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又、夕
涙
しおりを挟む「…東雲」
襖を開けると、髪は乱れやつれた東雲が窓際に座っていた。
東雲は夕霧にちらりと目をやると、何も言わずにまた窓をみる。夕霧は黙って東雲の横に座った。二人の間にしばらくの沈黙が流れる。外の喧騒がよく聞こえた。すると東雲が口を開く。
「……馬鹿だと思ってるだろ」
東雲は月を見上げたまま言う。どう言っていいか分からない夕霧はキュと口を結んだ。ただ、東雲を見つめるしかなかった。
「二人でさ、逃げようって言ったんだよ」
「……うん」
夕霧は畳に金平糖を置いた。東雲は白い金平糖を摘むと、指でコロコロと弄りながら言う。
「裏の小路で落ち合おうって。」
「うん」
「どうなったと思う?」
突然の問いかけに夕霧は、分かんないとポロリと溢れる。
「来なかったんだよ」
東雲のハッと乾いた笑いが部屋に響いた。なにも、気持ちは笑っていないのに、顔と声だけ、軽やかに笑う。
「そんで、突っ立ってるまま御用だ。なーんにも抵抗する気も起きなかった」
「……」
「あの野郎、怖気付きやがった……」
語尾になるにつれて、声が震えた。月夜に照らされる東雲の頬には涙が伝っている。
「馬鹿だよな……馬鹿だよ……」
「東雲……」
「到底身請けできる野郎じゃねえ、だけど、あの野郎と幸せになりたいと思っちまったんだ」
本当に馬鹿、と畳にぼたぼたと涙が落ちた。
「東雲……」
「愛してるんじゃなかったのかよ……」
片手に握られた硝子の簪を見る。
「いっそ死んでしまおうか」
東雲はキラリと光る簪を喉に突き立てた。その瞬間、夕霧は簪を東雲の手から奪い、窓の外に投げた。外からは、あぶねえだろばかやろうと怒鳴り声が聞こえる。
「なにすんだ!」
「いるのかい、あの簪」
「だって、ありゃあ……」
「女が死ぬ気で覚悟したっていうのに、怖気付いた野郎の簪に、東雲は殺されるのか!」
いつにないはっきりとした言葉は、東雲の心に刺さった。東雲は、どこかでまだ、情夫への気持ちを捨てきれていなかったのかもされない。そのことを、今自覚した東雲は、また、ああそうか、馬鹿だなあと呟く。
「……東雲、逃げよう」
「そんな……嘘だろう」
夕霧は、東雲の両手を握りまっすぐな目で言った。
「東雲ならその綺麗な声で、きっとどこの街でも生きていける」
「街に出られやしないのに」
「私が笛を吹こう。東雲は歌おう、きっと、2人でやって行ける」
「夕霧、なにを……」
「本気だよ」
和紙からザラリと金平糖がこぼれる。畳に溢れる白色と桃色の金平糖は、端まで転がっていった。まばらに転がった金平糖は、畳の上に星空を作った。
そんなことは気にも留めず、夕霧は話し続けた。
「夕霧……?」
「……あの狸親父は、金魚は鉢でしか生きられないと言った。池じゃあ烏に食われると」
今までにみたことのない夕霧の姿に東雲の涙は引っ込んでいた。瞳は凛とした雰囲気をまとい、東雲を見つめる。
「そんなこたぁない。わたしたち2人なら、きっと、外の池でも生きていける」
そう力強くいう夕霧は、足抜けで折檻されたばかりの東雲でさえ揺らぐほどであった。
「……どうやって」
「考える。逃げられる方法を」
絶対、と付け加えた。東雲は、月夜に照らされた夕霧が初めて男に見えた。
「……絶対?」
「だから、死ぬなんて考えちゃダメだ」
生きよう。その夕霧の強い眼差しは、東雲に染みる。
「わたしたちなら、大丈夫」
東雲のおでこにこつんとぶつける。
「……ほんとうに、夕霧も馬鹿」
そう言って流す東雲の涙は、絶望の色に、希望が少しだけ混ざっていた。
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