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第1章 少々特殊なキャンパスライフ
第16話 不妊去勢手術 ①
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脳は新しい体験が多いと時間を長く感じるものらしい。
それもあって日原は月日が経つのが随分と遅く思えていた。
昼夜共にいる学友とはもう数年来の仲ではないか。
そんな思いさえ湧いてくるが、まだ五月中旬と二ヶ月も経っていない。
実に濃密な日々だ。
そして、平日が終わって土曜日の朝。
それはにぎにぎという感触とともに始まった。
「む、うっ……。うぐっ……」
これも毎日の恒例行事だ。
枕の横で丸くなって寝ていたコウは目覚めると腕に両前脚を乗せ、にぎにぎを開始。
それで起きないとわかると、にゃあと鳴いたり顔から胸にかけてわざと踏んで往復したりする。
「はい、起きます。起きます……」
そういえばコウはこのところ、起こす素振りをしてすぐにリビング行かなくなった。
途中に水飲み休憩を挟むことはあるものの、大抵は起きるまで粘ってくる。これも慣れてきた変化なのだろうか。
ばっと起き上がれるほどエンジンの点きが良くない日原は胸の上に乗ったコウを撫でて時間を稼いだ。
しつこくこびりついていた眠気も、ごろごろという猫特有のエンジン音を聞きながらあくびをしているうちに鎮まっていく。
「ん? そういえばコウも去勢済みなんだっけ」
脇の下を持って仰向けに寝転がして股に注目する。
随分前に去勢をされたようで、陰嚢はすっかり萎んでいた。
触ってもただの袋である。
単なる好奇心だったが、やられる方としてはいい気分がしない。体を捻ったコウはリビングに向かってしまった。
「うん、ご飯を作ろうね」
これが日原とコウの毎朝の過ごし方だ。
後を追いかけてご飯の準備を始める。
生活にこなれてきた一方、薬や輸液の補充も兼ねてコウは定期的に血液検査を受けている。
だが腎不全の際は特に気になる腎臓や赤血球の数値に悪化はなかった。
腎臓の数値は損傷率、赤血球の数値は腎不全が引き起こす症状のモニターだ。
腎臓が損傷すればろ過機能が落ち、毒素を排出しきれないので尿毒症としての倦怠感や吐き気が生じる。
赤血球の産生を促すエリスロポエチンは腎臓の細胞から分泌されるので、同様に腎機能が落ちると腎性貧血が起こるそうだ。
内科学教授でもある担任の武智教授は、「食欲があってじゃれる元気もあるなら状態としてはよくコントロールできている方だろう」と評していた。
「さて、それじゃあ今日の予習かな」
本日はクラスメイトが引き取った子犬の不妊手術と、子猫の去勢手術がある。
それに際して執刀する外科学教授が上級生用の授業テキストを配ってくれていた。
日原は大学図書館で借りた教科書を元に予習で理解を深めていく。
そんな時、インターホンが鳴った。
鍵を開けてみると、待っていたのは渡瀬である。
「やっ、おはよう! 今日も予習をしているんでしょう? できれば教えてほしいなって思って来ました!」
手を上げて元気のよい挨拶だ。もうひと仕事を終えてきたというのもあるが、彼女は朝だからといってエンジンが衰えることはないのだろう。
蜂とテグーの飼い主らしく朝に弱い鹿島と朽木とは対照的だ。
「いいよ。反復練習のためにちょうどいいし、どうぞ上がって」
彼女は大動物の世話が終わった後、勉強で詰まったところがあるとそのまま押しかけてきて授業前に消化する。
一度や二度で終わるかと思いきや、定着したようだ。
けれど勉強前には決まって一幕がある。
彼女はリビングで部屋を見回し、コウを探した。
この来襲がコウにとっては面倒なのだろうか。彼は最近、渡瀬の声がするとクローゼットに隠れてやり過ごすことを覚えた。
僅かに戸が開いているのがその痕跡である。
「くっ……。私、そんなに嫌われてるのっ!?」
「コウはあまりはしゃがない子だからそっとしておいて欲しいんじゃないかなぁ」
十四歳という年齢もあって活発ではない。
