皇帝の寵愛

たろう

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後段

56 決断

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※前回54・55話を更新し、今回海編最後の56話です。
※前半、ちょっと注意です。R15の範疇ギリギリだと思います……。

 玻璃燈の灯がぼんやりと照らす室内には、倦怠が立ち込めている。わずかに開けられた窓から海風が室内に入り込んでくる。
 僕は全身の倦怠感に任せて荒く息をついて寝台に横たわることしかできない。それもこれも、少し申し訳なさそうだけれど満足感に満ちた顔ですぐ隣にいる男のせいだった。
「大丈夫か?済まない。無理をさせた」
 と、本当にそう思っているのか怪しいあやしいけれど、本当にそう思っているようにしか聞こえない声音で僕に問うてくる。
 けれど、こんな状態になるのを許してしまったのは僕の責任でもあるので、特段責めることはできない。僕は、大丈夫ですと声に出そうとして、けれども声を出しすぎて枯れてしまったようで、上手く言葉にならない音が喉から発せられただけにすぎなかった。そんな自分に自分で少しびっくりする。
「水を飲むか?」
 そう言って主上が寝台脇の卓から水差しを持ち上げると茶碗を満たすのが見えた。すぐに僕に手を回して抱き起すと、手ずから水を飲ませようとしてくれた。さすがにそこまでさせてしまうのは申し訳ないので、椀を受け取ろうと手を差し出すと、とんでもないというような表情を、過剰な表情をしてみせる。満面の笑みで私に任せろと言うので、押し問答をするような場面でもないと思い任せることにした、のが間違いだった。
 なんだかにやにやしていると思ったら、主上は水を口に含むと僕に口移しで水を飲ませて来た。これがしたかったのか……。
 僕は抗議の声を、主上の口の中で上げる。
「どうだ。うまいか?もう少し飲むだろう?」
 そう言ってもう一度。
 全く呆れた話だ。親切に託けて本心はきっと自分がそうしたいだけなのだ。僕でなくてもわかる。
 主上が優しく僕の頭を持ち上げて、ゆっくりと水を流し込む。普通に飲ませて欲しい。僕はふと思いついて、主上の悪戯に悪戯で返した。
 わざと主上の口に自分の舌先を潜り込ませたら、どんな顔をするだろうかと思って実行しただけだった。考え無しだったと思う。実行に移すべきではなかったと僕はすぐに後悔した。
 主上は事も無げに合わせた唇の角度を変えて、僕の悪戯な舌を吸いあげてきた。しまったと思って、体を離すために力を込めた両腕は簡単にからめとられて、寝台に縫い付けられる。すぐに主上が逃がさないというように僕の上に跨ってきた。
 ちらっといつの間にか元気になっているそれが目に入った。
 まずいまずいまずい。頭の中で騒がしく声がする。主上の膝が抵抗する僕の閉じた両足の間に割って入ろうとしている。唇はまだ解放してもらえない。口づけの合間合間に僕の吐息と主上の吐息が漏れて、それが自分の耳に届いた。徐々に僕の吐息に熱がこもるのを敏感に察した主上が、僕の両腕の拘束を解いて、抵抗がなくなったのを確認すると、自由になった両手で僕の背や胸や太腿なんかを撫で上げる。
 僕が弱いところを僕以上に知っている風の手つきだ。
 主上が唇は解放して僕を覗き込んでいる。
「どうして欲しい?」
 断固僕は答えない。少しだけ視線に力を籠めると、くつくつと主上が笑って、耳元に唇を寄せる。
「こんなになって、辛いだろう?」
 大きな筋張った手を僕の肌の上で滑らせる。僕がどうなっているかをわざと言葉にして知らせる。
 主上が見せつけるように舌を僕の肌に沿わせながら徐々に下へと、首筋から胸、わき腹から臍へと降りていく。自然全身から力が抜けてしまったのを主上が見逃すはずもなく、するりと両足の間に割って入り込んできて、太腿と持ち上げられてしまった。
 にやにや顔はもうすっかり真剣な顔になっていた。
 ここに来て主上は動かない。こういうとき主上は本当にずるいと思う。強引に事を進めておいて、最後の一線は僕に委ねる。断る選択肢を残している。本当はもう断れる状況じゃないのを知っているくせに。
 僕は意を決して主上の首に腕を絡ませる。恥ずかしさで、これが精いっぱい。
 主上が顔いっぱいに笑みを浮かべて僕を抱きしめる。可愛い。
「やさしくする」
 優しくしかされたことがないのに、そんなことを言うのが可笑しくて。
「乱暴にしてもいいですよ」
 なんてつい言ってしまった。これが良くなかった。
 これが良くなかった……。僕は主上の体力に驚愕する事態に陥ることになってしまった。


