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二章 ― 香 ―
二章-13
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薫物合の後、中宮と二人で話をすることが出来た。宴が始まるまで時間があるため、今ならいいと言ってくれた。先ほどの功績もあって、二人きりで話すことを咎める声はなかった。
中宮が、本当に二人だけがいいということで、紫苑も席を外すことになった。
「じゃあ、あたし紫檀のところ行ってる。帰る時に呼んでー」
藤壺から念誦堂に戻る時にも、行きと同様に菫子の髪に触れてしまう人がいないよう、見張ってもらう必要がある。妖術で、菫子が呼んだらすぐに来てくれる、という意味で言っているのだ。
「分かったわ、ありがとう」
紫苑が藤壺を出てから、菫子は中宮と向かい合った。出来るだけ距離を取り、頭を垂れた。
「わたくしも、藤小町と呼んでもいいかしら」
「もちろんでございます」
「藤小町、改めて礼を言うわ。女房たちの症状を明らかにしてくれてありがとう」
「とんでもございません」
「お正月の宴でのことを聞きたいのよね。青梅のことは主上から聞いたわ。もしも、主上が毒に耐性をお持ちでなかったら、それも危険だったのでしょう? そう思うと恐ろしいわね」
中宮は、頬に白魚のような手を当てて、嘆いていた。自分のことのように言う様子から、帝の身を案じていることがよく分かる。
「当日のことよね。童女が苦しみ出した時、主上は一口飲んでおられたわ。吐き出しておられたけれど、ほとんど飲み込んでいらっしゃったと思うわ」
ここまでは俊元から聞いた話とそう変わらない。問題はここからだ。
「近くにいた者から、水をもらって、飲んでいらっしゃったわ。毒を薄めるためにと」
「その時は、儀式の盃をお使いになられましたか」
「いいえ。別の杯を使って、水瓶から水を注いだものを飲んでおられたわね。そしてすぐに退席なさったわ。何ということはないご様子でしたけれど、お立ちになった時にはもうご気分が優れなかったと、後から聞いたわ」
今の話を聞く限り、その杯が怪しいように思う。調べなければならない。それがまだ残っていればよいのだが。
「貴重なお話、ありがとうございました」
「いいえ、主上のためですもの。藤小町と橘侍従とで調べているのよね」
「あー……はい。そうでございます」
俊元のことを考え、微妙な返事になってしまった。帝から調査を任されているのだから、継続して調べるだろうけれど、菫子と共にするかは、正直分からない。もう、俊元は来ないように思う。そうなるように、全部話をしたのだから。
「あら、喧嘩中?」
「そういうことでは……。橘侍従様は、あの体質のせいで、わたしなどと組むことになり、不憫でなりません。これ以上巻き込みたくはないと、思っている次第です」
「どちらかというと、巻き込まれているのは、あなたの方だと思うわよ」
「え……?」
中宮の言う意味が分からず、菫子は眉をひそめた。中宮は、その白い手で手招きをして、近くに来るように促した。近づけません、と言えば、せめてこの小声が聞こえるところまで来て、と言われた。渋々、菫子は体一つ分だけ近付いた。
「橘侍従は、周りの声を押し切ってあなたを呼んだと聞いたわ。主上を必死に説得して」
「そう、なのですか」
「橘侍従を見限るのは、尚早ではないかしら」
「でも……」
反対を押し切ってまで、菫子を呼んだとして、それが、俊元の言った『個人的な理由』なのだろうか。人殺しと知ってまで、置く理由になるのだろうか。他人を蔑ろにしてまで、幸せになりたいとは、思っていない。
「何か悩んでいるようね。それとも困っているのかしら。わたくしが相談に乗りましょうか」
「滅相もございません」
「あら、遠慮しなくていいのに」
穏やかに微笑む中宮は、小首を傾げて、菫子を見つめている。菫子は目を泳がせて迷った挙句、口を開いた。
「では、一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「ええ」
「中宮様にとって、幸せとは何でございますか」
「幸せ、ね……」
予想外の問いだったのか、中宮は少し驚いてから、考え込んでしまった。このようなことを聞いては失礼だっただろうか、と菫子はそわそわしてしまう。
「わたくしにとっての幸せ。主上ね。主上との時間、と言ってもいいわね」
「主上との、時間」
「わたくし、主上とは幼い頃からよくお会いしていたわ。将来は妃にと、早くから言われてね。そう言われたから恋をしただけと、そう悩んだ頃もあったけれど、そのようなことに関わらず、わたくしはあの御方をお慕いしたわ。今はそう思うわね」
高貴な出自ゆえに、将来のことが決められているというのは、菫子からは雲の上の話だが、想像することは出来る。そこに自分の意志で決められることは少ない、ある意味で窮屈な環境。
「主上をお支えすること。それが中宮としての務めではあるけれど、わたくし自身がそうしたいと思っているわ。あなたと会うことにしたのも、主上のため」
毅然としてそう言った中宮は、帝を支えるに相応しい人だと、圧倒される。すると、中宮の顔が、ふわりと緩んだ。
「どんな恐ろしげな者が来るのかと思えば、こんなに可愛らしくていじらしい少女とは。ふふふっ」
渡殿の方から、中宮を呼ぶ声が聞こえた。
「何かしら」
「相模さんのお迎えの方がいらっしゃいました。橘侍従様です」
「えっ」
