100のキスをあなたに

菅井群青

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13.秘書

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 目の前にある大きくて重厚感のあるドアの向こうに私の好きな人がいる。近くて遠い存在だ。
 大きく息を吸いスーツの襟が歪んでいないかを確認するとドアをノックする。

「どうぞ」

 低くて少し掠れた声がドアの向こうから聞こえてくると「失礼します」とだけ言い部屋へと入る。決してその声に胸が高鳴っているとは知られぬように顔の筋肉に力を込める。

 隣接する高層ビルを背に受けその男は立っていた。直前まで掛けていたであろう眼鏡をデスクに置き、ゆっくりと私の方へと近づいてくる。高級スーツに身を包んだその男はいとも簡単に距離を詰めてきた。私は思わず手に持っていたバインダーを握りしめた。

 動揺しちゃ、ダメだ……。

 目の前に立つ男はこの建設会社の若き社長だ。そして私の好きな人だ。

「本日の予定になります。本日は──」

 いつも通り予定を読み上げようとすると気怠そうに溜息をつく。その声に私は思わず黙りこむ。社長は不機嫌そうに私を睨むと、何も言わず私の横を通り過ぎ少し開いていたままになっていたドアを閉めた。

 それだけのことなのに私は生唾を飲むと一気に平静を失う。振り返った社長の横顔の美しいラインに眩暈がしそうだ。

「君は、昨日のことを何もなかったことにする気だな?」

「社長……昨日のこと──」

 昨日会社の接待で会席料理を食べた。珍しく酔った社長を送り届けた際まさかの社長に捕まった──そして、食べられた。

 あぁ、いい、いいよ……。

 情事の社長の声が耳元で聞こえた気がして一気に顔に熱が集まる。昨日はきっと気の迷いだと思う。そうでなければ配属して二週間余りでこんな関係にならないだろう。

「君は、ベッドの中では従順だが何故かスーツを着ていると、きまぐれな猫みたいだな」

「……覚えていたんですか」

 てっきり覚えていないと思った。私だけが覚えていればいいと思った。

「忘れると思うか? ずっとこの唇に触れたいと思っていたんだから」

 社長の思いがけない言葉に固まる。社長の指が私の顎を捉えてゆっくりと上を向かされる。視線が合うと社長の瞳の色があの時と同じな事に気が付いた。欲望でギラついた獣の目だ。

 そのまま私の体をドアへと押し付けるとあっという間に唇が奪われる。背中に感じる圧と、口の中に侵入した熱い塊が私を侵略していく。 

「舌を出せ」

 キスの合間に囁く掠れた声に鳥肌が立つ。口の粘膜が熱を持ち始めた頃ようやく解放されたがいつのまにか足に力が入らなくなり社長の太腿と腕に支えられていた。

「君が好きなんだ。そう簡単になかったことにさせるか……」

 社長の唇が濡れている。もっと欲しいと訴えているようだ……じっと見つめていると社長はみるみる眉間にしわを寄せる。

「朝から煽るな……自覚がないのか?」

「あ……すみません」

 否定も肯定もしない私の答えに不満そうに体を離す。服を慌てて整えると社長がにっこりと微笑んだ。

「今日も会席料理を……食べるぞ」

「……はい」

 私は人形のように返事をすると部屋を出て行った。


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