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第十五話

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「なあ、退屈なんだけど」
 
 ある日、ウエルは山神に零した。
 ウエルが手持無沙汰に寝台で寝転び、それを寝台の横に座った山神がただ眺めているときのことだった。
 
「また笛を聞くかい? 下位神はいつでも召喚に応じてくれるよ」
「笛はもういいよ」
 
 ウエルは彼の提案を蹴った。
 笛の音は酷く退屈で眠くなってしまう。あれを聞くのはたまにで充分だ。
 そもそも軽々しく神を召喚しないでほしい。
 
「もっと何か娯楽はないのか」
「新しい娯楽だね、分かったよ! いま新しい部屋を作ったからついておいで!」
 
 山神はパッと顔を輝かせると、いきなり立ち上がって歩き出した。
 
「お、おい!」
 
 ウエルは慌てて寝台から飛び起き、後を追った。
 
「おいこら間抜け、待て! 待てって言ってんだろ!」
「どうしたんだい?」
 
 彼は廊下まで出てから、やっと振り返ってくれた。
 
「お前、歩くのが速すぎるんだよ! 大きな足で歩きやがって!」
「おや、ウエル。もしかして一生懸命追いつこうとしていてくれたのかい? わざとゆっくり歩いてきているのだと思っていた!」
 
 やっぱり、彼は人の心なんて全然何にも分かっちゃいない。
 わざとゆっくり歩いているだなんて、そんなわけないだろう。追いついていないだけだ。
 
「そうかそうか、ウエルには速すぎたんだね。ごめんよ。一緒に歩こうね」
 
 彼は引き返してくると、手を差し出してきた。
 
「は? なんだよその手は」
「もちろん、一緒に歩くためだよ」
 
 彼はにこりと微笑んだ。
 
「そんなの必要ない」
「ウエルは置いていかれるのが寂しいんだろう? 一緒に行こうね」
「寂しくなんかない!」
 
 彼はちっとも話を聞かず、ウエルの手を握ってきた。
 仕方なく手を繋いで一緒に歩くことになってしまった。
 彼に手を引かれて廊下を歩く。今度は彼は大股でどんどん先に行ったりせず、歩調を合わせてくれた。
 
 それにしても彼は本当に背が高い。
 こうして手を繋いで歩いていると、親子みたいだ。もっとも、両親に手を繋いで歩いてもらった記憶はもう薄れているけれど。
 こんな風に一緒に歩いていたのだろうか。少しだけ、なつかしさを覚えた。
 
「ほら、ここが新しいお部屋だよ」
 
 彼が引き戸を開いて、新たな部屋を見せてくれた。
 
「……!」
 
 ウエルは目を見開いた。
 そこには山神よりも背の高い本棚がいくつも並び、そのすべてを本と巻物が埋め尽くしている壮観が広がっていたからだ。
 そこはまさに知識と娯楽の宝庫であると言えるだろう。知識階級の人間にとっては。
 
「ほら、人の子には一生かかっても読み切れない量の本だよ。嬉しいだろう、ウエル? まあ人の子が不用意に読むべきではない本もあるけれど」
「あのな、山神……オレ、文字読めないんだけど」
「え?」
 
 ぽかんと口を開けたまま、山神は固まった。
 
「そもそもお前は読めるのかよ? ずっと寝てたんだろ?」
「人の子の言語を覚えるのに時間なんていらないよ。ああでも、ウエルが文字を読めないなんて知らなかったよ。ごめんね、この部屋は消そうね」
「は、待てよ?」
 
 彼の一言はウエルの矜持を酷く傷つけた。
 
「消すなよ。オレも絶対文字読めるようになってやるから。お前が一瞬で読めるようになったものを、オレが読めないなんて納得がいかない! オレも一瞬で読めるようになってやるからな!」
 
 ウエルは怒って目を尖らせた。
 
「え、ウエルには無理だよ」
「なんでオレには無理なんだよ、オレのこと舐めてるのか? 馬鹿だと思ってるのか?」
 
 街や神殿の人間に馬鹿にされることもあったウエルは、それでも地頭はいいのだと信じて生きてきた。そうやってプライドを保って生きてきた。
 
「怒っているウエルも可愛いね。違うよ、人の子には無理だという意味で言ったんだよ。人の子には一瞬では覚えられないよ思うよ」
「じゃあ、一瞬じゃなくてもいいから読めるようになりたい。文字を教えてくれよ」
 
 ウエルは強情に言い張った。
 
「じゃあヤルトに教えてもらおうか。ヤルトは物事を教えるのが得意だからね。」
 
 山神は手を叩いて、ヤルトを呼ぼうとした。
 彼の服の裾をウエルが素早く掴んで止めた。
 
「なんで今の話の流れでそうなるんだよ……」
 
 上目遣いに、彼を睨みつける。
 
「え?」
 
 驚きに目をまん丸にする彼。
 
「お前がオレに教えろよ。それとも無理なのか?」
「い、いや、無理じゃないとも! ただ、少し驚いてしまって。そうだね、私がウエルに教えてあげようね」
 
 彼はぱっと嬉しそうになった。
 そうやって嬉しそうにするから付き合ってやってるのに。
 ヤルトは山神よりも人間らしいが、一緒にいてやってもいいと思っているのは山神の方だ。ちっとも分かっていないのだから、間抜けめ。ウエルは内心で毒づいた。
 
