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悪役令嬢
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「申し訳ありません……っ」
目の前の同級生が突然涙を流した理由が全く思い当たらず、ヴィクトリア・ベルトランは困惑していた。
「どうしたの、なぜ謝っているの」
「わたしが悪いのです。わたしのせいで……」
涙を流す同級生はクリステル・ローラン男爵令嬢。キャラメルのような明るい茶色の艶やかな髪に、透明感のある白磁の肌。潤んだ大きなターコイズブルーの瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ出ている。
彼女はつい最近まで平民だったが、珍しい精霊の加護を授かりローラン男爵家の養女となったという変わり種の令嬢だ。
この国では精霊信仰が盛んだ。
精霊は強力な力を持ち、気まぐれに人間に加護を与えることがある。魔力を持つ人間は国民の三割程度存在するが、精霊の加護を持つ人間は殆どいない。
精霊の加護を持つ人間は精霊術師と称され、精霊術と呼ばれる魔法とは別の理の力を使えるようになる。
精霊術師は魔法では不可能な『癒し』や、魔物を阻む『結界』といった力が使えるらしい。だからこそ、彼らは貴族・平民問わず国から囲い込まれる。精霊術師という稀有な存在を守り、あわよくば国のためにその力を使ってもらうためだ。
これまでただの平民として生きていたクリステル・ローランは、精霊の加護を受けたがために、彼女にとって全く不慣れな貴族だらけの学園に中途入学することになった。
第二王子エリオットの婚約者であるヴィクトリアは、さぞ心細いだろうと彼女に気を配り、陰ながら見守っていた。
今日だって、昼休みに中庭を歩いていたら、たまたま彼女と会ったので声をかけた。けしてヴィクトリアはクリステルに危害を与えていないし、まして罵った覚えもない。全く持って普通の、たわいもない会話をしていただけだ。
「あなた、人前で急に泣き出すなんて……」
「一体どうしたっていうの!」
「とりあえず、涙を拭いたらいかがでしょうか……」
ヴィクトリアの三人の友人が声をかけるが、クリステルは涙を流すばかりで何も答えない。
(なぜ、こんなことに)
周囲の目線が痛い。学園の中庭は、校舎からよく見える。きっと、窓から顔をのぞかせている生徒たちからは、ヴィクトリアが彼女を責め立てているように見えるに違いない。
(また、わたくしの悪評がたつわね)
むしろ自分が泣きたいような気持ちになり、ヴィクトリアはただ瞼をとじた。
ヴィクトリア・ベルトランを表す言葉はいくつもある。ベルトラン侯爵家の長女。王立学園の二年生。第二王子エリオットの婚約者。そして——悪役令嬢。
その呼称に、自分に対する悪意が込められていることは分かっている。誰が、いつからそのように呼ぶようになったかは分からない。その呼び名は突然登場し、そして瞬く間にヴィクトリアの二つ名となってしまった。
◆
幼い頃からヴィクトリアは自分の感情を表現することが苦手だった。楽しいとか、悲しいと思っていてもそれを外に表出することができない。家族はヴィクトリアの微妙な表情の変化を読み取ってくれるが、当然ながら家族以外の者には通じない。
近寄りがたく冷たい令嬢だという評価が定着したのは彼女がまだ幼いころのことだった。
表現が苦手なだけで、ヴィクトリアの中身はごく普通の少女である。十二歳で第二王子エリオットの婚約者候補に選ばれたとき、人知れず彼女は胸を弾ませた。エリオットのことは式典などでちらりと見かける程度だったが、謙虚な性格で、誰にでも心優しい方だと聞いていたからだ。
エリオットは王妃の子ではない。国王の愛妾ソニアの子だ。ソニアの実家は領地を持たない子爵家であり、王族の後ろ盾としては脆弱だ。エリオットには王族として生きていくために、後ろ盾が必要だった。
ヴィクトリアが彼の婚約者候補に選ばれたのは、彼女がベルトラン侯爵家の子女であり、エリオットと年齢が一つしか違わないからである。
(殿下はきっと、婚約者候補がわたくしであることを落胆されているでしょうね)
