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1章 僕の怪談のはじまり ~新谷坂山の口だけ女~

アンハッピー・ピクニック

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 夜の山というものは、僕の想像以上に暗かった。
 山道は車道からは離れたところを走っている。登り始めはまだぽつぽつと外灯があったけど、ハイキングコース入口を超えればそれもなくなり、月と星の明かりだけが見下ろす真っ暗な山道が続いていく。しかも月の光はぽつぽつ続く高い木影に遮られ、実際にはほとんど見えない。たまに風にゆれる木のてっぺんから、ちらりちらりと見えるくらい。
 暗闇の中、懐中電灯のユラユラ揺れる僅かな明かりで足元を照らしながら一歩一歩進む。圧倒的な闇に比べて心細い。ナナオさんは僕のライトを頼りに、時々自分のスマホで足元を照らしながらそろそろと山道を登った。
 けれどもそれほど、少なくとも怖くはなかった。
「うぉっ何だ今の」
「なんかあった?」
「なんかよくわかんない」
 そんなよくわからない発言は僕を困惑させ、その分恐怖をどこかに追いやった。
 最初はおどろおどろしくを感じた山道も、二人で歩けば山道も案外と心強い。ヒュルヒュルとふく風とガサガサする葉っぱの音、ジャーッという何かの虫の音、ホウというフクロウかなにかの声。それから湿った草を踏んだときに時折感じる青臭い香り。
 僕らの靴音以外にも、夜の山は結構にぎやかで、僕らの足取りに色を添えた。
 真っ暗だから標識はところどころで見落としたけど、遠足できた時の記憶をつないでなんとかリカバーし、途中、もう帰ろうよ、いや後ちょっとじゃね、とグチをいいつつようやく参道を見つけ、ハァハァ息を切らして石段を登ってなんとか神社についたころには23時を回っていた。
 けれども、苦労した甲斐はあった。
 荒い息を吐きながら登りきった神社の入口の鳥居でツゥと冷たく吹いた夜の風につられて振り返ると、すっかり木々は切れていて、視界はするりと広がった。そこにはこれまで今まで見たことがない光景が広がっていた。
 北は神津こうづ区、東は辻切つじき区の宝石を散りばめたような夜景が煌々と輝き、その更に南東には弧を描くような暗い海岸線の向こうに広がる海を静かに明るい月が照らしている。海岸線を辿っていけば、はるか先に僕が先月まで住んでいた三春夜みはるよ市の明かりも霞のようにわずかに見えた。その闇色の海を照り返す月光のたもとから夜空の中心に向けて、うっすらと煙のような天の川が立ち上っている。そのまま空を見上げれば、満天の星空が広がっていた。
 思わず、わぁ、と息が漏れた。
 遠足の時はこんなに山の上まで上がってはいない。初めて見た夜の神津の全景は、まるで絵のように幻想的だ。息をするのもはばかられ、僕とナナオさんはしばらく無言で夜景を眺めた。

 しばらく後、ナナオさんはちょっとプルッとしてから、さみぃな、とつぶやいた。
 四月末とはいえ、夜の山はまだ寒い。
「さて、と。絵馬を探しにいかなくっちゃ」
「そうだね」
 気を取り直してナナオさんは神社側を振り返る。にぎやかで人の香りをのせた夜景とは対照的に、神社はひっそりと静まりかえり、そのざわざわ揺れる黒い影は人を拒むような静謐せいひつさを湛えていた。
 あまり人の手が入っていないのか、かつて朱色に塗られていたと思われる鳥居もところどころインクが剥がれ落ちてひび割れている。下草も伸びて一見すると少し荒れているようにも思われた。
 そんな中で鳥居をくぐって石畳を進んでたどり着いた本殿は、少し瓦が落ちていたけど、歴史のありそうな太く黒ずんだ柱や梁がしっかり地面と接続されていて、小さいながらも堂々とした佇まいを見せている。山裾や鳥居の外から少し感じたおどろおどろしさなんて欠片もなく、寧ろ安易に足を踏み入ってはいけないような、そんな神聖さで満ちていた。
 さっきの鳥居は夢とうつつの境目。なんとなく、そんな気がする。
 どっちが夢でどっちが現かはよくわからないけど。

 僕はふいに、登る前にナナオさんが言っていた、たくさんの悪いものを封じ込めている、という言葉を思い出す。ハイキングコースや山道を歩いている時は感じなかったけど、鳥居をくぐった瞬間からはそんな話もなんだか信じられる気がした。
 でも、ナナオさんは特にそういった感銘は受けなかったようだ。
「うぉっ。怖ぇぇ」
 ナナオさんはそう呟きつつ、両腕を擦りながらさっさと奥に進む。やっぱり薄いカーディガンじゃ寒そうだ。境内はすぐ右手側に絵馬掛所があり、まだ新しそうなカラフルな絵馬がたくさん掛けられていた。さらにその右奥に、社務所のような建物がある。少し新しいプレハブみたいな建物だ。
「絵馬って普通、社務所にあるのかな」
「そうなんじゃないの? 多分」
 ナナオさんは更にどんどん奥に進む。
 けれども社務所は当然施錠されていて、絵馬は置かれていなかった。
 よく考えたら、当然といえば当然。というか、そもそもお祭りとか用がなければ開けないのかもしれない。社務所の入り口にも木の葉が積もり、しばらく人が立ち入ったような形跡はない。
 入り口の絵馬を掛けた人は持参しているのかな。絵馬って通販とかで買えるのかな。ナナオさんが悪態をつく。
「まじ最悪。ないんだったら普通の服来てくるんだったぜ」
「帰ろうよ」
「うーんでも折角来たわけだしさぁ、私は絵馬になるもん探すよ」
 山の上はやっぱり寒く、風も強かった。だからせめて下山してコンビニとかで時間を潰したほうが暖かそうだ。おしるこ缶とか飲んでさ。
 けれどもナナオさんはちっとも諦めない。僕の存在なんかすっかり忘れたように、何か代わりになるものはないかな、と呟き、地面を見ながらうろうろと木板を探し始める。
 枝とかならともかく、さすがに絵馬に使えるような板は落ちてないんじゃないのかな。追いかけようかと思ったけれど、ナナオさんはさっさと先に行ってしまう。聞く耳はないらしい。諦めるまで待つしかなさそうだ。
 しかたがないから僕は神社にお参りして、鳥居から改めて夜景を見直そうか。
 ガランガランと本坪鈴を鳴らすと妙に乾いた音がした。

