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こんなはずじゃなかった
しおりを挟む「いったいどこに行ったというのか」
アイリスの消息は、二日前からわかっていない。
カミルの前に残る彼女が去る前に残していった金貨の袋。それが、彼女を買った値段。同額用意すればと条件を付けた。その額を若い娘が個人で用意するなど到底不可能であるはずだった。
妻に逃げられた夫などと言われたくはないし、新しい妻など用意する気もない。
贅沢を覚えさせれば、逃げる気もなくすだろうと侯爵夫人として扱うように伝えたはずだった。
皆が優しくしてくれるはずなのに何が不満なのだろう。そう思っていたことが間違いだったのだろうか。
アイリスが会いに来た翌日は家にいたようだ。昨日、確認したところ忽然といなくなっているのがわかったという。私が悪いのですと泣き伏せる侍女をなだめすかして、確認をしたところによれば誰も入れるなと言われてそっとしていたという。
今まで、よくそういうことがあったそうだ。気難しいところがあり、侍女にもつらく当たったこともよくあると聞いていた。
病弱と言いながら怠けていると言いだしたことはたしなめたが、体調が思わしくなく当たることもあるだろうと侍女を慰めたのがまずかったのだろうか。
彼女の部屋はきれいに整えられ、贈ったものもきちんと飾られていた。着けたこともないが、気に入ってはいたのだろうと思っていたのだが。
何一つ持って行ってもいなかった。
人を使って探してもどこにも痕跡すら見つけることができなかった。
まるで、最初から誰もいなかったように。
行く先もないはずだ。念のためと両親にも恥を忍んで尋ねたが知らないという。親しい友人くらいいただろうと手紙のやり取りを調べたが、茶会の誘い一つなかった。よく行った店すらなく、買い物をした形跡もない。
この二年の間、ずっとそうだったようだ。これにはカミルは頭を抱えた。どうして、こんなことになっていたのか。
ことの原因であるはずの執事は解雇したのに何食わぬ顔で、先代に家のことを回すようにと雇われましたと帰ってきた。
確かに彼抜きでは一日もこの家は回らないだろう。カミルは家のことなど采配したことがない。
なぜ彼女を虐げたのかと問えば、当主様のお望みでしたのでと訳の分からないことを言いだした。
前から思っていたのですがね、貴方は人の善意を信用しすぎますよ。それが良いほうだったので私は言いませんでした。なにせ、ただの、執事ですからね。
再び出て行けと言いはしたが、雇用主以外の話は聞けませんねと軽くいなされた。
溜息しか出てこない。おかげで、仕事に出る気もなかった。執務室に引きこもるなど今まではなかったことだ。商談も書類も会食も色々あったが、どうでもよかった。
アイリスが無事でいるかとそればかりが心配だった。
「閣下。無断欠勤もいい加減にしてください。仕事が、大事な、嫁よりも大切なお仕事がありますよん」
カミルの物思いを壊すようにばんと扉があいた。
「ちょ、ちょっとお待ちください」
「んー。三時間前から待ってんのよん。この性悪執事、ボコられたくなければ黙れ。俺、寝てないの何日だと思う? いつも引いてやってんだから黙れよ」
「フェリクス、来てたのか」
フェリクスはバーデ伯の次男でカミルとは共同出資という形でいくつかの会社を経営している。年も近いので小さいころから顔見知りでもはや幼馴染というべき長さでの付き合いがあった。
「カミル、聞いてよ。おまえが不在の間、お仕事頑張った俺様に対して、この執事、三時間待たせやがった!」
そう怒りながら、フェリクスは勝手に椅子に座った。執事にお茶と言って、断られると勝手に茶器を用意し始める。
それ自体はいつものことではある。この二人は仲が悪いのだ。
「お忙しいと思いましたので、お伝えするまでもないかと」
「仕事だっつーの。ほらほら、楽しい金儲けの時間ですよー」
「しない」
「は?」
フェリクスがスプーンからティーポットに入れそこなった茶葉がテーブルに散る。そのまま固まっている。
執事は冷ややかな表情のまま彼から一式を奪い取った。せっかくそろえた茶器を壊されてはたまらないと言いたげな態度だ。
「妻がいなくなった」
「あー、あれ、マジだったんだ」
「なにがだ?」
