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第1章 少々特殊なキャンパスライフ

第13話 基礎系研究室 ②

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「あっちが完全な暗室と、日照時間をコントロールした部屋。あとは薬理学の飼育室ね。詳しい話は生理学研究室の飼育室に入ってからにしようか」

 そう言って案内されたのは何段にもなる棚にマウスやラットの飼育箱が陳列されている部屋だった。
 先輩は向かって左側に立ち、右側の棚に向けてどうぞどうぞと手を向ける。

 飼育ケースにいるのは普通のラットに比べて二倍は大きな体のラットや、逆に細いラット、または体のサイズが小さいものなど様々だ。

「そこは特定の遺伝子を働かなくさせたマウスやラットがいるところね。例えば食欲を例に挙げると、それを増進させる生理活性物質を作る機能とか、それを受ける受容体の機能を抑制するとか、そういうことをして反応を見るための動物なわけ」

 先輩の言葉を聞きながら日原たちはマウスやラットを眺める。

 高校生物でもノックアウトマウスという名前は聞いた覚えがあった。
 こんな動物を観察しつつ、生命の神秘を探求――確かに面白い分野かもしれないと心をくすぐられる。
 マウスなんて見かけはハムスターとほとんど変わらないことから、随分と楽しそうな講座に思えてしまう。

 そうして各飼育ケースを覗いていたところ、日原は不意に背中から注がれる視線に気づいた。
 どうやら先輩がじっと、こちらを見つめていたらしい。
 単なる監督とは少し違う雰囲気にどきりと身を引いてしまう。

「え、ええと。先輩。質問してもいいですか?」
「ごめんごめん。何かな?」

 その異質なところを敢えて見なかったことにして問いかけると、彼女は頷いてくれた。

「これだけの数ですし、長期休暇の時は変わりばんこで世話をするんですか?」

 我ながら、何とも本質とはかけ離れた質問をしてしまったものだ。
 先輩からの視線に動揺したにしても、もう少し問うべきことがあっただろう。

 尤も、それもそれで現実的な話だったらしい。
 彼女は頷きながら答えてくれた。

「そりゃあもちろんだ。獣医学生は倍率が高い分、地元じゃなくて全国から均等に集まるからさ。あと、その分帰省には時間がかかるしね」

 先輩はこんな質問を笑って受け止めてくれる。
 だがその後になって少しばかりシリアス気味な顔になると、四人の顔を見回す。

 やはり目を留める対象は他でもなく日原だった。

「うんうん。この中だと君がちょっと心配だね。マウスやラットは確かに可愛いけど、それだけの世界ではないからね。一年生、じゃあ次はこっちを見て」

 先輩はそう言って、日原の肩を叩いた。
 彼女は背にしていた左側の棚に手を向け、促してくる。

 その先に一体何があるのだろうか。
 嫌な予感がして出遅れてしまった日原は、他の三人が息を飲む様を見た。

 遅れて一歩近づき、飼育ケースを覗き込む。
 反対側と同じように様々な体型のネズミがいた。
 活発に行動したり、寝こけたりしているのも変わりない。肝心なのは頭部に樹脂の管が突き刺さっていることだ。

 それを目にした日原は、うわっと口を押さえて後ずさる。

「あ、あのっ、栗原先輩。このラット、頭にプラスチックか何かが刺さって……!?」

 わなわなと震えて指差したところ、先輩は静かに頷いた。

「それはカニューレ。ほら、脳はいろいろな伝達物質の司令塔でもあるでしょう? 生理活性物質の生産に関する遺伝子をいじった動物に、その物質を外部から与えたらちゃんと正しい反応になるっていうのは対照実験として必要だからね。だから脳に直接薬物を投与して変化を確かめるわけね」

 ポピュラーな実験と言い切るのに近い様子だ。
 彼女は指を立て、さらに続ける。

「生理学は日照時間とかこういう生体活性物質の変化を元にした実験をするんだけど、薬理学はちょっと違うね。例えばノックアウトマウスで元から特定の機能がないものを使ったり、特定の臓器に毒性のある薬品を使ったりしてモデル動物を作った後、その治療に有効そうな薬をやって効能を確かめる。生化学って研究室なら、遺伝子のメチル化とかを操作して特定の遺伝子を有効にしたり、無効にしたり。あとは最近流行りのiPS細胞に関する研究なんかを中心にやっていくね。細胞培養が中心の研究室かな」