 来る前に調べた神社の歴史を思い出す。
 新谷坂にやさか神社はいつからかはわからないけど、かなり昔からこの辺りに鎮守社として存在していた。昔から新谷坂村の住民が守っていたようだ。明治時代の神社合祀ごうしで一度廃され、その後復祀されたけど、その時にこの神社の謂れや伝承なんかは失われてしまったらしい。
 今は同じ神津市内の結構大きな神社の宮司さんが、ここの宮司を兼任している。

 そんなことを考えていると、突然右手の茂みからガサガサっという音がした。ナナオさんかと思って振り返るけど誰もいない。
 不思議に思って見回すと、足下から、ニャーォ、という小さな声がした。
 目を落とせば、いつのまにか僕が座るのと同じ石段に闇からみ出たようなしっとりとした黒色をまとう猫がちょこんと座っていた。月明かりに照らされながら、金色の目で僕を見上げている。
 なんとなく、なにしにきたのかって聞かれているような、そんな雰囲気。
「友達の付き添いできたんだよ。もう少ししたら帰るから」
 僕が返事をすると、黒猫はまたニャーォ、と鳴いた後、フィと僕から背を向けて、神社の奥に立ち去った。妙に人懐っこい猫。ここに住んでいるのかな。ご飯とかはどうしてるんだろう。

 見下ろす山裾から長い石段に沿ってふわりと長い風が吹きあがる。その冷気に方がぷるりと震える。夜がふけるにつれ、気温も次第に下がっていく。
 そういえばナナオさんが木切れを探しにいってからずいぶん経つな。神社の奥をのぞき込めば、しんと静かに闇が降り積もっていた。
 あれ? どこに行った?
 そんなに奥に行ったのかな。
 その時、急に強い風が吹き、新谷坂神社裏手の木々がゴゥとうごめき葉がざわめいた。唐突に神社の奥から、グルルルルゥ、という獣の低いうなり声が聞こえた。
「ナナオさん!?」
 獣? 僕は急いで立ち上がり、急に思い出す。
 そういえばここは、野犬が出るんだった!
「ナナオさん!? どこ!?」
 ぼくは手探りでリュックから引き出した防犯スプレーをつかんでひと声叫び、暗い神社の奥へ駆け出す。
「ナナオさん、返事して?」
 左右を見回しながら名前を呼んで茂みに飛び込む。すると急に、何かが僕の手をつかみ引っ張った。
「シッ。トッチー静かに」
 ナナオさんは茂みの影に僕を引き寄せ、耳元で鋭く小さな声を出す。その隣にしゃがみ込み、合わせて小さな声で応答する。
「どうしたの? 何かあった?」
 またビュウと怒るように風が吹く。何かおかしい。異変を知らせる不吉な風。
 ナナオさんはヒリヒリした空気を醸して頬に汗を垂らし、立てた人差し指を口に当てたまま静かに前方の闇をにらみつけて動かない。
 ……僕にはなにも見えない。
「何か……」
「黙って」
 僕の声にかぶせるような鋭い声。空気にじわりと強まる違和感。
 次第にナナオさんの緊張が僕にもうつり、思わず肩が強張こわばる。心臓の音だけ大きく響く中、身動きせずにたっぷり100を数えたくらいのとき。
 ほんの直前、目の前の闇から、グラルゥ、という小さな音がして、何かがガサゴソと茂みの奥へ去る音がした。
 それからさらに5分ほどが経ち、音が戻ってこないのを確認したナナオさんは、フゥ、と息をはいて糸が切れたようにどっと地面にへたり込む。初めて見るナナオさんの疲れ切った姿は、遭遇した異常の大きさを思わせた。
 僕もその時、既に冷や汗をかいていた。
「なにがあったの? 野犬がでた?」
 なるべく落ち着くように小さく尋ねる。
 あの犬の鳴き声のような音。確かに妙だった。それは座り込んだ僕の頭よりも高いところから聞こえた、気がする。多分1メートル半くらいの、高さ。犬は木に登らない。犬の大きさじゃない。じゃあ犬じゃない? 何かがおかしいと風がざわめく。
 ナナオさんは荒い息を整えながら青い顔で噛みしめるように言う。
「いや、あれは野犬じゃない、なんていうか……口だけ女?」
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