フェリクスはお茶を入れ始めた執事を確認してから、もう一度、椅子に座った。どさっと音がするような無作法はいつもはしない。背もたれによりかかり、ん-とーと言いだす。
「今日は御前会議の日だよ。俺、当主じゃないから呼ばれないけど、うちの兄貴が家に帰るなり興奮気味にエーベル卿が離婚したらしいよっ! て叫んでたから」
「してない」
「いやいや、陛下がエーベル卿の欠席に、そう言えば離婚したからショックなのであろうと言ってたって。場内がしーんとして、今日は会議は踊らず即終了、即解散だったって。
そっか、そっか。離婚おめでとう。やったね! これで大手を振って遊び放題。じゃあ、きれいなねーちゃんのいるとこ貸し切りしようぜ」
「なぜ、陛下がご存じなんだ」
「さあ?」
「それからなぜおめでとうなんだ」
「え。邪魔な嫁でしょ? 援助も借金も返済してあげたのに、茶会の一つも出席しないし、夜会にも来ないし、慈善事業の誘いも断る。社交嘗めてるよね。侯爵夫人の義務ってのをさ。代わりに旦那様が全部やってんのひどいなぁってご令嬢どころかご婦人方全部が同情してたよ。それなのに散財だけは山ほどするって」
「そうか
俺が、社交はしなくてもいいと言った」
フェリクスはぱちくりと目を見開いていた。顎に手をあててうーんと唸ってからぱちんと指を鳴らした。
「田舎者過ぎて外に出せないってことか。なんか弱み握られたって噂もほんとだったわけ?」
「違う。ゆっくり、穏やかに過ごしてもらいたかった。
それから、彼女は買い物もろくにしたことがない」
「……執事。これの間違い訂正しなかったんだ?」
聞こえた声は、カミルも聞いたことがないほど低い声だった。
微かに怒りのようなものも混じっていたが、カミルにはどこが怒りを買ったのかわからない。そう、時々、わからないのだ。なぜか、相手が怒りだすことがあるのが。
「我々も奥方様を厭っておいでだと思っておりましたので、極力邪魔にならないようにしておりました」
「ああ。じゃあ、カミルが悪い。俺も奥方はと聞いては聞くなと機嫌悪く答えられれば仲悪いと思うし。
これじゃあ離婚やむなし。つーか、二年もよく待った。別れられない理由でもあったわけ?」
「借財を返済することが、離婚条件と伺いました」
「……えぐいなぁ。で、その金をどこからか入手して、叩きつけて出ていったんだ。
気弱な娘ですら、ガッツある漢女(おとめ)に変えるような状況か。逆に元奥さんのほうが気になる」
「俺はきちんと相応の対応をするように伝えた。それに皆、優しいのだから多少の問題があっても飲み込むだろう」
「それ、おまえだからだよ。そこからなのかー。教育間違ってんぞと言いたいけど、この育ちの良さあって信用されるってことだからな。俺が暗いところだけ受け持てばいっかとほっといたのもよくなかった」
「相手が俺じゃなくても、優しい人は優しいだろう?」
カミルは不安に駆られてフェリクスに尋ねた。
執事は間違ったかもしれない。でも他の者は優しかったはずだ。だから、安心して任せていた。
もし、そうでなければ。
「万人に優しいというものはないな。
それにこの執事が、当主が奥様をお嫌いですというとこの家すべての使用人がそう認識するし、雑に扱っても構わないという対応になる。
なぜって、簡単。
居心地悪ければさっさと出て行ってくれるから。そうしたら、当主様が喜んでくれると信じるよ」
「あ、私だけの責任はおやめください。
人目があるところで、当主様が言ったんですよ。
金で買われたのだから、大人しくしていろと。余計なことはしなくていい。好きなことだけして子の一人も産めば他には望まない」
「事実だろう。
金で買って妻にしたのだから。他に望むことはない。贅沢でも何でも好きなだけすればよかったんだ」
「……おまえ、最低だな。今後の付き合い考えよう。
うん、潮時だったかな。今後のこと兄貴と相談してくる。じゃ、そういうことで。執事、仕事なかったらうちにきてもいいぞ。兄貴となら付き合えそう。あの人、脳筋だから」
「検討しておきます」
フェリクスはそそくさと立ち上がった。
「どこが、間違いだというんだ」
「貴婦人の世界ってのは、政治とも仕事とも違う法則で動いている。
そのルールに従わないものは、はじかれるんだ。おまえが、何もしないでいいと言ったと公言していたならともかく、なにもなくしないなら彼女自身の才覚が疑われる。少なくとも、連れ歩き侯爵夫人として名と顔を売り、確固たる地位を築いたあとならば問題なかっただろう。後ろ盾もないただの田舎娘がやれば能なしの証だ。