エリオットはあくまでベルトラン侯爵家の後ろ盾が欲しいのであって、ヴィクトリア自身を望んだわけではないのだ。その事実をヴィクトリアはよく理解していた。
男性王族の婚約は、まず婚約者候補として数年交流を重ね、その後正式に婚約を結ぶというのが一般的だった。一旦は候補に選ばれたものの、最終的に白紙にされる可能性もあった。
「よろしくね、ヴィクトリア。敬称はいらないよ。名前で呼んで」
初めての顔合わせで、エリオットは秀麗な顔を綻ばせた。
彼は一つ年上の十三歳だったが、既にその碧の瞳には理知の光が宿っていた。王族の証であるアレキサンドライトのカフスボタンが彼の胸で煌めくのを見ると、ヴィクトリアは少し怖気づいてしまう。
しかし彼の表情にヴィクトリアへの不快感は浮かんでいない。初対面の相手からは良い印象を持たれることが殆どないので、それだけでヴィクトリアは嬉しくなった。
しかもエリオットは自分に対する敬称は不要だと、ヴィクトリアが彼の名前を呼ぶことを許してくれた。
エリオットがヴィクトリアへ好意的に接してくれているというのに、相変わらず自分は口角一つ上げられない。きっと目に親愛の情を浮かべることも失敗しているだろう。だからせめて、とびきり綺麗にカーテシーをした。
最初の顔合わせから三年後。ヴィクトリアが一五歳の時、エリオットとヴィクトリアは正式に婚約者となった。
エリオットとは穏やかながら、順調に関係を育んでいった。
彼は事あるごとに贈り物をヴィクトリアに贈った。そこには毎回丁寧なメッセージカードが添えられ、何でもない日にも花が届いた。彼の都合がつけばベルトラン侯爵家まで尋ねてきてくれることもあった。
「ヴィッキー、エリオット殿下はお前に夢中だな」
「エリオット様は誠実なお方ですから、婚約者を大切にしてくださるのですわ、お兄様」
エリオットから届いた花を手に取っていると、ヴィクトリアを冷やかすように兄のジョシュアが言った。
ジョシュアは王太子ルシアンの側近として王宮に出仕している。ジョシュアはヴィクトリアと違って人望がある。きっと表情が豊かで、気安い人物だからだろう。
「しかし兄君のルシアン様とはえらい違いだ。ルシアン様はこんな頻繁に婚約者殿へ花など贈っておられないぞ」
ジョシュアは純粋に、妹が婚約者から大切にされていることを喜んでいる。
エリオットの心遣いに感謝すると同時に、自分に自信がないヴィクトリアは、エリオットの好意に驕ることがないようにと自分に戒めていた。
社交に出るようになったヴィクトリアには、じわじわと悪評が立つようになっていた。
目の前で震えている令嬢がいればヴィクトリアが彼女を罵ったことになり、陰でこっそりと泣いていた令嬢がいれば、きっとヴィクトリアが虐めたのだろうということになった。
ヴィクトリアはキツめで派手な顔立ちをしている上に、この国では珍しい黒髪である。
どうやら自分の顔立ちに合う服装をしたら、性格が悪い上に浪費が激しくて身持ちの悪い女に見えるらしい。肌を露出したデザインな訳でもないし、そもそもヴィクトリアよりも派手で高価なドレスを着ている令嬢などたくさんいるはずだというのに。
それにヴィクトリアは表情を上手く動かすことができない。人から嫌われたいと思っている訳でもないので、ヴィクトリアも状況を何とか改善しようと努力している。毎日仕事をしない自分の顔の表情筋をほぐしているし、唯一できる貴族令嬢らしい微笑みだって自然に出せるよう練習している。
ヴィクトリアにとって微笑むことは神経を使うので、社交の重要な場でしか微笑まない。それを普段は人を馬鹿にしているとか、人を睨みつけていると取られた。彼らはヴィクトリアが上手く表情を動かせないことなど想像もしていないのだ。
幼い頃から親しい令嬢とは変わらない関係を築いていた。
ヴィクトリアが彼女たちと共にいると、『取り巻き』を引き連れているように見えるらしい。大切な友人を取り巻きなどと呼ばれるのはヴィクトリアにとって腹立たしいことだ。
(ヴィクトリア・ベルトランがすることは何もかも悪く取られてしまうわね)
目に余る侮辱には毅然と反論することも忘れなかった。王子妃となる自分が些細なことで取り乱してはいけないのだ。例えそれにより、ヴィクトリアの内面に対する誤解が更に深まったとしても。
傷ついていない訳ではない。傷ついて、じくじくと痛んだ心に瘡蓋ができていくだけ。
