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2章 藤原縄主とその妻

 side 縄主 仲成と縄主

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 百川様は全ての計画を周到に立てられていた。そして今際の際に種継様を呼ばれたと聞く。百川様の長子緒嗣おつぐ殿は未だ5歳。良継と名を変えられた宿名麻呂様は2年前、父蔵下麻呂は4年前にすでに没し、田麻呂様はもとより御仏に深く帰依された調和的なご性格だ。生き肝を食い合う政争をくぐり抜けることは不可能だ。だから畢竟、47歳で男盛りであられる種継様を次の式家の中心として指名した。
 そしておそらく、呪いを吐いた。種継様に式家の復興を運命づける呪いを。
 山部王様を天皇として盤石としましょう。あともう一息です。全ての権力から引き剥がして式家で囲い込み、再興を果たすのです、と。そして種継様はそもそも、それから逃れ得ないほど百川様の呪詛の内側にいた。

 種継様は広嗣様とともに粛清された清成殿の後継だ。その怒りはもとより深い。怒りと共に近衞少将として宮中に入り、百川様の命によって年若い頃より桓武山部王様とお近づきになった。
 そして桓武様の御母上であられる高野新笠様のご実家に繋がるはた氏の勢力圏、山背守に任命され、深く繋ぎをつけられた。そして秦氏の協力を得て長岡京は造営された。長岡の地は秦氏の支配地に造られたのだ。 つまり極めて長きに亘り、百川様の実際の手足として動かれていたのが種継様なのだ。
 種継様が暗殺されたのはまさにこれからといった時。桓武様の地盤を盤石とされる地固に入る直前のことだった。

「仲成様は種継様を継いで式家の復興を果たそうというのですね」
「当たり前ではないか!」

 種継様の姿を見て育った仲成殿も式家再興の毒にどっぷり浸かっておられるのだろう。そして種継様は今際の際に仲成殿を枕元に呼び、百川様と同様、その意思を完遂するようにと仲成殿に呪いをかけたのだ。

 そうして今、種継様の記録が抹消された。だから再興させなければ。
 同じだ。これは広嗣様が貶められた時と同じだ。
 良継様が、そして百川様があれほど必死になって積み上げた式家の栄光。それは公の歴史の手によって、賽の河原で鬼が石塔を崩すが如く再び灰燼に期した。
 そしてやはり、目の前の仲成殿は種継様と、そして百川様と同じ目をしていた。けれどもおそらく、仲成様には百川様ほどの才覚はない。百川様は八歳の折に人間をやめられた。父はそのように言っていた。何度かお会いした百川様に対する俺の印象も同じだ。あの方は人というより鬼神だった。

 けれども仲成殿は違う。
 仲成殿からは人の気配がする。なんとはなく、そう思う。人が持ちうる迷いと苦悩。俺と同じような凡庸とした気配。おそらくだが、式家の再興という大それた事業は人の身で話し得ぬものなのだ。種継様もとても優れ、鋭い方であったが、人の気配がした。やはり百川様でなければ無理なのだ。
 百川様であればおそらく賊の気配も嗅ぎ取り、事前に対処し得ただろう。

「仲成様にとって薬子様はどのような存在なのですか」
「大切な家族だ」
「家族と式家はどちらが大切なのでしょうか」

 仲成殿は言いよどみ、少しだけ逡巡してから、両方だ、と述べた。けれども百川様であれば即座に同じものだと答えるだろう。
 家族。
 家族と一族。似たようで異なる概念。
 一族の中にも色々な者がいる。田麻呂様も父の蔵下麻呂も、さほど政権を志向しなかった。というより積極的に足を踏み込む勇気を持てなかったのだ。その茨の道は先に進めば進むほど、高みを望めば望むほど独立峰のように高くそびえ立ち、その上に立てる者の数は極小となっていくのだから。そこは鬼神が舞い踊る場所だ。

 人には向き不向きというものがある。だから百川様は父や田麻呂様に積極的に政治に参加させることもなかった。式家の中で自然と役を割り振られた。ある意味、百川様にその役割を押し付けたのだ。他の誰もその狭い場所に立つ資質はなかったとはいえ。
 もちろん俺もそこに登ることはできない。身の程は十分に知っている。
 そして恐らく仲成殿もその頂に立てる器ではない。その高みを目指すのであれば、おそらく失敗するだろう。けれどもまだお若い。だから自らというものを冷徹に見ることができないのだ。けれども今の仲成殿を止めることができる者はいないのだろう。
 そうすると、その薬子殿という方はどうなるのだろう。その時、仲成殿には余裕はあるまい。

