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第一章 禁じられた森で

第一話 置いてきぼりの夏

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 目が痛むほどの晴天が、鬱陶うっとうしく感じる夏だった。
 今年、中学生になったばかりの少女――速水はやみ明日花あすかは、母の小百合さゆりが運転する車の窓から、ぼんやりと景色を眺めていた。

 暇だ。スマートフォンを弄るにも目が疲れるし、眠くないから眠れもしないし、景色を眺めるしかない。

 小百合に話しかけることも億劫だ。というより、気まずい。最近、ずっとピリついている小百合に、何を話し掛ければいいのか。どんな話題でも、返ってくる声のトーンは暗い。それに、小百合が不機嫌だと察するには容易いほど、刺々しい。

 重い息が漏れそうになって、唾を飲み込んだ。気分が落ちている姿を見せたら、小百合は面白くないだろう。さらに不機嫌になるに違いない。やだやだ、機嫌が悪いお母さんは、面倒臭いんだから。

「もうすぐ着くわよ」

 感情が抜け落ちたような、空っぽの声だった。いつも、はきはきとしていた小百合の明るい声は、どこにも見当たらなかった。

「はあい」

 努めて明るく、間延びした返事をした。張り詰めていた空気が緩んだ気がして、ほっと息を吐く。

 早く、おばあちゃんとおじいちゃんに会いたい。

 明日香は、母方の祖父母が大好きだった。生まれも育ちものんびりとした田舎町だからか、まとう空気が柔らかくて、穏やかで、心地がいい。明日花が住んでいる東京が悪いわけではないけれど、東京の人たちは、常に忙しそうにしているし、少し冷たく感じる。もちろん、そうではない人たちもいると、わかってはいるのだけれど。

 性に合わない。その一言に尽きる気がした。まだ中学生にもなったばかりだし、判断するには早いと、大人に顔をしかめられるかもしれないけれど。東京で過ごしている時間は、どうにも、居心地が悪い。高いビルばかりの場所に行けば、檻に閉じ込められている気分になるし、せかせかと動く人たちが多い場所では、急かされているようで、無駄に焦ってしまう。

 祖父母が住む町は、緑豊かな広々とした土地にある。家と家の間隔は広いし(「ご近所さん」の距離感が、東京とは全然違う!)、そこかしこに畑や田圃たんぼがある。少し遠くに目を向ければ、深緑の山々だっていくつも見えた。花の名前は知らないけれど、春になると青くて小さな花が一面に咲き誇る景色は、思わず頬が緩んで、にやにやとする。写真を撮って友達に自慢してやりたいが、多分、友達はスカイツリーから見る夜景のほうがずっと綺麗だと笑うに違いない。

 いや、もしかすると、東京では見ない光景に驚くかもしれないな。明日花は思い直し、けれど、すぐさま首を横に振った。

 友達に田舎のことを話すなんて、とんでもない。友達は、もっとオシャレなカフェに行ったり、遊園地に行ったりして、それを周りに自慢してるのだから。夏休み明けには「夏休みにどんな素晴らしい旅行をしたか」が、話題になるだろう。皆だって、おじいちゃんやおばあちゃんの家に行っているだろうに、そんな話はそこそこに、レジャー旅行の話ばかりをするのだ。

 今年の夏休みは、きっと、家族旅行はしない。明日花を祖父母の家に預けている間に、両親は今後について徹底的に話し合うつもりだろう。その場に、明日花の意思は、必要ない。

 寂しい。明日花の予想通りなら、両親は離婚をして、どちらかが明日香を引き取ることになる。張り詰めた糸のような両親の間に挟まれるのも嫌だけれど、自分を無視されるほうが、もっと嫌だ。

 車が停まった。いつの間にか、祖父母の家に着いていたらしい。

「着いたわよ。ぼーっとしてないで、降りて」

 小百合に促され、車のドアを開けた。直後、朗らかでのんびりとした声が、明日花の頭を柔らかく叩いた。

「明日花ちゃん、よく来たわねえ」
「おばあちゃん!」

 たまらず、ささっと車から降りて、祖母のみよに駆け寄った。笑顔のみよを見て、勢いのままに抱き着く。ふわり。お日様の匂いがした。
「あらあら」と、嬉しそうな声が降ってくる。

