44 / 81
第4章 芸術家変死事件
ある芸術家の日記 断片的なピース
しおりを挟む
薄い封書を震える手で開く。
――――――――――――――――
第38回月光美術展覧会審査委員長
喜友名晋司殿
今般、第38回月光美術展覧会に応募された貴作品は監査の結果入選と決定致しましたのでご通知致します。
作品搬出 2月16日・17日(午前10時~午後4時)
期間内に搬出されないものは本会においては責を負いかねますので、予めご承知おきください。
――――――――――――――――
噂で聞いていた通りの短い文章だ。
けれども手紙を持つ私の手は、いつまでもふるふると震えて続けた。
とうとう私の芸術は認められたのだ。心の底から、さざなみのように感情が押し寄せてくる。長かった。長い夜道の末にようやく日の目をみた。魂を削り出して描きあげた1枚。『落日の悲歌』。今は手元になくてもその姿はくっきりと脳裏に思い浮かべることができた。
難苦を込めて一筆を塗り込め、悔悟を込めて一筆を滑らせる。最後に筆をそっと紙面から掬い上げたとき、残ったのは染み渡る郷愁。
「月展入選」
そうぽつりと言葉にすると、これまで妄想の域を出なかった何かがそろりと現実に漏れ出たように、じわじわと実感というものが沸きあふれてきた。口腔から吐き出された息は手紙をひゅるりとなでて耳に至り、脳を甘く蕩けさせた。
陶酔とはこのことか。頬の火照りは自然と私の目を天井に向けさせた。
天井。そこにはいつも通り白いパネルが貼られていた。
描きたい。新しい絵を。そう思った。
想像の中で白い天井に絵筆を走らせる。礼拝堂の天井に絵を描くテンペラ画のように、その絵具は私の上にほたほたと垂れ落ちてくるだろう。そして絵具は天井だけでなく私を、そして家を、この世界を様々な色に染めあげていく。そういう夢想に心が沸き立つ。
今だ、今こそ筆をとらなければ。
そしてふと気がつく。肝心の絵具が足りない。
あぁ愛しいな。またあの色を探さねば。
あぁ悲しいな。じわりと滲みゆくあの色を。
あぁ哀しいな。じゃあどうしようか。また天井裏に取りに行こう。
そんな思いを抱きながら、再び手元を見下ろした。
手紙。つるりとした白い表面。
いつしか震えは手紙に対してではなく、この白い紙の先に思い描く新しい光景に対してのものに変化していた。『落日の悲歌』は目的を遂げて、私の手から飛んでいってしまった。嗚呼。
新しい目的を得た私には、すでにこの白い紙はあまり意味のないものに成り果てていた。
『月展の封筒に認められた自筆の書付より』
世の中とは。夜の道のようなものである。
早いうちはワイワイと賑やかだし、良く見えるのだ。けれども時間が経ってくるとだんだん人が少なくなり、何も見えなくなってくる。そう、何も、見えなく、なってしまう。
そしてあちこちにガチンゴチンとぶつかり、川に落ちたり木に足を引っ掛けて転んだりする。
そして暗い夜道で迷ってしまうのだ。
私も同じように、ここがどこだかわからなくなってしまっていた。持っていたものもどこかに落としてしまった。いや、それはひょっとしたら最初から持っていなかったのかもしれない。
途方に暮れていたところで、私は幸運にもお菓子の家にたどり着いた。私は飛びついたのだ。
その家には瓶につまったお菓子があった。たくさんのお菓子が入っていた。ぱくぱくと食べていると、不思議なことが起こった。力が湧いてくる。新しい世界が見えてくる。お菓子は世界を照らした。しばらくお菓子を食べていたら、お菓子はなくなってしまった。悲しくなった。私はまた、夜道に迷ってしまうのだろうか。
そうすると、声が聞こえた。
「新しいお菓子を用意します」
だから新しいお菓子を探してもらう。この家にふさわしい甘いお菓子を。
『自宅の戸棚に挟まれていたメモ』
賞を獲った。たくさんの賞を獲った。
1番は月展だ。芸術家であれば誰も知らぬ者がない、日本で最も有名な賞だ。その時はとても驚いて、とても嬉しかった、と思う。
それから絵を描いては色々な公募に応募し、多くで賞を得た。これまでの人生とは真反対だった。すっかり明るい道を堂々と歩いているようで、これまでの人生は暗がりに押し込められた。あたかもそこには意味がなかったかのように。
意味。
私は何故絵を描いているのだろうか。それが最近、少しわからなくなってきた。
ひたすら、ただ愚直に、目の前にあるものを描く。筆をとり、私は自分を描く。それが私ではなかっただろうか。私は、私を……?
