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始末に負えない七夕事変。
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指先を揃え、静かに頭を落とした。
「畏れ多くも申し上げます――」
深い藍色と暗黒色の空に、星々が煌めいていた。少し離れたところでこの日を祝う賑やかな宴の声がかすかに届くも、静かな儀式は誰の目に留まることはない。
雲ひとつない夜空の下で行われる宴も儀式も、それぞれが滞りなく行われている。空に流れる煌めく川と、周囲に広がる夜空が、退屈な時間を華やかな気分にさせるようだった。
「お約束通り、今年の務めを果たしました」
広々とした空間に鎮座する神籬の前には、お神酒やお榊、多くの供物が置かれている。もちろん、この日のために織られた彩り豊かな衣も供えられていた。
雅楽の曲がどこからともなく届き、賑わいもまたひとつ深くなる。
「今年もどうか、豊かな実りがありますように――」
出来るだけ心を込めて願おうとするが、早くこの勤めを終え、この場を後にしたいと思う気持ちがどこかにあった。
ゆっくりと、出来るだけこの気持ちが外に漏れ出ないようにと祈りつつ、静かに立ち祭壇を後にする。
お客人たちは酒や歌、舞に酔いしれ他の誰が何をしているかなど気に留めることはしないだろう。だが、万が一にでも声を掛けられてしまっては面倒だ。
なるべく気配を消し、中庭へ向かった。藍色の袍を身に纏う男性が、星々が集い白く空を二分させる白い川を眺めている。
「――天彦!」
灯篭に小さく足元を照らし、頭上に広がる星々を池に映す中庭が約束の場所――。彼は髪を高い位置でまとめ、暗い中でも優しい表情が見える。穏やかなに空を見ていた表情が振り返れば、熱を帯びた生き生きとした笑顔がまっすぐにこちらを視界に入れていた。
「織姫――、お疲れさま」
優しい声色に名を呼ばれれば胸の中がいっぱいになり、ただそばへと駆けつける。力強い両腕に抱擁され、再会を喜び合った。
「やっとこの日が来たのね。ずっと会いたかった」
「あぁ、一日と君を思わない日はなかった」
いつもと同じような再会の言葉しか出ないことに、互いに顔を見合わせ笑った。
一年に一度だけ、会うことが許された今日は七月七日――。会えない日が続こうとも、何度この日を迎えることがあってもお互いの気持ちは同じだ。
そう、何年経とうとも、何度でもこの日を迎えることだけが二人にとって何よりも望んでいたことだった――。
――と、非常に仲睦まじい様子だが、この結果は当然の帰結である。
天彦と織姫、いじらしいほど真面目で頑迷な性格に折り合いをつけた結果、一年に一度会うことが許された関係であった。
でなければ、天地は今頃どうなっていたのか――。
天ですら考えるのを躊躇するレベルだ。
***
最初はお互い一目惚れだった。仙女と人間、――決して互いに交わることのない宿世だというのに、気まぐれで立ち寄った川で二人は出会った。
ただ機を織り、仙女たちの衣服を用意するだけの役割を持った織姫と、ただの牛飼いとして真面目に働いていた天彦。日々仕事に身を費やすことだけが、二人にとっての全てであった。
それ以外に楽しみはなく、興味関心もなかっただけに、ただそこにいた他人に強く関心を惹かれたのは、同じ資質を感じ取ったからかもしれない。今まで気付きもしなかった足りないものを求めるかのように、二人は鮮烈に惹かれ合った。
「二人が出会えたのも何かの縁……、ずっと一緒にいましょうね天彦」
「もちろんだとも。生涯、君だけを愛そう織姫」
真面目な二人だ。これから共に家庭を築くことになっても、誰かの手本になりそうな堅実な家庭を作ってくれるだろうという淡い期待があった。端から見ても分かるほど相思相愛な様子に、天彦の近所の人間たちも微笑ましく幸せそうな二人を見守っていた。
だが、それまで仕事しかしてこなかった二人は、他者とは深く交流することもなかったため何かと加減が分からなかった。
「天彦のやつ、今日も休みか?」
「人生初の彼女だ。しかもあんな美人じゃ、ひとり家に置いておくのも心配になるだろうよ」
「よく仕事変わってもらってるし、多少は多めにみてやろうぜ」
天彦の周囲の人間は理解があった。長年一緒に育ち、ひたむきに牛たちの世話をし、周囲の人間に対しても常に誠実であったからだろう。今まで休みを取ることもしなかったため、理由が『彼女をひとりにできないため』というものであっても多めに見てもらえていた。
「毎日仕事には行こうとしてるんだけどよ~、見送りのときに彼女さんがだんだん涙目になっていくんだ……。ああいうのを放置しておけるほど、天彦は冷たい奴じゃないからなー」
「恋人が出来ると性格が変わるっていうけどさ、今までの性格がよりはっきりするって感じだよな」
長年の日課で天彦を迎えに行っていた幼馴染たちの言葉に、周囲が一瞬静かになった。
『いってくるよ織姫』
『いってらっしゃい、天彦。気を付けてね』
『誰が訪ねに来ても応対しなくていいから。私に用があれば、みんな牛舎に来るし、この時間にいないことは知っているから――』
『天彦は心配性ね。大丈夫よ、ここでの暮らしは初めての事ばかりだけど、あなたがいるからへっちゃらよ』
仙女であり機を織ることしか知らない織姫の身を案じ、あれこれと世話を焼く天彦に織姫は微笑ましいと笑みを送るが、互いの視線が交差すれば二人の表情がさっと曇る。だけど、そんな顔をして見送ることは出来ないと、すぐにぎこちなく笑顔を作ろうと取り繕うのが端から見ていて気まずい。
なんだよもう。似た者同士だからやること成すこと全て鏡合わせかのように同じ行動を取る二人に、外野はもどかしさマックスだ。だけど天彦から相談してくれなければ、ただのおせっかいで二人の仲を壊してしまいそうだから何も言えずにいた。
二人をどうにかしたいと身を乗り出さんとする者もいたが、ただおもちゃにして遊ぶだけなのは目に見えているので、仲間たちはそういう面倒な奴らを遠ざけた。
『――天彦、今日は人が足りてるし家のことしたら? ずっとひとりで暮らしてて、カノジョさんの身の回りのものもまだ揃ってないんだろ』
『あぁ、お前んちの牛も、今日は俺らが見ておくから』
『そんな――、みんなも自分の仕事もあるだろ。私の勝手で君たちの仕事を増やしては……』
『いいっていいって。たまには俺らに甘えてみてろよ』
『俺たち友だちだろ? 今度飲みながら二人のこと聞かせろよなー』
手を振り、離れがたそうにしている二人をそんな感じで今日も置いてきた。
「はー、俺も彼女欲しい~」
「おいおい、お前まで休みがちになったら困るぞ」
「その時は天彦に代わりに仕事してもらうからな」
連日の天彦の休みの理由をからかいながら、牛の世話をみんながしていた。
「あぁ、今日も行けなかった……。仕事を代わってもらってばかりで皆には申し訳ない」
「ごめんなさい、私のせいで……」
「……本当は、織姫と離れたくなかったから、みんなの申し出は有り難いと思っているんだ。そんなずるいことを考えてしまって、申し開きのしようもない」
「私も――、あなたと離れたくないと思ってた」
同じ気持ちだけに、どうしようもなかった。
今まで出来たことが出来なくなり、ひとりでも生きて行けたはずなのに、振り返ればどうしてひとりで平気だったのかと昨日までの自分の存在すら朧になる。
「まるで夢のようだ。都合の良いことばかり起きて、いつか醒めてしまうのではないかと思うと怖いな」
「……そうね」
同じ気持ちだから嫌でも気付く。天彦は人間で、織姫は仙女。
出会いは偶然だが、この先織姫を置いて先に逝くことになることは避けられないことだと――。
「そうだ、籍を入れましょう。私はあなたの、あなたは私の永遠の伴侶であることを公的に証明するべきだと思うわ」
「確かに……。互いの身を保証できるし、なんとも確実な方法だ。さすが織姫、私だけでは思いつきもしなかっただろう」
伴侶になる――。周囲の人間は、血の繋がらない誰かと一緒になるためにそういう選択をする。
この時代の役所にそこまでのことを期待出来るかはともかく、思い立ったら吉日と言わんばかりに二人は行動した。
「それなりに大きい街で良かった。でなければ役所に行くのも何日もかかっていたかもしれない」
「ついてるわね私たち。これは共にあるべきと、天の思し召しに違いないわ」
四六時中二人でいたため、ご近所だけでなく、道ゆく人たちにもすでに二人の仲は認知されていた。これが後の世で言うところの”バズ”である。ネットがない分人々の口で伝わり、真偽を確かめようと人が集まり、天彦の家の周囲では多くの人々が待ち構えていた。
「おあついねお二人さん、今日はどこ行くんだい?」
「籍を入れるため、役所へ行くところだ」
「へぇ! それはめでたいね!」
「結婚おめでとう!」「ようやく天彦にも春がきたんだ」「仕事人間だったお前にねぇ……」「織姫さんのこと、幸せにしてやれよ!」「こいつ真面目過ぎてのんびりしてるところもあるかもしれないけど、よろしくしてやってくれないか」
真面目な仕事ぶりから街でも評判の良かった天彦は、決して裕福ではなかったが人には恵まれていた。話を聞いた人たちもほぼ知り合いばかりだ。やいのやいのと祝福された。
「天彦はこんなにもいろんな方々から愛されているのね。――皆さん、ありがとう。この方のことを何があっても大切にすると誓うわ」
見た目は同い年ほどだが、生きた年数でいえば天彦の方がずっと短い。短い生の中で慈しまれて育った天彦の今日までの時の流れを感じ、周りの仙女たちがひとときしか咲かない花を愛で、瞬間的な想いを詩歌に乗せ、すぐに消える音に心を寄せる行為に意味を見出せなかった。
「――何かを愛でるとはこういうことなのね」
「あまり周りの言うことを本気にしないでくれるか。私が子どもの頃からつまらない人間だと知っているから、半ばからかいのようなものだ」
祝福と一緒に要らん世話を焼かれたことに気恥ずかしい気持ちの天彦とは違うものを見ていたが、二人でいる時には見れない姿に織姫はくすりと笑った。
何気ない瞬間ですら、愛おしい。
だが、この幸せは長くは続かなかった。
「あー……、悪いけど、仙人と人間は籍を入れるのは禁じられている。こんなものを書いたところで受理することはできない」
婚姻届に署名し、道行く人に頼んで証人のサインまで貰ったのに、役人は気まずげに突き返した。
「そんなこと、どこにも書いてないじゃない」
「そんな……、法律で決まっているとでも言うんですか」
「だいたい人間か仙人か書く欄だってないじゃない。見た目だけで判断するなんてひどいわ」
「……法律で決まっているわけじゃないが、少し考えればわかるだろ」
この役人も天彦のことはもちろん、織姫のことも知っていた。大きな街とはいえ長年ここで育ってきただけに様々な噂を耳にし、――彼らよりも知っていることが多いだけに事務的な返事しかしない。やり場のない思いを冷たい態度に乗せることしかできなかった。
「いつ誰がどのように決めたというの。そんな話知らないわ」
「……本当にあんた知らないのか? ――こっちとしては上の連中に睨まれたくないんで、悪いけど諦めてくれ」
用紙を突き返し手で追い払う仕草をすると、役人は受付から去っていった。少なくない人数がこの現場を目撃するが、彼らも役人の言葉を理解したようで、二人が視線を巡らせるもの目を伏せ避けていく。
「……そんな、好きな人と一緒になることも出来ないの?」
「きっとなにか方法はあるさ。今日は帰ろう。――どうも世話をかけたね」
落ち込む織姫を支え、天彦は役所を後にした。
この時代、仙人と人間が一緒になることを快く思わない方がいた。その方は仙女たちの管理者、西王母。――仙女たちを取りまとめる立場でありながら、神秘の力を秘める桃を護る桃園の女主人である。
女主人と言っても、元は人頭半獣と人から掛け離れた姿をしており、長い時を経て麗しい女性へと姿を変えた存在だ。見目の美しさに気を許せば、たちまち獣の如き残虐さで相手を誅するだろう。
この件に関し、織姫が思い当たることはなかった。
なぜならただひたすらに仕事に打ち込み、よそ見もせず、無駄な考えなどに思いを馳せることもなかったザ・職人気質の真面目な仙女だったため、世間のことに非常に疎かったのだ。
「いったいどうしたら……」
フラフラと気落ちしながら歩いていくと、ふと出会った川に辿り着いた。あの時の鮮烈な出会いに二人は顔を合わせたが、その気持ち虚しく、二人は『一緒になれない』という悲劇にただ打ちのめされるだけだった。
河原で並んで座り、日が暮れ朱色に染まる空を二人で眺めた。
天彦もまた、織姫と同じく今日まで仕事に打ち込み、老いた両親のため、仕事のため、仲間のためと真面目に愚直に働いてきた若者だ。織姫同様、世の常識にとても疎かった。
気も合いお似合いの二人ではあったが、それを上回るレベルで人生の経験値が浅過ぎた。脇目も振らず、他の趣味もなく交流もしない生き方は、反省の余地があるかもしれない。
言葉なく座る二人の悲しみに、空も色を変えていく。太陽が地平に溶け、宵闇が天空を覆う頃、星々が二人を慰めようと顔を覗かせた。
「――そうだ、人と仙女の婚姻がダメだと言うのなら、あなたも仙人になればいいわ。ずっと一緒にいられるし、誰もがきっと反対することもないでしょう」
「そんな方法が……! 一体どうしたら私も仙人になれるだろうか」
ぱっと二人で立ち上がり、手に手を取り合い喜んだ。
「私の住んでいる地に桃があるの。沢山生っているのだけど、三千年に一度生る桃を食べれば仙人に、六千年に一度生る桃を食べれば不老長寿が得られるの」
「それは……、とても貴重なものなのではないか」
「たくさんあるし、宴で西王母さまがお客人に振る舞っているわ。おもてなしに使うものなのだから大丈夫よ」
名案とばかりに喜びを表す織姫の感情が、繋いだ両手に伝わってくる。ただの人でありしがない牛飼いでしかない天彦には、仙女たちの宴という言葉に畏れ多いものだと思ったが、恋人の愛らしい姿に微笑ましい気持ちになる。
「きっと西王母さまにお頼みすればあなたにも分けて貰えるわ。今すぐにでも行ってくるわ」
判断が早い。
「今から?」
「えぇ。すぐに戻るから心配しないで」
そう言って天彦の手を離し、仙女の織姫は元いた世界へと帰って行った。無駄な考えなど最初からない、合理的かつ無駄のない動きだ。仕事のできる人は得てしてこうなのだ。
だが、これは青天の霹靂である。
織姫の言う神秘の桃は確かに客人に振る舞うような代物だが、饗応に招かれるのは神仙の類だ。