「本当に済まない」
 そう言いながら主上が今度こそ声音に後悔の色を滲ませながら、甲斐甲斐しく僕の世話をしてくれる。もう指一本動かすのも億劫だった。この男はどうしてこんなに体力があるのだろうと頭の片隅で考える。信じられない。
 寝台脇の卓にはいつの間にか水の満ちた桶が置かれており、主上がゆっくりと固く絞った布で僕の体を拭いてくれている。
 胸や腹の上には情事の残滓がはっきりと残っている。
 皇帝にこんなことをさせて良いのかと一瞬思ったけれど、自分の責任をしっかり自覚するべきだと思い、されるがままにすることにした。煽ったのは自分だったけど、知らないふりをしよう。
 小さく開けられた窓から涼しい風が入ってきて、火照った体に気持ち良かった。もう秋の虫が鳴き始めている。風に紛れてときどき高い虫の音がいくつも耳に届いた。
 微かな虫のさざめきを聴きながら、主上の優しい手つきを目で追う。全身に花びらが散ったみたいに赤く跡が残っている。これは酷い。
「水を飲むか?」
 僕は言われるままに頷くと、主上が寝台から降りてお互いの体を拭いて汚れた布を始末したあとで、水差しから茶碗に水を灌ぐと僕の口元に持ってきた。主上が口に添えてくれた椀に口をつけると、僕はそれを零さないよう慎重に飲み干す。
 一杯を空にするころには人心地のついた気分がして、少し思考がはっきりしてきた。
 見上げると心配そうな表情の主上が目に映る。ぼんやりとした玻璃燈の灯で暗闇に浮かび上がるその肢体はとても美しかった。
 しばらく僕の様子を検分するように見つめた後で、主上が玻璃燈の灯を消すと僕の隣に体を滑り込ませる。即座に太い腕でからめとられる。
 普段ならいつもこのまま僕が先に眠りに落ちるのだけれど、この日は何故だか体の疲れはいつも以上なのに、なかなか眠気がやってこなかった。
 代わりに去来するのは今日の晩餐のことだった。
 主上が優しい手つきで僕の髪の毛を梳いている。
 手のぬくもりを感じながら、僕は繰り返し頭の中で声を聞いていた。あの時からずっと胸の奥がざわざわしている原因の言葉。
 主上の手が首筋に触れて少し身じろぎする。
「どうした?眠れないのか?」
 なかなか寝付かない僕に主上が気づいて声を掛けてきた。普段ならばすぐに眠りに落ちるはずの僕を不審に思ったようだった。
「調子が良くないか?」
 僕はいいえと小さく答える。
「どうした?何を考えている?」
 僕の頭をやさしく支えるようにして自分の方に向かせると、顔色を確かめるように僕の顔を覗き込んでくる気配。窓からかすかに星明りが差し込むだけの暗闇の中ではよく見えないだろうに。
 じっと見つめられているのが分かる。暗闇はこういう時良い。普段よりも素直になれる気がする。
「外国へ渡る二人のことを考えていました」
 それだけ答えた。僕は無意識に主上の長い髪をもてあそんでいたようで、その手を主上が握り込む。
「お前から見て、あの二人はどう見えた?」
「とても仲が良さそうだなと。それにとても勇敢だとも。危険でしょうに船で東の国へ渡るなんて、すごいなと思いました。特に柳喜媚さまの勇気には驚かされます。女性の身ではとても辛いでしょうに」
 主上がそれを聞いて笑ったようだ。わずかに体から振動が伝わってくる。
「あれは変わった女だからな」
「どういうことですか?」
「私が柳家に取引を持ち掛けたときに、正尚と結婚するために箔付けが欲しいから私と結婚したいと言ってきた」
 え、と声が漏れた。あまりに驚きすぎて。
「さすがにそのままのことを言ったわけではないが、あれの発言を総合するとそういうことらしい」
「箔付けが欲しいとは?」
「お前もうすうす気づいていると思うが、あの正尚という男は、葦原の国の第二皇子だ。これはおそらく事実だ。いくつか証拠を見せてもらったからな。何の因果かこの国に来て、我が国と彼の国との間で直接の行き来が無くなったために足止めを食らって帰れずにいたようだ」