 ひとしきり説明をした後、彼女は改めて日原を見つめてきた。

「実験動物はね、最後には安楽殺が付き物だから可愛いだけっていうのでは選ばないようにね。もちろん、その前に実習があるから十分に痛感すると思うんだけど」
「つ、痛感ですか……?」

 動物に触れ合いながらの実験だから楽しそう。
 そんな気持ちを少しでも抱いていたことが先輩には筒抜けになっていたらしい。

 日原がオウム返しに問いかけると、先輩は自らの過去を回顧したのだろうか。
 苦笑しながら頬を掻いた。

「私なんかはマウスやラットの安楽殺で最初は足腰が抜けかけちゃったから、なおさら後輩が心配になるというかさ」

 彼女はたははと苦笑すると、また日原の肩に触れる。

「まだまだ入学したてだから愛情を注ぐことばかりでもいいんだけど、しっかりと向き合うようにね。まずは解剖実習で第一段階かな? その後に生理学実習でこういうペットじみた動物の実験もひととおりすると思うよ」
「そ、その実習ってそんなにインパクトがあるものなんですか?」
「計画書に則って、一般的な安楽殺法が取られるんだけど、動物の病死や老衰は見ても安楽殺は見たことがないでしょう? しかも相手は病気でもない。そんな動物の安楽殺を自分の手でするとなるとね、人によっては心に響き過ぎることもあるわけだよ」

 そう語った先輩は少しばかりたじろぐ日原から時計に目を移した。

 時刻はすでに午後一時二十分過ぎ。
 次の研究室を見るならばここで切り上げるべき時間帯だろう。

「次もどこかに行くんだっけ? それじゃあ生理学講座の見学はここまでということで。大学六年間は長いようであっという間だからね。できることをできるうちにして、しっかり遊んで、しっかり勉強するといいよ」

 私もさぁ、ついこの間入学したと思ったのに……とぼやく先輩に背を押され、日原たちは退室した。
 栗原先輩とは三階で別れたが、日原はその後もまだ胸にもやつきを抱えたままだった。

「日原君、どうかしたの?」

 渡瀬はそれに気付いたのだろう。気遣って声をかけてくれる。
 次の研究室に向かうところだったが、鹿島と朽木の二人も足を止めてくれた。

「ううん……なんというか、実習ってそんなに衝撃的なものかなって気になってさ。皆はどう思った?」

 そういえば高校生時代も生体を使った実習というものはした覚えがない。
 それを思うと、確かにハードルが高いものにも思える。

 けれども残る三人は高を括っているわけでもなく、しかと見据えている様子だ。

「ん~。私はおばあちゃんの家で繁殖和牛を見ていたからね。毎年子牛が売られていくのは見てきたし、奇形や病気で廃牛になっちゃったって話も聞いたことがあるから、愛情以外での処置っていうのにも少し理解があるかな」

 小さい頃は泣いたけれどと思い出しつつ語った渡瀬は鹿島と朽木に目をやった。

「ふむ。俺は親からよく聞いているし、ミツバチからも産業動物の何たるかは薄々と感じ取っているから実験動物に関しても少しは想像がつく」
「ウチも。餌用のマウスやウズラ、虫なんかをあげるし、ペット以外のものもなんとなくわかる」

 二人もそれぞれ答えがあるようだ。

 それを聞いて日原は実感した。
 そもそも、自分はこの学科に入学した同級生より意欲は低めだと思っていたが、差はそれだけではなかったのだ。

 動物は愛情を注ぐべき対象で、獣医はそれを助ける存在。
 そうとしか捉えて来なかったことが、最大の違いなのかもしれない。

「……実習、少し怖くなったかも」

 ようやく獣医らしい勉強ができる。そう思っていた気持ちに僅かな陰りが差していた。
 
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