決して人が口に出来るものではなく、そんなことを許すこともしないだろう。また、理由が理由なだけに、頼む相手も非常にまずい。
織姫とて桃園の宴に招かれる身分だが、周りに人間はいなかっただろうと懇切丁寧に問い詰めたい。周囲に興味関心がなかったせいで気付かなかったのかもしれないが、もっと心を開いて周囲を見渡しておくだけの興味関心は持っていて欲しかった――。
「――天彦」
ひとり空を見上げ、消えて行った恋人の姿を探す青年に呼びかける声があった。その声に周囲を見渡すと、
「どうしてここに牛が……? まさか脱走してしまったのか」
天彦の牛がいた。濃い褐毛はこの辺りで飼われている種類で、短い角は年季の入った色をしている。長いこと世話をしているので見間違えるわけもなく、あたりを見回しても誰もいないことから連れられてこられたわけではないようだ。
ただ一匹ここにあるだけだった。
「……もしかして、連日お前の世話をしていなかったから怒っているのか」
じっと黒い眼に見つめられれば、連日の己の怠慢を思い出し、すまないと謝ることしか出来ない。手を伸ばし、久方ぶりに自分の牛に触れる。父が存命だった頃から飼っている牛だ。手に触れる手触りは昔に比べれば硬く、みずみずしいとは言えないだろう。
老齢なため既に役目を終えさせてもいいのだが、たったひとりの家族でもある。
「……だというのに、お前の世話もせず近頃は自分のことばかり。最後まで面倒を見るつもりだったんだが、お前が怒るのも仕方ないだろう」
「怒ってここに居る訳ではない。お前に話があるから来たんだ」
また誰かの言葉が聞こえ、周囲を見渡す。――誰もいない。
「……昔、この川が氾濫して多くの死者が出たが、まさかその時の……?」
「まだ死んではいないし、幽霊でもない。――ここだ、天彦」
霊でも化けて出てたのかと身の毛もよだつ想像に足を竦めていたが、手を乗せていた牛の頭が大きく揺らされる。
「お前を呼ぶのは、私だ」
「……………………牛が、しゃべった……」
あまりの出来事に腰を抜かし、天彦はその場に尻から倒れ込んだ。
「夢でも見ているのか……。織姫がここに居たのも、もしかして夢だった……?」
近頃現実離れした出来事が多かった。よく使っているこの川のほとりで、たまたま仙女に会ったことも、互いに好いて一緒にいるようになったことも、自分を想い夢のような効果のある桃を得ようと消えるようにあっと姿を消していった恋人も、自分の世話している牛がしゃべるのもどれもが想像を超えている。
こんな不可思議なことがいくつも起こるなんて――、
「ははっ、――もしかして死期が近いのは私だったのか」
「現実逃避している場合ではない。お前に話があるからここまで来たのだ」
身体の向きを変え、顔の前に自分の牛が立った。
「このままでは、織姫もお前も無事では済まない。話を聞いてくれ」
現実味はなかったが、真剣な牛の言葉に天彦は、少しだけ正気を取り戻した。
***
桃園を望む楼閣の一室、大きな窓から柔らかな晴れた空が見え、桃の花の香りがふんわりと部屋に届く。
「今までどこに行ってた織女、皆がお前を探していた。……お前が不在にしていたせいで機を織る者がなくて、着れる服もなくここはひどい有様だ」
織女とはここでの織姫の呼び名だ。機を織り、仙女たちの衣を作る、それが自分の役割だったためそう呼ばれている。久方ぶりに呼ばれる名に身を正し、両手を合わせ桃園の主、西王母の前で両膝を床につけ首を垂れた。
西王母の他、数名の仙女たちが彼女の世話をしていた。おしゃれ着洗いも手でやらねばならないこの時代、織姫の織る繊細で美しい布で出来た衣はすぐにダメになってしまう。おかげで彼女らが身に着けている服も、彼女らの美しさを支えきれず、目も当てられない事態だ。特に予定のない日で良かったと言えるだろう。
「外出しておりました」
「外出って……、なにか素材でも取りに行ってたのか? せめてどこへ行くか、誰かに伝言くらい残しておくべきだろう」
「初めての外出でしたので、勝手が分からずすみません」
「……初めてでは仕方がないか。だが、どうして外へ行ったんだ。誰かに言えば何でも揃うというのに、何か用があったというのか」
「用……? そういえば、どうして私は川へ行ったのでしょうか」
ふと、織姫は不思議に思った。織女として、ここで機を織るのが自分の役目だというのに、――どうしてあの日下界にある、あの川へ行ったのだろう。
「――誰かに言われたのか?」
「いいえ……。行かねばならない用があったはずなのですが、何故でしょう……、理由を忘れてしまったようです」
「……用がなくとも、気分転換に外に行くのは悪いことではない。だが、何日もここを空けていたのはどうしてだ。帰り道が分からなかったのか」
ここの仙女たちは風に舞う花弁のようにつかみどころのない者が多い。西王母も覚束ない織姫の様子に呆れてはいるが、他の者同様この子もそういう性格だと分かれば怒る気力も湧かなかった。
気まぐれな風に吹かれ、初めての外出に心躍らせていたのかもしれない。
勝手が分からないのなら次からは同じ過ちを冒さないよう、織姫の不在について問い詰めていく。
「いいえ、西王母さま。下界で出会った人間、――天彦と暮らしていました」
織姫の言葉に穏やかな時間が終わる。柔らかに晴れていた空は遠く、風に乗って届いていた匂やかな空気も冷え切り、西王母は般若も逃げ出すほどの恐ろしい表情へと代わっていく。
そんな場の空気に気付かぬ織姫と、仕事一徹だった彼女の話に他の仙女たちが浮ついた。
「うそー、どこで出会ったの?」
「織姫ってばやるじゃん」
「そんなことになってたなんて! 隅に置けないわね」
「彼どこ住み? どんな人? ラインやってる?」
「私たちに相談してくれればよかったのに。アドバイスならいくらでもするよー」
わらわらと彼女の周りに集う仙女たちも、西王母の怒りの気配に気付かず盛り上がっている。
「優しくて笑顔が素敵な人よ――。いつまでも一緒にいたいと思うのだけど、彼は人間だから……」
「人間かぁ。寿命短いもんね」
「生まれが違うとどうしても、ねぇ」
「石にでもして鑑賞用に置いておけば? そしたらずっと傍にいられるもの」
「それではお話が出来ないじゃない……」
「意外といけるわよ。史記にもそう記されているわ」
「話盛り過ぎ。織姫、この子の言うことは忘れなさい」
「――お黙りなさい!」
ぴしゃりとはしゃぐ仙女たちの背後で、西王母の厳しい一声が響く。
「言うに事欠いて、人間と暮らしていただと――? 誰の許しでそんな勝手をしていたんだ」
「……お許しは頂いていませんが、気の合う他者と一緒にいることは悪いことなのでしょうか」
怒りを露わにする西王母に、周りは非難めいた視線を送るが、彼女の怒りは全てを振り払って行く。
「みだりに人間と交わるなど言語道断――。職務を放棄し、許可なく人間と関わりを持った罰としてしばらく牢へ入れ!」
「お待ちください、西王母さまっ」
一喝する言葉に縋るも虚しく、振り払う手が織姫の顔に当たりパシンと音を立てた。
初めて怒られ、初めて叩かれた。そんな衝撃に、織姫はただ茫然とするしかなかった。
「私の許しがあるまで、決して織女を出すな――。お前たちもこれを機に、人間などと関わりをもつだなんて馬鹿な考えを持つなよ」
じんじんと痛い熱を持つ頬に触れれば、西王母の命で織姫は両腕を仙女たちにとられ、暗い牢屋へと連れて行かれた。
「ごめんね、織姫」
「……ただ、一緒にいたいと思っただけなのに」
「しばらくすれば、西王母さまもお忘れになるわ。ほとぼりが冷めた頃に、出してあげるから今は大人しくしていてね」
がちゃんと閉じられた檻の向こうから、織姫を憐れむ仙女たちが励ましの言葉を掛けた。
「――ほとぼりが冷めた頃って、いつなの?」
「それは……」
「私たちには時間があるけれど、天彦は――? ここと天彦のいる場所は時間の流れが違うでしょう?」
青ざめる織姫の言葉が、自分の心に刺さり不安が加速しているようだった。
「一分一秒がどんどんずれていく……。少しお願いして帰るつもりだったのに――、天彦」
「織姫……」
「……お別れも言えず、このまま終わってしまうの――?」
大粒の涙が零れ落ち、さめざめと泣く織姫へと掛ける言葉を失くした仙女たちは伝えるべき言葉を持ち合わせておらず、ただ静かにこの場を後にするしかなかった。
***
織姫と出会う前はそれなりに幸せだった。理解ある隣人に恵まれ日々食うものに困らず、仕事があるだけの日々だったが、怪我も病気もなくここまでこれたのだから、これ以上良いこともないと思っていた。
最後に触れていた手の感触を思い出す。
小さく細い指に、笑顔の愛らしい笑顔の素敵な人だ。機の前に座れば、伸びる背筋に機敏な手つき、足さばきは目を見張るものがあった。彼女が長い年月機を織り続け、ひとつの仕事に向き合い続けてきたことがその小さな背に見えるようであった。――そんなひたむきさも素敵な人だと思っていた。
彼女のようにひとつのことを極めることもなく、何か大きなことが出来る訳でもないが、ただ共にあれるだけで幸せだと言う彼女の声が、仕草や表情、言葉のどれもが大切だ。
だから機会を与えられた今、腹をくくらねばならないだろう。
「――ここが、桃園か……」
決して人が入り込むことは出来ない桃園に、天彦は到着した。――老齢の牛が自らの命と引き換えに、与えてくれた|機会《》だった――。
『私は間もなく天命を全うする。死んだら私の革で靴を作り、仙境へ行きなさい』
『天命を全うするって……。それに仙境など、話には聞いたことはあるが一体どうやって――』
抜けた腰はまだしっかりしなかったが、突然の告白や指示に驚くばかりで、地面に手をつく天彦はうまく受け取れずにいた。
『気にするところはそこではない。いいか、天彦。――織姫は牢へ入ることになるだろう。西王母は規律に厳しいお方だ。お前と付き合っていたと言う話を聞けば織姫はもちろん、天彦、お前にも罰が下るだろう』
『確かに……、向こうの親御さんに挨拶もせず、彼女を引き止め続けていては不興を買ってしまうか――。どうしてそんな当たり前なことに気付かなかったんだろう』
少々意味合いは異なるが、ある意味近い理由かもしれない。
己の落ち度に落ち込む天彦を横目に、牛は咳ばらいをした。
『このままここで裁きを待つだけでも構わない。だがもしお前に勇気があるなら、仙境へと赴き、西王母に相まみえるといい。すぐに許しは得られなくとも、ここで何もせず待つよりもずっと有意義だろう』
一介の牛飼いに背負わせるには少々荷の重い話だろう。偶然会った惚れた相手が仙女だったため、起きた不幸な事故だ。織姫に出会うことなく普通に暮らしていれば、普通の幸せに普通の天命が待っていたはずだ。
こちらの思いとは裏腹に、天彦は立ち上がり服についた土を払った。
『どうしてこんなことになっているか分からないが、大事なことを教えてくれてありがとう。……だが、お前がもうすぐで死んでしまうとは……』
『天命だ。お前が気に病むことではない』
牛は天彦の手に鼻先をつけた。甘えるような仕草に、長いこと世話していたときのことを思い出した。
『――不真面目な飼い主ですまなかった。最期まで心配をかけてしまったな』
きっと己の怠慢を見かねて、最後に諫めにきたのだろう。奇跡のような出来事を引き起こすほどの切実な訴えだ。――天彦はこの牛の言葉を、強く噛み締めた。
甘やかな桃の香りが漂い、優しい風が肌を撫でていく。石でできた道を辿り人を探す。
織姫が言っていた通り、桃の木がたくさん生っている。大きな実もつき、熟れていそうな見た目をしているので、きっと彼女が言っていた場所はここで違いないだろう。
「ごめんください。どなたかいらっしゃいませんかー」
気付けば敷地内にいたため、不法侵入であることは自覚していた。都にありそうな立派な建物が視界に入るが、それ以外にめぼしいものはないため、出来るだけ大きな声で人を呼びながらそちらへと向かう。
「迷子かしら」
「こんな場所にどうやって来たの? ……もしかして人間?」
声の方を振り返れば、桃の木の間から数名の着飾った女性たちがこちらを見ていた。――織姫と同じような衣を身に纏っているが、同じ姿はない。
その事実に肩を落とすも、牛が言っていた言葉を思い出し毅然と振る舞った。
「初めまして、私は天彦と申します。こちらにお住まいの織姫と、――交際している者です」
「えぇ! あなたが?」
「うそー、ここまで来たんだぁ。やるじゃん君」
「へ~何の仕事してんの? 年収は? インスタやってるー?」
「あなたっていくつなの? 年の差とかあんま気にならないタイプ?」
距離を取っていた仙女たちは一気に天彦の周りに集まり、好奇心のままに質問攻めにした。だが、仙女たちの言葉の意味が分からず、天彦はただ戸惑うことしか出来なかった。
「申し訳ありませんが、――織姫がこちらに戻って来て三年が経ちますが、今どうなっているかどなたかご存じないでしょうか」
すぐに戻ると言っていたが、牛の忠告通りならまだ捕らえられているのだろうか。天寿を全うした牛を供養し、彼の革を鞣し身の回りを整理してここまで来た。
織姫が姿を消したことはすぐに周りに伝わった。だが天彦の様子も一気に変わり、多くを語らぬが並々ならぬ決意を感じた友人たちは、何も言わず見送ってくれた。どこへ行くかも伝えなかったが、戻らぬ覚悟でいることは分かっていたことだろう。
いつどんな裁きが下るかと日々覚悟をしていたが、その気配は一向にない。
「織姫が何か罰を受けているというのであれば、彼女を引き留めていた私こそ罰せられるべきでしょう。――どうか西王母さまに会わせて下さい」
しがない牛飼いの天彦が出来る、精一杯の誠意だった。真面目で愚直、欲目もない青年だ。仙女たちも彼の覚悟をくみ取ったようで、覗かせていた好奇心を仕舞った。
「……西王母さまは私たちにはお優しい方ですが、あなたに対しては厳しいご判断を下されるかと」
「構いません。元より織姫と出会えたことが身に余る幸せでした。これ以上を望めばバチが当たるというものです」
すっきりとした表情に浮かんだ表情が、桃の花弁のように瑞々しく咲き誇るようであった。
***
一方その頃、職務怠慢規律違反で捕えられていた織姫は、相変わらず牢に入れられていた。
無風流な石造りの牢には冷たい鉄檻で外界と仕切られ、唯一外の光が差し込む小窓は位置高く小さい。手も背も届かぬが、微かな風と慰めるような花の香りがそこから届くばかりであった。
牢の中には寝床と機織り機、簡素な机と椅子があるのみで、使われるのは寝床だけ。そこでさめざめと己の不幸を嘆き悲しむ姿があるだけで、機織りの音ももうずっと、この仙境で聞こえることはなかった。