この季節なのでベランダに寄ってきた虫に興奮した時が久しぶりに見た俊敏な姿だったくらいだ。
「かっ――」
「……?」
そんなことを思い出しながら言ってみると、渡瀬は何かを言いかける。
「飼い主の言うことなら信じるよ!?」
だけど、それで嫌われたままだったらちょっと怒る。
そう言いたいのか、迫真の表情だ。彼女は未練がましくクローゼットをチラ見しながら、ようやくペンとテキストを取り出した。
当初の目的を忘れてはいけない。
すでに時刻は午前八時。手術は九時から動物病院棟でと決まっている。
「結局のところ、不妊去勢手術をするのはテキストにある通り、メリットがデメリットを上回るからなんだよね?」
「うん。僕が借りた教科書で調べたんだけど、同じことが書いてあったよ」
日原は渡瀬に頷いて返す。
不妊手術のメリットは乳腺腫瘍と子宮蓄膿症の予防、発情に関するストレスの軽減だ。
犬だと乳腺腫瘍がガンの中で最も発生率が高く、四頭に一頭は発症するという。
初回発情前の手術では発生リスクが〇.五パーセントまで下がり、二回目発情までに手術すれば八パーセント。
それ以降は手術をしない場合と差がなくなるそうだ。
そして六歳以上になれば子宮蓄膿症の恐れが増す。
犬だと膿が子宮に溜まり続ける傾向があり、破裂すればショックや腹膜炎で死ぬ可能性が非常に高い。
――そんな情報を二人はテキストで確認した。
「麻酔のリスクとか、性的に未成熟になるから中性的になるってデメリットもあるけど、手術をしない場合に比べればリスクが軽微だからすべきって話だってさ」
「去勢手術だと肛門周囲腺腫や前立腺肥大、会陰ヘルニア予防に効果があるんだね?」
「ああ、うん。でもそれは犬の話。猫はあまり前立腺が発達していないから去勢は発情期のストレス軽減とか気性を落ち着けるのが主なんだって」
これは体の造りの違いから生まれる、意外な差だ。
動物種によって意義が変わるが、基本的に不妊去勢手術を行うメリットが大きいのは変わらない。
さらにもう一つ、日原は調べていたことがある。
「ペットショップだと、二ヶ月齢くらいの犬猫が初回ワクチンは終えた状態で売られていることが多いんだよね。だから犬なら三ヶ月、四ヶ月齢に二、三回目のワクチンをして、五ヶ月目に狂犬病のワクチン。それから六ヶ月くらいの初回発情前を目途に不妊去勢手術をするって流れになるみたい」
「そこまで調べたの!?」
「うん。皆を見ていたらさ、僕にも目標ができてね」
へ? と渡瀬は目を丸くする。
彼女は臨床系と大動物に関心がある。
同じく、鹿島は薬理や生化学。朽木は解剖などの基礎系やエキゾチックアニマルの診療だ。
まだまだ新入生なだけに一つに絞られていないが、三人は向かうべき道を定めつつある。
そこへの気後れが解消されたと共に、ちゃんと追いかけたいと思ったのだ。
「何の分野がいいかは定まっていないんだけど、ひとまず学年で主席の成績を目指すよ。そういう努力なら何かの道を決めた時にも活きると思うからさ」
考えを言ってみるとどうだろう。渡瀬は「おお……!」と驚きを口にしている。
彼女は直後に破顔した。
「いいと思う! そっかぁ、なるほど。日原君らしいんじゃないかな。ほら、『ひばら』だからこつこつと積み上げて川まで堰き止めるビーバーみたいな感じで、ね?」
「えっと、ありがとう……?」
なんとも捉えにくいが、発音が似ていることを掛けて褒めてくれたのだろう。
応援をありがたく思っていた時、日原はあることに気付いて、「……あ」と声を零す。
クローゼットからコウが顔を覗かせていたのだ。
それを察した渡瀬はばっと振り返るのだが、圧を感じ取ったコウはもぐら叩きの如く、引っ込んでしまう。
気付いてから目力を和らげても再び出てくることはない。
「さっきの声、またうるさかったみたいだね……」
「くぅっ、もうちょっとだったのに……!?」
関係の前進は認められるものの、成果を得られなかった彼女は口惜しそうだった。
――結局のところ、それからコウが出てくることはなかった。