「それで、奏凱さまのおかげで十年ぶりに帰るというわけだったのですね」
「まぁそういうことだ。柳家でずっと世話になっていたらしい」
「お二人で危険を承知で海の向こうへ行くというのは、すごいですね」
「そうだな……。私にはできない決断だった」
 僕の髪を梳いていた主上の手が止まる。
「賢英。本当はもう少し後で話すつもりだったのだが、丁度いいかもしれない。私はお前に言わなくてはならないことがある」
 重々しい口調の硬質な声。
「帰ったら、私は再び遠出をしなくてはならない。半月後だ。この国の北、干涸州は延家の土地へ行くことになっている。片道七日、滞在も七日程度だろうか。ずいぶん長いこと宮殿を開けることになる」
「そうなんですか?あの、僕は……」
 胸がざわざわする。
「その旅にお前を連れていくつもりはない」
 胸を衝かれたような感覚があった。
「いや、連れていくことができないと言ったほうが正しいだろうか。私は向こうではあまり歓迎されない。延家が何を企んでいるかもわからない状況で、お前を連れていくことができないと判断した」
 沈黙があった。
「ここへ来たのは、船の進水式に出ることが目的ではなかった。本当はお前のことを柳家に頼むためだった。そして、そのための準備を話し合うためだった」
 主上の声から徐々に勢いが失われていく。
「お前を連れて行こうかとも考えたんだ。
「僕を――」
 僕の言葉を遮るように主上が続ける。
「だが、私にはその選択肢を選ぶことができなかった。あの男にできたことが、私にはできなかった。お前を置いていくことが恐ろしい。けれど、連れていくことも恐ろしい。今となっては、あの男ともっとよく話をしておけばよかったと後悔している。どうしたら、危険を知りながら喜媚を連れていくという決断をすることができたのか。私は、あの男をうらやましく思う。いや、違うな。敬意を抱いていると言って方がいいかもしれない。皇帝としてそんな言葉は口が裂けても言えないが、人としては、そう思っている。
 不安だらけだろうに、逆に、確信できることなど何一つないだろうに、あの男は連れていくといった。自分の妻を。無事に船が故国に着くかもわからない。もちろん、到着する可能性のほうが、そうではない可能性よりも高い。ひと昔前よりも船は改良され事故は減った。しかし、そうは言っても一切の事故が無くなったわけではないのだ。自然の前にはどんなに大きな船も経験を積んだ人間も無力だ。わずかな判断の誤りで簡単に人命は失われる。それに、向こうへ到着してからのほうが大変かもしれない。あの国は今不安定なのだそうだ。国に着いたからすぐに都へ、ということにはならないだろう。喜媚の性格を考慮しても、私があの男の立場だったとして、連れて行こうとは恐らくならないだろう。

 私には選べなかった。

 だからなのだと思う。あの二人を助けてやりたいなどと思ったのは。自分の姿をあの男に投影していたに過ぎないのに。あの二人が成し遂げることができたなら、自分もなしえるのではないかと。愚かなことだと思う。私とあの男は違うというのに。私自身、他人を助けていられるほどの余裕があるわけではないのに」
 主上が僕を抱きすくめる。長い長いため息が耳に届く。主上の懊悩の深さをに比例しているような。
「さぁもう寝よう。明日からまた苦痛の長距離移動が始まる。寝坊なんてしたら侠舜に文句を言われるぞ」
「……こんな時間になったのは誰のせいでしたか?」
「さあて?」
 そう言って主上が無理やり話を打ち切ると、僕を寝かしつける。少しそれを不満に思いながら、僕は目を閉じて眠りが訪れるのを待つ。ざわざわとした気持ちを抱えながら。

――この人と離れたくないの

 頭の中で、彼女の声が繰り返し響いていた。


※次回から主上がめちゃくちゃ頑張る、延家攻略編です。
※最近暗い話が多くてごめんなさい!
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