始終こんな調子なものだから、仙女たちは相変わらず着るものに困り、使える布を継ぎ合わせ、パッチワーク的ファッションが流行の兆しを見せていた。あけすけに言えば、それ以外なんもならなかったとも言えるだろう。
仙女とは言え年頃の女性ばかりだ、この有様に天も心を痛めていた。
「織姫――、織姫ってば私の話、聞いてるー?」
気まぐれに牢へ訪れる仙女たちがいた。西王母に見つからぬようこっそり訪れては、泣くばかりの織姫を慰めるかのように話かけていた。
「この前みんなで作った長裙でファッションショーしたんだけど、どれもひどくて面白かったんだから。織姫もあれみたらきっと大爆笑してたわ」
その時のことを思い出しながら、大きく開きそうになる口を隠して笑う仙女にも反応を示さず、織姫はひとり己の不幸に泣いていた。
「……毎日そんなに暗くて飽きないの? 一体いつまで泣いてるつもり」
何の変化も見せない織姫に、業を煮やした仙女は檻から離れた。
「こんな生産性もないことばかりしてないで、どうしたら西王母さまのお気が変わるだとか、別の楽しいこととかを考えていた方がよくない? それにあなたが泣いてばかりで、私たちも着るものに困ってるの。――少しは手でも動かして、心変わりしたってアピールでもした方がずっとマシだと思うけど」
長いことまともな服も着れない鬱憤と、良かれと思い会いに来ているのに、その気遣いに見向きもしない織姫に不満をただぶつける。一度口から不満が出てしまえば、言うつもりのなかった言葉がずるりと現れる。
嫌な気分と一緒にこの場に置いて去ると、さめざめと寝床に顔を埋めていた織姫はふと顔を上げた。
「………………別のことを考える……」
誰もいなくなった場所を見回すと、長いこと触れていなかった織機が目に入った。
ずっと織姫と共にあり、長い間たくさんの布を織ってきた。ふらりと立ち上がり、誰かが動かさねばなんの意志も見せない木製の織機。触ればこれに夢中になっていたのは遥か昔のように思えた。
「……これを動かす以外のことを、なにも知らなかっただけ」
むしろ織女として、機織り機を動かすだけに存在していることに気付く。
「ここにいる誰もが自分たちのことしか考えてない……。私のことも、天彦のことも、どうでもいいんだわ――」
ピンと張られた経糸へ、杼に緯糸を幾重にも巻き、何度も往復させ布にしていく。
足で経糸を動かすも、杼と同じく何度も同じ場所を往復するだけの日々だった。――それ以外何もない。
「ここに顔を見せに来る他の子も、結局自分がしたい話しかしない……。誰も天彦のことも、私のことも心配をしてる訳じゃない――」
木製の堅いフレームに沿わせた手に力を込めた。
「こんなものがあるから、私は織女以外の何にもなれない、……何処にも行けない――。どうしてもっと早く気付かなかったのだろう」
力を込めた指先で織機を持ちあげ、鉄織に向かって投げ捨てた。一般人にはできない所業です。決して真似しませんように。
大きな音を立て、木造りの織機はバラバラに砕け、鉄織は衝撃に耐えかね飴細工のようにぐにゃりと歪んだ。
「……欲しいものは、壊して奪えばいいのよ……」
歩き出すと、足先にカツンと何かがぶつかった。カラカラと石床を転がり、がれきにぶつかると緯糸が巻かれた杼だった。
拾ってみれば、良く手に馴染んだ大きさだ。何年も一緒に会ったものだから当然と言えば当然だ。
だがそれを見つめる織姫の目は暗く虚ろで、仙女らしからぬ闇のオーラを纏い始めてしまった。
織姫には機を織り、神仙たちの衣服を作る以外にも、人々のために豊穣の祈りを捧げる役割を持っていた。
長年己の役割に努め、人々に多くの実りを与えてきた。――だからこそ、この織姫の決断は想定外だ。
織姫は破壊した牢からふらりと退出し、虚ろな眼差しでどこかへ向かって行った。
一体何をするつもりなのか、――仙女の闇落ちなど前代未聞だ。
織姫が己の役目を降りるとなると神仙だけではなく、豊穣の祈りを捧げる者もなくなり、人々の未来は暗いものになるだろう。
一体どうしたら良いのか――。
***
桃園から離れたところにある庭園に案内された天彦は、大きな池に面した建物の中、背もたれ付きの欄干に上半身を預け、気怠げに座る西王母に相まみえることとなった。
両手を合わせ片膝をつき、敵意も邪心もないことを垂れた首に託していった。
「お初にお目にかかります。私の名は天彦、しがない牛飼いをしておりました」
「人間風情が、――ここへはどうやって来た」
ここまで案内してくれた仙女の他、桃園の主と共に侵入者がどのようなものなのかと見に来たようでたくさんの仙女たちがここにいた。
初めは美しい女性たちに囲まれ居たたまれない天彦だったが、冷たい西王母の言葉に背筋を伸ばした。頭の先から足の先までつまらないと言わんばかり態度だ。卑近なものでしか例えようがないが、大切な娘をか拐かした相手を許さぬ親のようなものだろう。
これ以上粗相をやらかしてはダメだと、己に言い聞かせた。
「歩いてきました」
「……歩いて?」
天彦の言葉に仙女たちがざわりとささめいた。
「はい。織姫がこちらへ帰った際、長年世話をしてきた牛が申したのです。己の革で靴を作れと……。それを履けば、この仙境へたどり着くことが出来ると言われ、この度参じた次第です」
「牛が?」
「話盛り過ぎ」
「さすがにそんな話じゃ納得できないって」
「こんな時に嘘を吐くなんて……、ないわぁ~」
「織姫も見る目ないとしか言いようがないわ」
仙女たちの非難の声に動じることなく、首を垂れたままの姿勢で天彦はじっとした。自分のせいで織姫を悪く言われることに心を痛めるが、そうさせてしまったのは己の落ち度だ。
「信じて頂けないことは重々承知のこと。ですが、なにひとつ嘘偽りはありません」
毅然とした天彦の態度に、彼を軽んじていた仙女たちが口を閉ざした。
「既に親もなく、ひとり牛の世話をするだけのなにもないつまらぬ人間です。織姫はそんな私をただ憐れんで共に居てくれただけ……。もし彼女になにか罰をお与えになっているというのであれば、彼女と同じように罰を私に――。いえ、皆様が相応しいと思うだけの罰をお与え下さい」
ここにいる仙女に比べて、天彦はずっと弱く脆い生き物だろう。有限の生になんの奇跡も起こせぬ身体、地に足をつけ一歩一歩進むしかないただの凡俗だ。
人では起こしえぬ奇跡の業を持ち、長い生を与えられ、天のために尽くす使命を与えられた仙女たちとは、到底相交わらぬ存在だ。今こうやって会話をする時間を与えられているだけでも、天彦はいまだ尋常ならざる機会に恵まれているのだと己を鼓舞した。頑張れ天彦、負けるな天彦――!
「ひとつ問おう。織姫が下界に降りたとき側にいたそうだが、何か用があってそこにいたのか」
「はい……? ……いつもそこで牛たちに水を与えておりました」
思わぬ質問に顔を上げそうになったが、姿勢を崩さず首を垂れ続けた。事実確認というものだろうか。
「顔を上げよ。――お前の望み通り罰を与えてやる。お前たち、アレの用意を」
「アレって、……もしかしてアレですか?」
「四の五の言わず早くしないか。あと紅衣、青衣、お前たちも参加しろ」
名を呼ばれた仙女たちが「はーい」と緩やかな返事をすると、西王母が立ち上がった。
「場所を変える。ついてこい――」
西王母の声に周囲の仙女たちが忙しなく動き始め、一足先にこの部屋を後にする西王母の背中を慌てて天彦も追いかけた。
「到着するまでにこれを読んでおけ。どうせ何も知らないのだろう」
近くにいた仙女に何か渡すと、その手に渡されたものが天彦の目の前に差し出された。恐る恐る手に取ると本のようだった。
和紙とは違いつやつやと手触りの良い表紙に、小口も切り揃えられたなんとも上質な冊子――。
「西王母さま、私は手積みでやりたいですわ」
「えー、混ぜるの大変だから自動がいいー」
「……た、大変申し訳ないのですが、私は育ちも良くなく――、字が読めないため、こちらになんて書いてあるのかが分からないのですが……」
気まずい告白に側に居た仙女たちが一斉に振り返った。居たたまれなさから天彦の耳まで赤くなるが、どうしようもなく事実なので早めに確認するべきだろう。
「これから、一体何をされるのでしょう」
「絵を見ても分からない感じ?」
「もしかして遊んだことがない系?」
「黄衣、そやつにこれから何をするか、一から教えてやれ」
「はーい」
西王母の指示で別の仙女が傍に来ると、さっさと西王母は歩いて行ってしまった。
「これからねぇ、楽しいことするんだよ」
何が起こる変わらない不安に心が弱くなるのを感じる。いかなる責め苦でも受けるつもりだが、それでも目の前に崖へ飛び降りるための路が見えてしまえば、足も竦んでしまうというものだろう。
怖気付く心が、周囲の仙女たちの笑顔を恐ろしいものにした。
「そっちじゃ流行ってないの麻雀って」
「ま、まーじゃんとは、一体……?」
「その反応、超初心者じゃん」
「なら自動卓一択ね。初心者に山積みさせるの大変だし」
「仕方ないなぁ。ここに役一覧が載ってるから、簡単な役だけ覚えておこうか」
彼女らの勢いに流されるまま背を押されると、庭に面した長い屋根で日陰の出来た屋外座席に到着する。庭が良く見える場所で、ひとつの小さな四角い卓があり、四人が囲って座れるよう椅子が並んでいた。そのひとつに座る西王母は、手元の牌を確認している。
「早く席につけ。さっさと始めるぞ」
***
ふらふらと覚束ない足取りの織姫は、人気の少ない場所を歩いていた。牢から脱獄したものの、天彦の到来により仙女たちが西王母のそばに集まっていたため、誰もこの異変に気付くことはなかったのだ。なんて都合のいい――。
この荒んだ織姫を元に戻したいところだが、仙女が闇落ちするなんてこと、古事記にだって書いてないだろう。なんの対処も思いつかなかった。
「……待っててね天彦、邪魔な人は全員消していくから……」
物騒なことをぶつぶつと呟いていた。せめて大切な桃を盗み、この場を後にでもしてくれれば、後は適当にお茶を濁して済ませることも出来ただろう。明確な殺意を持ってどこかへ行こうとしていた。
デスゲームものは回避したというのに、これから世にも無意味な復讐劇でも始まってしまうと言うのか――。
「織姫! なんで牢から出てるの!?」
パタパタとあまり早くなさそうな駆け足で近寄る者あり。乱れた髪の間から暗い眼差しが彼女を捕らえるも、駆け付けた仙女は織姫の様子に気付かず、息を切らせて近くへ寄った。
「もしかして誰かに教えて貰ったの? あなたの彼、――天彦だっけ?」
嬉しそうに破顔する相手に、何故その名を口にするのかと織姫にどす黒い感情が目から光を遠ざけて行く。手にした杼がふるふると震え、暗い感情が手に押し込められているようだった。――頼むから何事も起きないでくれと祈るばかりだ。
「さっきここに来たわよ! あなたのためにここまで来たんだって!」
「……天彦が?」
「牛に助言されたとかなんとか言ってたけど、彼って天然? 現実離れしてるところは心許ないけど、すっごくいい人ね」
恋人を褒められたおかげか、暗く濁っていた織姫の瞳に光が戻った。
「……いま、どこに」
「あっちよ。早く会いに行こ!」
手を取られ、パタパタと織姫を天彦のいる場所へと仙女は連れて行った。
***
「ほら今よ、鳴いて!」
「え、えっと、……同じ柄が二枚あるから、――ポン!」
「そんな安手ばかりじゃ、数勝たなきゃ意味ないわよ。リーチ」
「でもゲームは楽しくないと。――ロン」
「ちょっと!」
なぜ女性陣に囲まれ麻雀をやっているのか天彦は困惑していた。細かなルールは難しいが同じ絵柄を順番に並べたり、揃えたりする遊戯だと教わった。黄衣と呼ばれていた仙女が横について、あれこれと助言してくれるものの、この儀式にどんな意味があるのかと天彦に緊張が続く。
周囲の和やかな空気を乱すことも出来ず、これが今自分に与えらえれた罰だというなら、黙って引き受けるべきかとも言葉を飲んだ。
今のゲームが終わり、手元に集めた牌や捨てた牌を中央の穴へと押し込んでいく。じゃらじゃらと鳴る音に、魔除けの意味があるとも言われているが、別に今はそういう理由で麻雀をしている訳ではないようだ。
賑わう仙女たちに馴染まず気怠げな態度で、目の前に詰まれた牌を確認する西王母。――一体何を考えているのか不明であった。
最初集まっていた仙女たちは、長い勝負に飽き飽きしたようでこの場にいるのは五人だけ。
「ねぇねぇ、これいつまでやるんですか西王母さま?」
「私が満足するまで付き合ってもらう」
ここに到着してから、いくつも親を変え、場を変えてきたが日は暮れる様子はなく、一体どのくらいの時間が経っているのか分からなかった。
「天彦これ飲んでいいんだからね。遠慮してる場合じゃないよ」
「あ、ありがとうございます――」
それぞれの椅子の横に飲み物とちょっとつまめるような軽食も用意されているが、勝手に手を伸ばすことも阻まれた。
どうぞと差し出されたのに、それに口をつけてしまったがために相手の逆鱗に触れたなんて話を聞いたことがあるからだ。
そうやって人を試すようなヤツにまともな人はいないと思うのだが、得てして立場があり偉そうな輩には癖のある人物も多いものだ。人間関係の難しさというものか。相手がどのような人物なのか、入念な観察と警戒心が必要である。
遠慮の気配を察してか、押し付けるように黄衣が茶器を差し出した。小さな白い湯呑に入っているのは新緑のような柔らかい緑色で、鼻につく香りは爽やかだ。熱さが指先に伝わると、思っていたより喉が渇いていたことに気付く。――周囲も一息つこうと言わんばかりに茶を口にしている。
仙たちが口にするものを、ただの人間である天彦が口にしていいのか一瞬悩んだが、ここに来た時点で全てを天に任せたも同義。周りに倣い、天彦はお茶を口にした。
「――おいしい。このような美味なもの、初めて口にしました」
「まだあるから、じゃんじゃん飲みな~。期間限定の特別なお茶だからね」
「桃の葉を使ったお茶だよ。飲める人なんて滅多にないんだから」
「そろそろルールも理解した頃か。――一度でも自分の力で和了ることが出来たら解放しよう。それがこれからの勝負の条件だ」
牌を挟んだ指先がこちらに向けられる。
「誰も助言も手加減もするなよ。――こやつが持つ運否天賦がどの程度のものなのか、確かめてやろうじゃないか」
「運、ですか……」
何もない一般人牛飼いの男性の中に残されたものと言えば、天命か――。西王母は己の本質よりももっと深い部分を試そうとしているのだと、天彦は思った。
「はぁ~、なるほどねぇ。理解した」
