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第三章 彼女の嘘
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しおりを挟む「そんな目で見ないでくれよ」
雄吾は、目の前にいる結衣に向かって言った。
二人は今、成都大から歩いて数分の距離にある古民家風のカフェ「ひのき」に、場所を移していた。
席に座り、雄吾は視線を巡らす。周囲は話に花を咲かす若い女ばかりだった。どれもこれも、成都大の学生だろう。誰もが、甲高い声で喋り合い、歯茎を見せる程に笑っている。誰も自分達のことなんて、興味なんて無いに違いない。都合が良かった。
席についてからの結衣は、しばらく無言のまま、スマートフォンをいじっていた。まるで、目の前に雄吾がいないかのような振る舞い。もしやわざとなんじゃないかと肝を冷やしたが、「それでさ」と蜥蜴のように釣り上がった目で、じろりと自分を睨んだ。続く質問はやはり、「どうして直樹の家にいたのか」ということ。
「ちゃんと話してよ。あんたが侵入してた理由」
「侵入って、酷い言い草だな」
「事実でしょ?」結衣は先程運ばれてきたドリンクのグラスを、水色のジェルネイルで彩られた爪でつつく。レモンティー、彼女は無糖派だった。ガムシロップも入っていない。「仲が良くても犯罪だよ、犯罪」
「言ったろ、頼まれ事があったんだよ。直樹の了解はとってある」
「じゃあ頼まれ事って、何?」
「それは…」
「あと、それなら直樹が来ても、逃げることはなかったでしょ。私のショートメールを見て、こそこそ出てきた訳はなんなの」
「…」
「さっきからだんまりばっかりじゃん」
結衣はグラスを持ち、ストローに口をつけた。「そんなんじゃあ雄吾のこと、信じてあげられないよ」
「どうするんだ」
「どうするって?」
「もし、結衣の言ったことが本当だったとする」
「不法侵入?」
「…もしもの話だけど。そうだとしたら、あいつに言うのか」
「あんた次第かな」結衣は腕を組んで、またも睨む。「でも、自宅に勝手に上がり込んで物色する奴が同じサークルにいるのって、私だったら嫌だもんなぁ」
「言わないで、くれないか」
「だ、か、ら」どんっ、と。結衣は持っていたグラスを、軽くテーブルに叩きつけた。「それなら誤魔化さないで、早く言いなよ。なんで、あんなことをしていたのか」
普段は背が低く、小動物のような結衣だが、今の彼女はまさに蛇だった。鼠の雄吾は体を萎縮させるも、実のところは、己の事情を彼女に話してしまっても良いと思っていた。
ただ。彼女が信じてくれるか、懐疑的だった。当然である。直樹と詩音が、永塚を殺害したかもしれない。それを確かめるために直樹の家に侵入した。ここまでは良い。問題は疑う根拠だ。天使にもらった『成り代わり』で、直樹の目で、永塚の死体を見たからだなんて。作り話と捉えられるのが関の山だった。
でも、それは事実なのだ。
どう言えば、彼女に信じてもらえる。思考を巡らせていると、テーブルの上で組んでいた雄吾の手を、結衣はソッと握った。目を丸くする雄吾を、彼女はじぃっと見る。
「話しなよ。どんな内容でも、ちゃんと聞くから。私を信じて」
まっすぐな瞳。彼女の言葉に導かれるように、雄吾の口はそのまま、今の今まで話すことを躊躇っていたとは思えない程に、昨日からの出来事を彼女に話し出した。まさに、決壊したダムのよう。そこで雄吾は、自分が気づかない程にストレスを抱えていたことを実感した。
話した結果、彼女が信じてくれるのかどうかは、後で考えれば良い。とにかく今は、自分の置かれている状況を、他人に共有したかった。
話がひと段落したところで、結衣は嘆息した。
「つまり、えっと、あんたはその、天使から他人と成り代わる力ってやつをもらったわけ?」
「信じられないよな。俺も自分でまだ信じ切れてないくらいだからさ」
「ううん、そうね。でも」結衣はテーブルの上、レモンティーのグラス、縁についた結露に指を這わせる。「雄吾の言うことを、嘘って言い切るのも違う気がする。だって直樹、自転車で自宅に戻ってきたのに、今度はそれを置いて行っちゃったんだもん。普通そんな、変な行動しないでしょ」
そうだった。彼は詩音を後ろに乗せて、自転車でバイト先の方向へ去っていったのだ。動転していて忘れていたが、その行動が、不自然さを際立たせていた。
しかしそれが故に、彼女は雄吾の話をばっさり嘘と言い切らない。不幸中の幸いというべきなのだろうか。
「信じて、くれるのか」
「まあ、嘘と言い切れないってだけ。だって実際にあんたが『成り代わり』をしたところを見ていないもの」