それだけでもひどいこと、なんだ。
おまえは、能なしの嫁を貰ったかわいそうな侯爵様として傷がつかない。今度のこともおかわいそうな侯爵様という話で終わる。あとは、ま、自力でどうにかしろ」
絶句したカミルを哀れむように見てから、フェリクスは部屋を立ち去った。
「まさか、当主様、気がついていなかったのですか?」
「母は、社交が煩わしいとしか言わなかった。ならば、煩わしいものを遠ざければよいと」
「……侯爵夫人は、慈善会のまとめ役を担います。放棄は彼女たちにとって罪悪でしょう」
「なぜ、知らせない」
「関わるなと当主が言ったのです。従わない道理がございますか?」
微笑んで執事が問う。
「それは」
カミルは続く言葉を見つけられなかった。
「では、御前を失礼いたします」
慇懃に執事は部屋を辞した。
その日のうちに、王家からの使者がやってきた。
離婚が成立したと通知する文書には王家の印が押されていた。
事前契約の離婚条件を満たしたため、円満な離婚であると記載されている。
不当であると訴えるならば、管轄の役所ではなく王家へと問い合わせが必要になる。王家の印が王家によってこの離婚は正当であると認めたということを示していた。
王家に不当であると訴える。その前に、どうしてこれが王家からやってきたのか。接点らしきものは全くない。
「登城する」
「かしこまりました」
事前に知っていたようにすぐに用意は整った。そう、いつも、先回りして不快でないように整えられていた。
嫌だと思うものは取り除かれることが当たり前と。
彼女には、そうでなかったのだろうか。
甲斐甲斐しく手伝いをするのは妻の侍女にあてていたものたちだ。若く美しいと言ってもいい。一夜の慰めを与えたこともあった。
「アイリスは、なにが好きだった」
「は?」
「なにか好きなものくらいあっただろう。花の一つでも」
「奥様は寡黙な方で私たちとは言葉も交わしてくださいませんでした。下に見られていたのでしょう」
侍女は悲しげに目を伏せ、体を震わせている。
儚げなそれに同情していた。そして、妻になって横暴になったのかと憤っていたのだ。彼女は違うというのに、それさえ、いつか諦めたように。そうですかと冷たく言うようになった。
侍女たちが、冷たくするわけがないと思っていた。侯爵家に仕えるのだからその家の者を蔑ろにしようなどと考えもしないと。
「名は?」
「エミーリアでございます」
「同行せよ。アイリスの話を聞かせてほしい」
名を聞かれ頬を紅潮させた侍女はさっと青ざめた。しかし、微笑んで仰せのままにと返答する。
馬車の中でカミルがその侍女から聞いた言葉は、アイリスのことではない。
いくつかの令嬢を称える言葉ばかりだった。
そうしてついた城は城とは名ばかりの屋敷だった。
古ければ古いほど歴史があってよいとされるなか、先代が作らせた小さな屋敷。それが現在の王城とされている。お城と思って地方から出てくる者たちは肩透かしを食らったような顔をするのは恒例だ。
城じゃないから王の屋敷でよくないか? という先代の主張を退けたのは古くからの重鎮のため、今後もこの屋敷は王城と呼ばれるだろう。
なお、先代以前の居住地は今や博物館兼美術館として少額で国民に公開されている。
小さな屋敷と言っても以前の城と比べてであって、家としてみるならば巨大だろう。
カミルが馬車留めから降りれば、使用人が立っていた。王家の侍従のお仕着せは、青い。どこでも目立つようにとしたためらしい。侍女は逆に赤い。
「陛下にお会いしたい」
「手紙がございます」
侍従が持つ銀の盆の上に小さく折られた紙があった。手紙というよりメモではあるが、そう言うこともできないのであろう。
「ご苦労」
捧げるように持たれた盆からメモを取る。
アイリス嬢より、妻に申し出があり、先代との協議の上、離婚とした。
まずは、先代と話をしてからきたまえ。
読みにくい癖字は国王陛下のものと間違いなくわかる。この悪筆を直す気もなく、公的文書は他の者に代筆させていた。直筆が間違いなくわかるだろうと少しも悪びれずに言っている、らしい。
偉大なる女王の息子としては、取るに足らないと扱われるが引き継いだものをそのまま維持するのも大変なものだ。
だからこそ、臣下として支えねばとカミルは思っていた。
しかし、この騙し打ちのような真似はいただけない。
「妃殿下は、いらっしゃるか」