「え? なになに、紅衣は分かったの」
「青衣は黙ってて。そのうち分かるわ。――じゃ、あとは頑張ってねー」
黄衣が自分の席を下げると、青衣と紅衣は静かになり先ほどまでの和やかな雰囲気は隠れてしまった。
「次はお前の番だ。さっさと自由になりたいのなら、ゲームを進めろ」
「……あの、織姫も自由にして頂けるのでしょうか」
「すべては天が知ることだ。お前は勝負だけ気にしていろ」
この場にあるのは四人だけとなり、春の穏やかな温かさを感じる空気が、なんだか冷えていくように感じた。
だが西王母の冷たい物言いに、終わりがあると示され希望が湧いてきた。
「天のみぞ知る、か。……どうか私と織姫をお守りください天帝よ」
両手を合わせ勝負の行方について天彦は小さな声で祈ると、弱っていた心に活力がみなぎるようであった。ひとりではないのだと、励まされる心地だ。
今日まで奇跡の連続を思えば、全ての運命を司る天帝が味方してくれていたのだろう。その加護に報いるためにも、勝負を諦める訳にはいかない。
「――皆さん、改めてよろしくお願いします!」
気合を入れ、山から牌を取ろうと天彦は手を伸ばした。
***
「……天彦っ!」
織姫がいた場所から天彦がいた場所は距離があった。ここまで案内してくれた仙女の示す先に、久方ぶりに見る恋人の姿が目に入る。
一体どれだけの月日が経ってしまったのだろう。別れた時よりも幾分か痩せてしまったのか引き締まった表情に、あの頃よりも頼もしい顔つきになっていた。優しかった目元は険しいが、遠く離れていても見間違えようのない姿に喜びが満ちていく。
「一体どうやって……」
「歩いてきたって」
「歩いて……?」
仙境と下界は地続きという訳ではない。迷い込む人間がたまにいると言うが、それも滅多にない。――目的をもって人がここに来るなど、不可能であることくらいは誰もが知っていた。
「きっと、大変だったでしょうに……」
長いこと己の不幸で零していた涙が、熱を持ち再び眼からぽろぽろと溢れ落ちていく。
「すぐに帰ると約束したのに、待たせてしまってごめんなさい」
届かぬ謝罪を呟き、ここまで来た彼の苦労に想いを寄せた。
仙境とは違い人の世は移ろいやすく、過酷な場所だ。そばに居られない間、何か彼に不幸があればと長いこと心を痛めていた。
涙を拭い、もう一度愛しい姿を見れば、二人の仙女と西王母が相席していることに織姫は気付いてしまう。
「……あそこで、何をしているの?」
「なんでか知らないけど、西王母さまがゲームをしようと誘っていらしたわ。人間がこんなところまで来るの珍しいからかしら」
恋人を想い、美しく頬を濡らしていた仙女は消えてしまった。
「早く行って驚かせてやりなさいな。あなたを牢に入れたことなんて、もしかしたら西王母さまもお忘れなのかもしれないし」
「……忘れて……?」
軽口で場を和ませようとしたのだろう。いらん話に織姫の情緒が乱され、闇のオーラを纏い始めてしまう。
「……私と、天彦の間を引き裂いておいて、ご自分は天彦とゲームをしているですって……?」
「感動の再会でもしてきなさいな! 後でどうなったか教えてね~」
ぼそぼそと小さな声で今までの怨念を呟く織姫の異変に気付かぬ仙女は、彼女の背中を押して邪魔しないようにとこの場を後にした。――背中を押すにしても、もう少し別のやり方があったのではないかと問い詰めたい。小一時間程、問い詰めたい。
そんな心配をよそに織姫はずっと握っていた杼を持ち直し、ふらりと四人が卓を囲う屋外座席へと向かって行った。
「許さない……、許さない……」
一曲再生が設定されたかのように同じ言葉を繰り返し、愛らしかった大きな瞳を今は真っ黒に染めている。深淵よりも深い闇に飲まれた目には、西王母の背が映されており、あの可愛かった織姫の様相はいまはどこにもない。恋人もすぐそばに居るというのに、取り繕う余裕もないということなのか、夢遊病患者のような不自然かつ不安定な動きでそちらに向かっている。
「……大切な人を守るためなら、邪魔なものは排除するしかないわね……」
行き過ぎた自己責任論である。自分の利を守ろうとするあまり、他を害したり、心に余裕を失ってしまう悪しき習慣だ。何事もほどほどが大事だし、もう少し周りを見る余裕を持つことが大切だろう。
そんな訴えも今の織姫には届かぬようで、まっすぐ四人の元へと近付いている。
「――っ織姫」
近付く彼女に、一番最初に気付いたのは天彦だった。彼女の名を呼び席を立つと、勝負の途中だということを思い出したのか、駆け出したい気持ちを押さえているようだった。
「天彦――、待っててね。すぐに終わらせるから」
名を呼ばれ天彦にとびきりの笑顔を送るも、心はここにあらずと言った様子だ。二人の仙女たちは久し振りに目にする織姫に、なんとなく違和を覚えるも、久し振りに恋人に会う織姫はこんな感じなのかと思うだけだった。
西王母は振り返ることもせず、捨てる手牌に悩んでいるようで、手にした牌をかつかつと並ぶ手牌の角にぶつけていた。
「ご無沙汰しております、西王母さま」
「お前には謹慎を言い渡したはずだ。なぜ勝手に出歩いている」
「なぜって? ただ閉じ込めておいて何て言い草――。……私が天彦と一緒にいるのがただ気に食わなかっただけでしょう?」
今まで見せていた笑顔が消え、織姫らしからぬ冷たい言葉に三人が驚いている。西王母はこの事態に気付いていないのだろうか。織姫もずっと握っている杼をどうするつもりなのか、ハラハラしながら事の成り行きを見守っているが、どうにも嫌な予感しかしない――。
「お前が禁を破ったがためにした罰だ。己の役割を忘れ人間にうつつを抜かすばかりで、自らの行いを省みない者には丁度良い」
「……反省? 反省ですか? 機を織れと言外に伝えていただけでしょうに。それ以外のことなど、私には無用と言わんばかりの応対……、苦痛で仕方がありませんでした」
牢の中でずっと泣いていた織姫の心には猜疑心と不審感、疑心暗鬼といった素直に物事を受け取っていた頃の面影は消え失せていた。
「織姫、つらい思いをさせてしまってすまなかった。君が私のせいだ」
「天彦……、あなたのせいじゃないわ。諸悪の根源はここにあるわ――!」
握りしめていた杼を振り上げ、西王母に振り下ろそうとしていた――。
「……ちょっと、織姫ッ! あなたなにしてるの!?」
するとその時、空が一気に暗くなり雷鳴が響いた。ピカリと空が光ると、滝のような雨が降り注ぎ、あっという間に膝下まで水が溢れていく。自動卓が流され、椅子や小机も流される中、大量の水に足を取られいろんなものが流されて行った。
「――織姫!」
雨水に浚われ、水没する織姫を追いかけるように天彦は手を伸ばした。激しい流れに阻まれ近付くことも難しいが、全てを飲み込み洗い流そうとする水流に、負けじと追いかける。
暗い気持ちに囚われていた織姫も、こちらに一生懸命手を伸ばそうとする天彦の姿に正気を取り戻し、彼のためにと手を伸ばした。
ここは仙境。下界と隔絶されたこの世界には、大嵐など意味なく起きることはない。何者かの意志によってこの嵐は引き起こされ、全てを仕切り直させるかのように押し流していく。
だが、西王母だけでなく仙女たちはこれくらいのイレギュラーに押し流されるような存在ではなく、またこの場にある邸宅もいかなる震災にも耐えうる強い造りをしていた。一瞬雨に飲まれそうになったが、それぞれが屋根の上まで避難していた。
「もう~、これはさすがにやり過ぎよ」
「こんな天気になるって聞いてないわー」
「服だけじゃなく私たちの家までこうなっちゃうなんて最悪~。どうなさいますか西王母さま」
「どうするもこうするも、この水が引くまで待つしかないだろう。――無責任に娘を憐れむばかりの能無しに、文句を言ってくれ」
皆羽衣で雨を避けつ屋根の上で並んで座ると、桃園も水没しており、多大な被害が生じているのが目に入る。
「あちゃー、桃ダメになってるかしら」
「仙の力が込められたものだ。そう簡単に痛んだりはしない」
「傷物でも、嵐に耐えた桃として縁起良さそうですよねー。プレミアでもつけて売っちゃいましょう」
「がめついこと考えるわね。ついでにマスコットキャラとかも作ってみるのは?」
こんな非常時でものんきな仙女たちを横目に、濁流に飲まれながらもこの場を離れていく影を西王母は見逃さなかった。
***
「……彦、――天彦!」
「おり、ひめ……」
新鮮な空気を得ようと、大きく息を吸い込もうとする天彦の口の中に、土臭さとじゃりっとした触感を感じ、むせて口の中のものを吐き出した。――濁流が身体の中に入っていたらしい。
吐き出そうとする身体と、息苦しさから空気を求める肺が相反し苦しい。織姫の手が背を叩き、優しく介抱される。
「危ないことに巻き込んでしまってごめんなさい。私、どうかしてた……。あなたの無事が一番大事だったのに、自分のことばかり考えて……、自分がなんなのか忘れていた……。……幻滅したでしょう」
背を叩く織姫の手が止まり、後悔に震える声が背後から届く。――周囲を見渡すとどこかの川のほとりか、何もない広大な闇が広がる場所へと辿り着いたようだった。いつの間にか夜になっていたようだ。
「――大丈夫だ。会える手段があると聞いて、来ただけなんだ。こうして無事に君に会うことができて、これ以上幸せなことはない」
呼吸をなんとか落ち着かせ、悲しみに暮れる恋人の手を取った。
「私も結局のところずっと、自分のことしか考えてない。君が何か罰を与えられるというのなら、私がそれを引き受けてやりたいと思うし、こうして泣いているのであれば、そばに居て慰めたいと思ってしまう。――出来ることならいつまでも一緒に在りたいと強く願っているよ」
長いこと牢でひとりで己の不幸について泣いていただけの織姫にとって、天彦の言葉はキレイで眩しすぎたすぎた。
「そんなことしなくていいの。あなたという存在が既に、私にとって過ぎたものなの……」
どれだけの時間が経ったのだろう。介抱していた天彦の手や顔に深く刻まれた皺、今にも折れてしまいそうな腕は骨張り、黒く艶のあった髪は白が混じり艶も失っている。声も徐々にしわがれ、かすれて行った。
彼は老いている。仙境という場所のせいか、先ほど流された雨のせいなのか分からないが、この地は彼にとって毒だったようだ。
彼に触れる己の手の変わらなさに、こんな儚い命に無理をさせてしまった愚行を織姫は悔やんだ。
「あなたのことを考えないばかりか、西王母さまに手を上げようとした――。こんな浅ましい私の事を、天帝もさぞお怒りになっていることでしょう。ですが彼は関係ありません。全ての責は役目を投げ、一時の感情に身を任せた私に罪があります」
弱っていく天彦を抱きかかえ、織姫は一心に天に祈った。
「だからどうか、天彦を連れて行かないで――。もう我が侭は言いません。今後は織女として役目を守り、ずっと機を織り続けることをお約束します――」
悲痛な願いが嗚咽に代わると、織姫を撫でようと天彦の手が織姫の髪に触れた。以前よりも弱々しい触れ方に、一層織姫が縋った。
『天彦、――人の身でありながら仙境まで訪れ、織女を想い凶行を止めたことに恩情を与えよう』
空を覆う暗闇から声が降って来た。聞いたことのない声でありながら、優しく冷たくなる心に沁み渡るような声だった。
『織女もまた、長年機を織り、数多の神仙たちに衣を用意してきた。――この功績に応じ、慈悲を与えよう』
腕の中にいた天彦に淡い光が集まった。消えないようにと彼を庇おうとするが、眩い光に織姫はきつく目を閉じた。
『だが此度の騒ぎと、織機の破壊、己が役目の怠慢について双方悔い改めよ』
腕の中にいた天彦に、織姫は力強く抱き返される。眩む目が何も映さないが、出会った頃と同じような力強さだ。
老いていった身体とは思えない強さに、幾度か瞬きをしていると、徐々に視界がハッキリとしていく。
「――うそ、一体どうして」
背に回される腕も、目の前にある顔も、どれもが出会った頃の天彦だった。先ほど目の前で老人となり、失われた時間に嘆いていたというのに、悪い夢であったのだろうか――。
「もう死ぬかと思ったのに、急に身体が軽くなって来た。しばし時間が貰えるというのであれば、これほど嬉しいことはない」
先ほど自分が老いていたことに気付いてないのか、天彦は先ほどと変わらぬ調子だった。
『織女よ、お前は先の場所へ戻り、壊した織機を直して仕事に戻るがいい。――天彦、お前は川向うの仙境で牛の世話ができる者を求めている。そこで新たな役目をもらい、務めに励むが良い』
新たな指令に二人が戸惑っていると、二人を流した川が光り、空へと場所を移していった。
『己の役目を果たした暁には、年に一度神仙の宴の日に会うことを許そう』
「――寛大な処置に感謝いたします、天帝よ」
織姫の言葉に、天彦も慌てて天に向かって感謝の意を表した。
「仙境で仕事……、ということは織姫の近くにいられるということだろうか」
「どうやらあなたは仙の力を与えられたみたい。――ずっと近くに居られるということね」
「その上、会うことも許されるだなんて――。なんという幸運……」
制約はあれど、離れ離れになることもなく、ずっと傍にいられるということに二人は喜んだ。
西王母暗殺未遂、仙女の闇落ち職務放棄など、数々の懸念がなくなった上、二人に安寧が訪れたことに天もにっこり。めでたしめでたし。
***
静かな庭園で二人、寄り添うように尽きぬ会話に花を咲かせていると、近くの楼閣から二人を眺めている人影があった。
「なにがめでたしめでたしだ。余計な世話を焼き、無用な混乱を招いた元凶、――天帝よ」
その人は西王母。宴席から一時離れ、息抜きしていたようだった。
「仙女たちを可愛がるのは構わないが、惑わせる上に影から出歯亀……。趣味が悪かろう」
手酌で酒を注ぎ、一気にあおると窓辺から離れた。
「聞こえないフリでもしているつもりか。あの二人に肩入れしすぎた結果、あんな洪水まで起こしてうやむやにして――。少しは反省しろ」
厳しい言葉を向けられ、天もしょんぼり。
だが天にも言い分があるのであった。
「言い分だと? 我が桃園を壊しただけに飽き足らず、他に文句があるというのであれば言ってみろ」
天彦に出した桃の葉のお茶、あれは神仙に出す品のひとつだろう。中に乾燥させた仙桃も入れてあってんじゃないのかい。
先に天彦を仙にしようとしたのは、そっちじゃないのかと、天は問い詰めたい。
「――さてな。適当な茶を振る舞っただけのこと。どうだったか忘れてしまったわ」
口元を扇子で隠し、西王母は宴席に戻っていった。
最後にケチをつけられた気がするが、二人の出歯亀をする気もないので、天も退出しよう。