「薬子をもらっていただける宛などないのだ。縄主殿しか」

 再び吐かれたその言葉。名を消された種継の娘など。そのような心の声が透ける。
 計算した。名を消された種継様の娘。おそらく仲成様では式家の復興ははたされないだろう。場合によってはかつての良継様のように謀反のそしりを受けるおそれもある。
 その時、薬子殿には身内はこの仲成殿しかいない。そうなれば薬子様は二進も三進もいかなくなる。

 そして我が身。曲がりなりにも俺が今、従五位下、中衛少将を拝謁しているのは百川様と式家のおかげだ。百川様の差配で父が本来の能力を超えて従三位参議にまで上り詰めたからだ。
 式家は百川様がいなければ、すでに貴族ではなかっただろう。だから俺は百川様に、式家に恩義がある。
 式家は助け合う。それならば式家の誰かが薬子殿をお助けせねばなるまい。けれども俺は極力争いに巻き込まれたくはない。それでも俺にできること。
 仲成殿がそこまで言われるのであれば、一度だけはお会いしよう。断られればそれを理由として断ればよい。やはり、前向きにはなれなかった。

 そして数日後の夜。
 厚く重い灰色の雲の垂れ込める冬の夜。密かに薬子殿の室に忍んだ。
 予め何度も書簡を送ったが、返事が来ることはなかった。だから脈などないと思ってホッとしていた所、仲成殿から家に入ることを許可するという手紙が届いた。
 何故だと思ったが、その手紙には薬子殿は気鬱を患っていると書かれている。ともあれ一度は来てほしいとも。
 仕方がなく松明を灯し、その室に訪れた。室内は十分に温まり、その御簾の先には影が揺れていた。

「良き夜ですね。薬子様」
安殿あて様?」

 安殿様?
 その子供のような嬉しそうな声は、それきりだった。俺が名乗ったからだ。一瞬だけ灯った幽き明かりはすぐに消えてしまって静かな闇が波紋のように広がった。

「私は藤原縄主と申します」
「そう……ですか」
「ここでお話しても宜しいでしょうか」
「……」

 緞帳のように夜は深く垂れ込め、いつのまにやら雪が降り始めて全ての音を消していく。
 俺は様々に話をした。俺が送った和歌の話。過ぎゆく季節の話。日々の暮らしの話。好きなもの。
 薬子殿はそのいずれにも何らの反応はしなかった。ただ、俺の目の前で世界を区切る御簾の向こうにある影が時折揺れるだけだった。
 気鬱の病。仲成殿はそう言っていた。そういう事なのだろう。何らの反応はしないのだ。ただ1つ以外。

「先程の安殿親王の」
「安殿様?」
「……いいえ。私は縄主と申します」
「どなた……?」
「薬子様の従祖父にあたります」
「……」

 そういえば百川様は帯子おびこ殿を安殿親王に入内させていた。そうすると種継様もこの薬子殿を安殿親王に入内させるおつもりだったのだろうか。そういえば薬子殿は安殿親王より2歳ほど年下と聞く。
 けれども種継様が亡くなられ、全てが立ち消えとなったのであろう。
 貴族にとって婚姻は役割だ。けれども婚姻とは別に愛執というものがある。一致することはほとんどないものの、極稀に一致するものと聞く。この様子を見ると薬子殿のご意思は稀にも一致されていたのかもしれない。哀れな。
 未だ10歳か。広嗣様が討たれた当時の父上より年は上だが女子では自ら寄って立つこともできぬ。おそらく種継様からは他の年頃の男の存在など噂すら聞かされてはいなかったのだろうな。

『恐らく薬子は貰い手がおりません。何卒お聞き届けを』

 仲成殿の言が思い浮かぶ。このままではたしかに婚姻を結ぶ男などおるまい。その日は慣例通り、御簾の前でだが朝まで話をして室を出た。結局、薬子殿は俺には何の反応も示されなかった。一応、後朝の歌をしたため、同時に仲成殿にも御意にそえないと書簡を送る。予想通り薬子殿から返信はなかったが、仲成殿から返事があった。

