皇帝の寵愛

たろう

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32 お茶会の誘い

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 窓の外では雪が降っている。しんしんと。しんしんと。
 つい、舞う雪のひとひらひとひらを数えそうになる。
 僕の手は桂雨の淹れてくれたお茶の入った茶碗を握りしめていた。温かい。
 今日は雲嵐は休みだ。孤児院へ子供たちと先生に会いに行ってから買い物をするのだと言っていた。何か入り用なものはあるかと訊かれたけれど、特に欲しいものは無かった。
 そんなこと気にせず楽しんできてほしいと答えたのが昨日。この天気ではあまり楽しめないのではと心配になる。
 雪の一つ一つが大きい。この時期に降る雪は毎年こうだったなと思い出した。雪解けが近いのだろう。ということは僕は十五になるのだ。それはつまり、僕がここに来てもうすぐ一年になるということであり、成人するということだ。
 そうだ。春分が近い。主上の春の儀式の衣装はどんなだろうか。
「何を考えていらっしゃるのですか?」
 物思いに沈んでいた僕に声がかけられた。声のした方を見ると桂雨が急須を手に持って近づいてくるところだった。
 温くなったでしょうと言いながら僕の両手から茶碗を取り上げると、新しく淹れ直してくれた。申し訳ない。
 僕は熱いお茶に息を吹きかけて冷ます。僕は少し猫舌なのでこのままではまだ飲めないのだ。
「もうすぐ十五になるということを思い出したんだ。長い一年だったなぁと感慨に耽っていてお茶を飲み損ねた。ごめんね。」
「お気になさらず。それと成人おめでとうございます。主上にはもうお伝えしてありますか?」
「いや、機会がなくてまだ。」
「でしたらお早めにご報告なさってください。殊の外お喜びになられると思いますよ。主上はあなたのことはなんでも知りたがりますから。」
 そういってにこりと微笑む。宮にいるのは美人ばかりだ……。僕は頷きながら、報告を忘れずにしようと頭に刻む。
「お早いものでもう一年近くになるのですね。」
「僕には長い一年だったよ。目まぐるしいほどいろいろなことが変わってしまった。」
「そうでございましょう。ですが私にはあっという間でした。賢英さまにお会いしたのがまるでつい先日のよう。歳を重ねると月日が過ぎ去るのはだんだん早くなっていくのを感じます。」
「そんな。桂雨はまだ若いのに言い方がなんだか……。」
「あら。それはお褒めの言葉として受け取っておきますね。ですが私はここで働き始めてからもう随分経つのですよ。」
「そうなの?全然そうは見えないのだけれど。」
「お上手ですね。十七の歳に女官になってからもう五年経ちました。私、最初は後宮の下級女官だったのです。丁度人員が入れ替わりになって大々的に募集があり、自分から志願しました。」
「もともと後宮勤めだったの?しらなかった。何故後宮を出ることになったの?」
「はい。あなたのお世話を頼みたいと侠舜さまより一年近く前にお声掛け頂きました。」
「そうだったんだ。」
 ふと淹れ直してもらったお茶に思い至って、ゆっくりと口に運ぶ。美味しい。
「宮殿に勤める女の目的が何かご存知ですか?」
 首を振る。
「お金?」
「それもございますが、一番は結婚相手を探すことです。高級官僚と出会えたら家は安泰ですからね。」
「そうなんだ。じゃあ桂雨も結婚相手を探してここへ来たんだ。」
「いえ、私の場合はちょっと違うのですが、結果的にはそうなりましたね。」
「と言うことは、いい人を見つけられた?」
「勿論です。侠舜さまより、結婚相手をご紹介いただくとの条件でこちらで働くことをお引き受けいたしましたから。」
「侠舜から?知らなかった。」
 桂雨がくすくす笑う。
「いい人を紹介してもらったんだ?」
「それはもう。ただ、まさか一月もしないうちに男性を連れてこられるとは思ってもみませんでしたが。それで、半年ほど前に祝言をあげました。」
「結婚してたんだ。全然知らなかった……。」