「おじいちゃんも、久しぶり!」

 明日花はみよに抱き着いたまま、顔を上げた。みよの隣で微笑む祖父――茂が、日に焼けたしわくちゃの顔で笑っている。明日花は、茂が焦げパンに似ていると常々思っていた。

「よく来たなあ。東京は暑いだろう?」
「ほんっとうに暑いよ! おじいちゃんが来たら、真っ黒焦げになっちゃう!」
「それは困るなあ」

 茂は快活に笑った。みよもくすくすと可笑しそうに笑っている。二人とも、お日様みたいにぽかぽかしていて、明日花は笑みを深めた。

「明日花、荷物を下ろして。今回は荷物が多いんだから」

 小百合の厳しい声に、明日花は飛び上がった。まずい。お母さんったら、おじいちゃんとおばあちゃんの前でも不機嫌を隠さないんだから。
 明日花はみよから離れ、小百合から旅行用のキャリーケースを受け取った。キャリーケースの背丈は、身長150センチの明日花の半分ほどある。

「そんなに持ってきたのかい? お洋服なら、こっちで洗えば使い回せるでしょうに」

 みよが目を大きく開いて、大きなキャリーケースを見つめる。

「だって、あんまり少ないと同じ服ばっかりになるんだもん」
「明日花はお洒落さんだなあ」

 茂がにこにこと頷く。明日花はふふん、と得意げな顔をした。

「ごめんねえ、母さん。明日花ったら、妙に色気づいちゃって。中学生になったからって、いきなり大人になるわけでもないのに」

 小百合は明日花たちに歩み寄ると、わざとらしく息を吐いた。明日花は小百合の物言いに不満を感じ、眉根を寄せた。
 そりゃあ、お母さんたちに比べたら、子供だけどさ。中学生だって、立派な大人だもん。いつもいつも、「まだ子供だ」ってうるさいんだから。

「ついこの間まで、お気に入りのクマさんのトレーナーを『明日も着るの!』って騒いでたのにねえ」

 みよが感心するように話すので、明日花は肩を飛び上がらせた。

「もう! おばあちゃんったら、いつの話をしてるの? わたし、中学生になったんだよ?」

 頬が熱くなる。確かに、小学校低学年の頃は、お気に入りの服を毎日着ようとした覚えがあるけれど。今さら、その話を持ち出さなくてもいいのに!

「ふふふ。おばあちゃんにとっては、明日花ちゃんはいつまでも可愛い孫だからね」
「おじいちゃんにとってもだぞ」

 優しく微笑むみよと茂に、明日花はさらに頬を熱くさせた。大切でたまらない、といった眼差しを向けられると、どう反応していいかわからず、黙ってしまう。

「明日花。お母さんはおばあちゃんたちに話があるから、先に家に入ってて」
「……はあい。中で待ってるね!」

 明日花は笑顔で頷き、キャリーケースを引き摺って家の引き戸をがらりと開けた。身体を捻って戸を閉める時、小百合の様子を窺う。みよや茂と話している小百合は、神妙な面持ちをしている。
 ふう、と湿った息を吐き出して、戸を閉めた。目の奥が熱を持ち始めて、奥歯を噛んだ。いけない、気を抜くとすぐに泣きそうになる。

 お母さんは、おばあちゃんたちに何を話しているんだろう。お父さんと離婚するって、二人に報告してるのかな。

 玄関で立ち尽くしていると、外から車のエンジン音が聞こえた。タイヤが地面を踏む音がしたと思うと、どんどん遠ざかっていく。

 お母さん、帰っちゃったんだ。わたしを、置いて行ったんだ。

 みよと茂に会えた喜びで膨らんでいた胸が、一気にしぼむ。せめて、挨拶だけでもしてくれたらいいのに。
 必死に我慢していた涙が、ぽたり、ぽたりと土間に落ちた。



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