ーあと一度だけ。あと一度だけお越しください、何卒。

 あと一度。婚姻の儀は3日通うことで成立する。それならあと一度であれば。できることはしよう。
 そう思ってうだうだと気の乗らぬ夜半、足を向けたその日は湿度が高くもやもやと大気が震え、ぐらぐらと遠雷が響いている。
 そうして薬子殿の室に忍んで薬子殿と目があい、思わず膝から崩れ落ちた。
 私は頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
 なんということを。なんということをするのだ。
 そしてさらに稲光が明るく室内を照らす。

 そこには御簾が、なかった。
 そこにはただ、薬子殿と思しき美しい黒髪の女児が化粧を施されてぼんやりと座っていた。
 なんということをするのだ仲成殿は。有るまじきことだ。これが家族にする所業か。たとえ継母継子であっても顔など見せぬ。尊き女が家族以外の男に顔を見られるなどあってはならぬ。それなのに。
 慌てて平伏する。

「誠に申し訳ない。私にこのようなつもりは」

 そこまで言って、やはり反応が全くないことに気づく。恐る恐る顔を上げると、薬子殿は先ほどとかわらず、ぼんやりとどこかを眺めていた。
 顔を袖で隠すこともなく。
 それがどれほど異常なことか、妻を持たぬ俺でもわかる。
 さりとてこのまま同室を続けるわけには、顔を合わせ続けるわけにはいかぬ。薬子殿の名誉にも関わる。謝意を告げて室を抜け出るしかなかった。

「仲成殿! どういうことですか!」
「どうもこうもないのです。貴殿をお頼み申すしかないのだ!」
「しかし。まだ十の歳だろう」
「未だ十であるからこそ不作法が成り立つのです。これが年頃になると狂女としか思われない。今しか」

 なるほど確かにこれでは婚姻は成り立たぬだろう。そして俺はこの歳まで結婚していない変わり者だ。仲成殿に侮られているとわかっても、それでも薬子殿は哀れだった。しかし。このように相手の意に全く沿わぬ結婚が成立してよいはずがない。通う相手を決める権利は両親にあるが、断る権利も薬子殿にあるのだ。

「一族の貴殿しかお任せできぬ。婚儀だけ了承されれば通われなくても良い」
「何。どういうことだ」
「薬子の面倒はこちらで見る。ただ、結婚したという事実が欲しい。迷惑はかけぬ」

 その言葉で全てが腑に落ちた。酷く白けた。
 つまり薬子殿は結婚させればそれで済むのだ。そういえば仲成殿が最初に側室でもいいと言っていたこと、それから乙牟漏様の手のものが後ろ盾となっていたことを思い出していた。
 乙牟漏様。良継様の御息女で桓武様の皇后様。そして安殿親王の母。
 おそらく桓武様と種継様との間では安殿親王へ薬子殿が入内することは決まっていたのだろう。けれども種継様を抹消する以上、その後ろ盾を失った薬子殿の入内も抹消しなければならない。だから乙牟漏様が薬子殿とのラインを消しにきたのだ。他の男への輿入れという事実を持って。

 不憫な。
 けれども現在の薬子殿のご様態を見ては、どのみち安殿親王への入内は叶わないだろう。だから仲成殿も乙牟漏様の説得を受け、俺で妥協したのだ。式家の内のうだつのあがらぬ俺に。
 憐れな。
 酷く白けてひび割れた気分の内に、はじめて薬子殿が染み込んできた。先ほど会った薬子殿の様子、魂がすでにそこから失われているようだった。俺が断れば、どこのだれともわからぬ男に押し付けられるのだろう。
 それは実に、可哀想だ。未だ十というのに。それはやはり、酷く陰鬱なものを俺の胸中にもたらす。
 俺しか、いないのか。

「明日また来る。本日はろくにご挨拶もせず部屋を出た。明日、私も話をして、それでご返答差し上げる」

 結局のところ、婚姻を検討するも何もなかったのだ。これは婚姻ではなく、身柄の引き渡しに等しい。どこでだっていいのだ。ただの1つの尊き場所以外であれば。
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