これにて、二人の話はおしまいだ。この先も二人に幸あれと願っている。
「畏れ多くも申し上げます――」
深い藍色と暗黒色の空に、星々が煌めいていた。少し離れたところでこの日を祝う賑やかな宴の声がかすかに届くも、静かな儀式は誰の目に留まることはない。
雲ひとつない夜空の下で行われる宴も儀式も、それぞれが滞りなく行われている。空に流れる煌めく川と、周囲に広がる夜空が、退屈な時間を華やかな気分にさせるようだった。
「お約束通り、今年の務めを果たしました」
広々とした空間に鎮座する神籬の前には、お神酒やお榊、多くの供物が置かれている。もちろん、この日のために織られた彩り豊かな衣も供えられていた。
雅楽の曲がどこからともなく届き、賑わいもまたひとつ深くなる。
「今年もどうか、豊かな実りがありますように――」
出来るだけ心を込めて願おうとするが、早くこの勤めを終え、この場を後にしたいと思う気持ちがどこかにあった。
ゆっくりと、出来るだけこの気持ちが外に漏れ出ないようにと祈りつつ、静かに立ち祭壇を後にする。
お客人たちは酒や歌、舞に酔いしれ他の誰が何をしているかなど気に留めることはしないだろう。だが、万が一にでも声を掛けられてしまっては面倒だ。
なるべく気配を消し、中庭へ向かった。藍色の袍を身に纏う男性が、星々が集い白く空を二分させる白い川を眺めている。
「――天彦!」
灯篭に小さく足元を照らし、頭上に広がる星々を池に映す中庭が約束の場所――。彼は髪を高い位置でまとめ、暗い中でも優しい表情が見える。穏やかなに空を見ていた表情が振り返れば、熱を帯びた生き生きとした笑顔がまっすぐにこちらを視界に入れていた。
「織姫――、お疲れさま」
優しい声色に名を呼ばれれば胸の中がいっぱいになり、ただそばへと駆けつける。力強い両腕に抱擁され、再会を喜び合った。
「やっとこの日が来たのね。ずっと会いたかった」
「あぁ、一日と君を思わない日はなかった」
いつもと同じような再会の言葉しか出ないことに、互いに顔を見合わせ笑った。
一年に一度だけ、会うことが許された今日は七月七日――。会えない日が続こうとも、何度この日を迎えることがあってもお互いの気持ちは同じだ。
そう、何年経とうとも、何度でもこの日を迎えることだけが二人にとって何よりも望んでいたことだった――。
――と、非常に仲睦まじい様子だが、この結果は当然の帰結である。
天彦と織姫、いじらしいほど真面目で頑迷な性格に折り合いをつけた結果、一年に一度会うことが許された関係であった。
でなければ、天地は今頃どうなっていたのか――。
天ですら考えるのを躊躇するレベルだ。
***
最初はお互い一目惚れだった。仙女と人間、――決して互いに交わることのない宿世だというのに、気まぐれで立ち寄った川で二人は出会った。
ただ機を織り、仙女たちの衣服を用意するだけの役割を持った織姫と、ただの牛飼いとして真面目に働いていた天彦。日々仕事に身を費やすことだけが、二人にとっての全てであった。
それ以外に楽しみはなく、興味関心もなかっただけに、ただそこにいた他人に強く関心を惹かれたのは、同じ資質を感じ取ったからかもしれない。今まで気付きもしなかった足りないものを求めるかのように、二人は鮮烈に惹かれ合った。
「二人が出会えたのも何かの縁……、ずっと一緒にいましょうね天彦」
「もちろんだとも。生涯、君だけを愛そう織姫」
真面目な二人だ。これから共に家庭を築くことになっても、誰かの手本になりそうな堅実な家庭を作ってくれるだろうという淡い期待があった。端から見ても分かるほど相思相愛な様子に、天彦の近所の人間たちも微笑ましく幸せそうな二人を見守っていた。
だが、それまで仕事しかしてこなかった二人は、他者とは深く交流することもなかったため何かと加減が分からなかった。
「天彦のやつ、今日も休みか?」
「人生初の彼女だ。しかもあんな美人じゃ、ひとり家に置いておくのも心配になるだろうよ」
「よく仕事変わってもらってるし、多少は多めにみてやろうぜ」
天彦の周囲の人間は理解があった。長年一緒に育ち、ひたむきに牛たちの世話をし、周囲の人間に対しても常に誠実であったからだろう。今まで休みを取ることもしなかったため、理由が『彼女をひとりにできないため』というものであっても多めに見てもらえていた。
「毎日仕事には行こうとしてるんだけどよ~、見送りのときに彼女さんがだんだん涙目になっていくんだ……。ああいうのを放置しておけるほど、天彦は冷たい奴じゃないからなー」
「恋人が出来ると性格が変わるっていうけどさ、今までの性格がよりはっきりするって感じだよな」
長年の日課で天彦を迎えに行っていた幼馴染たちの言葉に、周囲が一瞬静かになった。
『いってくるよ織姫』
『いってらっしゃい、天彦。気を付けてね』
『誰が訪ねに来ても応対しなくていいから。私に用があれば、みんな牛舎に来るし、この時間にいないことは知っているから――』
『天彦は心配性ね。大丈夫よ、ここでの暮らしは初めての事ばかりだけど、あなたがいるからへっちゃらよ』
仙女であり機を織ることしか知らない織姫の身を案じ、あれこれと世話を焼く天彦に織姫は微笑ましいと笑みを送るが、互いの視線が交差すれば二人の表情がさっと曇る。だけど、そんな顔をして見送ることは出来ないと、すぐにぎこちなく笑顔を作ろうと取り繕うのが端から見ていて気まずい。
なんだよもう。似た者同士だからやること成すこと全て鏡合わせかのように同じ行動を取る二人に、外野はもどかしさマックスだ。だけど天彦から相談してくれなければ、ただのおせっかいで二人の仲を壊してしまいそうだから何も言えずにいた。
二人をどうにかしたいと身を乗り出さんとする者もいたが、ただおもちゃにして遊ぶだけなのは目に見えているので、仲間たちはそういう面倒な奴らを遠ざけた。
『――天彦、今日は人が足りてるし家のことしたら? ずっとひとりで暮らしてて、カノジョさんの身の回りのものもまだ揃ってないんだろ』
『あぁ、お前んちの牛も、今日は俺らが見ておくから』
『そんな――、みんなも自分の仕事もあるだろ。私の勝手で君たちの仕事を増やしては……』
『いいっていいって。たまには俺らに甘えてみてろよ』
『俺たち友だちだろ? 今度飲みながら二人のこと聞かせろよなー』
手を振り、離れがたそうにしている二人をそんな感じで今日も置いてきた。
「はー、俺も彼女欲しい~」
「おいおい、お前まで休みがちになったら困るぞ」
「その時は天彦に代わりに仕事してもらうからな」
連日の天彦の休みの理由をからかいながら、牛の世話をみんながしていた。
「あぁ、今日も行けなかった……。仕事を代わってもらってばかりで皆には申し訳ない」
「ごめんなさい、私のせいで……」
「……本当は、織姫と離れたくなかったから、みんなの申し出は有り難いと思っているんだ。そんなずるいことを考えてしまって、申し開きのしようもない」
「私も――、あなたと離れたくないと思ってた」
同じ気持ちだけに、どうしようもなかった。
今まで出来たことが出来なくなり、ひとりでも生きて行けたはずなのに、振り返ればどうしてひとりで平気だったのかと昨日までの自分の存在すら朧になる。
「まるで夢のようだ。都合の良いことばかり起きて、いつか醒めてしまうのではないかと思うと怖いな」
「……そうね」
同じ気持ちだから嫌でも気付く。天彦は人間で、織姫は仙女。
出会いは偶然だが、この先織姫を置いて先に逝くことになることは避けられないことだと――。
「そうだ、籍を入れましょう。私はあなたの、あなたは私の永遠の伴侶であることを公的に証明するべきだと思うわ」
「確かに……。互いの身を保証できるし、なんとも確実な方法だ。さすが織姫、私だけでは思いつきもしなかっただろう」
伴侶になる――。周囲の人間は、血の繋がらない誰かと一緒になるためにそういう選択をする。
この時代の役所にそこまでのことを期待出来るかはともかく、思い立ったら吉日と言わんばかりに二人は行動した。
「それなりに大きい街で良かった。でなければ役所に行くのも何日もかかっていたかもしれない」
「ついてるわね私たち。これは共にあるべきと、天の思し召しに違いないわ」
四六時中二人でいたため、ご近所だけでなく、道ゆく人たちにもすでに二人の仲は認知されていた。これが後の世で言うところの”バズ”である。ネットがない分人々の口で伝わり、真偽を確かめようと人が集まり、天彦の家の周囲では多くの人々が待ち構えていた。
「おあついねお二人さん、今日はどこ行くんだい?」
「籍を入れるため、役所へ行くところだ」
「へぇ! それはめでたいね!」
「結婚おめでとう!」「ようやく天彦にも春がきたんだ」「仕事人間だったお前にねぇ……」「織姫さんのこと、幸せにしてやれよ!」「こいつ真面目過ぎてのんびりしてるところもあるかもしれないけど、よろしくしてやってくれないか」
真面目な仕事ぶりから街でも評判の良かった天彦は、決して裕福ではなかったが人には恵まれていた。話を聞いた人たちもほぼ知り合いばかりだ。やいのやいのと祝福された。
「天彦はこんなにもいろんな方々から愛されているのね。――皆さん、ありがとう。この方のことを何があっても大切にすると誓うわ」
見た目は同い年ほどだが、生きた年数でいえば天彦の方がずっと短い。短い生の中で慈しまれて育った天彦の今日までの時の流れを感じ、周りの仙女たちがひとときしか咲かない花を愛で、瞬間的な想いを詩歌に乗せ、すぐに消える音に心を寄せる行為に意味を見出せなかった。
「――何かを愛でるとはこういうことなのね」
「あまり周りの言うことを本気にしないでくれるか。私が子どもの頃からつまらない人間だと知っているから、半ばからかいのようなものだ」
祝福と一緒に要らん世話を焼かれたことに気恥ずかしい気持ちの天彦とは違うものを見ていたが、二人でいる時には見れない姿に織姫はくすりと笑った。
何気ない瞬間ですら、愛おしい。
だが、この幸せは長くは続かなかった。
「あー……、悪いけど、仙人と人間は籍を入れるのは禁じられている。こんなものを書いたところで受理することはできない」
婚姻届に署名し、道行く人に頼んで証人のサインまで貰ったのに、役人は気まずげに突き返した。
「そんなこと、どこにも書いてないじゃない」
「そんな……、法律で決まっているとでも言うんですか」
「だいたい人間か仙人か書く欄だってないじゃない。見た目だけで判断するなんてひどいわ」
「……法律で決まっているわけじゃないが、少し考えればわかるだろ」
この役人も天彦のことはもちろん、織姫のことも知っていた。大きな街とはいえ長年ここで育ってきただけに様々な噂を耳にし、――彼らよりも知っていることが多いだけに事務的な返事しかしない。やり場のない思いを冷たい態度に乗せることしかできなかった。
「いつ誰がどのように決めたというの。そんな話知らないわ」
「……本当にあんた知らないのか? ――こっちとしては上の連中に睨まれたくないんで、悪いけど諦めてくれ」
用紙を突き返し手で追い払う仕草をすると、役人は受付から去っていった。少なくない人数がこの現場を目撃するが、彼らも役人の言葉を理解したようで、二人が視線を巡らせるもの目を伏せ避けていく。
「……そんな、好きな人と一緒になることも出来ないの?」
「きっとなにか方法はあるさ。今日は帰ろう。――どうも世話をかけたね」
落ち込む織姫を支え、天彦は役所を後にした。
この時代、仙人と人間が一緒になることを快く思わない方がいた。その方は仙女たちの管理者、西王母。――仙女たちを取りまとめる立場でありながら、神秘の力を秘める桃を護る桃園の女主人である。
女主人と言っても、元は人頭半獣と人から掛け離れた姿をしており、長い時を経て麗しい女性へと姿を変えた存在だ。見目の美しさに気を許せば、たちまち獣の如き残虐さで相手を誅するだろう。
この件に関し、織姫が思い当たることはなかった。
なぜならただひたすらに仕事に打ち込み、よそ見もせず、無駄な考えなどに思いを馳せることもなかったザ・職人気質の真面目な仙女だったため、世間のことに非常に疎かったのだ。
「いったいどうしたら……」
フラフラと気落ちしながら歩いていくと、ふと出会った川に辿り着いた。あの時の鮮烈な出会いに二人は顔を合わせたが、その気持ち虚しく、二人は『一緒になれない』という悲劇にただ打ちのめされるだけだった。
河原で並んで座り、日が暮れ朱色に染まる空を二人で眺めた。
天彦もまた、織姫と同じく今日まで仕事に打ち込み、老いた両親のため、仕事のため、仲間のためと真面目に愚直に働いてきた若者だ。織姫同様、世の常識にとても疎かった。
気も合いお似合いの二人ではあったが、それを上回るレベルで人生の経験値が浅過ぎた。脇目も振らず、他の趣味もなく交流もしない生き方は、反省の余地があるかもしれない。
言葉なく座る二人の悲しみに、空も色を変えていく。太陽が地平に溶け、宵闇が天空を覆う頃、星々が二人を慰めようと顔を覗かせた。
「――そうだ、人と仙女の婚姻がダメだと言うのなら、あなたも仙人になればいいわ。ずっと一緒にいられるし、誰もがきっと反対することもないでしょう」
「そんな方法が……! 一体どうしたら私も仙人になれるだろうか」
ぱっと二人で立ち上がり、手に手を取り合い喜んだ。
「私の住んでいる地に桃があるの。沢山生っているのだけど、三千年に一度生る桃を食べれば仙人に、六千年に一度生る桃を食べれば不老長寿が得られるの」
「それは……、とても貴重なものなのではないか」
「たくさんあるし、宴で西王母さまがお客人に振る舞っているわ。おもてなしに使うものなのだから大丈夫よ」
名案とばかりに喜びを表す織姫の感情が、繋いだ両手に伝わってくる。ただの人でありしがない牛飼いでしかない天彦には、仙女たちの宴という言葉に畏れ多いものだと思ったが、恋人の愛らしい姿に微笑ましい気持ちになる。
「きっと西王母さまにお頼みすればあなたにも分けて貰えるわ。今すぐにでも行ってくるわ」
判断が早い。
「今から?」
「えぇ。すぐに戻るから心配しないで」
そう言って天彦の手を離し、仙女の織姫は元いた世界へと帰って行った。無駄な考えなど最初からない、合理的かつ無駄のない動きだ。仕事のできる人は得てしてこうなのだ。
だが、これは青天の霹靂である。
織姫の言う神秘の桃は確かに客人に振る舞うような代物だが、饗応に招かれるのは神仙の類だ。
決して人が口に出来るものではなく、そんなことを許すこともしないだろう。また、理由が理由なだけに、頼む相手も非常にまずい。
