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「お小遣い前借り一年分?」

 いぶかし気に母に問われ、ルーベンスは頷いた。
 お小遣いと言い方は子供っぽいが他に言いようがない。個人的な資産というより、母の手伝いで得たお金である。

 彼女のうーんと呟きながら人差し指を唇に押し当てて考えるしぐさは癖のようなものだ。

「資産運用していた分を回せば?」

「資金に戻すには時間がかかる。今すぐほしいし、勘ぐられたくもない」

 ルーベンスはあまり現金を持っていない。紙幣の価値をやはりどこか疑っている。国家が発行したただの紙に戻るのではないかと。
 それを言えば、母は呆れたように見てくるが性分でしかない。

 その結果、資産はすぐに現金化できるものがない。銀行に借りるにも抵当にいれることになる。その動きはひどく目立つだろう。
 今度は何を買うのかと注目されがちなのはこういう時に困る。

 母はふぅむと足を組みなおし、腕を組んだ。
 彼女は年の割にというと機嫌が悪くなるが、ルーベンスのような年の息子がいるようには見えない。
 本人曰く、努力と根性と言っているが遠い血縁にエルフがいるということも忘れてはならない。総じて家族は若く見える。

「わかったわ。そのうちに大きい取引を任せるからよろしくね」

「違法じゃないやつだよな?」

「グレーかもね!」

 彼女はばちんとウィンクしながらそう言った。ルーベンスは思わず遠い目をする。ルーベンス本人は食えないやつとよく言われるが、この母親ほどではないだろう。

 母親の職業と言うとルーベンスはいつも困る。家業はスラム街の元締め。現在は母の一番上の兄が頭領をしている。しかし、母には頭が上がらないらしい。
 グレーデン一家と言えば、王都どころか国中に名を売っている。地方では人買いとして有名だ。かつては人身売買だったが、今は奉公先を見つけて段取りを組むことで手数料を稼いでいる。
 結果的に多種多様な職業に伝手がある国内随一の組織となっているが、それをまとめるのは母の兄弟たちというより、裏方の女性たちだった。
 書類仕事はからきし、という伯父や祖父に任せていられなかったのだろう。

 総元締めは今のところ母が受け持っている。本人は、いざというときの後ろ盾ということらしい。これでも現国王の愛人で、王子一人と王女を二人設けている。
 そのうちの王子が自分だということがいつでも嘘のような気がしている。母は他に愛人がいるんじゃないかと。
 別に王子として何かする気はないが、身分を詐称しているようで地味に落ち着かない。

「それにしてもルーベンスにしては珍しいわね」

 そう言いながら彼女は用意されていた珈琲にようやく手を付ける。あちこちから買い付けては色々試しているのは彼女の趣味だ。
 ルーベンスも同じように珈琲を飲もうとして、砂糖を入れ忘れたことを思い出した。二つ三つと匙で入れると母はうへぇと言いたげな表情をする。
 そして、思い出したように続きを口にした。

「お店のお金じゃだめだったの?」

「今すぐに、自分の資金で欲しい」

「あらら。
 さて、お金の話だけなら私のところに直接こないわよね。他に欲しいものもあるでしょ?」

「……弁護士を紹介してください。それも、離婚に詳しい」

 ぴたりと彼女は珈琲を飲む手を止めた。
 まじまじと自分の息子を見つめて数秒。

「あなた、人妻にでも手を出したの?」

「ちがっ」

 即答過ぎた。ルーベンスが慌てた様子をにやにやと笑う母親の顔にげんなりした。
 からかわれたと思うべきだろう。

「婚家の扱いがひどいので別れたいんだそうだ。借金の形にということだから、離縁も申し出ることができないのでまず金を用立てたいということだ」

「それならお店の資金でよくない? それに違法とまではいかないけど、グレーゾーンだから家名によってはちょっと脅せば名誉のために大人しく離婚すると思うけど。
 あなた、ほんとに、手出ししたとか?」

「変な娘、というか、あれはおかしいから確保したい。店とも紐づけたくない」

「おかしいって?」

「僕とちゃんと商談できるというのはどう思う?」

「才媛ね。それなら婚家で上手く立ち回りそうだけど、違うのかしら」

「うん。正直、貴族のご令嬢、それも貧乏で身売りだと思った。そのような家で得られる知識量を超えていると思う。時々いる天才かもしれないけど、なにかちょっと違う。違和感があるのに、なにが違うか見定められなかった」