「文字を教えるために、いったんウエルの部屋に戻ろうか。ここは文字を書くための部屋じゃなくて、読むための部屋だから」
 
 万が一墨で書物を汚したりしたら大変だ。頷いて、ふたりは部屋まで戻った。
 部屋に戻ると、机に硯と筆と紙が用意されていた。ヤルトが素早く用意して、立ち去ったのだろうか。
 そもそも部屋には机すらなかったはずだ。山神が不思議な力で用意したのかもしれない。
 
「隣に座ろうね」
 
 机の前に用意された椅子のひとつに、彼は腰かけた。ウエルも腰かける。
 
「文字が読めないということは、筆も使ってみたことがないのかな」
「ああ、そうだ」
 
 ウエルは頷いた。
 
「なら、まずは筆を使うのに慣れようね。コツがいるから」
 
 山神は筆の使い方も一瞬で習得したのだろうか。人間らしい仕草もそうやって習得してくれないものだろうか。瞬きとか。
 
「こうやって握ってごらん?」
 
 数本用意されている筆のうち一本を、彼が手に取った。ウエルも真似して筆を握ってみた。
 
「ふふ、違うよウエル。人差し指と親指で持って、残りの指は添えるだけ。こうだよ」
 
 彼が直接ウエルの手に触れてきて、指の位置を直される。
 距離が近い。こんなに距離が縮まるのは、無理やり抱かれたとき以来だろうか。
 耳が熱くなるのを感じた。
 
「この状態でまっすぐ紙につけるようにして、文字を書いていくんだ。さあ、次は実際に筆に墨をつけてみようか」
「うわっ」
 
 いつの間にか硯は墨で満たされていた。炭を水ですり下ろして使う道具ではなかっただろうか。まともな文字の書き方が習得できるか急に不安になってきた。
 
「筆をまっすぐ、優しく墨にひたしてごらん?」
 
 低い声で、耳元に囁かれる。背筋がゾクゾクとした。
 
「怪しい言い方するな、馬鹿!」
「怪しい言い方? なんのことだい、私は普通に教えているだけだよウエル」
 
 たしかに、筆を墨にひたせと言われただけだ。
 自分は過度に意識してしまっているのだろうか。
 
「なにか不快にさせてしまったかい? 遠慮なく言っておくれ」
 
 ふっと、彼の息が耳を掠めた。
 
「ひゃっ!」
 
 つい、勢いよく筆を墨にひたしてしまった。
 黒い雫が跳ねる。
 
「あ……」
 
 ウエルは青褪めた。着ていた服に墨が跳ねたからだ。
 最初に着せてもらった、菖蒲の花の服だ。菖蒲の花に、黒い汚れが散っていた。
 
「大丈夫かいウエル、墨がついてしまったね」
 
 服の汚れになど気にも留めず、彼はどこからか取り出した布巾でウエルの手や顔を拭く。
 
「ごめんなさい……」
 
 ウエルは悄然と項垂れた。
 
「服のことかい? 気にしないでいいよウエル、これまでも汚してきても元通りになってきただろう?」
 
 たしかに、これまで不器用なウエルがどれだけ食べ物の染みをつけてしまっても、翌日には元通りになっていた。
 
「そっか、よかった……」
 
 彼に慰められ、ウエルは少し落ち着きを取り戻した。
 
「でもこれ以上この服で文字書きたくない」
 
 精神衛生上、墨が跳ねるたびにドキリとする羽目になりたくなかった。
 
「じゃあウエルに作業着を用意してあげようね。そうだ、着替えるついでにお風呂に入ってくるといいよ。気分もさっぱりして元気になるよ」
 
 山神はウエルが元気をなくしたのを察知したのだろう、入浴を提案してくれた。
 人の心の機微にまったく気がついていないかと思えば、人間らしい気遣いをしてくれるときもあって調子が狂う。
 今まで湯に身を浸したことがないことに罪悪感を覚えた。
 
「あの……実は、お風呂入ったことがないんだ」
 
 ウエルはぽつりと告白した。
 
「えっ」
 
 いままでで一番大きな彼の声が耳に届いた。相当驚いたようだ。
 
「熱くて広い湯舟に浸かるのが怖くて、いつも布で身体拭いてるだけなんだ」
「ああ、もっと早く言ってくれてよかったのに。不便な思いをさせてしまっていたね。じゃあ、お風呂の入り方も私が教えてあげようね」
「え」
 
 今度はウエルの方が間抜けな声を出す番だった。
 山神に入浴法を教えてもらうだなんて、どうしてこんな流れになってしまったのか。
 
「ウエルが文字を教えてほしいと言ってきたとき、私は感心したんだ。分かるものだけを楽しもうとするよりも、さらに自分の世界を広げようとするなんて。ウエルの好きなところがまた一つ増えたよ。ウエルは強いね」
 
 実際には挑発されたように感じて、ワガママを主張しただけだ。それを彼は好意的に解釈してくれている。少し、嬉しくなってしまう。
 期待を裏切りたくないと思ってしまった。
 
「ウエルもお風呂に入れるようになって、楽しいことを増やしたいだろう? だから私が教えてあげようね」
 
 だから、彼の提案に思わずこくりと頷いてしまった。
 彼と一緒に入浴することになってしまった。
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