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五章
五
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お咲を家まで送り、すずめと夢一が富川町に着いた頃には、西の空は茜色に染まっていた。
道中、夢一はすずめが気味悪がるほどにおとなしく、時折、ううむと唸ったり深いため息をついたりしていた。
旦那様、善哉の食べすぎで気持ち悪いんですか? と、すずめは何度か言いたい衝動に駆られたが、百の悪態が返ってくるのは火を見るより明らかだったので自重した。
まあ、事件のことを考えているのだろうから、そっとしておこう。それに静かなほうがこちらも疲れなくてすむ。いっそこのまま……いや、本来の姿がこれだったら、わたしも心安らかに女中の仕事を頑張れそうなのに。
そんなことをつらつら考えるすずめの横、夢一が前方を見据えたまま足を止めた。
「すずめ、俺のうしろに下がれ」
思いのほか鋭い声に、すずめも立ち止まり、夢一の緊迫した横顔を見上げた。
「旦那様?」
「いいから、とっとと下がれ」
わけがわからず、けれど抗えない声の力に従い、すずめは夢一の背後に移動した。
そこは富川町の外れのさびれた一帯で、片側に雑木林、反対側に小さな掘割のある裏通りだ。今はすずめと夢一の姿しかなく、あまり長居はしたくない薄暗い場所。辻斬りや追いはぎが現れるとしたら、こんなところなのかもしれない。
「厄介なもんが現れやがったな」
「え? つ、辻斬りですか? 追いはぎですか?」
思わず夢一の背中に身を寄せたすずめに、夢一は前を見たまま否定した。
「そいつらがかわいく思えるくらい厄介なもんだ」
不意に空が翳り、地から湧き出るような闇が周りに立ちこめた。
「え?」
たしかに夕暮れ時、徐々に薄闇が差していた頃合ではあったが、完全に日が暮れ、宵闇に閉ざされるにはまだ早い。しかもこんな一瞬で。尋常ではなかった。
「魔思の結界か。へっ、生意気な野郎だぜ」
扇子を潜ませているであろう袂に手を入れつつ、夢一は鼻で笑った。
「な、なんですか? 魔思の結界って」
「獲物を逃がさねえようにする檻みてえなもんだ。こういった場合そこから出るには……」
「出るには?」
「結界を張った魔思を倒すしかねえな」
そう言った夢一の視線の先を追って、すずめは息を呑んだ。
そこには周囲の闇よりも色濃い黒い塊が、狭い裏通りを塞ぐような格好で現れていた。見上げんばかりの塊は巨岩のような迫力だ。
「なんですかあれ!? あれも魔思なんですか!?」
黒く巨大な塊はその内部に墨を渦巻くように蠢きつつ、その下部からにょきりにょきりと四肢を生やした。
「犬ころだな」
夢一の呟きに耳を疑うすずめ。
犬? でかっ! 牛より大きいじゃない!
道中、夢一はすずめが気味悪がるほどにおとなしく、時折、ううむと唸ったり深いため息をついたりしていた。
旦那様、善哉の食べすぎで気持ち悪いんですか? と、すずめは何度か言いたい衝動に駆られたが、百の悪態が返ってくるのは火を見るより明らかだったので自重した。
まあ、事件のことを考えているのだろうから、そっとしておこう。それに静かなほうがこちらも疲れなくてすむ。いっそこのまま……いや、本来の姿がこれだったら、わたしも心安らかに女中の仕事を頑張れそうなのに。
そんなことをつらつら考えるすずめの横、夢一が前方を見据えたまま足を止めた。
「すずめ、俺のうしろに下がれ」
思いのほか鋭い声に、すずめも立ち止まり、夢一の緊迫した横顔を見上げた。
「旦那様?」
「いいから、とっとと下がれ」
わけがわからず、けれど抗えない声の力に従い、すずめは夢一の背後に移動した。
そこは富川町の外れのさびれた一帯で、片側に雑木林、反対側に小さな掘割のある裏通りだ。今はすずめと夢一の姿しかなく、あまり長居はしたくない薄暗い場所。辻斬りや追いはぎが現れるとしたら、こんなところなのかもしれない。
「厄介なもんが現れやがったな」
「え? つ、辻斬りですか? 追いはぎですか?」
思わず夢一の背中に身を寄せたすずめに、夢一は前を見たまま否定した。
「そいつらがかわいく思えるくらい厄介なもんだ」
不意に空が翳り、地から湧き出るような闇が周りに立ちこめた。
「え?」
たしかに夕暮れ時、徐々に薄闇が差していた頃合ではあったが、完全に日が暮れ、宵闇に閉ざされるにはまだ早い。しかもこんな一瞬で。尋常ではなかった。
「魔思の結界か。へっ、生意気な野郎だぜ」
扇子を潜ませているであろう袂に手を入れつつ、夢一は鼻で笑った。
「な、なんですか? 魔思の結界って」
「獲物を逃がさねえようにする檻みてえなもんだ。こういった場合そこから出るには……」
「出るには?」
「結界を張った魔思を倒すしかねえな」
そう言った夢一の視線の先を追って、すずめは息を呑んだ。
そこには周囲の闇よりも色濃い黒い塊が、狭い裏通りを塞ぐような格好で現れていた。見上げんばかりの塊は巨岩のような迫力だ。
「なんですかあれ!? あれも魔思なんですか!?」
黒く巨大な塊はその内部に墨を渦巻くように蠢きつつ、その下部からにょきりにょきりと四肢を生やした。
「犬ころだな」
夢一の呟きに耳を疑うすずめ。
犬? でかっ! 牛より大きいじゃない!
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