上 下
33 / 67

第三十三話 病気の母親

しおりを挟む
 すぐ隣で人が身じろぎする気配で、意識が覚醒した。

「アンリ、おはよう」

 グウェナエルが目を覚ましたのだろう。
 だが、アンリは返事をしなかった。

「まだ寝ているのか」
 
 アンリは狸寝入りを決め込んだ。

 自らの醜い心を自覚してからというものの、アンリはグウェナエルとの会話を極力減らしていた。

 ずっと彼の側にいられればと思ったこともあったが、やはりいつかは離れねばならない。自分は、グウェナエルの側にいていい人間ではない。

 テオフィルのことがあるから、今すぐ離れるのは無責任というものだ。
 だが、いつか時が来れば……アンリは黙って、グウェナエルの元を離れるつもりだ。

「ゆっくり寝てくれ」

 彼の手が、優しくアンリの頭を撫でた。
 手つきの穏やかさに、泣きたい気分になった。
 こんなに優しくされる資格などないのに。

「いってくる」

 やがて、グウェナエルの気配が消え去った。


 グウェナエルと朝食の時間をずらし、なるべく顔を合わせないようにした。
 彼を避けていることは、いずれ気取られてしまうことだろう。

 いくらなんでも顔を合わせるのまで避けるのは、やりすぎだったろうか。朝食のスープを飲みながら、考える。
 けれども「いつかは彼から離れなければ」と胸の内に抱えながらも、彼と顔を合わせて笑い合うなんて器用なことは、アンリにはできなかった。

 さて、今日も城館の人間を治して回ろうか。
 最近ではアンリが精霊の力で人々を治癒していることは城館では有名になって、向こうから治してほしいとお願いに来るくらいだ。

「アンリさま、病気を治してほしいという者がおります」

 さっそく、エマが報告に来た。

「わかった、向かおう。どこの誰なのだ?」
「それが……」


 アンリは依頼者の待つ応接室へと向かった。
 そこには、長椅子にちょこんと腰かけている小さな男の子がいた。人間の男の子だ。

「あ! あなたが、せいれいのよびてさまですか?」

 男の子はアンリの姿を認めるなり、長椅子からぴょんと飛び降りた。このやんちゃさは、貴族ではない。平民の子だ。

「おねがいです、ぼくのおかあさんのびょうきを、なおしてください!」

 男の子は、必死な顔で懇願してきた。

 そう、今回の依頼者は城館内の人間ではなく、領民なのだ。

「ええと……まず、君のお母さんはどういう病気なのかな?」

 アンリは跪いて視線の高さを合わせると、男の子に尋ねた。
 まずは事情を聞かなければ、判断もできない。

「わ、わかんない。おかあさん、どんどんぐあいがわるくなっていって……。せいれいのよびてさまなら、びょうきをなんでもなおせるってきいたから、おねがいにきたんです」

 病気をなんでも治せるとは、とんだ尾鰭がついている。
 そもそも自分が精霊の呼び手だという情報が、領民にまで広がっているのが驚きだ。

「ぼくのおとうさん、しんじゃって。おかあさんまでしんじゃったら、ひとりになっちゃう」

 男の子の目には、涙が浮かんでいた。

 こんな小さな子が一人になってしまったら、どうやって生きていけるだろうか。
 なんとかしてあげなければとアンリが考えるのは、当然の結果だった。

「私が治す……と言いたいところだが、残念ながら精霊の力は、どんな病気でも治せるという万能なものではない。治したことがあるのは軽い怪我と、風邪くらいなものだ。風邪は熱をやや下げて、身体を楽にすることしかできない」

 アンリは真剣な顔つきで、男の子に説明する。
 ぬか喜びはさせてはならないから。

「私が行っても、病気は治せないかもしれない。それでも試してみたいというのであれば、君のお母さんの元へ向かおう」

「お待ちください、アンリさま。もしアンリさまが領民の助けに応じたと広まれば、今後もこのような依頼が多く来るかもしれません」

 エマが慌てて止めた。

「それならば、全ての依頼者の元へと向かうだけだ」

 やることがなくて、城館の者を治して回っているくらいだ。それが領民全体に変わるだけではないかと、アンリは答える。

「そういうわけには、参りません! 多くの病人を診ることで、アンリさまに病気が移ってしまわれるかもしれません。それにアンリさまを害そうとする者が、嘘の依頼を出しておびき出そうとしたら、いかがなさるおつもりですか!」