「ふぅん? あ、あれね!」

「なに?」

「おもしれー女ってやつね! 二十を超えても付き合いも長続きしない息子にやっと春がっ!」

「帰る」

「いやぁん。その子の話してよ。使える手下が欲しいの。あ、いくつなの? 人妻なら年上かしら」

「知らない。そんなに変わらないだろ。今は、18を超えないと婚姻は認められないし、2年前に結婚したと言っていた」

「そう。それならちょうどいいわね。さっさと連れてきてね。わくわくするわぁ」

「……いじめないように」

「あらぁ」

 ルーベンスはなにか嫌な笑い方をされた気がした。


 ルーベンスは母の居城から店に戻る馬車の中で、昨日あったことを思い出す。

 アイリスと名乗った女性は、若くも年寄りにも見えた。艶のない金髪と痩せた体。ほっそりとしたという範囲を逸脱しそうなくらいで扱いが悪いということを疑う余地もなかった。
 青い目だけが大きく見えて、やけに子供っぽく見えるのも悪かった。
 成人女性、しかも既婚ともなればルーベンスよりも年上だろう。それなのに庇護すべき子供のように見えた。
 見た目とは別で中身はたくましかったのだが。

 私、いくらで買ってくれます? ドキドキしたようにそんなことを言われたことはない。
 娼館の店主をしているルーベンスにしても面食らった。落ち着きを払う者も泣くものも暴れるものもいたが、きらきらと高く売れるかしらと見上げられるなんて今までなかった。
 どちらかと言えば、それは売りに来たものがする顔である。

 お金が必要なんです。こう、バカにしたやつに札束叩きつけるんです! うきうきと自らを売りに来てこんなことを言う。
 こんなの、男でも会ったことがない。

 悲壮感の欠片もない、これから楽しくなるとこんな場所で表現する。

 ルーベンスは笑いをかみ殺すのに大変苦労した。吹き出しでもしたら気を悪くして他の店に行くと言いだすのではないかと思って必死に我慢したのだが、彼女が気がつくことはなかった。
 あんな面白いの他のものに渡す気はない。

 事態が分かっていないということでもなく、理解した上での振る舞い。よほど自分に自信がなければできない。
 帰り道もそれとなく見張らせてはみたが、なにかを察知したように消え失せていた。その場に伸びた男がいて確認してみれば、精霊を見た復讐されると怯えていたらしい。

 精霊とは良き隣人であり、悪しき魔物でもある。
 精霊とは一枚の皮をめくった隣側に住んでいる生き物。いたずら好きで、善悪の観点が違う。善意が悪意に悪意が善意に取り違えられてしまうこともしばしばで、ちょっかいを出してはいけないものだと教えられている。

 例外的に話が通じるものもいるらしいが、例外も例外である。精霊にあいつ変だからと言われたらそれはまともな精霊と言われるほどだ。
 それを扱う精霊使いというものは過去存在したらしいが、今は発見されていない。噂レベルで言えば、祖母がその精霊使いと言われていたが事実は不明だ。

 その殺しても死ななそうな祖母(ばばあ)がぽっくりと逝ったのは十年も前で、それまでにその話を確認できたものはいない。

 本当だったら怖いから聞かないでおこうと皆が思ったのだとルーベンスは考えている。彼も真実は知りたくない。
 規格外すぎてあれは女王陛下、あるいは祖母といういきものなのだと達観するくらいだ。

 次代の父、その次の兄か姉へ哀れみの視線を向けてしまうくらいには偉大過ぎる。
 その彼女も汚点、あるいは、失態があったがそれは二年前にようやく解消されていた。法律上だけで実態はまだ同じにはならないが、進展はあったのだ。

「機嫌がよさそうですね。坊ちゃん」

「ああ。面白いものが手に入りそうだ」

 知らずに口元に笑みが浮かぶ。
 それを薄気味悪そうに乳兄弟が見ていた。

「どこの誰なんだろうな」

「坊ちゃん、やっぱりやめたほうが良くないですか? きな臭いどころじゃないですぜ」

「ん-、俺の勘があれは逃がすなと言っている。だから却下」

「へーへー、まあ、坊ちゃんと姉御にかかれば白も黒になりましょうや。
 年となりで調べさせましょう。次はいついらっしゃるんで?」

「明後日と聞いたな」

「でしたら、それまでにはそろえておきましょう」

 乳兄弟に任せておけば大体は問題ない。時々、大きなミスをするがそれも部下の努力で未然に防がれているらしい。
 大将はどぉんと構えて動かないでくださいましとルーベンスは言われているので基本的には動かないことにしている。

