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メガネスーツ女子と無慈悲なる神と終わらない残業

頁03:私とは 2

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 お互いの立ち位置、部屋の間取り、周囲の家具の配置、床の硬さ、相手のおよその体重、重心。

 ───はぁ…、この会社で働くのもここまでか。

 掴まれたえりを軸にする様に重心を低く体を反転させふところに潜り込み、咄嗟とっさの出来事に姿勢が崩れた社長の体を腰の浮き沈みによる力の流れでふわっと浮かし───その力のベクトルを利用し、肩に掛けた腕を支点に遠心力を増幅させ一気に背負い投げる。
 普通に投げたら私が背にした壁に激突してしまうので、何もない床に落とせる様に少し向きにひねりを加えた。
 かたわらで見ている人間がいたとしたらその見た目の派手さの割に音も衝撃も小さい事に違和感を覚えるかもしれないが、受け身を取りやすい様に私がそう投げただけに過ぎない。

「………え?」

 何が起きたのか理解が追い付いていない社長が間抜けた顔で私を床から見上げた。

「この場限りで辞めさせて頂きます。お世話になりました。必要でしたらば辞表は後日お届けに上がります。よろしいでしょうか」
「え……あ…? は、はい……」

 わずかに乱れた服のゆがみを正し、付いた訳でもないほこりを小さな所作しょさで払い落とす。
 警察官だった父が護身の為にと自ら手解てほどきしてくれた技術。
 父の没後ぼつごも父の同僚の御厚意ごこういで警察署の道場に通わせてもらっていた。理由など無い。惰性だせいだ。相手が男性でも女性でも構わずに組み合った。みがく理由も無いのに上達していく技術が嫌だった。
 それなのに、嫌で嫌で仕方なかったはずの経験にまた私は救われた。そんな事をふと思い油断していた。
 背後から迫る小さな足音に気付くのが遅れたのだ。

「───あ───」

 背中に燃える様な激痛。振り返った視界にいたのは…怒りに顔をゆがませ、手には赤く染まる包丁を握り締めた、知っている女───社長夫人。

「なんで……なんで邪魔するの…!!」

 邪魔……? 私が?
 現状に思考が追い付いたのか、社長が大声で叫ぶ。

「お前…馬鹿! 何て事するんだ!!」
「あなたのせいでしょ!! 私を捨てようとしたから!! だったらせめてこの女とくっつけてから離婚して慰謝料だけでも取ってやる心算つもりだったのに!!」

 それはそれは…ご説明ありがとうございました…。下らなさ過ぎるので座ってもいいですかね……。座りませんけど。

観沙稀みさき君! 大丈夫か!? しっかりしろ!!」

 社長がどうしていいか分からずにオロオロしている。
 私が倒れていれば抱きかかえでもしたのかもしれないが、生憎あいにく私はまだ
 倒れる前にこれだけは言いたかったからだ。

「実際にお会いするのは初めましてですね、奥様。───御機嫌ごきげん、ですわ」

 ですわ、なんて生まれて初めて言ったかもしれない。

「!!!!」

 怒りに我を忘れた獣が1本の鋭くとがった爪を立てて突進してくる。
 私にはそれをかわす力はもう無い。油断してしまった時点で私はもう終わったのだ。
 ならば終わり方くらい、私が思う正しさで終わろう。
 迫る死に真っ直ぐに立ち向かい、静かに目を閉じる。
 直後に腹部から全身へと突き抜ける痛みと衝撃。体を支えられなくなった足を恨む事無く私は天井をあおいだ。
 視界の下の方に見える、垂直に立って細かに上下する金属。ふるふるとした動きは私の痙攣けいれんか。
 そんな物を観察している自分のシュールさに笑いと涙が込み上げた。
 おろかな男女はまだ何かを激しく言い合っている様だが、もう意味も理解出来ないし良く聞こえない。

「───お父さん……、私も、間違っちゃった…みたい」




「え、何が?」

 場違いに間の抜けた声が、私のつぶやきにまさかの返事をしたのだった。









   (次頁/04-1へ続く)




 


       
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