そうして痛む心をやり過ごしてヴィクトリアは何とか前を向いていた。
目の前の同級生が突然涙を流した理由が全く思い当たらず、ヴィクトリア・ベルトランは困惑していた。
「どうしたの、なぜ謝っているの」
「わたしが悪いのです。わたしのせいで……」
涙を流す同級生はクリステル・ローラン男爵令嬢。キャラメルのような明るい茶色の艶やかな髪に、透明感のある白磁の肌。潤んだ大きなターコイズブルーの瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ出ている。
彼女はつい最近まで平民だったが、珍しい精霊の加護を授かりローラン男爵家の養女となったという変わり種の令嬢だ。
この国では精霊信仰が盛んだ。
精霊は強力な力を持ち、気まぐれに人間に加護を与えることがある。魔力を持つ人間は国民の三割程度存在するが、精霊の加護を持つ人間は殆どいない。
精霊の加護を持つ人間は精霊術師と称され、精霊術と呼ばれる魔法とは別の理の力を使えるようになる。
精霊術師は魔法では不可能な『癒し』や、魔物を阻む『結界』といった力が使えるらしい。だからこそ、彼らは貴族・平民問わず国から囲い込まれる。精霊術師という稀有な存在を守り、あわよくば国のためにその力を使ってもらうためだ。
これまでただの平民として生きていたクリステル・ローランは、精霊の加護を受けたがために、彼女にとって全く不慣れな貴族だらけの学園に中途入学することになった。
第二王子エリオットの婚約者であるヴィクトリアは、さぞ心細いだろうと彼女に気を配り、陰ながら見守っていた。
今日だって、昼休みに中庭を歩いていたら、たまたま彼女と会ったので声をかけた。けしてヴィクトリアはクリステルに危害を与えていないし、まして罵った覚えもない。全く持って普通の、たわいもない会話をしていただけだ。
「あなた、人前で急に泣き出すなんて……」
「一体どうしたっていうの!」
「とりあえず、涙を拭いたらいかがでしょうか……」
ヴィクトリアの三人の友人が声をかけるが、クリステルは涙を流すばかりで何も答えない。
(なぜ、こんなことに)
周囲の目線が痛い。学園の中庭は、校舎からよく見える。きっと、窓から顔をのぞかせている生徒たちからは、ヴィクトリアが彼女を責め立てているように見えるに違いない。
(また、わたくしの悪評がたつわね)
むしろ自分が泣きたいような気持ちになり、ヴィクトリアはただ瞼をとじた。
ヴィクトリア・ベルトランを表す言葉はいくつもある。ベルトラン侯爵家の長女。王立学園の二年生。第二王子エリオットの婚約者。そして——悪役令嬢。
その呼称に、自分に対する悪意が込められていることは分かっている。誰が、いつからそのように呼ぶようになったかは分からない。その呼び名は突然登場し、そして瞬く間にヴィクトリアの二つ名となってしまった。
◆
幼い頃からヴィクトリアは自分の感情を表現することが苦手だった。楽しいとか、悲しいと思っていてもそれを外に表出することができない。家族はヴィクトリアの微妙な表情の変化を読み取ってくれるが、当然ながら家族以外の者には通じない。
近寄りがたく冷たい令嬢だという評価が定着したのは彼女がまだ幼いころのことだった。
表現が苦手なだけで、ヴィクトリアの中身はごく普通の少女である。十二歳で第二王子エリオットの婚約者候補に選ばれたとき、人知れず彼女は胸を弾ませた。エリオットのことは式典などでちらりと見かける程度だったが、謙虚な性格で、誰にでも心優しい方だと聞いていたからだ。
エリオットは王妃の子ではない。国王の愛妾ソニアの子だ。ソニアの実家は領地を持たない子爵家であり、王族の後ろ盾としては脆弱だ。エリオットには王族として生きていくために、後ろ盾が必要だった。
ヴィクトリアが彼の婚約者候補に選ばれたのは、彼女がベルトラン侯爵家の子女であり、エリオットと年齢が一つしか違わないからである。
(殿下はきっと、婚約者候補がわたくしであることを落胆されているでしょうね)
エリオットはあくまでベルトラン侯爵家の後ろ盾が欲しいのであって、ヴィクトリア自身を望んだわけではないのだ。その事実をヴィクトリアはよく理解していた。
男性王族の婚約は、まず婚約者候補として数年交流を重ね、その後正式に婚約を結ぶというのが一般的だった。一旦は候補に選ばれたものの、最終的に白紙にされる可能性もあった。