織姫とて桃園の宴に招かれる身分だが、周りに人間はいなかっただろうと懇切丁寧に問い詰めたい。周囲に興味関心がなかったせいで気付かなかったのかもしれないが、もっと心を開いて周囲を見渡しておくだけの興味関心は持っていて欲しかった――。
「――天彦」
ひとり空を見上げ、消えて行った恋人の姿を探す青年に呼びかける声があった。その声に周囲を見渡すと、
「どうしてここに牛が……? まさか脱走してしまったのか」
天彦の牛がいた。濃い褐毛はこの辺りで飼われている種類で、短い角は年季の入った色をしている。長いこと世話をしているので見間違えるわけもなく、あたりを見回しても誰もいないことから連れられてこられたわけではないようだ。
ただ一匹ここにあるだけだった。
「……もしかして、連日お前の世話をしていなかったから怒っているのか」
じっと黒い眼に見つめられれば、連日の己の怠慢を思い出し、すまないと謝ることしか出来ない。手を伸ばし、久方ぶりに自分の牛に触れる。父が存命だった頃から飼っている牛だ。手に触れる手触りは昔に比べれば硬く、みずみずしいとは言えないだろう。
老齢なため既に役目を終えさせてもいいのだが、たったひとりの家族でもある。
「……だというのに、お前の世話もせず近頃は自分のことばかり。最後まで面倒を見るつもりだったんだが、お前が怒るのも仕方ないだろう」
「怒ってここに居る訳ではない。お前に話があるから来たんだ」
また誰かの言葉が聞こえ、周囲を見渡す。――誰もいない。
「……昔、この川が氾濫して多くの死者が出たが、まさかその時の……?」
「まだ死んではいないし、幽霊でもない。――ここだ、天彦」
霊でも化けて出てたのかと身の毛もよだつ想像に足を竦めていたが、手を乗せていた牛の頭が大きく揺らされる。
「お前を呼ぶのは、私だ」
「……………………牛が、しゃべった……」
あまりの出来事に腰を抜かし、天彦はその場に尻から倒れ込んだ。
「夢でも見ているのか……。織姫がここに居たのも、もしかして夢だった……?」
近頃現実離れした出来事が多かった。よく使っているこの川のほとりで、たまたま仙女に会ったことも、互いに好いて一緒にいるようになったことも、自分を想い夢のような効果のある桃を得ようと消えるようにあっと姿を消していった恋人も、自分の世話している牛がしゃべるのもどれもが想像を超えている。
こんな不可思議なことがいくつも起こるなんて――、
「ははっ、――もしかして死期が近いのは私だったのか」
「現実逃避している場合ではない。お前に話があるからここまで来たのだ」
身体の向きを変え、顔の前に自分の牛が立った。
「このままでは、織姫もお前も無事では済まない。話を聞いてくれ」
現実味はなかったが、真剣な牛の言葉に天彦は、少しだけ正気を取り戻した。
***
桃園を望む楼閣の一室、大きな窓から柔らかな晴れた空が見え、桃の花の香りがふんわりと部屋に届く。
「今までどこに行ってた織女、皆がお前を探していた。……お前が不在にしていたせいで機を織る者がなくて、着れる服もなくここはひどい有様だ」
織女とはここでの織姫の呼び名だ。機を織り、仙女たちの衣を作る、それが自分の役割だったためそう呼ばれている。久方ぶりに呼ばれる名に身を正し、両手を合わせ桃園の主、西王母の前で両膝を床につけ首を垂れた。
西王母の他、数名の仙女たちが彼女の世話をしていた。おしゃれ着洗いも手でやらねばならないこの時代、織姫の織る繊細で美しい布で出来た衣はすぐにダメになってしまう。おかげで彼女らが身に着けている服も、彼女らの美しさを支えきれず、目も当てられない事態だ。特に予定のない日で良かったと言えるだろう。
「外出しておりました」
「外出って……、なにか素材でも取りに行ってたのか? せめてどこへ行くか、誰かに伝言くらい残しておくべきだろう」
「初めての外出でしたので、勝手が分からずすみません」
「……初めてでは仕方がないか。だが、どうして外へ行ったんだ。誰かに言えば何でも揃うというのに、何か用があったというのか」
「用……? そういえば、どうして私は川へ行ったのでしょうか」
ふと、織姫は不思議に思った。織女として、ここで機を織るのが自分の役目だというのに、――どうしてあの日下界にある、あの川へ行ったのだろう。
「――誰かに言われたのか?」
「いいえ……。行かねばならない用があったはずなのですが、何故でしょう……、理由を忘れてしまったようです」
「……用がなくとも、気分転換に外に行くのは悪いことではない。だが、何日もここを空けていたのはどうしてだ。帰り道が分からなかったのか」
ここの仙女たちは風に舞う花弁のようにつかみどころのない者が多い。西王母も覚束ない織姫の様子に呆れてはいるが、他の者同様この子もそういう性格だと分かれば怒る気力も湧かなかった。
気まぐれな風に吹かれ、初めての外出に心躍らせていたのかもしれない。
勝手が分からないのなら次からは同じ過ちを冒さないよう、織姫の不在について問い詰めていく。
「いいえ、西王母さま。下界で出会った人間、――天彦と暮らしていました」
織姫の言葉に穏やかな時間が終わる。柔らかに晴れていた空は遠く、風に乗って届いていた匂やかな空気も冷え切り、西王母は般若も逃げ出すほどの恐ろしい表情へと代わっていく。
そんな場の空気に気付かぬ織姫と、仕事一徹だった彼女の話に他の仙女たちが浮ついた。
「うそー、どこで出会ったの?」
「織姫ってばやるじゃん」
「そんなことになってたなんて! 隅に置けないわね」
「彼どこ住み? どんな人? ラインやってる?」
「私たちに相談してくれればよかったのに。アドバイスならいくらでもするよー」
わらわらと彼女の周りに集う仙女たちも、西王母の怒りの気配に気付かず盛り上がっている。
「優しくて笑顔が素敵な人よ――。いつまでも一緒にいたいと思うのだけど、彼は人間だから……」
「人間かぁ。寿命短いもんね」
「生まれが違うとどうしても、ねぇ」
「石にでもして鑑賞用に置いておけば? そしたらずっと傍にいられるもの」
「それではお話が出来ないじゃない……」
「意外といけるわよ。史記にもそう記されているわ」
「話盛り過ぎ。織姫、この子の言うことは忘れなさい」
「――お黙りなさい!」
ぴしゃりとはしゃぐ仙女たちの背後で、西王母の厳しい一声が響く。
「言うに事欠いて、人間と暮らしていただと――? 誰の許しでそんな勝手をしていたんだ」
「……お許しは頂いていませんが、気の合う他者と一緒にいることは悪いことなのでしょうか」
怒りを露わにする西王母に、周りは非難めいた視線を送るが、彼女の怒りは全てを振り払って行く。
「みだりに人間と交わるなど言語道断――。職務を放棄し、許可なく人間と関わりを持った罰としてしばらく牢へ入れ!」
「お待ちください、西王母さまっ」
一喝する言葉に縋るも虚しく、振り払う手が織姫の顔に当たりパシンと音を立てた。
初めて怒られ、初めて叩かれた。そんな衝撃に、織姫はただ茫然とするしかなかった。
「私の許しがあるまで、決して織女を出すな――。お前たちもこれを機に、人間などと関わりをもつだなんて馬鹿な考えを持つなよ」
じんじんと痛い熱を持つ頬に触れれば、西王母の命で織姫は両腕を仙女たちにとられ、暗い牢屋へと連れて行かれた。
「ごめんね、織姫」
「……ただ、一緒にいたいと思っただけなのに」
「しばらくすれば、西王母さまもお忘れになるわ。ほとぼりが冷めた頃に、出してあげるから今は大人しくしていてね」
がちゃんと閉じられた檻の向こうから、織姫を憐れむ仙女たちが励ましの言葉を掛けた。
「――ほとぼりが冷めた頃って、いつなの?」
「それは……」
「私たちには時間があるけれど、天彦は――? ここと天彦のいる場所は時間の流れが違うでしょう?」
青ざめる織姫の言葉が、自分の心に刺さり不安が加速しているようだった。
「一分一秒がどんどんずれていく……。少しお願いして帰るつもりだったのに――、天彦」
「織姫……」
「……お別れも言えず、このまま終わってしまうの――?」
大粒の涙が零れ落ち、さめざめと泣く織姫へと掛ける言葉を失くした仙女たちは伝えるべき言葉を持ち合わせておらず、ただ静かにこの場を後にするしかなかった。
***
織姫と出会う前はそれなりに幸せだった。理解ある隣人に恵まれ日々食うものに困らず、仕事があるだけの日々だったが、怪我も病気もなくここまでこれたのだから、これ以上良いこともないと思っていた。
最後に触れていた手の感触を思い出す。
小さく細い指に、笑顔の愛らしい笑顔の素敵な人だ。機の前に座れば、伸びる背筋に機敏な手つき、足さばきは目を見張るものがあった。彼女が長い年月機を織り続け、ひとつの仕事に向き合い続けてきたことがその小さな背に見えるようであった。――そんなひたむきさも素敵な人だと思っていた。
彼女のようにひとつのことを極めることもなく、何か大きなことが出来る訳でもないが、ただ共にあれるだけで幸せだと言う彼女の声が、仕草や表情、言葉のどれもが大切だ。
だから機会を与えられた今、腹をくくらねばならないだろう。
「――ここが、桃園か……」
決して人が入り込むことは出来ない桃園に、天彦は到着した。――老齢の牛が自らの命と引き換えに、与えてくれた|機会《》だった――。
『私は間もなく天命を全うする。死んだら私の革で靴を作り、仙境へ行きなさい』
『天命を全うするって……。それに仙境など、話には聞いたことはあるが一体どうやって――』
抜けた腰はまだしっかりしなかったが、突然の告白や指示に驚くばかりで、地面に手をつく天彦はうまく受け取れずにいた。
『気にするところはそこではない。いいか、天彦。――織姫は牢へ入ることになるだろう。西王母は規律に厳しいお方だ。お前と付き合っていたと言う話を聞けば織姫はもちろん、天彦、お前にも罰が下るだろう』
『確かに……、向こうの親御さんに挨拶もせず、彼女を引き止め続けていては不興を買ってしまうか――。どうしてそんな当たり前なことに気付かなかったんだろう』
少々意味合いは異なるが、ある意味近い理由かもしれない。
己の落ち度に落ち込む天彦を横目に、牛は咳ばらいをした。
『このままここで裁きを待つだけでも構わない。だがもしお前に勇気があるなら、仙境へと赴き、西王母に相まみえるといい。すぐに許しは得られなくとも、ここで何もせず待つよりもずっと有意義だろう』
一介の牛飼いに背負わせるには少々荷の重い話だろう。偶然会った惚れた相手が仙女だったため、起きた不幸な事故だ。織姫に出会うことなく普通に暮らしていれば、普通の幸せに普通の天命が待っていたはずだ。
こちらの思いとは裏腹に、天彦は立ち上がり服についた土を払った。
『どうしてこんなことになっているか分からないが、大事なことを教えてくれてありがとう。……だが、お前がもうすぐで死んでしまうとは……』
『天命だ。お前が気に病むことではない』
牛は天彦の手に鼻先をつけた。甘えるような仕草に、長いこと世話していたときのことを思い出した。
『――不真面目な飼い主ですまなかった。最期まで心配をかけてしまったな』
きっと己の怠慢を見かねて、最後に諫めにきたのだろう。奇跡のような出来事を引き起こすほどの切実な訴えだ。――天彦はこの牛の言葉を、強く噛み締めた。
甘やかな桃の香りが漂い、優しい風が肌を撫でていく。石でできた道を辿り人を探す。
織姫が言っていた通り、桃の木がたくさん生っている。大きな実もつき、熟れていそうな見た目をしているので、きっと彼女が言っていた場所はここで違いないだろう。
「ごめんください。どなたかいらっしゃいませんかー」
気付けば敷地内にいたため、不法侵入であることは自覚していた。都にありそうな立派な建物が視界に入るが、それ以外にめぼしいものはないため、出来るだけ大きな声で人を呼びながらそちらへと向かう。
「迷子かしら」
「こんな場所にどうやって来たの? ……もしかして人間?」
声の方を振り返れば、桃の木の間から数名の着飾った女性たちがこちらを見ていた。――織姫と同じような衣を身に纏っているが、同じ姿はない。
その事実に肩を落とすも、牛が言っていた言葉を思い出し毅然と振る舞った。
「初めまして、私は天彦と申します。こちらにお住まいの織姫と、――交際している者です」
「えぇ! あなたが?」
「うそー、ここまで来たんだぁ。やるじゃん君」
「へ~何の仕事してんの? 年収は? インスタやってるー?」
「あなたっていくつなの? 年の差とかあんま気にならないタイプ?」
距離を取っていた仙女たちは一気に天彦の周りに集まり、好奇心のままに質問攻めにした。だが、仙女たちの言葉の意味が分からず、天彦はただ戸惑うことしか出来なかった。
「申し訳ありませんが、――織姫がこちらに戻って来て三年が経ちますが、今どうなっているかどなたかご存じないでしょうか」
すぐに戻ると言っていたが、牛の忠告通りならまだ捕らえられているのだろうか。天寿を全うした牛を供養し、彼の革を鞣し身の回りを整理してここまで来た。
織姫が姿を消したことはすぐに周りに伝わった。だが天彦の様子も一気に変わり、多くを語らぬが並々ならぬ決意を感じた友人たちは、何も言わず見送ってくれた。どこへ行くかも伝えなかったが、戻らぬ覚悟でいることは分かっていたことだろう。
いつどんな裁きが下るかと日々覚悟をしていたが、その気配は一向にない。
「織姫が何か罰を受けているというのであれば、彼女を引き留めていた私こそ罰せられるべきでしょう。――どうか西王母さまに会わせて下さい」
しがない牛飼いの天彦が出来る、精一杯の誠意だった。真面目で愚直、欲目もない青年だ。仙女たちも彼の覚悟をくみ取ったようで、覗かせていた好奇心を仕舞った。
「……西王母さまは私たちにはお優しい方ですが、あなたに対しては厳しいご判断を下されるかと」
「構いません。元より織姫と出会えたことが身に余る幸せでした。これ以上を望めばバチが当たるというものです」
すっきりとした表情に浮かんだ表情が、桃の花弁のように瑞々しく咲き誇るようであった。
***
一方その頃、職務怠慢規律違反で捕えられていた織姫は、相変わらず牢に入れられていた。
無風流な石造りの牢には冷たい鉄檻で外界と仕切られ、唯一外の光が差し込む小窓は位置高く小さい。手も背も届かぬが、微かな風と慰めるような花の香りがそこから届くばかりであった。
牢の中には寝床と機織り機、簡素な机と椅子があるのみで、使われるのは寝床だけ。そこでさめざめと己の不幸を嘆き悲しむ姿があるだけで、機織りの音ももうずっと、この仙境で聞こえることはなかった。
始終こんな調子なものだから、仙女たちは相変わらず着るものに困り、使える布を継ぎ合わせ、パッチワーク的ファッションが流行の兆しを見せていた。あけすけに言えば、それ以外なんもならなかったとも言えるだろう。