 ただ、今回は、別口で調べようとは思っているのだが。

「殿下。大人しくしていてくださいよ?」

「そのつもりだ」

 しれっとルーベンスはそう言った。乳兄弟の疑わし気な視線を避けるように馬車の窓の外を見る。
 王都の街並みはきれいだが、それと同じくらいに闇は深い。白黒と分けがたいところも多く、ルーベンスはその中で育ってきた。王子として王宮で暮らすのと同じくらいに下町どころかスラムでの生活もしている。

 何とも極端なと今なら思うが、世の中には埋めがたいものがあるのだと身をもって知っている。だから。

「よほど困ってるのだから、手助けは必要だろ」

「はぁ。もう、ほんとに殿下は」

 その続きは語られることはなかった。


 乳兄弟からの報告があったのは彼女が訪れる予定の直前だった。
 店に慌てたように駆け込んでくるなり、水をくださいっと叫ぶほどの事態にルーベンスは目を丸くした。
 さらにその水を飲むのではなく、頭からかぶったあたりで乳兄弟が正気かと疑う。
 彼は奇抜なことを時々やってのけるが、これほどのことは久しくなかった。

 水で室内が濡れることを嫌った店員がぶっきらぼうにタオルを投げた。早く部屋に連れていけと顎でしゃくられてどちらが偉いのだろうかとルーベンスは思うが、黙って従った。
 この店の店主はルーベンスだが実務を取り仕切っているのは彼女のほうだ。下手に反論すればあたしゃ、殿下のおむつも換えてやったんですがねと嫌味を言いだすに決まっている。

 がしがしとタオルで頭を拭きながら、乳兄弟もついてくる。
 ルーベンスの私室に入って席を勧める前に勝手に座っているとこが、やはりいつもと違う。

「きな臭いどころじゃない案件だったんです。殿下」

 どこから切り出そうか迷ったようだが、すぐにそう言いだした。
 ルーベンスもそれなりに問題のありそうな案件だとは思っていた、彼の態度はそれ以上のことを示しているようだった。

「ロルフが慌てるとなるとよほどの問題が?」

「陛下に奏上されるのがよろしいかと。
 まず、彼女はアイリス嬢。アンテス子爵家の二女で現在、18歳。書類上、公式には先日18になって婚姻したことになってますね」

「……二年前ではなく?」

 彼女の話では結婚したのは二年前のこと。それ以来、ろくな対応をされていないと淡々と言っていた。
 その話はしたくなさそうなので、詳細は聞かなかったがそれが裏目にでたのだろうか。

「二年前から同居していたのは裏が取れました。16歳での正式な結婚は現行法では違法になりますが、事実婚状態は黙認されています。
 そっちは人道上どうなんだと思うところですが、ここは違法ではありません。
 問題があったのはその書類、二年前に作られてました」

「なぜわかる」

「書類というのは日々進化し、更新されていっちゃうものなのです。麗しき女王陛下が、書類にバージョンをつけよとご下命した結果、あとを追えちゃうんです。文官じゃないと知らないことかもしれませんけどね。古くてもある程度は受け取っているということですから」

「二年前に年齢を偽って結婚した、偽装?」

 ルーベンスは首をかしげる。そんなことをする意義はどこにあるのか。
 婚約して、同居状態はある程度黙認されている。これも今後改めるべきこととされているが、今のところは問題ない。
 ただし、相手があまりにも幼い場合には別途条件が付けられ破った場合には罰せられる。

「アイリス嬢は、16歳なのに18歳と言って結婚の書類を作って、提出、したふりをして二年後の最近結婚したことになってました。
 俺も意味が分からないと思ったんですが、彼女の実家が嘘をついたらしいんですよ。18歳って。それで、書類も申請を待ってもらうよう金を積んだと」

