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 ダイニングには紙に文字を書く音だけがしている。
 時々、ぺらりと紙をめくる音も。

 彼女は髪を染めると宣言して出て行ってからけっこうたっている。その間にユウリの監視を頼まれてしまった。
 お互いの情報交換と言って出した宿題をしなかったらしい。
 全く悪びれていないユウリに、最後にはごめんなさいと言わせていたのには、さすがに驚いた。

 あれは絶対弟がいて、俺は弟枠に入れられた。しかも、問題があって困るほうの弟。
 そんなことをユウリは机に突っ伏して言っていた。確かに、弟がいると聞いたことがある。
 断片的な情報を統合すれば、実兄の夫婦とまだ見ぬままだった甥っ子がいて、外では仲が良い両親がいるらしい。それはあまりにも普通に、二度と会えない相手について言うほどの重さもなく漏れた言葉たち。
 なにをどう言うのが正解なのか未だにわからず、気のない返事を装うしかない。

 一度も帰りたいとも言われず、帰りたいかとも聞けなかった。
 この先も聞ける気がしない。

 ため息を押し殺して、指輪に触れる。ひやりとした感触に慣れないが、同じものをもっているというだけで愛着が出来るような気がした。
 その今までにない心境に落ち着かない。
 平静を装うだけの余裕がかろうじて残っている事がよかったのかもわからない。
 暇つぶしと持ってきた本も少しも頭に入らなかった。

 視線を感じて顔を向ければユウリがつまらなそうな顔で、ペンをくるりと回していた。

「指輪、ずっとつけてるわけ?」

「悪いか?」

「アーテルちゃんが、ものすごく、浮かれてたからあとでも外されたら落ち込みそうだと思って」

「外しはしない。これを使うようなことにはならないといいが」

 他の魔動具とは干渉しあわないようにしているし、そもそも影響が出るほど大きなものではない。最大の効力を発揮するときはすでに干渉がと言っていられる状況ではない。
 効果については既に伝えてある。
 ユウリは都合が悪いと言いたげに時計に視線を向けた。
 真新しいそれは彼女に時間がわからないと困ると言われて壁に掛けたものだ。一人なら困らなかった。

「ねぇ、遅くない?」

「遅いな」

 自分で染められますと慌てたように主張していたが、全く信用に値しない。髪染めは魔法薬の調合と似ている。染め粉を濡れる状態にするには規定の量を守らないいけない。誤れば変な色になったりするが、あれ? と言って首をかしげているところに不安しか感じない。
 髪に塗る手つきも怪しかった。

 慣れていないということを差し引いても、ダメな気がする。塗ってはいけないところまで塗って染めてしまいそうな気さえする。

 料理や家事などは危なげなくしているが、その器用さは発揮されなかったようだ。
 調合などは憶えさせるのはやめるようゲイルに伝えておかねばならない。

「大丈夫?」

「ダメだろうな」

「……何でそんなに楽しそうなの?」

「そうか?」

 最終的には泣きついてくるのがわかっているからだろうか。緊張したような少し怯えたような態度についやりすぎてしまう。
 泣かせたいとは思わないが、涙目は可愛いなと思う。

 少しばかり問題があるような気がして、口にしてはいけないとは思っているが。

「構うのが楽しい、というのとも違う気がするけど。おや?」

 ユウリがちらりと扉へ視線を向ける。何か問いかけたが、黙っているように仕草で止めてきた。
 そっと音も立てずに席を立ち、扉を開けた。

「ふぎゃっ」

 引っ張られるように彼女が部屋の中に入ってきた。ドアノブを持っていたままなので引っ張られたようだ。
 それだけならばおかしくはないが、その姿が少しばかりおかしかった。

 彼女は入るつもりはなかったようで、ユウリを睨んでいる。怪しい布を被ったままで。

「なんか部屋の前でうろうろしてるのがいると思ったら」

 ユウリは面白がるように布を引っ張った。

「な、なんでもないって、はずさないでくさいっ! いやーっ! だめーっ!」

 ぎゅうと押さえるのがますます怪しい。ユウリはその抵抗に面食らったようだが、手を離してやれやれと言いたげに肩をすくめて数歩下がった。
 あとはよろしくと言いたげな態度に少し困る。

 立ち上がって側に寄れば、ぎゅっと布を握りしめている。どうしても見せたくないようだ。

「アーテル」

「はいっ!」

「何を隠している」

「え? えへへ」

 無意識なのか上目遣いで誤魔化すように笑って、でも逃げるように下がった。
 少し苛立って、肩をつかんで引き寄せる。
 うーわーと背後でユウリが言っていた声が聞こえた。それを無視してばさりと布をはぎ取る。

「ひきょーものっ!」

 泣き出しそうな声で言われたが、確かにこれを見られたくはなかったかもしれない。
 まだらに染まっている。染められていない場所と濃淡が違う茶色があちこちに飛んでいた。
 よく見れば指先にも頬にも薄く染まった場所があった。
 控えめにいっても失敗である。