「どちらの妃殿下でしょう」
困惑したような侍従にやはり国王を待つべきかとカミルは試案する。
「あらぁ。カミルちゃんじゃない。どうしたの?」
「……ラント夫人」
カミルは彼女が苦手だった。王の愛人というのは形式上、爵位を持つ。形式上だが、領地をもらうことはないが手当金はそれなりにもらう。
彼女はラント子爵夫人ということになるが、夫は不在だ。あくまで、彼女は愛人でしかない。王子も王女も二人産んだとしても王妃にも二人いる側妃にも成り代われない。それをよくわかっているのか派閥争いの仲裁をしていた。
若い男をからかうのが趣味と公言していなければ頼りになるご婦人だっただろう。
「細かい挨拶は省略してあげるわ。無駄でしょ。
御前会議に欠席なんて、初めてだったから皆驚いていたわよ。そうそう離婚したとか。おめでとう。今度は評判の良い、ちゃんとしたご令嬢を選ぶことね」
カミルが黙っている間に数倍話してくることも苦手だった。口数が多くはない母と比べるでもないが、聞いているだけで頭がくらくらしてくる。
「せっかくだから、エスコートしてくださる?」
「途中まででよければ」
「もちろん」
にこりと笑って彼女は手を差し出した。
こっちよ、そうカミルに指示をする。侯爵という立場になって以来、彼にこのような対応をするものはほとんどいなくなった。王族でも時には遠慮されるようなこともある。
しかし、彼女はあまり変わりなかった。相手から本気で嫌われる前に、詫びて礼を差し出す。ものであることもあるし、言葉やいつか巡り巡ってくる機会でもあった。
だからこそカミルも苦手で済んでいる。
「なにをしに来たの?」
「離婚の不服を申し立てにきました」
「あっらー。二年もほったらかしの妻を思い出したの?」
「放ってはおりません。自由にするように、伝えておきました。何もする必要もないと」
「でもねぇ、王妃からのお茶会を断ったのはまずかったと思うわよ」
世間話のように軽く振られる話題ではなかった。
思わず立ち止まったカミルの表情を観察するようにラント夫人は見上げてきた。微笑んでいるのに、全く笑っているように見えないのはなぜだろうか。
「……いつですか。知らせは来ていません」
「私も知ったのは最近なのよね。
そこの侍女。おまえ、知ってるでしょう? 奥様に来た手紙は直接渡すようにしたと言っていたし」
「存じません」
「記録はあるの。わかるでしょ? 偽造なんて出回ると困るから、誰にいつなんの手紙を贈ったかすべて記録を残すの。
さて、私は優しいからもう一度聞いてあげるわね? 手紙はきたの?」
「来ました。ですが、奥様がお断りにっ」
「それは当主に知らせるべきだ。ことは妻一人の問題ではない。家として、王家の面目を潰すようなこと。なるほど、急にご利用がなくなったのはこれか」
「よくない侍女ね。家名は? 妃殿下にお知らせしてあげないと。アイリス嬢は、よく教えてくれる気の利いた侍女の一人も持てなかったと。妃殿下はアイリス嬢は田舎から出たてなのだからと色々教えて差し上げないと、と言ってらしたのに」
青ざめた顔で、お許しくださいと侍女は膝を折る。
縋るような視線をカミルは感じたが、無視した。
そして、何事もなかったようにラント夫人は歩き出す。
「申し訳ない。妃殿下には直接詫びよう。話をしていただけるか」
「行くなら覚悟したほうがよろしくてよ」
「はい?」
「貴方、未婚の男になったの。つまり、新しい妻が必要なのよね。いらないって言ったって、許されもしないわ。妃殿下たちの実家の息のかかったご令嬢を押し付けられるでしょう。
陛下のように多妻であればよかったのにね」
その意図を聞く前に扉があいた。
「閣下をご案内してきたわ」
ラント夫人は朗らかに、しかし有無を言わさずカミルをその部屋に追い込んだ。
「それから、この侍女はラウ家のものですって。では、よろしくお願いしますね」
彼女は青ざめたどころか白い顔の侍女も併せて押し込んだ。
貴婦人の微笑みのままラント夫人はくるりと踵を返した。
「ようこそ。エーベル侯爵。歓迎いたしますわ」
きちんと整えられた茶会は、妃殿下が三人そろっていた。付き添いのように若い令嬢が従い控えめに微笑んでいる。
「楽しんでいってくださいね」
少しもカミルは楽しめそうな気がしなかった。
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