「……なんだそれ。意味あるのか?」

「なんでも結婚しないと支援しないと言われたらしくて、身売り同然に結婚したらしいですよ。実家の使用人を頑張って捕まえて、教えてもらいました」

「脅迫したのでは?」

「認識の違いですね。
 というわけで、彼女の結婚相手はちょっと調べればわかる小手先の年齢詐称を調べずに鵜呑みして結婚した、つもり、らしいんですよ。え、どこから突っ込めば? という話です」

「貴族なら、それなりに調べるだろ。素行調査とか。貴族年鑑には載ってないのか?」

「載っています。あの細い一文のために部下が二日徹夜しました」

「……それはご苦労だったな」

「どこの誰と最初に聞いていただければしなくていい苦労しないですんだんですよ」

「追っていけば家は突き止められると自信たっぷりだったのは誰だ」

「最終的にはそれでわかりましたが、その件は後回しで良いですよね」

「おまえが、脱線させた」

「それはともかく、貴族年鑑さえも偽ってないただの親の証言を信じて、ぽんとお支払いして嫁にもらっちゃったんだそうです。
 年齢に疑問を抱かなかったんでしょうかね? 今でも幼げですけど、二年前ともなればもっと子供っぽいですよ」

「……まさか、手出しもしてないだろうな」

「18って言われてるんだから、躊躇なく手出しするでしょうね」

 ルーベンスは額に手を当てた。
 彼女の相手が愚かでもあるし、彼女の実家も底の浅いたくらみをしたものだ。結婚出来ない年ならば申告すれば相手が待ったかもしれない。それとも逃がしてはならないほどの大物だったのだろうか。
 それならば嵌められたとも言えそうだが、調べないということは愚かである。

 二年前に施行された改定婚姻法では、18歳未満との婚姻は認められていない。婚約や同居しての事実婚状態は認められるが、その場合でも何もしないことが条件になる。
 ばれなければいいという風潮もあるが、ばれたら白い目で見られるどころではなく罰則がつく。

「どこの誰だ。その阿呆は」

「そーですよねー。
 その阿呆はエーベル侯爵家のご当主カミル様で」

「は?」

 ルーベンスは何を言われたかわからなかった。確か、結婚したとは聞いた気がする。式もせずに書類だけで済ませたと。
 あの堅物も結婚しろという圧力に屈したのかと思ったものだ。
 もっともカミルは結婚前と変わったこともなかった。必要に迫られて用意した程度であろうなというのが社交界の見解だった。言われてみれば家格が違うとか噂にはなった気がする。
 ルーベンスの生活基盤は王城にはないため、その方面の噂には疎い。王子も八番目ともなれば扱いは適当である。
 その生まれもあって、貴族の令嬢が近寄ってくることはまずない。愛人希望の未亡人や火遊びしたい既婚者は山ほどくるのだが。ルーベンスはそれを思い出して顔をしかめた。
 その件は、今は関係ない。

 今はとカミルの件を思い出す。

「たしか、上の兄と同じくらいだったと思うが幼女趣味か」

「当時の16歳でも幼女ではありませんでしょう。若いですけどね。
 まあ、10も下の娘をもらうというのもないわけではないですが、大体後妻ですね」

「彼女が自己申告すればよかったのでは?」

「婚姻法の改定について知っていれば言うかもしれませんが、それはちょっと難しいのでは? 親だって言わないでしょう。都合が悪いですからね」

「……なるほど。親に売られたなら帰る家もなく、離婚するのも難しいと大人しくしていた、ということか。
 しかし、妙ではあるな」

「なにがです?」

「お飾りの妻なら色々手ごろなものがいる。事業は上手くいかない、そのうえ借金があるのに華美な生活をやめられない子爵家の二女をもらう必要はない。
 親が売り込んだにしても、相手をする必要もなかっただろう」

「都合がよかった、というわけでもなさそうなんですよね。この辺りはご本人以外理解しがたい理由なんでしょう。
 まあ、そういう立場なので、アイリス嬢の扱いは金で買われたというあつかいで、すぐに離縁されるだろうから媚を売る必要もなし。身の程を知って大人しくしていろ。置いてやるだけありがたいと思え、という感じだったそうですよ」

「それをエーベル侯は許したのか?」

「ええと、私見で良ければお話ししますが」

 何とも言えないような表情でロルフは手元にあるタオルをいじっている。
 どうしようか迷っているような態度はこの乳兄弟(ロルフ)らしくない。そう言えば、ずっとらしくないなとルーベンスは思い至った。

