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十日間の関係 side 浅井樹

5日目(3)

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「いいえ。この体は樺島成彰のものですし、5日後には調整が完了してもとの樺島成彰としての行動を再開します。そして同時に私の意識は消失します。私は樺島成彰を再構成するために擬似的に発生した人格にすぎません」
「……先生が死ぬっていうのは?」
「私は樺島成彰が今後も生存できるように、その人格を微調整した上で再現しようとしました。けれどもそれは初期段階から失敗しました。この体にはあなたを樹と呼び、一緒に寝た認識がある。けれどもそれは事実ではない。そしてそれは樺島成彰にとって禁忌でした」
 確かにこれまで一緒に寝たことはない。けれども禁忌?
 思い当たることはなくはない。
 樺島はとてもプライベートを大切にしていた。一定距離以上、俺も含めて人を近寄らせなかった。よく一緒にテレビを見たり飯を食ったりしていたけれど、体が触れ合ったことはない。ただ、隣りにいただけだ。お互いに触れないように気をつけていた。だからきっと、樺島は俺と同じような距離感を好むのだと思っていた。体が触れないけれど、なるべく近い距離。
 つまり接触はこれまでの樺島を考えれば通常ではない行為で、忌避すべきだと考えていてもおかしくは、ない。じゃあ何故あんなことを?
「そうすると、この10日間の記憶を消して樺島成彰を再生するしかありません。つまり、私の関与のない元の状態に戻る結果、また自殺を試みるでしょう」

 その断定的な言葉に思わず慌てた。
「ちょっと待ってください。何故……何故自殺を? スランプを抜けたんではないんですか? 絵が描けると言っていたじゃないですか」
 目の前の樺島はキャンバスに目を向けた。
「樺島成彰はこの絵を描くにあたってなにか支障があったわけではありません。描こうと思えばもともと描くことはできました。この絵は描いてはいけないから、描いていなかったのです」
「描いてはいけないから、描けない?」
 まるでなぞなぞのようだ。キャンバスを眺める。ぼんやりとした輪郭。それが人だろうという気配があることはわかる。淡く柔らかいイメージ。けれどもそれ以上の情報はない。
「樺島成彰は不思議な人でした。頭の中であなたを樹と呼びながら、口から出る言葉は浅井君でした。あなたと寝室の前で別れたあと、樺島成彰の頭の中ではあなたと夜をともにしていました。あなたはそれを気持ち悪いと感じますか?」
 ここ数日の俺と樺島との生活は、樺島の認識の中では毎日のことだったということだろうか。
「気持ち悪い……かどうかはわからない。そんなことは考えてもみなかったし。でも俺は別に嫌じゃない。それなら今の生活で問題はないのでは?」
 目の前の樺島は、ゆっくりと目を閉じる。頭の中で何かを調べるように。
「樺島成彰はとても珍しい人間でした。頭の中の出来事が、記憶より鮮明だった。だから私は頭の中の出来事が事実であるように誤認しました。けれども同時に、その頭の中の出来事を実行に移すことは樺島成彰にとっ絶対に犯してはならない禁忌だと位置づけられています。そして私はそれを容易に踏み越えてしまった。知らなかったとは言え、これは私が樺島成彰に約束した元の生活に戻るという条件から大きく逸脱します。ですから、私は可能である限りの範囲の元の生活を確保するためにこの10日のことを記憶から消します」
 10日。
 これまでの5日とこれからの5日。つまり俺を樹と呼び、一緒に寝た記憶。

「消すと…………やっぱり先生は死ぬのか」
「はい」
 ぴりぴりと空気が冷えていく。
「それじゃあんたのしたことも意味がない」
「はい。私は失敗しました」
 きっぱりとした答え。そして疑問は最初に戻る。
「なあ、なんで先生は自殺を?」
「この絵が描けなかったからです。そして同時に樺島成彰はこの絵を切望していた。この絵こそが、本当は樺島成彰が求めていたものです。だから身動きが取れなくなった。ですから私はこの絵を完成させたいと思いました。せめて事実として、その希望を叶えたい。こちらの人間の言葉にすれば、罪滅ぼしとして。ここ5日の樺島成彰の行動を嫌がらなかったあなたなら、この絵をいても嫌がらないだろうと思いました」
 キャンバスに目を向ける。淡いオレンジ色の背景にピンク色の人物。
 この絵は一体なんなんだ。樺島が描けるけれども描けなかった絵。そのために死んだ絵。
「この絵を5日以内に描いて廃棄し、樺島成彰の記憶を5日前に戻します」
「廃棄? 何故」
「樺島成彰では決して描けなかった絵です。ですからその目に触れないように廃棄します」
 樺島であれば描けなかった絵?
「あんたなら、描ける?」
「はい。厳密に言えば、私が再構成中の一部の認識が欠落した樺島成彰になら」
 およそ荒唐無稽な話だ。
 けれどもその頃には、目の前の樺島の話す内容が真実であるように思えてきた。樺島の透き通った瞳を通して俺に語りかける意思は、誠実に思えた。
 その宇宙人は自らの名前をクィワンセナセラシと名乗った。厳密には名前というわけでもないらしい。本当は風や波の音のようでこんな音には聞き取れなかったけれど、無理やりカタカナにするとそんな名前だった。だからクィと呼ぶことにした。クィは必要以上に樺島成彰の真似をするのはやめた。
 そう俺が望んだからだ。
 けれどもその日もクィと寝た。
「先生は俺と寝たかったんですか?」 
「はい」
「それならそう言えばよかったのに」
 少しの沈黙に顔を上げればクィは静かに俺を見つめていた。
「あの日じゃなければ、あなたはきっと断っていたでしょう」
「そう……ですね」
 あの日は樺島が自殺しないか、不安だった。だから一緒に寝た。もし何もなければ。俺は断っていたかもしれない。きっと樺島なら冗談のように言うだろうし、冗談だと思って断った。それが俺と樺島の距離。
「いつから?」
「1年前にサーフィンに行ったときから、少しずつ認識と記憶が分離し始めました」
「そんなに前?」
 クィは頷く。
 その頃に樺島に触れられていれば拒否していたように思われる。2年の間に俺と樺島の間で熟成された時間が触れることを許したのかもしれない。触れてもそんなに嫌じゃないのは、樺島の体だからだろうか。それとも樺島じゃないからだろうか。そもそも樺島にはそんな素振りなんてちっともなかった。
「あの絵を描いてもいいですか」
「それは俺が決めることじゃない」
「あなたの許しが欲しいんです」
 絵を描くを相談をされたことなんてないのに?
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