仙女とは言え年頃の女性ばかりだ、この有様に天も心を痛めていた。
「織姫――、織姫ってば私の話、聞いてるー?」
気まぐれに牢へ訪れる仙女たちがいた。西王母に見つからぬようこっそり訪れては、泣くばかりの織姫を慰めるかのように話かけていた。
「この前みんなで作った長裙でファッションショーしたんだけど、どれもひどくて面白かったんだから。織姫もあれみたらきっと大爆笑してたわ」
その時のことを思い出しながら、大きく開きそうになる口を隠して笑う仙女にも反応を示さず、織姫はひとり己の不幸に泣いていた。
「……毎日そんなに暗くて飽きないの? 一体いつまで泣いてるつもり」
何の変化も見せない織姫に、業を煮やした仙女は檻から離れた。
「こんな生産性もないことばかりしてないで、どうしたら西王母さまのお気が変わるだとか、別の楽しいこととかを考えていた方がよくない? それにあなたが泣いてばかりで、私たちも着るものに困ってるの。――少しは手でも動かして、心変わりしたってアピールでもした方がずっとマシだと思うけど」
長いことまともな服も着れない鬱憤と、良かれと思い会いに来ているのに、その気遣いに見向きもしない織姫に不満をただぶつける。一度口から不満が出てしまえば、言うつもりのなかった言葉がずるりと現れる。
嫌な気分と一緒にこの場に置いて去ると、さめざめと寝床に顔を埋めていた織姫はふと顔を上げた。
「………………別のことを考える……」
誰もいなくなった場所を見回すと、長いこと触れていなかった織機が目に入った。
ずっと織姫と共にあり、長い間たくさんの布を織ってきた。ふらりと立ち上がり、誰かが動かさねばなんの意志も見せない木製の織機。触ればこれに夢中になっていたのは遥か昔のように思えた。
「……これを動かす以外のことを、なにも知らなかっただけ」
むしろ織女として、機織り機を動かすだけに存在していることに気付く。
「ここにいる誰もが自分たちのことしか考えてない……。私のことも、天彦のことも、どうでもいいんだわ――」
ピンと張られた経糸へ、杼に緯糸を幾重にも巻き、何度も往復させ布にしていく。
足で経糸を動かすも、杼と同じく何度も同じ場所を往復するだけの日々だった。――それ以外何もない。
「ここに顔を見せに来る他の子も、結局自分がしたい話しかしない……。誰も天彦のことも、私のことも心配をしてる訳じゃない――」
木製の堅いフレームに沿わせた手に力を込めた。
「こんなものがあるから、私は織女以外の何にもなれない、……何処にも行けない――。どうしてもっと早く気付かなかったのだろう」
力を込めた指先で織機を持ちあげ、鉄織に向かって投げ捨てた。一般人にはできない所業です。決して真似しませんように。
大きな音を立て、木造りの織機はバラバラに砕け、鉄織は衝撃に耐えかね飴細工のようにぐにゃりと歪んだ。
「……欲しいものは、壊して奪えばいいのよ……」
歩き出すと、足先にカツンと何かがぶつかった。カラカラと石床を転がり、がれきにぶつかると緯糸が巻かれた杼だった。
拾ってみれば、良く手に馴染んだ大きさだ。何年も一緒に会ったものだから当然と言えば当然だ。
だがそれを見つめる織姫の目は暗く虚ろで、仙女らしからぬ闇のオーラを纏い始めてしまった。
織姫には機を織り、神仙たちの衣服を作る以外にも、人々のために豊穣の祈りを捧げる役割を持っていた。
長年己の役割に努め、人々に多くの実りを与えてきた。――だからこそ、この織姫の決断は想定外だ。
織姫は破壊した牢からふらりと退出し、虚ろな眼差しでどこかへ向かって行った。
一体何をするつもりなのか、――仙女の闇落ちなど前代未聞だ。
織姫が己の役目を降りるとなると神仙だけではなく、豊穣の祈りを捧げる者もなくなり、人々の未来は暗いものになるだろう。
一体どうしたら良いのか――。
***
桃園から離れたところにある庭園に案内された天彦は、大きな池に面した建物の中、背もたれ付きの欄干に上半身を預け、気怠げに座る西王母に相まみえることとなった。
両手を合わせ片膝をつき、敵意も邪心もないことを垂れた首に託していった。
「お初にお目にかかります。私の名は天彦、しがない牛飼いをしておりました」
「人間風情が、――ここへはどうやって来た」
ここまで案内してくれた仙女の他、桃園の主と共に侵入者がどのようなものなのかと見に来たようでたくさんの仙女たちがここにいた。
初めは美しい女性たちに囲まれ居たたまれない天彦だったが、冷たい西王母の言葉に背筋を伸ばした。頭の先から足の先までつまらないと言わんばかり態度だ。卑近なものでしか例えようがないが、大切な娘をか拐かした相手を許さぬ親のようなものだろう。
これ以上粗相をやらかしてはダメだと、己に言い聞かせた。
「歩いてきました」
「……歩いて?」
天彦の言葉に仙女たちがざわりとささめいた。
「はい。織姫がこちらへ帰った際、長年世話をしてきた牛が申したのです。己の革で靴を作れと……。それを履けば、この仙境へたどり着くことが出来ると言われ、この度参じた次第です」
「牛が?」
「話盛り過ぎ」
「さすがにそんな話じゃ納得できないって」
「こんな時に嘘を吐くなんて……、ないわぁ~」
「織姫も見る目ないとしか言いようがないわ」
仙女たちの非難の声に動じることなく、首を垂れたままの姿勢で天彦はじっとした。自分のせいで織姫を悪く言われることに心を痛めるが、そうさせてしまったのは己の落ち度だ。
「信じて頂けないことは重々承知のこと。ですが、なにひとつ嘘偽りはありません」
毅然とした天彦の態度に、彼を軽んじていた仙女たちが口を閉ざした。
「既に親もなく、ひとり牛の世話をするだけのなにもないつまらぬ人間です。織姫はそんな私をただ憐れんで共に居てくれただけ……。もし彼女になにか罰をお与えになっているというのであれば、彼女と同じように罰を私に――。いえ、皆様が相応しいと思うだけの罰をお与え下さい」
ここにいる仙女に比べて、天彦はずっと弱く脆い生き物だろう。有限の生になんの奇跡も起こせぬ身体、地に足をつけ一歩一歩進むしかないただの凡俗だ。
人では起こしえぬ奇跡の業を持ち、長い生を与えられ、天のために尽くす使命を与えられた仙女たちとは、到底相交わらぬ存在だ。今こうやって会話をする時間を与えられているだけでも、天彦はいまだ尋常ならざる機会に恵まれているのだと己を鼓舞した。頑張れ天彦、負けるな天彦――!
「ひとつ問おう。織姫が下界に降りたとき側にいたそうだが、何か用があってそこにいたのか」
「はい……? ……いつもそこで牛たちに水を与えておりました」
思わぬ質問に顔を上げそうになったが、姿勢を崩さず首を垂れ続けた。事実確認というものだろうか。
「顔を上げよ。――お前の望み通り罰を与えてやる。お前たち、アレの用意を」
「アレって、……もしかしてアレですか?」
「四の五の言わず早くしないか。あと紅衣、青衣、お前たちも参加しろ」
名を呼ばれた仙女たちが「はーい」と緩やかな返事をすると、西王母が立ち上がった。
「場所を変える。ついてこい――」
西王母の声に周囲の仙女たちが忙しなく動き始め、一足先にこの部屋を後にする西王母の背中を慌てて天彦も追いかけた。
「到着するまでにこれを読んでおけ。どうせ何も知らないのだろう」
近くにいた仙女に何か渡すと、その手に渡されたものが天彦の目の前に差し出された。恐る恐る手に取ると本のようだった。
和紙とは違いつやつやと手触りの良い表紙に、小口も切り揃えられたなんとも上質な冊子――。
「西王母さま、私は手積みでやりたいですわ」
「えー、混ぜるの大変だから自動がいいー」
「……た、大変申し訳ないのですが、私は育ちも良くなく――、字が読めないため、こちらになんて書いてあるのかが分からないのですが……」
気まずい告白に側に居た仙女たちが一斉に振り返った。居たたまれなさから天彦の耳まで赤くなるが、どうしようもなく事実なので早めに確認するべきだろう。
「これから、一体何をされるのでしょう」
「絵を見ても分からない感じ?」
「もしかして遊んだことがない系?」
「黄衣、そやつにこれから何をするか、一から教えてやれ」
「はーい」
西王母の指示で別の仙女が傍に来ると、さっさと西王母は歩いて行ってしまった。
「これからねぇ、楽しいことするんだよ」
何が起こる変わらない不安に心が弱くなるのを感じる。いかなる責め苦でも受けるつもりだが、それでも目の前に崖へ飛び降りるための路が見えてしまえば、足も竦んでしまうというものだろう。
怖気付く心が、周囲の仙女たちの笑顔を恐ろしいものにした。
「そっちじゃ流行ってないの麻雀って」
「ま、まーじゃんとは、一体……?」
「その反応、超初心者じゃん」
「なら自動卓一択ね。初心者に山積みさせるの大変だし」
「仕方ないなぁ。ここに役一覧が載ってるから、簡単な役だけ覚えておこうか」
彼女らの勢いに流されるまま背を押されると、庭に面した長い屋根で日陰の出来た屋外座席に到着する。庭が良く見える場所で、ひとつの小さな四角い卓があり、四人が囲って座れるよう椅子が並んでいた。そのひとつに座る西王母は、手元の牌を確認している。
「早く席につけ。さっさと始めるぞ」
***
ふらふらと覚束ない足取りの織姫は、人気の少ない場所を歩いていた。牢から脱獄したものの、天彦の到来により仙女たちが西王母のそばに集まっていたため、誰もこの異変に気付くことはなかったのだ。なんて都合のいい――。
この荒んだ織姫を元に戻したいところだが、仙女が闇落ちするなんてこと、古事記にだって書いてないだろう。なんの対処も思いつかなかった。
「……待っててね天彦、邪魔な人は全員消していくから……」
物騒なことをぶつぶつと呟いていた。せめて大切な桃を盗み、この場を後にでもしてくれれば、後は適当にお茶を濁して済ませることも出来ただろう。明確な殺意を持ってどこかへ行こうとしていた。
デスゲームものは回避したというのに、これから世にも無意味な復讐劇でも始まってしまうと言うのか――。
「織姫! なんで牢から出てるの!?」
パタパタとあまり早くなさそうな駆け足で近寄る者あり。乱れた髪の間から暗い眼差しが彼女を捕らえるも、駆け付けた仙女は織姫の様子に気付かず、息を切らせて近くへ寄った。
「もしかして誰かに教えて貰ったの? あなたの彼、――天彦だっけ?」
嬉しそうに破顔する相手に、何故その名を口にするのかと織姫にどす黒い感情が目から光を遠ざけて行く。手にした杼がふるふると震え、暗い感情が手に押し込められているようだった。――頼むから何事も起きないでくれと祈るばかりだ。
「さっきここに来たわよ! あなたのためにここまで来たんだって!」
「……天彦が?」
「牛に助言されたとかなんとか言ってたけど、彼って天然? 現実離れしてるところは心許ないけど、すっごくいい人ね」
恋人を褒められたおかげか、暗く濁っていた織姫の瞳に光が戻った。
「……いま、どこに」
「あっちよ。早く会いに行こ!」
手を取られ、パタパタと織姫を天彦のいる場所へと仙女は連れて行った。
***
「ほら今よ、鳴いて!」
「え、えっと、……同じ柄が二枚あるから、――ポン!」
「そんな安手ばかりじゃ、数勝たなきゃ意味ないわよ。リーチ」
「でもゲームは楽しくないと。――ロン」
「ちょっと!」
なぜ女性陣に囲まれ麻雀をやっているのか天彦は困惑していた。細かなルールは難しいが同じ絵柄を順番に並べたり、揃えたりする遊戯だと教わった。黄衣と呼ばれていた仙女が横について、あれこれと助言してくれるものの、この儀式にどんな意味があるのかと天彦に緊張が続く。
周囲の和やかな空気を乱すことも出来ず、これが今自分に与えらえれた罰だというなら、黙って引き受けるべきかとも言葉を飲んだ。
今のゲームが終わり、手元に集めた牌や捨てた牌を中央の穴へと押し込んでいく。じゃらじゃらと鳴る音に、魔除けの意味があるとも言われているが、別に今はそういう理由で麻雀をしている訳ではないようだ。
賑わう仙女たちに馴染まず気怠げな態度で、目の前に詰まれた牌を確認する西王母。――一体何を考えているのか不明であった。
最初集まっていた仙女たちは、長い勝負に飽き飽きしたようでこの場にいるのは五人だけ。
「ねぇねぇ、これいつまでやるんですか西王母さま?」
「私が満足するまで付き合ってもらう」
ここに到着してから、いくつも親を変え、場を変えてきたが日は暮れる様子はなく、一体どのくらいの時間が経っているのか分からなかった。
「天彦これ飲んでいいんだからね。遠慮してる場合じゃないよ」
「あ、ありがとうございます――」
それぞれの椅子の横に飲み物とちょっとつまめるような軽食も用意されているが、勝手に手を伸ばすことも阻まれた。
どうぞと差し出されたのに、それに口をつけてしまったがために相手の逆鱗に触れたなんて話を聞いたことがあるからだ。
そうやって人を試すようなヤツにまともな人はいないと思うのだが、得てして立場があり偉そうな輩には癖のある人物も多いものだ。人間関係の難しさというものか。相手がどのような人物なのか、入念な観察と警戒心が必要である。
遠慮の気配を察してか、押し付けるように黄衣が茶器を差し出した。小さな白い湯呑に入っているのは新緑のような柔らかい緑色で、鼻につく香りは爽やかだ。熱さが指先に伝わると、思っていたより喉が渇いていたことに気付く。――周囲も一息つこうと言わんばかりに茶を口にしている。
仙たちが口にするものを、ただの人間である天彦が口にしていいのか一瞬悩んだが、ここに来た時点で全てを天に任せたも同義。周りに倣い、天彦はお茶を口にした。
「――おいしい。このような美味なもの、初めて口にしました」
「まだあるから、じゃんじゃん飲みな~。期間限定の特別なお茶だからね」
「桃の葉を使ったお茶だよ。飲める人なんて滅多にないんだから」
「そろそろルールも理解した頃か。――一度でも自分の力で和了ることが出来たら解放しよう。それがこれからの勝負の条件だ」
牌を挟んだ指先がこちらに向けられる。
「誰も助言も手加減もするなよ。――こやつが持つ運否天賦がどの程度のものなのか、確かめてやろうじゃないか」
「運、ですか……」
何もない一般人牛飼いの男性の中に残されたものと言えば、天命か――。西王母は己の本質よりももっと深い部分を試そうとしているのだと、天彦は思った。
「はぁ~、なるほどねぇ。理解した」
「え? なになに、紅衣は分かったの」
「青衣は黙ってて。そのうち分かるわ。――じゃ、あとは頑張ってねー」
黄衣が自分の席を下げると、青衣と紅衣は静かになり先ほどまでの和やかな雰囲気は隠れてしまった。
