叫ぶ家と憂鬱な殺人鬼(旧Ver

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第4章 芸術家変死事件

ある芸術家の日記 断片的なピース

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 薄い封書を震える手で開く。
――――――――――――――――
 第38回月光美術展覧会審査委員長

 喜友名晋司殿

 今般、第38回月光美術展覧会に応募された貴作品は監査の結果入選と決定致しましたのでご通知致します。

 作品搬出 2月16日・17日(午前10時~午後4時)
 期間内に搬出されないものは本会においては責を負いかねますので、予めご承知おきください。
――――――――――――――――

 噂で聞いていた通りの短い文章だ。
 けれども手紙を持つ私の手は、いつまでもふるふると震えて続けた。
 とうとう私の芸術は認められたのだ。心の底から、さざなみのように感情が押し寄せてくる。長かった。長い夜道の末にようやく日の目をみた。魂を削り出して描きあげた1枚。『落日の悲歌』。今は手元になくてもその姿はくっきりと脳裏に思い浮かべることができた。
 難苦を込めて一筆を塗り込め、悔悟を込めて一筆を滑らせる。最後に筆をそっと紙面から掬い上げたとき、残ったのは染み渡る郷愁。

「月展入選」
 そうぽつりと言葉にすると、これまで妄想の域を出なかった何かがそろりと現実に漏れ出たように、じわじわと実感というものが沸きあふれてきた。口腔から吐き出された息は手紙をひゅるりとなでて耳に至り、脳を甘く蕩けさせた。
 陶酔とはこのことか。頬の火照りは自然と私の目を天井に向けさせた。

 天井。そこにはいつも通り白いパネルが貼られていた。
 描きたい。新しい絵を。そう思った。
 想像の中で白い天井に絵筆を走らせる。礼拝堂の天井に絵を描くテンペラ画のように、その絵具は私の上にほたほたと垂れ落ちてくるだろう。そして絵具は天井だけでなく私を、そして家を、この世界を様々な色に染めあげていく。そういう夢想に心が沸き立つ。
 今だ、今こそ筆をとらなければ。
 そしてふと気がつく。肝心の絵具が足りない。
 あぁ愛しいな。またあの色を探さねば。
 あぁ悲しいな。じわりと滲みゆくあの色を。
 あぁ哀しいな。じゃあどうしようか。また天井裏に取りに行こう。

 そんな思いを抱きながら、再び手元を見下ろした。
 手紙。つるりとした白い表面。
 いつしか震えは手紙に対してではなく、この白い紙の先に思い描く新しい光景に対してのものに変化していた。『落日の悲歌』は目的を遂げて、私の手から飛んでいってしまった。嗚呼。
 新しい目的を得た私には、すでにこの白い紙はあまり意味のないものに成り果てていた。
『月展の封筒に認められた自筆の書付より』


 世の中とは。夜の道のようなものである。
 早いうちはワイワイと賑やかだし、良く見えるのだ。けれども時間が経ってくるとだんだん人が少なくなり、何も見えなくなってくる。そう、何も、見えなく、なってしまう。
 そしてあちこちにガチンゴチンとぶつかり、川に落ちたり木に足を引っ掛けて転んだりする。
 そして暗い夜道で迷ってしまうのだ。
 私も同じように、ここがどこだかわからなくなってしまっていた。持っていたものもどこかに落としてしまった。いや、それはひょっとしたら最初から持っていなかったのかもしれない。
 途方に暮れていたところで、私は幸運にもお菓子の家にたどり着いた。私は飛びついたのだ。
 その家には瓶につまったお菓子があった。たくさんのお菓子が入っていた。ぱくぱくと食べていると、不思議なことが起こった。力が湧いてくる。新しい世界が見えてくる。お菓子は世界を照らした。しばらくお菓子を食べていたら、お菓子はなくなってしまった。悲しくなった。私はまた、夜道に迷ってしまうのだろうか。
 そうすると、声が聞こえた。
「新しいお菓子を用意します」
 だから新しいお菓子を探してもらう。この家にふさわしい甘いお菓子を。
『自宅の戸棚に挟まれていたメモ』


 賞を獲った。たくさんの賞を獲った。
 1番は月展だ。芸術家であれば誰も知らぬ者がない、日本で最も有名な賞だ。その時はとても驚いて、とても嬉しかった、と思う。
 それから絵を描いては色々な公募に応募し、多くで賞を得た。これまでの人生とは真反対だった。すっかり明るい道を堂々と歩いているようで、これまでの人生は暗がりに押し込められた。あたかもそこには意味がなかったかのように。
 意味。
 私は何故絵を描いているのだろうか。それが最近、少しわからなくなってきた。
 ひたすら、ただ愚直に、目の前にあるものを描く。筆をとり、私は自分を描く。それが私ではなかっただろうか。私は、私を……?
 完成した絵は私から離れていく。
 私が描き終わったから、私から独立するのだ。その独立した絵を眺めていると、少し疎外感を感じた。完成してしまった。だから、その絵が賞を獲っても自分のことのようには喜べなくなっていた。
『喜友名晋司の手帳の最後のページ』
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