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第十話 森を通って

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 辺境伯領までの道のりは、実に順調に進んでいた。

 道中でテオフィルが馬車の揺れに酔ってしまったこともあったが、どこからともなく精霊が飛んできて治してくれた。

 旅の生活は快適とは言い難かったが、テオフィルは不快さを覚えるよりも、新しいものだらけの旅を楽しんでくれた。

「テオフィル、遠くに森が見えるだろう」
「うん!」

 グウェナエルは、馬車の外に見える景色を指し示した。

「オレたちはこれから、あの森を通る。森を突っ切るように、道が通っているのだ。父の代はこの道がなくて森を迂回しなくてはならず、酷く不便だったと聞く」

 彼が示す先には、鬱蒼と生い茂る森が広がっている。あれを迂回するとなれば、旅程がどれだけ伸びることか。
 自然が多い場所は精霊が多くいることもあって、森の中を突っ切ることに不安は覚えなかった。

「あの森さえ越えれば、辺境伯領はすぐそこだ」
「あたらしいおうち、つくの?」
「そうだとも」
「わーい、やったー!」

 テオフィルは新しい環境に期待を抱けているようだ。
 新しい環境の到来に怯えているよりは、ずっといい。あとは本当にテオフィルにとっていい環境になってくれるのを、願うばかりだ。

 森が近づくほどにテオフィルの興奮は増し、尻尾のぶんぶんが大きくなっていくのを、アンリは微笑ましく見守っていた。

 ほどなくして、馬車は森の中に突入した。

「わああ」

 テオフィルが歓声を上げた。
 森の中を、たくさんの精霊が飛び回っていたからだ。

 大小さまざまな光が飛び回り、あちらこちらへと散っていく光景は幻想的だった。アンリもまた外の光景に視線が釘付けになる。

「みてみて、こびとさん! あ、あれはねこちゃんだよ!」

 テオフィルは、アンリよりも精霊が「どんな精霊か」を感じ取る力が強いようだ。
 アンリは近くにいる精霊ならなんとなく印象がわかるだけだが、テオフィルはまるで目に見えているようにどんな精霊か言い当ててみせる。いや実際、テオフィルにはアンリよりもはっきりと精霊が見えているのかもしれない。
 
「オレには見えないが、そんなにたくさんの精霊がいるのか」
「うん! ……あっ」

 テオフィルは勢いよく頷いた後、耳をぺたんとさせながら両手で口を塞いだ。不安げに銀色の瞳を揺らしている。

「テオフィル、どうしたの?」

 アンリはさりげなく手を伸ばし、テオフィルをそっと抱き寄せて事情を尋ねた。
 どんな心配でも遠慮なく口にしてもいい、と伝わるように頭を撫でてあげる。
 
「……見えること、あんまり言っちゃいけない?」

 テオフィルはグウェナエルを上目遣いに見つめながら、そっと聞いた。
 見えること、とは「精霊が見えること」の意だろう。

「どうしてそう思ったんだい?」

 彼は穏やかに尋ねた。

「だってこびとさんとか、ねこちゃんなんていないって、おかあさまが」

 テオフィルは、実の母親に言われていたことを口にした。

「そうか、そんなことを言われていたのか」

 グウェナエルは、こくりと頷く。
 それから少し考えるかのような間があったあと、口を開いた。

「オレは精霊については詳しくないが、精霊が見えるというのはとても貴重な才能なのだと思う。自らの才を押し殺して生きる必要などない。辺境伯領では、誰にもテオフィルに酷いことは言わせないと約束する」

 グウェナエルなりに、テオフィルに対して柔らかい言葉を使おうと努力しているようだ。

「見えること、言っていいの?」
「ああ、いいんだ」

 テオフィルに問われ、彼は微笑んだ。
 テオフィルの尻尾が、ふぁさふぁさと揺れ始める。

「言っていいんだって! アンリ! アンリも言っていいんだよ!」

 テオフィルはこちらを向いて、笑いかけてくれる。

「私も?」
「うん、アンリもいっしょでしょ」

 アンリもまた、精霊が見えるのが不気味に見えるのだと気がついてからは、なるべく隠して生きてきた。
 テオフィルに言ったことはないのに、そういう生き方をしてきたと彼は自然と感じ取っていたようだ。