「ええ、実はそうなんです。何分私ももう結婚して子供の一人や二人いてもおかしくはない年齢ですので、先方が気を遣って結婚の日取りを早めてくださったのです。賢英さまにもすぐに結婚する旨をお話しするつもりでしたが、いろいろと主上との間ですれ違いがあった時期でしたので、そのままお伝えする機会を逸してしまっておりました。もっと早くお話するべきでしたのに申し訳ありません。」
 深々と頭を下げられた。
 去年のことを思い出す。喧嘩みたいな出来事があったことや、家に返されそうになったことや風邪をひいたことなんかを。
 それによくよく考えてみれば、まだお互い知り合ったばかりでそれ程親しくなってもいなかったし、主人と従者のような関係なのだから、個人的な話はできなかったのだと気づく。それなのに、恨めしく思ったり落ち込んだりするのはお門違いもいいところだ。
「侠舜は狙ってなかったの?」
 僕は努めて明るく冗談を言った。宦官の侠舜は結婚なんて、侠舜が信じられないほど綺麗な顔をしているとはいえ、するはずはないのだ。
 ところが桂雨はとんでもないことを言った。
「まさか。たしかに天上人かと思うほど美しいので女官たちには人気がありますし、私も一緒に働かせていただくまでは憧れておりましたが、結婚なんて考えられません。女としての自信がなくなります。それに、たぶん侠舜さまはご結婚されておりますわ。女の感ですけど。」
 冗談のつもりだったのに、実際に結婚しているかもしれないと聞かされ、僕は驚きのあまり口を聞けなかった。桂雨がくすくす笑いながらなんとなくですと言った。
「私も直接は尋ねたことはないのです。ただ日々のちょっとしたことに、何か違和感があって。」
 内緒ですよと唇に立てた指を当てて見せた。
「それで、ご縁があって、将来有望で優しい旦那さまとめぐりあえました。これも日頃の行いの良さの表れです。」
 笑い顔をおさめてこちらを見た。
「それから実はもう一つお伝えすることがあります。」
 普段はっきりと意見を言う桂雨には珍しく少し言い淀むように一度口を閉じた。
「私子供ができたみたいなのです。まだ確実とは言えないのですけれど、その色々とあってそうではないかと言われました。それでお暇を頂くということになりました。」
 そう言って目を伏せた。
「おめでとう。」
 僕はできるだけ明るくいった。
「ありがとうございます。」
 そう言って驚きに見開いた目を細めて柔らかく笑った。
「もどってくる?」
「はい。そのつもりです。侠舜さまが提示してくださった条件がこれ以上ないくらいに素晴らしいので、実家を手伝うよりもいい暮らしができますからね。」
 そういっていたずらっぽい笑みを浮かべた。
「なのですが、出産後すぐにとはいかないと思います。産後の体調だったり子供の体調だったり、生まれてみなければ分からないことが多いので、数年後にはなりますが。」
 思ったよりも長くて僕は少し落ち込んだ。子供が産まれるのだ。一年や二年ではきかないのはよく考えてみれば当たり前だった。戻ってきてくれるだけでも喜ぶべきなのだ。
「もともと私は商家の出で、家業がうまく行かなくなって、家を立て直すために働きに出たのです。結婚が決まった時に旦那さまから援助していただけることになり、実家は廃業を免れました。なので家に戻り、家業を手伝う必要もございませんから、ここで長く働きたいとは思っています。ただ、お腹に子供がいるだろうことが分かって、旦那さまから、少し仕事から離れて体を大事にするよう言われました。なので少し早いですがお暇をいただくことに決めました。動けるうちに親戚回りもしなければいけませんし。雲嵐が来てくれて、私の代わりとしては問題ありませんし。」
「いつ暇をもらうの?」
「後一月と言ったところでしょうか。侠舜さまより了解を頂いております。それに私の後任の者が来ることになっています。不自由はございませんよ。」
「そう……。」
「ここを去っても賢英さまの幸せをお祈りしております。それに二度と戻らないわけではないのです。そんなに落ち込まないでください。」
 優しく微笑む桂雨に僕は曖昧に頷いて、再び窓の外へと視線を移した。桂雨が話してくれたことを、頭の中で繰り返していた。