 厳しく眉をしかめたエマの顔には、心配の色が浮かんでいた。
 エマの指摘した憂いは、考えてもみなかったものだった。

「まさか。領主の伴侶を害す者など、いるはずが……」
「いいえ!」

 エマは大きく首を横に振った。

「アンリさまは純粋すぎます。悪いことを思いつく者など、いくらでもいるものですよ」

「しかし……」

 男の子が、助けを求めるような視線でじっと見つめてくる。
 自分の安全のために、彼を見捨てるなんて、できるわけがない。

「……では。この坊やのお母さまの元に向かうだけ、というのはどうでしょう。以降他の領民からアンリさまへの嘆願が来ても、我々使用人がお断りさせていただきます」

 見かねたのか、エマは嘆息しながら許可してくれた。

「ありがとう!」
「閣下には、事前にご報告させていただきますからね」

 平民の男の子の母親の病気を治したいとグウェナエルに報告したところ、騎士の護衛がつくことになった。
 犬獣人の騎士と、鼠獣人の騎士だ。

 騎士二人を連れ、男の子に案内され、彼の家へと向かった。
 男の子の家は、平民用の集合住宅アパルトマンの一室にあった。

「おかあさん、ねててっていったのに!」

 家に入るなり、男の子は怒った声を上げた。
 見れば、寝台の上で女性が上体を起こして編み物をしていた。
 彼女が男の子の母親だろう。

 母親の顔は青白く、健康体でないのは、一目でわかった。腕もか細く、今にも折れてしまいそうだ。

「ごほ。ごほ。だってわたしがしてあげられることといえば、もうこれくらいしかないから……」

 母親の言葉に、アンリは胸を打たれた。

 母親は死期を悟り、少しでも息子に遺してあげられるものを、作ろうとしていたのだろう。
 これが母親の愛というものか。母が早逝して母の記憶がほとんどないアンリは、母親の愛というものを実感したような心地になった。

「おかあさんのびょうきは、なおるの! そんなこといわないで!」

 男の子は、涙を流しながら怒った。
 母親はそんな男の子の頭を、黙って撫でていた。

「失礼する。私はその子に依頼されて、ここに参った。名をアンリという」

 アンリはそっと前に進み出て、挨拶をした。
 母親はやっとアンリと護衛たちの存在に気がついたようで、はっと目を見開く。

「まあ、お医者さま……?」
「そのようなものと思ってもらって、構わない」

 辺境伯の伴侶だとか、精霊の呼び手だとか説明されても困るだろうと、細かいことは口にしない。

「でも、うちにはお金がなくて……」
「お代はいらない。力になれるとは、限らないから」
「はあ……? ごほ。ごほ」
「無理をせず、横になっていてください」

 母親が咳をし出したので、寝台に横になるように勧める。
 大人しく寝た彼女の傍らに、アンリは跪く。

 見上げることで見つめるのは、もちろん辺りを漂っている精霊たちだ。街中だから、精霊の数は多くない。

 ――お願いだ。助けてくれ。

 アンリは強く願った。

 もしこの母親が亡くなってしまえば、遺された子はどうなってしまうのだろう。息子を一人置いていくことになってしまえば、母親はどんなにか心残りなことだろう。
 この二人を、そんな目に遭わせたくはない。

 強く願うあまり、眦から涙が伝った。

 涙の雫がぽとりと床に落ちたのと同時に、あちらこちらからたくさんの精霊が集まってきた。
 その精霊たち全員が、「助けてあげる」と言ってくれているように、アンリには感じられた。

 精霊たちは母親の上をくるくると回るように漂いながら、光る粉を降り注いでいく。粉を降り注がれ、母親の身体が光り出す。

「おかあさんが、ひかってる!」

 母親が光っていることは、男の子の目にも見えているようだ。

 この間茨で傷ついた手を直してもらったときとは、比べ物にならない量の粉が、降り注がれていく。
 やがて精霊たちは粉を降り注がせるのをやめると、方々へと飛び去っていった。

「一体、何が……」

 母親はゆっくりと身体を起こす。
 さっきまで青白かった頬に、赤みが差していた。

「おかあさん、びょうきなおった!?」
「言われてみれば、呼吸が楽になったわ」

 母親は驚いた顔で、胸を上下させて呼吸をしてみている。

「治って、よかった」

 この親子が死によって引き裂かれることがなくて、本当によかった。
 アンリは涙ぐみながら、笑みを浮かべたのだった。
しおりを挟む
感想 21

あなたにおすすめの小説

転移したらなぜかコワモテ騎士団長に俺だけ子供扱いされてる

塩チーズ
BL
平々凡々が似合うちょっと中性的で童顔なだけの成人男性。転移して拾ってもらった家の息子がコワモテ騎士団長だった! 特に何も無く平凡な日常を過ごすが、騎士団長の妙な噂を耳にしてある悩みが出来てしまう。