完成した絵は私から離れていく。
私が描き終わったから、私から独立するのだ。その独立した絵を眺めていると、少し疎外感を感じた。完成してしまった。だから、その絵が賞を獲っても自分のことのようには喜べなくなっていた。
『喜友名晋司の手帳の最後のページ』
――――――――――――――――
第38回月光美術展覧会審査委員長
喜友名晋司殿
今般、第38回月光美術展覧会に応募された貴作品は監査の結果入選と決定致しましたのでご通知致します。
作品搬出 2月16日・17日(午前10時~午後4時)
期間内に搬出されないものは本会においては責を負いかねますので、予めご承知おきください。
――――――――――――――――
噂で聞いていた通りの短い文章だ。
けれども手紙を持つ私の手は、いつまでもふるふると震えて続けた。
とうとう私の芸術は認められたのだ。心の底から、さざなみのように感情が押し寄せてくる。長かった。長い夜道の末にようやく日の目をみた。魂を削り出して描きあげた1枚。『落日の悲歌』。今は手元になくてもその姿はくっきりと脳裏に思い浮かべることができた。
難苦を込めて一筆を塗り込め、悔悟を込めて一筆を滑らせる。最後に筆をそっと紙面から掬い上げたとき、残ったのは染み渡る郷愁。
「月展入選」
そうぽつりと言葉にすると、これまで妄想の域を出なかった何かがそろりと現実に漏れ出たように、じわじわと実感というものが沸きあふれてきた。口腔から吐き出された息は手紙をひゅるりとなでて耳に至り、脳を甘く蕩けさせた。
陶酔とはこのことか。頬の火照りは自然と私の目を天井に向けさせた。
天井。そこにはいつも通り白いパネルが貼られていた。
描きたい。新しい絵を。そう思った。
想像の中で白い天井に絵筆を走らせる。礼拝堂の天井に絵を描くテンペラ画のように、その絵具は私の上にほたほたと垂れ落ちてくるだろう。そして絵具は天井だけでなく私を、そして家を、この世界を様々な色に染めあげていく。そういう夢想に心が沸き立つ。
今だ、今こそ筆をとらなければ。
そしてふと気がつく。肝心の絵具が足りない。
あぁ愛しいな。またあの色を探さねば。
あぁ悲しいな。じわりと滲みゆくあの色を。
あぁ哀しいな。じゃあどうしようか。また天井裏に取りに行こう。
そんな思いを抱きながら、再び手元を見下ろした。
手紙。つるりとした白い表面。
いつしか震えは手紙に対してではなく、この白い紙の先に思い描く新しい光景に対してのものに変化していた。『落日の悲歌』は目的を遂げて、私の手から飛んでいってしまった。嗚呼。
新しい目的を得た私には、すでにこの白い紙はあまり意味のないものに成り果てていた。
『月展の封筒に認められた自筆の書付より』
世の中とは。夜の道のようなものである。
早いうちはワイワイと賑やかだし、良く見えるのだ。けれども時間が経ってくるとだんだん人が少なくなり、何も見えなくなってくる。そう、何も、見えなく、なってしまう。
そしてあちこちにガチンゴチンとぶつかり、川に落ちたり木に足を引っ掛けて転んだりする。
そして暗い夜道で迷ってしまうのだ。
私も同じように、ここがどこだかわからなくなってしまっていた。持っていたものもどこかに落としてしまった。いや、それはひょっとしたら最初から持っていなかったのかもしれない。
途方に暮れていたところで、私は幸運にもお菓子の家にたどり着いた。私は飛びついたのだ。