 それからすぐに桂雨の後任がやってきた。優しそうな顔つきの痩せた女性で、黄慈蓉と名乗った。なんとなく見たような顔だと思った。どこかで会っただろうか。
 よくよく聞いてみると黄昭容の遠縁の方なのだと分かった。それならば後宮で働きたかったのではないかと訊くと、女だけの場所は苦手なのだという。それに遠縁と言ってもほとんど家同士の交流もないほどの傍系とのことで、黄昭容本人とは面識もないのだそうだ。それにこんな歳ですけれど出会いも欲しいし、と戯ける。口数は多くはなかったが、穏やかな表情と落ち着いた態度が好感を抱かせ、仲良くやっていけそうだと思った。

 黄慈蓉はとても働き者だった。ただ、少し言葉遣いはぎこちないというか、言ってしまえば話し方を習ったばかりの頃の僕や雲嵐に近いように感じた。口数が少ないのであまり気にはならないけれど。
 そう指摘すると困ったような恥ずかしそうな様子で、家が貧乏だったのですと答えた。
 この宮殿で働いて長いのだが、今までは宮殿の奥の方で、書類整理のような事務方の仕事や雑用ばかりをしていたそうで、人と話す機会も多くはなく言葉遣いに自信がないのだと言った。僕はなんだか親近感を覚えた。
 桂雨より少しだけ年上に見える慈蓉が桂雨の後ろについて仕事を覚えていく。雲嵐が一人前と認められてからは、侠舜はあまり僕のところへはこなくなった。主上の元で本来の仕事に戻ったようだ。だから慈蓉の指導は桂雨が任されているのだけれど、慈蓉は物覚えは悪くないようで、この調子ならば私が休みに入るまでに最低限の仕事を任せられそうだと桂雨が喜んでいた。
 桂雨に習った慈蓉の入れてくれるお茶は、桂雨に遜色のない味だった。気づくとお茶の用意は慈蓉の仕事になっていた。
 雲嵐との折り合いもよく、彼女は実際よくやっていると言えた。桂雨が抜けると雲嵐が僕の世話係の責任者になるので、彼女と相性が良いのは喜ばしいことだった。

 それからしばらくして、以前仔馬の名付けの時に主上がおっしゃっていたように、春の衣装が届けられた。思っていた以上の量だった。さらに装身具や靴などと一緒に手紙も添えられていた。内容は黄昭容とのお茶会と、約束した離宮への遠出についてだった。
 その翌日、黄昭容本人から招待状が届いた。どこで手に入れたのか、一足早く蕾をつけた福寿草が添えられていた。
 中を開いてみるとそこには恐ろしく優美な文字で、お茶会への出席に対する感謝の言葉、日取りと時間、それからとても私的で小規模なものなので気楽に参加してほしい旨が書かれていた。
 僕は短い返事を書くのに丸一日を費やした。こんなに綺麗な文字で手紙をもらったのに、乱れた文字で返事を返すなど考えられなかったのだ。何度も書き直しをしたため、もうしばらくは筆を持ちたくないと思った。
 さらに十日ほどたって伯母から一月ぶりに手紙がきた。一緒に髪をまとめるための翡翠の玉が一つついた革紐を雲嵐から受け取る。中を開いてみるとお店の様子や伯母夫婦の近況報告と僕が病気になっていないかを案じる言葉があった。そして最後に成人おめでとうという内容だった。
 僕は桂雨に伯母夫婦から贈られた革紐で髪を結いなおしてもらうと、返事の手紙を書いた。


 そして桂雨が長い休みに入った。


 それから、二月の終わりになって黄昭容の茶会に参加する日がやってきた。春分の儀式の翌々日だった。
 僕は雲嵐と慈蓉とを連れて、主上が用意してくれた宮の一室へ足を運んだ。
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