迎えは紫苑が来るはずなのに。そもそも、まだ紫苑を呼んですらいない。どうして俊元が来たのかと、慌てる菫子に、中宮が小さく笑っていた。
「お迎えよ。またいらっしゃい、藤小町」
中宮が、本当に二人だけがいいということで、紫苑も席を外すことになった。
「じゃあ、あたし紫檀のところ行ってる。帰る時に呼んでー」
藤壺から念誦堂に戻る時にも、行きと同様に菫子の髪に触れてしまう人がいないよう、見張ってもらう必要がある。妖術で、菫子が呼んだらすぐに来てくれる、という意味で言っているのだ。
「分かったわ、ありがとう」
紫苑が藤壺を出てから、菫子は中宮と向かい合った。出来るだけ距離を取り、頭を垂れた。
「わたくしも、藤小町と呼んでもいいかしら」
「もちろんでございます」
「藤小町、改めて礼を言うわ。女房たちの症状を明らかにしてくれてありがとう」
「とんでもございません」
「お正月の宴でのことを聞きたいのよね。青梅のことは主上から聞いたわ。もしも、主上が毒に耐性をお持ちでなかったら、それも危険だったのでしょう? そう思うと恐ろしいわね」
中宮は、頬に白魚のような手を当てて、嘆いていた。自分のことのように言う様子から、帝の身を案じていることがよく分かる。
「当日のことよね。童女が苦しみ出した時、主上は一口飲んでおられたわ。吐き出しておられたけれど、ほとんど飲み込んでいらっしゃったと思うわ」
ここまでは俊元から聞いた話とそう変わらない。問題はここからだ。
「近くにいた者から、水をもらって、飲んでいらっしゃったわ。毒を薄めるためにと」
「その時は、儀式の盃をお使いになられましたか」
「いいえ。別の杯を使って、水瓶から水を注いだものを飲んでおられたわね。そしてすぐに退席なさったわ。何ということはないご様子でしたけれど、お立ちになった時にはもうご気分が優れなかったと、後から聞いたわ」
今の話を聞く限り、その杯が怪しいように思う。調べなければならない。それがまだ残っていればよいのだが。
「貴重なお話、ありがとうございました」
「いいえ、主上のためですもの。藤小町と橘侍従とで調べているのよね」
「あー……はい。そうでございます」
俊元のことを考え、微妙な返事になってしまった。帝から調査を任されているのだから、継続して調べるだろうけれど、菫子と共にするかは、正直分からない。もう、俊元は来ないように思う。そうなるように、全部話をしたのだから。
「あら、喧嘩中?」
「そういうことでは……。橘侍従様は、あの体質のせいで、わたしなどと組むことになり、不憫でなりません。これ以上巻き込みたくはないと、思っている次第です」
「どちらかというと、巻き込まれているのは、あなたの方だと思うわよ」
「え……?」
中宮の言う意味が分からず、菫子は眉をひそめた。中宮は、その白い手で手招きをして、近くに来るように促した。近づけません、と言えば、せめてこの小声が聞こえるところまで来て、と言われた。渋々、菫子は体一つ分だけ近付いた。
「橘侍従は、周りの声を押し切ってあなたを呼んだと聞いたわ。主上を必死に説得して」
「そう、なのですか」
「橘侍従を見限るのは、尚早ではないかしら」
「でも……」
反対を押し切ってまで、菫子を呼んだとして、それが、俊元の言った『個人的な理由』なのだろうか。人殺しと知ってまで、置く理由になるのだろうか。他人を蔑ろにしてまで、幸せになりたいとは、思っていない。
「何か悩んでいるようね。それとも困っているのかしら。わたくしが相談に乗りましょうか」
「滅相もございません」
「あら、遠慮しなくていいのに」
穏やかに微笑む中宮は、小首を傾げて、菫子を見つめている。菫子は目を泳がせて迷った挙句、口を開いた。
「では、一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「ええ」
「中宮様にとって、幸せとは何でございますか」
「幸せ、ね……」
予想外の問いだったのか、中宮は少し驚いてから、考え込んでしまった。このようなことを聞いては失礼だっただろうか、と菫子はそわそわしてしまう。
「わたくしにとっての幸せ。主上ね。主上との時間、と言ってもいいわね」
「主上との、時間」
「わたくし、主上とは幼い頃からよくお会いしていたわ。将来は妃にと、早くから言われてね。そう言われたから恋をしただけと、そう悩んだ頃もあったけれど、そのようなことに関わらず、わたくしはあの御方をお慕いしたわ。今はそう思うわね」
高貴な出自ゆえに、将来のことが決められているというのは、菫子からは雲の上の話だが、想像することは出来る。そこに自分の意志で決められることは少ない、ある意味で窮屈な環境。
「主上をお支えすること。それが中宮としての務めではあるけれど、わたくし自身がそうしたいと思っているわ。あなたと会うことにしたのも、主上のため」
毅然としてそう言った中宮は、帝を支えるに相応しい人だと、圧倒される。すると、中宮の顔が、ふわりと緩んだ。
「どんな恐ろしげな者が来るのかと思えば、こんなに可愛らしくていじらしい少女とは。ふふふっ」
渡殿の方から、中宮を呼ぶ声が聞こえた。
「何かしら」
「相模さんのお迎えの方がいらっしゃいました。橘侍従様です」
「えっ」
迎えは紫苑が来るはずなのに。そもそも、まだ紫苑を呼んですらいない。どうして俊元が来たのかと、慌てる菫子に、中宮が小さく笑っていた。
「お迎えよ。またいらっしゃい、藤小町」
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