予定時間前に病院入りする必要もあるので長期戦は望めない。二人はそこそこに勉強を切り上げて鹿島と朽木と合流し、動物病院棟の手術室に向かう。
それもあって日原は月日が経つのが随分と遅く思えていた。
昼夜共にいる学友とはもう数年来の仲ではないか。
そんな思いさえ湧いてくるが、まだ五月中旬と二ヶ月も経っていない。
実に濃密な日々だ。
そして、平日が終わって土曜日の朝。
それはにぎにぎという感触とともに始まった。
「む、うっ……。うぐっ……」
これも毎日の恒例行事だ。
枕の横で丸くなって寝ていたコウは目覚めると腕に両前脚を乗せ、にぎにぎを開始。
それで起きないとわかると、にゃあと鳴いたり顔から胸にかけてわざと踏んで往復したりする。
「はい、起きます。起きます……」
そういえばコウはこのところ、起こす素振りをしてすぐにリビング行かなくなった。
途中に水飲み休憩を挟むことはあるものの、大抵は起きるまで粘ってくる。これも慣れてきた変化なのだろうか。
ばっと起き上がれるほどエンジンの点きが良くない日原は胸の上に乗ったコウを撫でて時間を稼いだ。
しつこくこびりついていた眠気も、ごろごろという猫特有のエンジン音を聞きながらあくびをしているうちに鎮まっていく。
「ん? そういえばコウも去勢済みなんだっけ」
脇の下を持って仰向けに寝転がして股に注目する。
随分前に去勢をされたようで、陰嚢はすっかり萎んでいた。
触ってもただの袋である。
単なる好奇心だったが、やられる方としてはいい気分がしない。体を捻ったコウはリビングに向かってしまった。
「うん、ご飯を作ろうね」
これが日原とコウの毎朝の過ごし方だ。
後を追いかけてご飯の準備を始める。
生活にこなれてきた一方、薬や輸液の補充も兼ねてコウは定期的に血液検査を受けている。
だが腎不全の際は特に気になる腎臓や赤血球の数値に悪化はなかった。
腎臓の数値は損傷率、赤血球の数値は腎不全が引き起こす症状のモニターだ。
腎臓が損傷すればろ過機能が落ち、毒素を排出しきれないので尿毒症としての倦怠感や吐き気が生じる。
赤血球の産生を促すエリスロポエチンは腎臓の細胞から分泌されるので、同様に腎機能が落ちると腎性貧血が起こるそうだ。
内科学教授でもある担任の武智教授は、「食欲があってじゃれる元気もあるなら状態としてはよくコントロールできている方だろう」と評していた。
「さて、それじゃあ今日の予習かな」
本日はクラスメイトが引き取った子犬の不妊手術と、子猫の去勢手術がある。
それに際して執刀する外科学教授が上級生用の授業テキストを配ってくれていた。
日原は大学図書館で借りた教科書を元に予習で理解を深めていく。
そんな時、インターホンが鳴った。
鍵を開けてみると、待っていたのは渡瀬である。
「やっ、おはよう! 今日も予習をしているんでしょう? できれば教えてほしいなって思って来ました!」
手を上げて元気のよい挨拶だ。もうひと仕事を終えてきたというのもあるが、彼女は朝だからといってエンジンが衰えることはないのだろう。
蜂とテグーの飼い主らしく朝に弱い鹿島と朽木とは対照的だ。
「いいよ。反復練習のためにちょうどいいし、どうぞ上がって」
彼女は大動物の世話が終わった後、勉強で詰まったところがあるとそのまま押しかけてきて授業前に消化する。
一度や二度で終わるかと思いきや、定着したようだ。
けれど勉強前には決まって一幕がある。
彼女はリビングで部屋を見回し、コウを探した。
この来襲がコウにとっては面倒なのだろうか。彼は最近、渡瀬の声がするとクローゼットに隠れてやり過ごすことを覚えた。
僅かに戸が開いているのがその痕跡である。
「くっ……。私、そんなに嫌われてるのっ!?」
「コウはあまりはしゃがない子だからそっとしておいて欲しいんじゃないかなぁ」
十四歳という年齢もあって活発ではない。
この季節なのでベランダに寄ってきた虫に興奮した時が久しぶりに見た俊敏な姿だったくらいだ。
「かっ――」
「……?」
そんなことを思い出しながら言ってみると、渡瀬は何かを言いかける。
「飼い主の言うことなら信じるよ!?」
