時代を過ごしてしまうのは惜しいな」
「吐いてっ。知っている限りを今の内に吐いてっ!?」
「はっはっは」

 これもまたいつか交渉材料にする気なのか、鹿島は渡瀬に揺さぶられても黙して語らない。
 まあ、彼も性悪とまではいかない。
 必要そうな頃合いにはその都度教えてくれることだろう。

 腕力では無理と悟った渡瀬は口惜しそうに引き下がる。
 そんな時、彼女の携帯電話が鳴った。どうもメールが来たらしい。

 何か深刻なことでもあったのだろうか。
 画面を見た彼女は「えっ」と言葉を漏らし、青い顔になった。

「どうかした?」

 日原が問いかけると、渡瀬はメールを見せてくる。
 送信者は生理学研究室を案内してくれた六年生の栗原先輩だ。

 曰く、『このままだと羊が病気になるかも』だそうだ。
 渡瀬の顔を見れば、それは想定もしていなかった指摘ということがよくわかる。

「なんで? ご飯も薬もちゃんとあげているし、消毒もしっかりとしているのに……」

 彼女が羊の畜舎周囲に消石灰を撒いていたことは日原もよく知っている。
 床敷に関しても羊が引き込んでしまった乾草と共に頑張って交換していたはずだ。

 ほくほくとしていたムードも霧散する。
 メールの件で急いで戻ろうとする渡瀬に続き、三人も足早に寮へ帰るのだった。
 

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