上 下
17 / 81
2.due

due-6

しおりを挟む
(嘘…………。でしょう?)

 その姿を見た途端声を漏らしてしまいそうになり、慌てて自分で自分の口を塞ぎ俯いた。

「お待たせして申し訳ありません、乃々花ののかさん。……どうかされましたか?」
「薫さま。こちらのかたに、具合がお悪いのかとお声をかけたのですが……」

 (お願い。気づかないで……)

一瞬目に入っただけの涼しげな美しい容姿はあのときのまま。そして記憶に残っていた通りの、低い艶やかな声。何もかも変わっていなかった。
 それに対して、自分は何もかも変わってしまった。背中まであった髪は、今では肩にかからないほど短く切っている。動きやすさを重視した、シンプルな服装はおしゃれというには程遠い。だから、ほんの一晩相手のことなど、覚えているはずがない。
 なのに、どうして……。

「……亜夜……?」

 驚いたように薫さんが口にしたのは、間違いなく自分の名だった。

「薫さまのお知り合いでしたのですね?」

 なんの疑いもなく、屈託のない声で彼女は薫さんに尋ねている。けれど薫さんは黙ったままだった。

(そうか……。この女性が薫さんの本物の婚約者……)

 『お嬢様』と言われていたのは揶揄じゃなく、本当のことのようだ。ここにいるのは、住む世界がまるで違う人たち。そんな人たちの前に、私の出る幕などあるはずもない。

「すみません。お騒がせして。私はもう大丈夫です」

 俯いたまま、なんとか彼女に届くくらいの小さな声で言うと、そのまま目の前にあった化粧室に駆け込む。

『亜夜っ!』

 薫さんの、叫ぶような声が聞こえたのはきっと気のせいだ。私の記憶にある彼は、そんな感情を露わにするような人ではなかったはずだ。
 そのまま個室に飛び込み鍵を閉めると、その場で肩から息を吐き出していた。

(こんな偶然があるなんて……)

 薫さんの経営する会社の所在地は覚えている。それはこの近くではなかった。よほどのことがない限り、会うことなどないと思っていた。

(ふうを連れてなくてよかった……)

 万が一でも、余計な火種を持ち込みたくない。薫さんが風香を誰の子か、疑うようなことはあってはならないのだから。
 立ったまま溜め息を繰り返していると、バッグの中からメッセージの通知音が聞こえた。

『亜夜大丈夫? 体調悪い?』

 真砂子からの短いメッセージ。私はそれに『大丈夫。目にゴミが入って痛かっただけだから。今から戻るね』と返した。
 気持ちを落ち着け、辺りを伺うように化粧室を出る。幸い二人の姿はなかった。それでも気を抜けず、隠れるように歩いた。

 (あれは……?)

 ラウンジに入るとテラス席が目に入る。遠くでよく見えないが、真砂子のそばに立っている男性がいた。まさか、と目を凝らして見ると、薫さんが着ていたダークな色のスーツとは違い、その人はライトグレーのスーツを着ていた。
 自分が席に戻る前にその人は去り、真砂子は席を立ち上がる。

(ふう、起きちゃったんだ!)

 風香を抱き上げあやすように揺れている真砂子を見て、慌てて席に戻った。

「ごめん! 真砂子。ふうの面倒まで」
「あっ、亜夜。大丈夫?」

 真砂子は自分の子どものように、慣れた様子で風香をあやしている。起きたばかりの風香は、まだ眠そうな顔をしていた。

「うん。ごめんね、驚かせて。ふう、ありがとう。代わるから」
「いいって。亜夜はゆっくり飲みなよ」
「助かる。すぐ飲んじゃうね」

 冷め切ったマキアート。せっかく淹れてくれた人に申し訳ない気持ちになりながら、味わうことなく流し込む。それは、今の自分の気持ちくらい苦々しいものに変わっていた。

「そういえば、さっき誰かと話してなかった?」

 立ったままの真砂子に尋ねると、少しだけ動揺したように瞳が揺れる。

「えっと、店のお客さん。私を見つけて声かけてくれたみたい」

 なんとなく様子はおかしいように見えたが、それ以上は言いたくないようだ。私は「そう」とだけ答えた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ハメられ婚〜最低な元彼とでき婚しますか?〜

鳴宮鶉子
恋愛
久しぶりに会った元彼のアイツと一夜の過ちで赤ちゃんができてしまった。どうしよう……。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

今更だけど、もう離さない〜再会した元カレは大会社のCEO〜

瀬崎由美
恋愛
1才半の息子のいる瑞希は携帯電話のキャリアショップに勤めるシングルマザー。 いつものように保育園に迎えに行くと、2年前に音信不通となっていた元彼が。 帰国したばかりの彼は亡き祖父の後継者となって、大会社のCEOに就任していた。 ずっと連絡出来なかったことを謝罪され、これからは守らせて下さいと求婚され戸惑う瑞希。   ★第17回恋愛小説大賞で奨励賞をいただきました。

シングルマザーになったら執着されています。

金柑乃実
恋愛
佐山咲良はアメリカで勉強する日本人。 同じ大学で学ぶ2歳上の先輩、神川拓海に出会い、恋に落ちる。 初めての大好きな人に、芽生えた大切な命。 幸せに浸る彼女の元に現れたのは、神川拓海の母親だった。 彼女の言葉により、咲良は大好きな人のもとを去ることを決意する。 新たに出会う人々と愛娘に支えられ、彼女は成長していく。 しかし彼は、諦めてはいなかった。

隠れ御曹司の愛に絡めとられて

海棠桔梗
恋愛
目が覚めたら、名前が何だったかさっぱり覚えていない男とベッドを共にしていた―― 彼氏に浮気されて更になぜか自分の方が振られて「もう男なんていらない!」って思ってた矢先、強引に参加させられた合コンで出会った、やたら綺麗な顔の男。 古い雑居ビルの一室に住んでるくせに、持ってる腕時計は超高級品。 仕事は飲食店勤務――って、もしかしてホスト!? チャラい男はお断り! けれども彼の作る料理はどれも絶品で…… 超大手商社 秘書課勤務 野村 亜矢(のむら あや) 29歳 特技:迷子   × 飲食店勤務(ホスト?) 名も知らぬ男 24歳 特技:家事? 「方向音痴・家事音痴の女」は「チャラいけれど家事は完璧な男」の愛に絡め取られて もう逃げられない――

ミックスド★バス~家のお風呂なら誰にも迷惑をかけずにイチャイチャ?~

taki
恋愛
【R18】恋人同士となった入浴剤開発者の温子と営業部の水川。 お互いの部屋のお風呂で、人目も気にせず……♥ えっちめシーンの話には♥マークを付けています。 ミックスド★バスの第5弾です。

同居離婚はじめました

仲村來夢
恋愛
大好きだった夫の優斗と離婚した。それなのに、世間体を保つためにあたし達はまだ一緒にいる。このことは、親にさえ内緒。 なりゆきで一夜を過ごした職場の後輩の佐伯悠登に「離婚して俺と再婚してくれ」と猛アタックされて…!? 二人の「ゆうと」に悩まされ、更に職場のイケメン上司にも迫られてしまった未央の恋の行方は… 性描写はありますが、R指定を付けるほど多くはありません。性描写があるところは※を付けています。

処理中です...