「そっか……それは嬉しいことだな」

 ぽつり、呟いた。
 じわじわと実感が湧いてくる。これからはもう、精霊のことを隠して生きなくていいのだ。

「無論、アンリにも酷いことは言わせない」

 グウェナエルが請け負ってくれたので、アンリは目をぱちくりとさせた。まさか彼がそんな風に言ってくれるなんて。

「む、なんだその意外そうな顔は。オレは貴殿、いや、君のことも……」

 グウェナエルは何か言おうとしたが、最後まで続かなかった。

「うひゃあ!」

 テオフィルが驚いた声を上げた。
 馬車が突然加速し出したからだ。
 御者が馬たちに鞭打って、全速力を出させているようだ。

「何が起こったんだ?」

 アンリは咄嗟にテオフィルを抱き締めた。彼を守るために。

「……熊だ」

 馬車の外を見たグウェナエルが呟いた。

「熊!?」

 アンリもまた馬車の外を見てみると、黒く大きな塊が、猛然と馬車を追ってきているのが見えた。熊とは、あんなに大きな生き物なのか。

「雪深い地の熊は大きくなるものだ。それにしても馬車を追いかけてくるとは、普通ではないな。人を食った熊かもしれん」
 
「人を……!?」

 人を食べたことのある熊がこの馬車を追いかけてきているだなんて、恐ろしい。テオフィルを抱き締める腕に、思わず力が入る。

 馬車を引く二頭の馬は全速力を出しているが、いかんせん馬車が重すぎるようだ。熊を引き離すことはできていない。それどころか、だんだんと距離が縮まってきているようにすら見える。

「人肉の味を覚えた熊は、人を恐れなくなる」

 グウェナエルの言葉に、アンリは思わず想像してしまった。鋭い牙に引き裂かれて迎える最後を。
 
「テオたち、たべられちゃう?」

 アンリの腕の中で、テオフィルは涙目で震えていた。
 どう言ってあげたらいいかと逡巡したその瞬間、グウェナエルは馬車の中で立ち上がった。

「領主として、危険な獣の放置はできん」
「どうする気なんだ?」

 彼は口端を上げ、笑みを見せた。

「案ずることはない。オレの剣にかかれば、熊一匹くらいどうということはない」

 たしかに彼は腰に剣を佩いている。
 でも、剣一本であんな恐ろしげなものに立ち向かうなんて。

「オレが降りたあとは、しっかり馬車の扉を閉めておけ」
「えっ」

 馬車が全速力で走っている最中だというのに馬車の扉を開け放ち、ひらりと飛び降りてしまった。
 万一にもテオフィルが馬車から落ちてしまわぬよう、アンリはすぐに扉を閉めた。

 グウェナエルは音もなく地面の上に降り立ち、腰の剣を抜いた。刃が光を反射して、鈍く煌めく。

 熊は凄まじい速度で、グウェナエルに迫る。
 あっという間に彼の目の前に来ると、巨大な身体で立ち上がった。

 グウェナエルの背丈は二メートル近くあるというのに、立ち上がった熊の体格はほとんど彼と変わらなかった。なんて大きな熊なのか。
 熊はグウェナエルを挽肉にせんと、片手を振り上げる。

 もう駄目だ。目を瞑ろうとした瞬間。

「ハァッ!」

 刃が翻る。

 剣は熊の身体を袈裟切りに切り裂き、なんと斜めに分断してしまった。二つに分かたれた身体から血が噴き出すのを見て、アンリはテオフィルの視界を手で塞いだ。子供に見せるには、あまりに凄惨に過ぎる。

 熊だったものはどうと倒れ、ぴくりとも動かなくなった。

「どうしたの? グウェンはどうなったの?」
「大丈夫だよ。しっかり熊をやっつけてくれたよ」
「よかったあ」

 御者が馬車を止めてくれたので、グウェナエルはゆっくり歩いて馬車の中に戻ってきた。

「血腥くてすまないな」

 血腥いという割には、彼はわずかにしか返り血を浴びていなかった。
 
「いや、いい。そんなことより、怪我はないのか?」
 
「大丈夫だ。あの熊に食われた被害者がいるかもしれん。あとで街に着いたら、この街道沿いを調査するように伝えておかないとな」

 まさか獣人がこんなに強いだなんて、知らなかった。
 生き物の身体を、あんな風に両断できるなんて。身体の内側には、肉だけでなく骨だってあるはずなのに。どんな怪力であれば、そんな芸当が可能だというのか。
 
 頼もしさを感じると同時に、少しも恐怖を感じなかったと言ったら嘘になる。
 アンリは自分が獣人について何も知らないことに、ようやく気付いたのだった。
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