「回数制限があって、今日はもうできないんだよ」
「非現実的な力なのに、妙なところはシステマチックだね、それ」
結衣はぶっきらぼう気味にそう言うと、「じゃあさ」と身を乗り出した。「それができるようになったら、私に『成り代わり』を見せてよ」
百聞は一見にしかず。彼女を完全に納得させるには、その事実を認識させるしかないのは確かにそう思えた。
そこで雄吾の頭に疑問が浮かんだ。これまで直樹としか『成り代わり』をしていないのだが、結衣にも…女にも、自分は入れ替わることができるのだろうか。性別の垣根は無関係なのだろうか。
「でも」うんうんと肯く結衣。「こう言っちゃ失礼かもだけどさ。あんたの状況、ドラマみたいだね。馬鹿にしてるわけじゃなくって」
結衣の言葉に、雄吾は浮かんだその疑問を一度頭の奥へと押し込んだ。
「本当に最後まで聞いてくれるとはな」
雄吾がそう言うと、結衣は「いや、なんかね」と机上に肘をつく。「あんたの『成り代わり』って、アドラーの名言ぽくってさ。聞き込んじゃった」
「アドラー?誰?」
「アルフレッド・アドラー。精神科医で、世界的に有名な心理学者」
「心理学者?天使と何も関係無くないか」
「天使の部分はね。あのね、彼の名言でこういったものがあるの。『自分は自分の、相手は相手の人生の主人公だ』ってやつ」
「へえ。それが『成り代わり』と、どういうつながりがあるっていうんだよ」
理解が追いついていない雄吾を前に、結衣は人差し指を立てる。「あんたのその『成り代わり』って、彼の名言をぶち壊すものだと思わない?普通干渉できない、相手の人生に干渉して、他人の人生の主人公になることができるってことよね。『成り代わり』が本当なら、面白いなあって」
「うーん。そうなんかな」
言われてみればそういうことだが、雄吾は心理学者というか、心理学という学問に興味が無いため、結衣のように、なるほどと落ちることはなかった。
「結衣、そういうのに興味があるんだっけ」
彼女は頬を膨らませる。「私成都大の心理学専攻じゃないの。忘れた?」
「あ、そっか。でも講義の内容、しっかり覚えてんのな」
「大学生たるもの、遊びだけではなく学業にも励むこと。私の中のポリシーだから。せっかく高いお金を払って通っているんだもん」
「ははあ。殊勝なことで」
そこで雄吾は、今日昼過ぎに部室で絵美から聞いた彼女の事情を思い出した。
「そういや。地元の親父さん、大丈夫なのかよ」
目を丸くする結衣。雄吾は結衣を見て「絵美さんに訊いたよ」と答えた。「親父さん、東北の土砂災害で怪我したんだっけ」
雄吾の言葉で、結衣は眉間に皺を寄せた。
「絵美さんどこまで話してんの?プライベートなことなんですけど」
「まあ、あの人は口が湧き水だろ」
「湧き水?」
「垂れ流しってこと」
「ふふ。何その例えひどすぎ」
「でも事実、絵美さんに話をしたら次の日皆知ってるなんてこと、よくある話じゃん」
結衣は「そうだね」口を押さえて笑う。絵美の口の軽さに気分を少々害したようだが、元に戻ったようだ。
「ま、でもさ。そこまで心配はいらないんだ。ただこれまで、少しばかり仕送りをしてもらっていたから。それが無くなるってだけ」
大変なのは仕送りが無くなる自分なのよと、結衣はテーブルに肘をつき、顎を手で支える。
「まあ、私のことはこれくらいで良いから。とにかく永塚さんがそう、なんだ」
雄吾は目を閉じる。永塚の死体が、ぼんやりと瞼の裏に浮かび上がってきて、思わず目を開けた。
「びっくり…なんてレベルじゃない。あいつら、あの人を殺していたよ」
永塚の衣服に、多量の血のついたバスタオル。さっき死体もこの目で見ていれば、自信を持って言えたのだが。
結衣は腕を組んで何やら考えていたが、「あのさ」と切り出した。
「雄吾、公園で私に訊いたよね。『ここで何をしてる?』って」
「そういえば訊いたな」
部室で聞いた話では、結衣もまたバイトがあるとのことだった。しかしその後あの公園で再会し、ここで向かい合っていることを考えると、それは嘘だったに違いない。嘘をついてまで部室を抜け出した、その理由は…
「結衣、直樹をストーカーしていたのか」
「ちょ、ちょっとやめてよ。違うし、言い方も考えてよ」
こそこそ声ながらも怒気を少々含む彼女に雄吾は謝る。
「じゃあなんたって…」
訝しげな雄吾に向かって、結衣は少し周りを気にするそぶりをしながら、自分があの場にいた目的を語った。
「えっとね。私、詩音を尾行してたの」
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