「言ってみろよ」

「気がついていなかったんじゃないかと」

 彼はルーベンスを見ずにタオルをいじりながらそんなことを言いだした。

「……は?」

「ほら、あの方、身内には甘いじゃないですか。信用しすぎるというか。基本的には近くにいる人は心酔しているというか、気に入られたいと真面目に努力する人たちしかいない。
 それ以外の人は排除するので。だから、任せておけば、何も問題ないと思ったのではないかと」

「……。
 かわいそうにな」

 最低限確認くらいすればいいのに。
 ルーベンスは推定ものすごいすれ違いに遠い目をした。

「そうですね……。侯爵夫人として栄華を極めるはずが、あれですから。
 実家も肩透かしだったと思いますよ」

「実家が金の無心でもしたんだろ。余計、扱いが悪くなるのは目に見えてる。
 そして、エーベル侯は全くそれが見えてなかった」

「と思いますよ。たぶん」

「自分に忠実な部下を疑うのは難しいか」

「それだけではなくて、他家のご令嬢が狙っていた方ですからね。誰か気がついたとしても口を閉ざさせたということもありえます。あのくらいの家格の家だったら、行儀見習いの侍女もそれなりの家名でしょう。不仲を憂いるより、チャンスと思って積極的にぶち壊していくことも」

「先代はなにをしてたんだ」

「隠居されてまして、事実を知ったのはいつごろか不明ですね。
 あと、たぶん、侯爵は偽りを今も知りません」

「だろうな。あの堅物と兄様も言うような人が、己の非をそのままにしておくはずもない。むしろ、ことが大きくなりすぎるから黙っておいたほうがいいか。
 わかった。陛下には話をしておく。そのうえで、正式に離婚してもらおう」

「承知しました。登城はいつに」

「明日。兄様たちにも聞いてみることにする」

「では、そのように整えます」

 淡々と話をするロルフにルーベンスはやはり違和感を覚えた。

「関わらないほうがいいという考えじゃなかったのか?」

「色々調べたら、まずそうなのが出てきまして。
 殿下には全部終わってからご報告します。今言うと、ブチ切れて侯爵叩きのめしそうなので」

「……逆に聞くのが怖いんだが」

「殿下、妹様が同じ事されたらどう思います?」

「去勢でもしようか」

「という話になるので。侯爵家の断絶は困ります。
 報告は後です。部下にも徹底していますので、数日お待ちください」

 ロルフが頑なに言わないところを見ればよほどまずいことがあるらしい。現状、聞いただけでも相当な状況ではあると思うだが。
 ルーベンスはそれには大人しく従うことにした。

 彼女の望みは円滑にさっさと離婚である。恨みつらみという話はまた別だ。
 相手が執着を示す前に、先手を打って処理したほうが望ましい。

「書類が出来上がったと姉御から預かっていました。こちらで上手くやってねとウィンク付きで言えと」

「……礼を言っていたと伝えてくれ」

 自分と同じ年の背も体格も上回る男にウィンクされてしなを作られると無になる。ロルフが真面目なのか冗談としてやっているのかは全くわからない。
 付き合いが長いが長いほどに訳が分からない男だ。いまもやりきってやったと言いたげのどや顔をしている。

「そろそろ時間だ」

「おっと、長居しました。坊ちゃん、がんばってくださいっ!」

 そう言ってロルフが立った時にちょうど扉を叩く音が聞こえた。

「アイリス様がお越しですが、いかがいたしましょう」

「通してくれて構わない」

「承知しました」

 ロルフと入れ替わるようにアイリスが案内されてくる。

「イケメンだ」

 ロルフを振り返って彼女がぼそりと呟いたのが聞こえた。ルーベンスはなんだかむかっとした。顔で言えばロルフより彼のほうが良いはずだ。
 それなのに彼女は全く気にも留めずに動揺一つしなかった。
 最初にじっと見られた時ですら、観察するような冷静さで今のような浮ついた態度はとらなかった。

「ああいうのがいいんだ」

「へ? 店主もお綺麗ですよ。いいですよね。私なんて貧相なので」

 そう言って肩をすくめている。態度が一々、令嬢っぽくはない。町娘と言ったほうがしっくりくるような態度に違和感はある。
 不当な態度を取られたら反抗しそうな彼女が、二年も大人しくしていたということが信じがたい。