 かける言葉を選んでいるうちに腕の中から消え去り、布を取り戻され、再び頭から被っていた。

「ぐふっ」

 笑いを堪え損ねたユウリの声が聞こえた。
 彼女は涙目でぷるぷる震えている。
 見ているとなにか、妙な気分になってくる。可愛いと言えば、ご機嫌をかなり損ねることくらいはわかるが、とても、可愛い。

「わ、わらえばいいですよっ!」

 屈辱、とでも言いたげに言っているのが珍しかった。

「あはははっ! どうしたら、そうなんの? ダメだって言われたのわかった」

「ううっ。そんな事言ってたんですか?」

「言ったな。想定を越えてきたが」

 そう言えば彼女はがっくりと崩れ落ちた。
 なんだろう。これ。
 とても楽しい。

「やり直します。もうちょっと気力が回復したらっ」

「ダメだろ」

「なんで出来るとおもってんの?」

「だいじょうぶですっ!」

 そんなわけはない。




「や、やですっ! ちょ、むりぃ」

 焦ったような声を無視するのは難しい。涙目で様子をうかがわれても見ない振りをした。
 さすがに明るい茶色と黒が入り乱れた髪を放置するわけにはいかない。変な所が彼女は不器用だ。

 染める準備もすっかり終わっても未だに往生際悪く、無理とか言いだしているが、ダメなモノはダメである。

 ただ、浴室は変に声が響いて、とてもいけないことをしているような気さえしてくるが、ただ髪を染め直すだけのはずだ。時間をかけるととてもまずい気はする。
 少々ずるをして、押さえているがなにかしてしまいそうになる。

「つけて」

「はい」

 彼女は観念したように渡した布を肩から羽織る。

「最初に色を落とす」

「え、上につければいいのでは?」

「色が合わない。こんな所も染めて」

 髪をあげれば白いうなじに茶色がべったりとついていた。こうなるから、汚れ防止の布を用意するし最後に拭き取りもするのだが。

「落とす粉は切らしてる」

「へ?」

 実は在庫がなくても作れることは黙った。理由をつけて、少し触れるくらい許して欲しい。

「魔法でなければ、このくらいは落とせるから」

「え、なっ……」

 簡易な呪式を思い出し、ちいさく奏でる。起動の言葉だけでも使用は出来るが、こちらの方が好みだろう。
 指先を額にあてればするりと色が消えていく。

 前髪を上げずに染めようとすれば額にはつくだろう。思ったより色々な場所についていそうだ。

「ううっ」

「最初から、任せておけばよかったのに」

「諦めました。次からはお願いします」

 全てを落としたころには、彼女には疲れ切ったようにそう言われる。大変、楽しかった。
 彼女が項垂れれば無防備すぎるうなじが見える。
 誰に目にも晒されない白いその場所それをしたのは、衝動的で。

「……なにしたんです?」

「半月もすれば落ちる」

「だから何を」

 黙って彼女の手首の裏に同じ事をする。

 肌を小さい青い花の形で染めた。同じものを見えそうにないうなじに残した。いつものように結んでいればちょうど見えない場所。

「独占欲強めです?」

 困惑したような視線を感じた。

「そうかもな。今までこんなことをしたことはないが」

 自分のものだと印を残したいと思ってしまった。指輪だけでも十分だと思うはずが、まだ、足りない。
 騙すように手にしても、まだ。

 彼女は何かを言いかけてやめたようだった。彼女の指先が染めた花をたどる。

「……冬の間、何をしましょうか」

 ため息をつかれたような気がした。隠しきれるはずもないものを見ない振りをして。

「雪遊びとか楽しいですよ。雪だるまとか」

「そうか」

「たっぷり楽しむために、少し我慢して、少しがんばりましょう?」

 宥めるように言われてしまえば、否とは言い難い。おそらく、あの上目遣いに弱いのはばれている。

「断ればよかった」

「まあ、無駄だったでしょうね。ユウリを一人で置いておくのも不安なので、さっさと染めてください。
 遊ぶのはなしですよ」

 これ以上は取り返しがつかないことはわかっている。
 その場しのぎの対処では全く意味がないことまでわかってしまった。

「なにかあったら、アリカが可愛いから悪い」

「……なんです。それ。普通ですよ。普通」

 彼女に呆れたように見られたが仕方がない。
 たぶん、彼女は無自覚だ。周りに褒める人がいなかったのか、異界では普通なのかはわからないが。
 まあ、自覚しなくてもいいかと思う。

 褒めれば照れたように黙るようなところや頬を染めるところがどこかを満たしてくれる気がする。
 ゲイルやユウリが褒めても言ってもはいはいと軽く受け流すだけなのだと最近知った。向ける表情も違うことも知らなかった。誰にでも、ではない。
 最初から特別扱いだったと気がついたのはとても致命的だった。

「じゃあ、普通でもいいが」

「それはそれで腹が立ちますね」

「俺にとっては、一番可愛い」

「……」

 絶句して、顔も赤くなって、顔を覆ってしまった。耳まで赤い。
 これもけっこう楽しんでいることを知られたら、激怒されそうな予感がする。出来る限り隠すつもりだ。
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