忙しい男

菅井群青

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どうして 憲司side

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 俺は朝早く目覚めた。今日は休みだというのにすっかりいつもと同じ時間に目が覚めた。月曜日に休みとったのは何年ぶりだろう。月曜日は里美が勤めている店の定休日だ。

 電車に乗り、いつものように同じ駅で降りる。だけど、行き先は里美の元へ向かう。いつもと同じ改札を抜けるだけのにドキドキした。
 改札を出るとちょうど焼きあがったのだろうか、焼きたてのパンの匂いとバターのいい香りがする。誘われるように俺が歩いて行くとそこは里美がいつか行きたいと言っていたパン屋だった。思わず立ち寄りトングで里美好みのものをトレーに乗せていく。レジに持っていくと明るい笑顔の店員が手際よく包んでいく。

「あの、ここはオープンしてどれぐらいですか?」

「あ、ちょうど来月の頭で四ヶ月です」

「四ヶ月……ありがとうございます」

 代金を払い商品を受け取ると俺は自動ドアの前に立った。

 四ヶ月だ。四ヶ月……里美が一緒に行きたいと言ってくれてもう四ヶ月も経っていた。

「休みの日にいこうな」そう言って特に何もしなかった。きっとその間に里美が一人でいくということはしないだろう。ずっと俺と行くのを楽しみにしていたはずだ。最寄りの駅のパン屋に二人で行く……それすらも出来ない俺は、最悪だ。そんな俺のそばにいてくれた里美は我慢強く、色んな事を我慢し続けていたのだろう。自分の事に必死になっていて里美のことを思いやってやれなかった。

 歩いて里美のアパートへと向かう。階段を上がりながら色んな事を考える。

 会えたら何て言おう
 謝って、気持ちを言おう
 追い返されるか?

 緊張したがインターホンを押す手はしっかりとしていた。

 ピーンポン

 音がなるが反応がない。だが、俺には分かる。玄関と台所のフローリングの境目はキュっと音が外にまで聞こえる。俺は里美がいる事を確信しドアをノックした。

「いるんだろ。開けてくれ」

 もう一度ノックをするとドアがゆっくりと開かれた。里美が口を尖らせて顔を覗かせた。……久しぶりに見る里美だ。顔色が悪い気がした。目の周りは少し腫れていて目尻が赤かった。寝起きなのかもしれない。髪の毛も乱れていて部屋着のままだ。今日はどこにも行かない気らしい。昨日休みを返上してよかった……こうして里美に会えた。

「分かってるんなら鍵使って入ればいいんじゃない?」

「そんなことしたら怒り狂うだろう」

 玄関に入るとそこから先はダメとばかりに俺の前に立ちはだかる。凛とした瞳とその瞳の拒絶の色に俺は少し傷ついたが、そんなことを言ってられない。何も気付かないふりをして靴を脱ぎ里美の横を通り過ぎていく。

「ちょ……ちょっと!」

 里美を置いて部屋に入りテーブルに買ってきたパンを置く。

「これ、気になってたパン屋のやつ。ちょうどいいから買ってきた」

「そう……」

 きっとバターのいい香りがすると思うが、里美の反応はあまり芳しくなかった。この店に一緒に行くという約束を守らなかったことを思い出したのかもしれない。

「コーヒー入れるわ」

 里美が台所でコーヒーを入れている。その背中を見てると小さくて、か弱くて思わず抱きしめそうになる。

「里美……ごめん」

「とりあえず、座ってて」

 里美は俺が後ろにいるのが分かっているようだったが、振り向こうとはしなかった。それが里美の気持ちを表しているようでつらかった。

 いつかの二人の幸せな記憶が脳裏をかすめた。里美がコーヒーを入れてくれると俺はその背中に抱きつき里美の首や背中にキスを落とした。甘い記憶たち……今はその小さな肩にすら触れることさえ躊躇う。

 里美がテーブルの向かいに座りコーヒーを置く。早速だが俺の気持ちを伝えなければいけない。今すぐに。

「俺は、別れたくない。確かに、俺は仕事ばかりで……里美に甘えてた。それは認める。里美なら大丈夫だ、また別の日にって思った」

 里美は黙って聞いていたが、言い辛そうに口を開く。

「……記念日の日、誰といたの? 駅で……見たわ」

 なんだって?
 誰が誰と? まさか……菊田さんか?

「あの日仕事の先輩と残業する予定で……途中で記念日だってバレて今すぐ帰るように言われたんだ……嘘じゃない。一緒にいた人はたぶん手伝っていた事務員さんだよ」

「そう……そうなのね」

 里美の瞳は何を写しているんだろう。やましい事などない、決して里美を裏切るような真似はしていない。だけどそんな俺の声は里美にちゃんと届いていないような気がした。里美は俺の目を見ようとしない。里美はなぜかクスクスと笑い出した。その表情は笑っているのに泣いているように見えた。

「里、美?」

「ゴメン、私ね憲司の事を待ちすぎたみたい……今回のことがきっかけだけどこれからまた待ち続けるのは辛い……嫌なの」

「これからはそんなことしない! 本当に俺は──」

? こうやってすぐに変えられるような事なら、最初からそうすればいい。努力した? ここまでこじれてから急に出来ますだなんて酷すぎる……憲司は私のことなんて愛してない──お願いだから! 別れてっ!」

 里美が今日ちゃんと初めて目を見て話してくれた。里美は大きな瞳から大粒の涙を落としていく。いつも泣いていたのか? ずっと? 俺がいない時に。こんな風に寂しい思いを抱えながら、待っていてくれたのだろうか……。

 俺は里美を抱きしめようとした。里美は凄い力で胸や腕を叩いたがしっかりと胸の中に閉じ込める。里美の香りが鼻腔をくすぐる。体を震わせ号泣する里美を力一杯抱きしめた。

 ここまで里美が我慢していたなんて知らなかった。いつも笑顔の里美を当たり前に思っていた。影ではずっと耐えていたんだろう。
 里美を泣かしたのが自分で、こんなになるまで追い込んだのも自分で、それを慰める権利があるのか分からないが。俺は里美を手放せない。
 身勝手だろうな、許さないだろう。でも、俺は里美が好きなんだ……。

「ごめんな、悪かった──」

 俺の声は届いているのか? 里美──。
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