「よろしくね、ヴィクトリア。敬称はいらないよ。名前で呼んで」
初めての顔合わせで、エリオットは秀麗な顔を綻ばせた。
彼は一つ年上の十三歳だったが、既にその碧の瞳には理知の光が宿っていた。王族の証であるアレキサンドライトのカフスボタンが彼の胸で煌めくのを見ると、ヴィクトリアは少し怖気づいてしまう。
しかし彼の表情にヴィクトリアへの不快感は浮かんでいない。初対面の相手からは良い印象を持たれることが殆どないので、それだけでヴィクトリアは嬉しくなった。
しかもエリオットは自分に対する敬称は不要だと、ヴィクトリアが彼の名前を呼ぶことを許してくれた。
エリオットがヴィクトリアへ好意的に接してくれているというのに、相変わらず自分は口角一つ上げられない。きっと目に親愛の情を浮かべることも失敗しているだろう。だからせめて、とびきり綺麗にカーテシーをした。
最初の顔合わせから三年後。ヴィクトリアが一五歳の時、エリオットとヴィクトリアは正式に婚約者となった。
エリオットとは穏やかながら、順調に関係を育んでいった。
彼は事あるごとに贈り物をヴィクトリアに贈った。そこには毎回丁寧なメッセージカードが添えられ、何でもない日にも花が届いた。彼の都合がつけばベルトラン侯爵家まで尋ねてきてくれることもあった。
「ヴィッキー、エリオット殿下はお前に夢中だな」
「エリオット様は誠実なお方ですから、婚約者を大切にしてくださるのですわ、お兄様」
エリオットから届いた花を手に取っていると、ヴィクトリアを冷やかすように兄のジョシュアが言った。
ジョシュアは王太子ルシアンの側近として王宮に出仕している。ジョシュアはヴィクトリアと違って人望がある。きっと表情が豊かで、気安い人物だからだろう。
「しかし兄君のルシアン様とはえらい違いだ。ルシアン様はこんな頻繁に婚約者殿へ花など贈っておられないぞ」
ジョシュアは純粋に、妹が婚約者から大切にされていることを喜んでいる。
エリオットの心遣いに感謝すると同時に、自分に自信がないヴィクトリアは、エリオットの好意に驕ることがないようにと自分に戒めていた。
社交に出るようになったヴィクトリアには、じわじわと悪評が立つようになっていた。
目の前で震えている令嬢がいればヴィクトリアが彼女を罵ったことになり、陰でこっそりと泣いていた令嬢がいれば、きっとヴィクトリアが虐めたのだろうということになった。
ヴィクトリアはキツめで派手な顔立ちをしている上に、この国では珍しい黒髪である。
どうやら自分の顔立ちに合う服装をしたら、性格が悪い上に浪費が激しくて身持ちの悪い女に見えるらしい。肌を露出したデザインな訳でもないし、そもそもヴィクトリアよりも派手で高価なドレスを着ている令嬢などたくさんいるはずだというのに。
それにヴィクトリアは表情を上手く動かすことができない。人から嫌われたいと思っている訳でもないので、ヴィクトリアも状況を何とか改善しようと努力している。毎日仕事をしない自分の顔の表情筋をほぐしているし、唯一できる貴族令嬢らしい微笑みだって自然に出せるよう練習している。
ヴィクトリアにとって微笑むことは神経を使うので、社交の重要な場でしか微笑まない。それを普段は人を馬鹿にしているとか、人を睨みつけていると取られた。彼らはヴィクトリアが上手く表情を動かせないことなど想像もしていないのだ。
幼い頃から親しい令嬢とは変わらない関係を築いていた。
ヴィクトリアが彼女たちと共にいると、『取り巻き』を引き連れているように見えるらしい。大切な友人を取り巻きなどと呼ばれるのはヴィクトリアにとって腹立たしいことだ。
(ヴィクトリア・ベルトランがすることは何もかも悪く取られてしまうわね)
目に余る侮辱には毅然と反論することも忘れなかった。王子妃となる自分が些細なことで取り乱してはいけないのだ。例えそれにより、ヴィクトリアの内面に対する誤解が更に深まったとしても。
傷ついていない訳ではない。傷ついて、じくじくと痛んだ心に瘡蓋ができていくだけ。
そうして痛む心をやり過ごしてヴィクトリアは何とか前を向いていた。
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