 なにかある、とはルーベンスも思うが今はそれを問うべきではないだろう。
 ひとまずは貧相なので何か食べさせてくださいという変な要求に澄ました顔で応じる。娼館とは言いながらもここでは食事や茶だけで済ませる客もいるため、食べるものはそろっている。

 すぐに用意した軽食にアイリスは目を輝かせた。待てをしている子犬のようにちらちらとルーベンスの顔を伺っている。どこまで持つかなと少し待っていれば、苛立ちが視線に現れてきた。
 怒りだす前にすすめたほうがよさそうだ。

「どうぞ」

「はい。いだきますっ!」

 はぐはぐ。
 擬音で表せばそんな感じだとルーベンスは思う。アイリスは口いっぱいにパンを頬張っている。下町の子供でももう少し上品だろうが、リスのようで可愛い。

「誰も取らないから落ち着いて食べれば?」

「お腹が、空いてまして。お見苦しいところをお見せしました。代金はつけにしていただいてもよいですか?」

 何事もなかったように飲み込んで、珈琲を入れたカップを持ち上げるところは品よくご令嬢のようだ。
 ようだもなにも末端とは言え貴族のご令嬢で、現在、侯爵夫人であるはずだ。今の彼女なら、不当な扱いは徹底抗戦しそうな気配がする。
 それどころか権力全部もぎ取って、夫を調教くらいしそうだ。

「だ、ダメですか。ツケ」

 アイリスをじーっと黙ってみていれば慌てたようだった。

「ツケにしといてやるけどさ、貴婦人がどこでそんな言葉覚えてきたわけ?」

「悪いことを片っ端からやるような弟と好奇心の赴くままに野生を発揮する妹に感化されました」

「そいつら野放しになってんの?」

 あんまりないいようにルーベンスは、貴族以前に一般的な国民としてもまずいんじゃないだろうかと危機感を覚える。
 アイリスはうーんと考えるふりをしてからにっこりと微笑んだ。

「自由放牧です。後のことは知りません」

 きっぱりと彼女は言い切った。既に人相手の言葉ではない。
 自分を売った身内には関与する気はないらしい。状況的に恨んでも仕方のないので、関心を払わないというのはまだ温情があったとでも言えそうだが。

「それより、お金はどうですか?」

「金貨で用意したが、そのまま持って帰るのは危険だと思うよ。
 まずは手続きをする。書類は用意したから、ここに当主印を二つ押すだけだ」

「早くないですか?」

「手慣れてるからな」

 今回は母の手を借りたが、離婚の手続きには手慣れていることは間違いない。母親からの依頼で書類を整えたことも相手への了承を得るために乗り込んだこともそれなりにはある。私がやると大事になりそうだから、と。
 王子という肩書は役所には圧を感じるらしく後回しにされたことはない。そして、貧民街の顔役の一人という別の顔は脅すには役に立つ。後ろ暗いことの一つ二つ、人にはあるものだ。

「この当主印をどうするか、ということなんだがあては?」

「夫的な人の両親もこの結婚、認められないという感じだったのでそちらは簡単でしょうね。
 あとはうちの親なんですが……。追加の借金の申し込みしてもいいですか?」

「きっちり働けよ」

「もちろん」

 彼女が自信たっぷりに言い切ったあとに響くぐぅという低い音。

「……もらいものの菓子があるんだけど、食べる?」

「いただきますぅ」

 消え入りそうな声で、それでも拒否はしなかった。それだけでなく、耳まで真っ赤でフルフルしている。

 これは確かに、母が言うところのおもしれー女かもしれない。

 ルーベンスは無意識に口元に笑みを浮かべていた。それを見たアイリスがびくついていたことも気がつかなかった。

 ルーベンスは新しく用意された菓子を焦って選んでいるアイリスに目を細めた。

「行き詰まったら、連絡すること。
 既に金を支払ったんだから、アイリスは俺の庇護下にいる。ちゃんと別れさせてやるよ」

「は、はいっ! ううっ、なんかもれてるぅ」

「なに?」

「い、いいえっ!」

 書類を大事そうに抱えて彼女は部屋を出ていった。
 そうでなければ、食べられてしまうとでも思っているようだった。

「取って食いはしないのにな」

 それはきちんと、太って、きれいにして、育ててからだ。
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