【完結】愛執 ~愛されたい子供を拾って溺愛したのは邪神でした~

綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
BL
「なんだ、お前。鎖で繋がれてるのかよ! ひでぇな」  洞窟の神殿に鎖で繋がれた子供は、愛情も温もりも知らずに育った。 子供が欲しかったのは、自分を抱き締めてくれる腕――誰も与えてくれない温もりをくれたのは、人間ではなくて邪神。人間に害をなすとされた破壊神は、純粋な子供に絆され、子供に名をつけて溺愛し始める。  人のフリを長く続けたが愛情を理解できなかった破壊神と、初めての愛情を貪欲に欲しがる物知らぬ子供。愛を知らぬ者同士が徐々に惹かれ合う、ひたすら甘くて切ない恋物語。 「僕ね、セティのこと大好きだよ」   【注意事項】BL、R15、性的描写あり(※印) 【重複投稿】アルファポリス、カクヨム、小説家になろう、エブリスタ 【完結】2021/9/13 ※2020/11/01  エブリスタ BLカテゴリー6位 ※2021/09/09  エブリスタ、BLカテゴリー2位

幽閉王子は最強皇子に包まれる

皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。 表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。

転生令息は冒険者を目指す!?

葛城 惶
BL
ある時、日本に大規模災害が発生した。  救助活動中に取り残された少女を助けた自衛官、天海隆司は直後に土砂の崩落に巻き込まれ、意識を失う。  再び目を開けた時、彼は全く知らない世界に転生していた。  異世界で美貌の貴族令息に転生した脳筋の元自衛官は憧れの冒険者になれるのか?!  とってもお馬鹿なコメディです(;^_^A

【完結】最強公爵様に拾われた孤児、俺

福の島
BL
ゴリゴリに前世の記憶がある少年シオンは戸惑う。 目の前にいる男が、この世界最強の公爵様であり、ましてやシオンを養子にしたいとまで言ったのだから。 でも…まぁ…いっか…ご飯美味しいし、風呂は暖かい… ……あれ…? …やばい…俺めちゃくちゃ公爵様が好きだ… 前置きが長いですがすぐくっつくのでシリアスのシの字もありません。 1万2000字前後です。 攻めのキャラがブレるし若干変態です。 無表情系クール最強公爵様×のんき転生主人公(無自覚美形) おまけ完結済み

普段「はい」しか言わない僕は、そばに人がいると怖いのに、元マスターが迫ってきて弄ばれている

迷路を跳ぶ狐
BL
全105話*六月十一日に完結する予定です。 読んでいただき、エールやお気に入り、しおりなど、ありがとうございました(*≧∀≦*)  魔法の名手が生み出した失敗作と言われていた僕の処分は、ある日突然決まった。これから捨てられる城に置き去りにされるらしい。  ずっと前から廃棄処分は決まっていたし、殺されるかと思っていたのに、そうならなかったのはよかったんだけど、なぜか僕を嫌っていたはずのマスターまでその城に残っている。  それだけならよかったんだけど、ずっとついてくる。たまにちょっと怖い。  それだけならよかったんだけど、なんだか距離が近い気がする。  勘弁してほしい。  僕は、この人と話すのが、ものすごく怖いんだ。

宰相閣下の執愛は、平民の俺だけに向いている

飛鷹
BL
旧題:平民のはずの俺が、規格外の獣人に絡め取られて番になるまでの話 アホな貴族の両親から生まれた『俺』。色々あって、俺の身分は平民だけど、まぁそんな人生も悪くない。 無事に成長して、仕事に就くこともできたのに。 ここ最近、夢に魘されている。もう一ヶ月もの間、毎晩毎晩………。 朝起きたときには忘れてしまっている夢に疲弊している平民『レイ』と、彼を手に入れたくてウズウズしている獣人のお話。 連載の形にしていますが、攻め視点もUPするためなので、多分全2〜3話で完結予定です。 ※6/20追記。 少しレイの過去と気持ちを追加したくて、『連載中』に戻しました。 今迄のお話で完結はしています。なので以降はレイの心情深堀の形となりますので、章を分けて表示します。 1話目はちょっと暗めですが………。 宜しかったらお付き合い下さいませ。 多分、10話前後で終わる予定。軽く読めるように、私としては1話ずつを短めにしております。 ストックが切れるまで、毎日更新予定です。

愛しい番の囲い方。 半端者の僕は最強の竜に愛されているようです

飛鷹
BL
獣人の国にあって、神から見放された存在とされている『後天性獣人』のティア。 獣人の特徴を全く持たずに生まれた故に獣人とは認められず、獣人と認められないから獣神を奉る神殿には入れない。神殿に入れないから婚姻も結べない『半端者』のティアだが、孤児院で共に過ごした幼馴染のアデルに大切に守られて成長していった。 しかし長く共にあったアデルは、『半端者』のティアではなく、別の人を伴侶に選んでしまう。 傷付きながらも「当然の結果」と全てを受け入れ、アデルと別れて獣人の国から出ていく事にしたティア。 蔑まれ冷遇される環境で生きるしかなかったティアが、番いと出会い獣人の姿を取り戻し幸せになるお話です。

処理中です...