その家には瓶につまったお菓子があった。たくさんのお菓子が入っていた。ぱくぱくと食べていると、不思議なことが起こった。力が湧いてくる。新しい世界が見えてくる。お菓子は世界を照らした。しばらくお菓子を食べていたら、お菓子はなくなってしまった。悲しくなった。私はまた、夜道に迷ってしまうのだろうか。
そうすると、声が聞こえた。
「新しいお菓子を用意します」
だから新しいお菓子を探してもらう。この家にふさわしい甘いお菓子を。
『自宅の戸棚に挟まれていたメモ』
賞を獲った。たくさんの賞を獲った。
1番は月展だ。芸術家であれば誰も知らぬ者がない、日本で最も有名な賞だ。その時はとても驚いて、とても嬉しかった、と思う。
それから絵を描いては色々な公募に応募し、多くで賞を得た。これまでの人生とは真反対だった。すっかり明るい道を堂々と歩いているようで、これまでの人生は暗がりに押し込められた。あたかもそこには意味がなかったかのように。
意味。
私は何故絵を描いているのだろうか。それが最近、少しわからなくなってきた。
ひたすら、ただ愚直に、目の前にあるものを描く。筆をとり、私は自分を描く。それが私ではなかっただろうか。私は、私を……?
完成した絵は私から離れていく。
私が描き終わったから、私から独立するのだ。その独立した絵を眺めていると、少し疎外感を感じた。完成してしまった。だから、その絵が賞を獲っても自分のことのようには喜べなくなっていた。
『喜友名晋司の手帳の最後のページ』
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
膀胱を虐められる男の子の話
煬帝
BL
常におしがま膀胱プレイ
男に監禁されアブノーマルなプレイにどんどんハマっていってしまうノーマルゲイの男の子の話
膀胱責め.尿道責め.おしっこ我慢.調教.SM.拘束.お仕置き.主従.首輪.軟禁(監禁含む)
【お願い】この『村』を探して下さい
案内人
ホラー
全ては、とあるネット掲示板の書き込みから始まりました。『この村を探して下さい』。『村』の真相を求めたどり着く先は……?
◇
貴方は今、欲しいものがありますか?
地位、財産、理想の容姿、人望から、愛まで。縁日では何でも手に入ります。
今回は『縁日』の素晴らしさを広めるため、お客様の体験談や、『村』に関連する資料を集めました。心ゆくまでお楽しみ下さい。
ゾンビだらけの世界で俺はゾンビのふりをし続ける
気ままに
ホラー
家で寝て起きたらまさかの世界がゾンビパンデミックとなってしまっていた!
しかもセーラー服の可愛い女子高生のゾンビに噛まれてしまう!
もう終わりかと思ったら俺はゾンビになる事はなかった。しかもゾンビに狙われない体質へとなってしまう……これは映画で見た展開と同じじゃないか!
てことで俺は人間に利用されるのは御免被るのでゾンビのフリをして人間の安息の地が完成するまでのんびりと生活させて頂きます。
ネタバレ注意!↓↓
黒藤冬夜は自分を噛んだ知性ある女子高生のゾンビ、特殊体を探すためまず総合病院に向かう。
そこでゾンビとは思えない程の、異常なまでの力を持つ別の特殊体に出会う。
そこの総合病院の地下ではある研究が行われていた……
"P-tB"
人を救う研究のはずがそれは大きな厄災をもたらす事になる……
何故ゾンビが生まれたか……
何故知性あるゾンビが居るのか……
そして何故自分はゾンビにならず、ゾンビに狙われない孤独な存在となってしまったのか……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる