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35.「ニーナは俺が嫌いか?」
しおりを挟む赤い月が昇っている。禍々しさすら感じさせるのに、降り注ぐ月光は明るくて森の中はまるで昼間のようだ。
やはりこの森は不思議だ。入り口は同じだったはずなのに竜を乗せた馬は正面からやってきた。今、この森は残念ながら猫の味方ではないらしい。
「んにゃっ!」
慌てて近くの草むらに逃げ込んで真っ直ぐ走り抜けたのに、出てきたのは入った場所と同じ場所だったからだ。これが竜の味方をする森の答え。
馬から下りたロルフは逃げ場をなくした猫に駆け寄り、すかさず抱き上げる。
「君はすぐに猫化して服を脱ぎ捨ててしまうな。この愛らしい姿で帰ってくるつもりだったのか?」
「……にゃっ」
帰るつもりなんてなかった。行き場所なんてないけれど、もういっそのことこの姿のままどこか遠くへいけないだろうかとすら考える。呆れるほどの現実逃避だ。
耳を伏せて俯いていると、そのすきに首になにかが巻かれる。
驚いて首元に触れると猫の肉球でもわかるほど上質なレースがあしらわれたリボンだった。
それに、特別な魔力も感じる。普段着ている服とは全くレベルの異なる質であることは一目瞭然だ。
不安げに顔を上げるとロルフが眉をさげる。
「君の友人、リリィと言ったか。彼女が君のためにと提案してくれたドレスだ。猫の姿ではこうして首飾りになる。……どうか着てみせてくれないか?」
どうやら、ニーナが脱ぎ捨てた服を持って追いかけようとしたロルフに、リリィが完成したばかりのドレスを持たせたらしい。
王族の服はいつ竜化と人の姿を繰り返してもいいように特別な魔法糸で作られていると聞いたことがある。
唯一の友達であるリリィが提案し、愛するロルフが自分のために誂えてくれた特別なドレス。猫の手は首飾りを解けるほど器用にできてはいないし、人の姿にならなければどちらにせよこのまま城へ連れ戻されてしまうだろう。
ロルフと言葉を交わすことからこれ以上逃げることはできそうにない。選択肢は観念することだけだった。
ニーナはまた俯いて、静かに猫から人の姿へと戻る。
「驚いたな……あまりに綺麗で言葉が見つからない」
ドレス姿のニーナを凝視するロルフは照れるように口元に手をやる。ドレスは本当に美しくて、ニーナはさらに困惑してしまう。
「私は……こんな素敵なものをいただけるような猫ではありません……」
堪えきれなくて、翡翠色の瞳から大粒の涙をこぼした。
レースの首飾りは人の姿になったニーナを純白のドレスとなって包み込む。
繊細な刺繍がたっぷりと施されていて、魔法で紡がれた糸は星の光を吸い込んだ雲のようにきらきらと輝いている。どれだけ貴重で、どれだけ自分に不釣り合いな美しさか一瞬にして理解させられる。
そして、純白のドレスが表す意味も。ウィルデン王国では婚約の際、伝説を模して男性が女性に純白のドレスを贈り、女性が香り玉や香水をお返しするのが習わしだ。
ウィルデン王国は竜と猫と香水によって成り立つ特殊な国で、結婚に互いの身分は関係ない。もちろん、貴族は家同士の繋がりだと意識する者が大多数ではあるが、ルールとして当人同士が純白のドレスと香水を交わすことによって婚約を成立させることができる。
だからこそ、ニーナは自分が纏うドレスの意味に顔を覆わずにはいられなかった。
「俺は君を心から愛している。離したくない」
ロルフがニーナを逃がさないと腕に閉じ込める。ニーナはそれにただ首を横に振った。
「……ですが、愛は目に見えません。もう私には分からないのです。もし、ロルフ様の言葉が真実なら呪いが解けるはずなのにって……」
こんなに愛しているのに。
「ニーナ。君が涙を流すほど不安になるのは……俺を信じ切れないからだろう? 俺の不甲斐なさがずっと君を傷つけ続けている」
そうなんだろう、と優しく問われる。すぐに首を振れない自分がいた。
愛を信じていなかったのは私のほうだった。ロルフから逃げたのはそれが伝わってしまうのが怖かったから。なんて酷いんだろう、私は。
「違うんです……っ、ロルフ様のせいじゃ……」
ロルフのせいではない。もし、本当に彼が《真実の愛》を知ることで呪いがとけるのであれば、その原因は自分にある。
理由はとっくに分かっていた。だから、縋るようにこの森にきてしまったのだ。
ニーナは、ロルフとの出逢いの記憶を完全に取り戻せていなかった。
どれだけ愛を囁き合っても、体を重ねても、ロルフが大切に慈しんでくれている過去の自分の言動も、ロルフがくれた言葉も思い出せない。
そしてそれは、自分に原因があることもわかっていた。
「分かっていたんです! 十三年前、ロルフ様が一方的に私の過去の記憶を消したんじゃないってこと……っ、あれは私がお願いしたんですよね? あの森に入った女の子が殺されたのを見て怯えて……」
頭がズキッと痛む。ここまでは、ここ数日夢にみて思い出したものだ。
「ニーナ、無理に思い出す必要はない。もういいんだ」
ロルフがニーナを記憶の波から引き摺り出そうとする。森がざわめいて、ニーナの耳を塞ぐ。
そうだ。あのとき、神々の森に入って遊んでいたのはニーナだけでなく、他にも数人の子がいて、年の離れたお姉さん、今の自分と同い年くらいの女の子が一人混ざっていた。
そしてその子こそ『加護を受けたいがために竜を誑かした』としてニーナの目の前で秘密裏に処刑されたひとりだった。
碧眼の少年は諦観した瞳でその光景を眺めた後、隠れていたニーナを見つけて蒼白な顔になった。
怯えた少女の表情は、少年をどれだけ傷つけただろう。
少年は少女の手を握ると優しく告げた。
『記憶を消すってことは、今までの君を殺すって意味だ。おれはこれから君を殺す』
『私、死んじゃうの?』
『うん。でもこれからの君は生きていくんだ。大丈夫。おれは君の幸福だけを祈ってるよ』
『……あなたの名前をきいてもいい?』
『だめ。……名前を知ると呼びたくなるから。俺も知らなくていい。さあ、そろそろ時間だ……目を瞑って』
瞼を上げたとき、そこは神々の森の外だった。香水の材料が欲しくてはいったはずなのに手にははにもなくて、不思議な気持ちだけが残った。
それからというものの、神々の森に不法侵入する不届き者が現れ、結界を強化したと大きな話題になった。森で珍しい植物を嗅いだ記憶のあるニーナはきっと自分のことだと後ろめたさから森に近づくことはなくなった。
初恋の少年がいた。どこかの木の上で一緒に遊んでいて「空をみせてくれる」と約束してくれた。それが、どこの木の上なのかは分からない。けれど、神々の森では植物以外と出会っていないのだからそこはあり得ないと、そう思っていた。
十三年前、ニーナは七つと幼かったが、ロルフだって十一歳の子供だった。
そんな子供が自分だけが覚えている記憶を重ねていくのはどれだけの苦しみになっただろう。
「ロルフ様に全部背負わせたんです。それすら忘れて都合のいいことだけ覚えていて……初恋なんて綺麗な思い出にしていたんです! そんな私に……真実の愛なんて……伝えられるはずないんです、だから私は本当はロルフ様に相応しく――」
もういい、そう遮るように顔を覆っていた手を引かれて口付けられる。
噛み付くように、宥めるように、浅く深くを繰り返すキスに涙より心臓の音が早くなった頃、ようやく唇が解放された。
「俺と関わった記憶を消していなかったら、君は殺されていたかも知れない。俺はなんの力も持たず君を護ることもできなかったんだ。当然の判断だった、君はなにも悪くない」
「でも……っ」
「でも、はいらない。君が俺を嫌いだというのなら今ここで俺を殺して構わない。だが俺に相応しくないかどうかを決めるのは俺自身だろう?」
頬を優しく両手で包まれ、至近距離で問われると目をそらせない。ニーナはまた涙が零れそうになるのを必死に堪える。
「……っ、違和感に気付いてからずっと、ロルフ様の呪いが解けたら、そのときは姿を消そうと思っていました……ロルフ様の未来を見守ろうって……」
家族に蔑まれ、捨てられ、調香師として母の形見の香水すら完成させられず、よりどころだった初恋は都合のいいところだけ覚えているような自己中さで。
こんな私が、彼の側にいる資格なんてない。だからこそ早く呪いを解かなければ。そう焦っていた。
「俺は君との未来が欲しい……ニーナは俺が嫌いか?」
「っ、そんなことありえません……!」
優しく微笑む彼に分かっていて聞かれているのだと悟る。
「辛い記憶ばかりを思い出してしまったんだな、そしてそれに捕らわれているんだ。楽しかったことは思い出せるか?」
「楽しかったこと……」
思い出せるのはロルフが「空をみせてやる」と約束してくれたこと、そして香り玉をわたしたことだけだ。そうやって会話をするようになった経緯があるはずなのだけれどそれは思い出せない。
ロルフは森をぐるりと仰いで高らかにいった。
「神々の森よ。聞いてくれ。どうか彼女に記憶をすべて返して欲しい。その見返りはこの俺がいくらでも支払おう」
「ロルフ様……っ」
「大丈夫。生まれてからずっと封印されてきた竜の聖力だ。有り余っているだろう」
森が竜の願いを聞き入れたかのように森が大きく唸り、強風に包まれた。
ロルフが初めて竜化したときと同じように――目を開くと、そこには白銀の竜が凜と佇んでいた。
「……やっぱり、綺麗です」
思わず見とれてしまったニーナに竜は背中に乗るよう促した。
――君に空をみせたい。
直接、頭の中に語りかけられて思わずきょろきょろと周りを見渡してしまったが今ここにいるのは自分とロルフだけだ。
改めて竜は神秘的な存在なのだと思わされているうちに、ニーナを乗せた白銀の竜は空へと飛び立った。
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