だけど、それで嫌われたままだったらちょっと怒る。
そう言いたいのか、迫真の表情だ。彼女は未練がましくクローゼットをチラ見しながら、ようやくペンとテキストを取り出した。
当初の目的を忘れてはいけない。
すでに時刻は午前八時。手術は九時から動物病院棟でと決まっている。
「結局のところ、不妊去勢手術をするのはテキストにある通り、メリットがデメリットを上回るからなんだよね?」
「うん。僕が借りた教科書で調べたんだけど、同じことが書いてあったよ」
日原は渡瀬に頷いて返す。
不妊手術のメリットは乳腺腫瘍と子宮蓄膿症の予防、発情に関するストレスの軽減だ。
犬だと乳腺腫瘍がガンの中で最も発生率が高く、四頭に一頭は発症するという。
初回発情前の手術では発生リスクが〇.五パーセントまで下がり、二回目発情までに手術すれば八パーセント。
それ以降は手術をしない場合と差がなくなるそうだ。
そして六歳以上になれば子宮蓄膿症の恐れが増す。
犬だと膿が子宮に溜まり続ける傾向があり、破裂すればショックや腹膜炎で死ぬ可能性が非常に高い。
――そんな情報を二人はテキストで確認した。
「麻酔のリスクとか、性的に未成熟になるから中性的になるってデメリットもあるけど、手術をしない場合に比べればリスクが軽微だからすべきって話だってさ」
「去勢手術だと肛門周囲腺腫や前立腺肥大、会陰ヘルニア予防に効果があるんだね?」
「ああ、うん。でもそれは犬の話。猫はあまり前立腺が発達していないから去勢は発情期のストレス軽減とか気性を落ち着けるのが主なんだって」
これは体の造りの違いから生まれる、意外な差だ。
動物種によって意義が変わるが、基本的に不妊去勢手術を行うメリットが大きいのは変わらない。
さらにもう一つ、日原は調べていたことがある。
「ペットショップだと、二ヶ月齢くらいの犬猫が初回ワクチンは終えた状態で売られていることが多いんだよね。だから犬なら三ヶ月、四ヶ月齢に二、三回目のワクチンをして、五ヶ月目に狂犬病のワクチン。それから六ヶ月くらいの初回発情前を目途に不妊去勢手術をするって流れになるみたい」
「そこまで調べたの!?」
「うん。皆を見ていたらさ、僕にも目標ができてね」
へ? と渡瀬は目を丸くする。
彼女は臨床系と大動物に関心がある。
同じく、鹿島は薬理や生化学。朽木は解剖などの基礎系やエキゾチックアニマルの診療だ。
まだまだ新入生なだけに一つに絞られていないが、三人は向かうべき道を定めつつある。
そこへの気後れが解消されたと共に、ちゃんと追いかけたいと思ったのだ。
「何の分野がいいかは定まっていないんだけど、ひとまず学年で主席の成績を目指すよ。そういう努力なら何かの道を決めた時にも活きると思うからさ」
考えを言ってみるとどうだろう。渡瀬は「おお……!」と驚きを口にしている。
彼女は直後に破顔した。
「いいと思う! そっかぁ、なるほど。日原君らしいんじゃないかな。ほら、『ひばら』だからこつこつと積み上げて川まで堰き止めるビーバーみたいな感じで、ね?」
「えっと、ありがとう……?」
なんとも捉えにくいが、発音が似ていることを掛けて褒めてくれたのだろう。
応援をありがたく思っていた時、日原はあることに気付いて、「……あ」と声を零す。
クローゼットからコウが顔を覗かせていたのだ。
それを察した渡瀬はばっと振り返るのだが、圧を感じ取ったコウはもぐら叩きの如く、引っ込んでしまう。
気付いてから目力を和らげても再び出てくることはない。
「さっきの声、またうるさかったみたいだね……」
「くぅっ、もうちょっとだったのに……!?」
関係の前進は認められるものの、成果を得られなかった彼女は口惜しそうだった。
――結局のところ、それからコウが出てくることはなかった。
予定時間前に病院入りする必要もあるので長期戦は望めない。二人はそこそこに勉強を切り上げて鹿島と朽木と合流し、動物病院棟の手術室に向かう。
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