「次はお前の番だ。さっさと自由になりたいのなら、ゲームを進めろ」
「……あの、織姫も自由にして頂けるのでしょうか」
「すべては天が知ることだ。お前は勝負だけ気にしていろ」
この場にあるのは四人だけとなり、春の穏やかな温かさを感じる空気が、なんだか冷えていくように感じた。
だが西王母の冷たい物言いに、終わりがあると示され希望が湧いてきた。
「天のみぞ知る、か。……どうか私と織姫をお守りください天帝よ」
両手を合わせ勝負の行方について天彦は小さな声で祈ると、弱っていた心に活力がみなぎるようであった。ひとりではないのだと、励まされる心地だ。
今日まで奇跡の連続を思えば、全ての運命を司る天帝が味方してくれていたのだろう。その加護に報いるためにも、勝負を諦める訳にはいかない。
「――皆さん、改めてよろしくお願いします!」
気合を入れ、山から牌を取ろうと天彦は手を伸ばした。
***
「……天彦っ!」
織姫がいた場所から天彦がいた場所は距離があった。ここまで案内してくれた仙女の示す先に、久方ぶりに見る恋人の姿が目に入る。
一体どれだけの月日が経ってしまったのだろう。別れた時よりも幾分か痩せてしまったのか引き締まった表情に、あの頃よりも頼もしい顔つきになっていた。優しかった目元は険しいが、遠く離れていても見間違えようのない姿に喜びが満ちていく。
「一体どうやって……」
「歩いてきたって」
「歩いて……?」
仙境と下界は地続きという訳ではない。迷い込む人間がたまにいると言うが、それも滅多にない。――目的をもって人がここに来るなど、不可能であることくらいは誰もが知っていた。
「きっと、大変だったでしょうに……」
長いこと己の不幸で零していた涙が、熱を持ち再び眼からぽろぽろと溢れ落ちていく。
「すぐに帰ると約束したのに、待たせてしまってごめんなさい」
届かぬ謝罪を呟き、ここまで来た彼の苦労に想いを寄せた。
仙境とは違い人の世は移ろいやすく、過酷な場所だ。そばに居られない間、何か彼に不幸があればと長いこと心を痛めていた。
涙を拭い、もう一度愛しい姿を見れば、二人の仙女と西王母が相席していることに織姫は気付いてしまう。
「……あそこで、何をしているの?」
「なんでか知らないけど、西王母さまがゲームをしようと誘っていらしたわ。人間がこんなところまで来るの珍しいからかしら」
恋人を想い、美しく頬を濡らしていた仙女は消えてしまった。
「早く行って驚かせてやりなさいな。あなたを牢に入れたことなんて、もしかしたら西王母さまもお忘れなのかもしれないし」
「……忘れて……?」
軽口で場を和ませようとしたのだろう。いらん話に織姫の情緒が乱され、闇のオーラを纏い始めてしまう。
「……私と、天彦の間を引き裂いておいて、ご自分は天彦とゲームをしているですって……?」
「感動の再会でもしてきなさいな! 後でどうなったか教えてね~」
ぼそぼそと小さな声で今までの怨念を呟く織姫の異変に気付かぬ仙女は、彼女の背中を押して邪魔しないようにとこの場を後にした。――背中を押すにしても、もう少し別のやり方があったのではないかと問い詰めたい。小一時間程、問い詰めたい。
そんな心配をよそに織姫はずっと握っていた杼を持ち直し、ふらりと四人が卓を囲う屋外座席へと向かって行った。
「許さない……、許さない……」
一曲再生が設定されたかのように同じ言葉を繰り返し、愛らしかった大きな瞳を今は真っ黒に染めている。深淵よりも深い闇に飲まれた目には、西王母の背が映されており、あの可愛かった織姫の様相はいまはどこにもない。恋人もすぐそばに居るというのに、取り繕う余裕もないということなのか、夢遊病患者のような不自然かつ不安定な動きでそちらに向かっている。
「……大切な人を守るためなら、邪魔なものは排除するしかないわね……」
行き過ぎた自己責任論である。自分の利を守ろうとするあまり、他を害したり、心に余裕を失ってしまう悪しき習慣だ。何事もほどほどが大事だし、もう少し周りを見る余裕を持つことが大切だろう。
そんな訴えも今の織姫には届かぬようで、まっすぐ四人の元へと近付いている。
「――っ織姫」
近付く彼女に、一番最初に気付いたのは天彦だった。彼女の名を呼び席を立つと、勝負の途中だということを思い出したのか、駆け出したい気持ちを押さえているようだった。
「天彦――、待っててね。すぐに終わらせるから」
名を呼ばれ天彦にとびきりの笑顔を送るも、心はここにあらずと言った様子だ。二人の仙女たちは久し振りに目にする織姫に、なんとなく違和を覚えるも、久し振りに恋人に会う織姫はこんな感じなのかと思うだけだった。
西王母は振り返ることもせず、捨てる手牌に悩んでいるようで、手にした牌をかつかつと並ぶ手牌の角にぶつけていた。
「ご無沙汰しております、西王母さま」
「お前には謹慎を言い渡したはずだ。なぜ勝手に出歩いている」
「なぜって? ただ閉じ込めておいて何て言い草――。……私が天彦と一緒にいるのがただ気に食わなかっただけでしょう?」
今まで見せていた笑顔が消え、織姫らしからぬ冷たい言葉に三人が驚いている。西王母はこの事態に気付いていないのだろうか。織姫もずっと握っている杼をどうするつもりなのか、ハラハラしながら事の成り行きを見守っているが、どうにも嫌な予感しかしない――。
「お前が禁を破ったがためにした罰だ。己の役割を忘れ人間にうつつを抜かすばかりで、自らの行いを省みない者には丁度良い」
「……反省? 反省ですか? 機を織れと言外に伝えていただけでしょうに。それ以外のことなど、私には無用と言わんばかりの応対……、苦痛で仕方がありませんでした」
牢の中でずっと泣いていた織姫の心には猜疑心と不審感、疑心暗鬼といった素直に物事を受け取っていた頃の面影は消え失せていた。
「織姫、つらい思いをさせてしまってすまなかった。君が私のせいだ」
「天彦……、あなたのせいじゃないわ。諸悪の根源はここにあるわ――!」
握りしめていた杼を振り上げ、西王母に振り下ろそうとしていた――。
「……ちょっと、織姫ッ! あなたなにしてるの!?」
するとその時、空が一気に暗くなり雷鳴が響いた。ピカリと空が光ると、滝のような雨が降り注ぎ、あっという間に膝下まで水が溢れていく。自動卓が流され、椅子や小机も流される中、大量の水に足を取られいろんなものが流されて行った。
「――織姫!」
雨水に浚われ、水没する織姫を追いかけるように天彦は手を伸ばした。激しい流れに阻まれ近付くことも難しいが、全てを飲み込み洗い流そうとする水流に、負けじと追いかける。
暗い気持ちに囚われていた織姫も、こちらに一生懸命手を伸ばそうとする天彦の姿に正気を取り戻し、彼のためにと手を伸ばした。
ここは仙境。下界と隔絶されたこの世界には、大嵐など意味なく起きることはない。何者かの意志によってこの嵐は引き起こされ、全てを仕切り直させるかのように押し流していく。
だが、西王母だけでなく仙女たちはこれくらいのイレギュラーに押し流されるような存在ではなく、またこの場にある邸宅もいかなる震災にも耐えうる強い造りをしていた。一瞬雨に飲まれそうになったが、それぞれが屋根の上まで避難していた。
「もう~、これはさすがにやり過ぎよ」
「こんな天気になるって聞いてないわー」
「服だけじゃなく私たちの家までこうなっちゃうなんて最悪~。どうなさいますか西王母さま」
「どうするもこうするも、この水が引くまで待つしかないだろう。――無責任に娘を憐れむばかりの能無しに、文句を言ってくれ」
皆羽衣で雨を避けつ屋根の上で並んで座ると、桃園も水没しており、多大な被害が生じているのが目に入る。
「あちゃー、桃ダメになってるかしら」
「仙の力が込められたものだ。そう簡単に痛んだりはしない」
「傷物でも、嵐に耐えた桃として縁起良さそうですよねー。プレミアでもつけて売っちゃいましょう」
「がめついこと考えるわね。ついでにマスコットキャラとかも作ってみるのは?」
こんな非常時でものんきな仙女たちを横目に、濁流に飲まれながらもこの場を離れていく影を西王母は見逃さなかった。
***
「……彦、――天彦!」
「おり、ひめ……」
新鮮な空気を得ようと、大きく息を吸い込もうとする天彦の口の中に、土臭さとじゃりっとした触感を感じ、むせて口の中のものを吐き出した。――濁流が身体の中に入っていたらしい。
吐き出そうとする身体と、息苦しさから空気を求める肺が相反し苦しい。織姫の手が背を叩き、優しく介抱される。
「危ないことに巻き込んでしまってごめんなさい。私、どうかしてた……。あなたの無事が一番大事だったのに、自分のことばかり考えて……、自分がなんなのか忘れていた……。……幻滅したでしょう」
背を叩く織姫の手が止まり、後悔に震える声が背後から届く。――周囲を見渡すとどこかの川のほとりか、何もない広大な闇が広がる場所へと辿り着いたようだった。いつの間にか夜になっていたようだ。
「――大丈夫だ。会える手段があると聞いて、来ただけなんだ。こうして無事に君に会うことができて、これ以上幸せなことはない」
呼吸をなんとか落ち着かせ、悲しみに暮れる恋人の手を取った。
「私も結局のところずっと、自分のことしか考えてない。君が何か罰を与えられるというのなら、私がそれを引き受けてやりたいと思うし、こうして泣いているのであれば、そばに居て慰めたいと思ってしまう。――出来ることならいつまでも一緒に在りたいと強く願っているよ」
長いこと牢でひとりで己の不幸について泣いていただけの織姫にとって、天彦の言葉はキレイで眩しすぎたすぎた。
「そんなことしなくていいの。あなたという存在が既に、私にとって過ぎたものなの……」
どれだけの時間が経ったのだろう。介抱していた天彦の手や顔に深く刻まれた皺、今にも折れてしまいそうな腕は骨張り、黒く艶のあった髪は白が混じり艶も失っている。声も徐々にしわがれ、かすれて行った。
彼は老いている。仙境という場所のせいか、先ほど流された雨のせいなのか分からないが、この地は彼にとって毒だったようだ。
彼に触れる己の手の変わらなさに、こんな儚い命に無理をさせてしまった愚行を織姫は悔やんだ。
「あなたのことを考えないばかりか、西王母さまに手を上げようとした――。こんな浅ましい私の事を、天帝もさぞお怒りになっていることでしょう。ですが彼は関係ありません。全ての責は役目を投げ、一時の感情に身を任せた私に罪があります」
弱っていく天彦を抱きかかえ、織姫は一心に天に祈った。
「だからどうか、天彦を連れて行かないで――。もう我が侭は言いません。今後は織女として役目を守り、ずっと機を織り続けることをお約束します――」
悲痛な願いが嗚咽に代わると、織姫を撫でようと天彦の手が織姫の髪に触れた。以前よりも弱々しい触れ方に、一層織姫が縋った。
『天彦、――人の身でありながら仙境まで訪れ、織女を想い凶行を止めたことに恩情を与えよう』
空を覆う暗闇から声が降って来た。聞いたことのない声でありながら、優しく冷たくなる心に沁み渡るような声だった。
『織女もまた、長年機を織り、数多の神仙たちに衣を用意してきた。――この功績に応じ、慈悲を与えよう』
腕の中にいた天彦に淡い光が集まった。消えないようにと彼を庇おうとするが、眩い光に織姫はきつく目を閉じた。
『だが此度の騒ぎと、織機の破壊、己が役目の怠慢について双方悔い改めよ』
腕の中にいた天彦に、織姫は力強く抱き返される。眩む目が何も映さないが、出会った頃と同じような力強さだ。
老いていった身体とは思えない強さに、幾度か瞬きをしていると、徐々に視界がハッキリとしていく。
「――うそ、一体どうして」
背に回される腕も、目の前にある顔も、どれもが出会った頃の天彦だった。先ほど目の前で老人となり、失われた時間に嘆いていたというのに、悪い夢であったのだろうか――。
「もう死ぬかと思ったのに、急に身体が軽くなって来た。しばし時間が貰えるというのであれば、これほど嬉しいことはない」
先ほど自分が老いていたことに気付いてないのか、天彦は先ほどと変わらぬ調子だった。
『織女よ、お前は先の場所へ戻り、壊した織機を直して仕事に戻るがいい。――天彦、お前は川向うの仙境で牛の世話ができる者を求めている。そこで新たな役目をもらい、務めに励むが良い』
新たな指令に二人が戸惑っていると、二人を流した川が光り、空へと場所を移していった。
『己の役目を果たした暁には、年に一度神仙の宴の日に会うことを許そう』
「――寛大な処置に感謝いたします、天帝よ」
織姫の言葉に、天彦も慌てて天に向かって感謝の意を表した。
「仙境で仕事……、ということは織姫の近くにいられるということだろうか」
「どうやらあなたは仙の力を与えられたみたい。――ずっと近くに居られるということね」
「その上、会うことも許されるだなんて――。なんという幸運……」
制約はあれど、離れ離れになることもなく、ずっと傍にいられるということに二人は喜んだ。
西王母暗殺未遂、仙女の闇落ち職務放棄など、数々の懸念がなくなった上、二人に安寧が訪れたことに天もにっこり。めでたしめでたし。
***
静かな庭園で二人、寄り添うように尽きぬ会話に花を咲かせていると、近くの楼閣から二人を眺めている人影があった。
「なにがめでたしめでたしだ。余計な世話を焼き、無用な混乱を招いた元凶、――天帝よ」
その人は西王母。宴席から一時離れ、息抜きしていたようだった。
「仙女たちを可愛がるのは構わないが、惑わせる上に影から出歯亀……。趣味が悪かろう」
手酌で酒を注ぎ、一気にあおると窓辺から離れた。
「聞こえないフリでもしているつもりか。あの二人に肩入れしすぎた結果、あんな洪水まで起こしてうやむやにして――。少しは反省しろ」
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「言い分だと? 我が桃園を壊しただけに飽き足らず、他に文句があるというのであれば言ってみろ」
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先に天彦を仙にしようとしたのは、そっちじゃないのかと、天は問い詰めたい。
「――さてな。適当な茶を振る舞っただけのこと。どうだったか忘れてしまったわ」
口元を扇子で隠し、西王母は宴席に戻っていった。
最後にケチをつけられた気がするが、二人の出歯亀をする気もないので、天も退出しよう。
これにて、二人の話はおしまいだ。この先も二人に幸あれと願っている。
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