売り言葉に買い言葉

菅井群青

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29.風香が好きだ

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 玄関のドアが閉まると貴弘はようやく落ち着きを取り戻した。かなり息苦しい時間だった。予期せぬ風香のセフレとの遭遇は貴弘をかなり動揺させた。

 ふう……意外にも温厚な男だったのが救いだった。人によっては殴られるケースもあるだろう。リビングに向かうと風香がソファーに座って眠っていた。酒に弱いくせにこんなになるまで飲むなんて馬鹿だ。

 貴弘はコップに水を注ぎ風香の体を起こした。風香はまだ酒が抜け切っていないようでひどい睡魔に襲われているようだ。

「起きろ、風香……水を飲んで寝ないと明日が死ぬぞ」

「ん……」

 風香に水を飲ませるとベッドへと運んだ。右肩がまだ痛いがこのままソファーで寝させるわけにはいかない。この時期に風邪を引くと最悪だ。仕事もプライベートの予定も白紙になる。
 
 ベッドに横になると風香がうつろな瞳で貴弘を見上げると不機嫌そうに寝返りを打った。ベッドサイドの照明がぼんやりと二人を照らしていた。布団をかぶせてやると風香の頭を撫でた。滑らかな感触につい離れ難くなりしばらく黙って風香の頭や頰に触れる……。

 風香は気持ちよさそうに俺を見上げた。気まずくなり撫でていた手を離すが風香は俺を見つめたままだった。勘違いしてしまいそうなぐらい熱い視線だ。


「……嫌いよ、貴弘なんて。意地悪だから」

「……ごめん」


 風香は酔いが覚めているのかもしれない。それぐらいしっかりした声だった。本気で嫌いと言われたみたいで傷付く。その瞳は蕩けていて焦点が合っていない。

「ねぇ、貴弘……私のこと、嫌い?」
「…………」

 俺が何も言えないでいると風香が泣きそうな顔をした。でも、酔っ払いに告白するなんて馬鹿げている。今じゃない……酒が入っている風香に告白なんかしたくない……でも、辛そうな表情に貴弘は悩み始めた。風香が「そりゃ嫌いか、そうだよねーうん」と微睡ながら頷いた。貴弘はたとえ酔っていても誤解されたくはなかった。

「……好き、だ。俺は、風香が好きだよ」

 風香が好き──幼い頃しか言ったことがないだろう。こうして言葉にしてみると言霊のように自分に返ってきて頬が異常なまでに熱を持ったのが分かった。こんなにも恥ずかしいものだったのか、こんなにも気持ちを伝えるのは頭を抱えたくなるぐらいの事だったのか──風香にとうとう言ってしまった……好きだと、言ってしまった。口説きの時とはまた違う感覚だ……同じ言葉でもあの時は練習と称して告白した。今回は、違う。

 風香は酔った頭で理解しようとしているようだった。無表情のまま「嬉しい……」と言った。首元まで掛けられた布団を握りしめるとふにゃっと微笑み「私も好き」と囁いた。それだけで俺の心は爆発しそうになった。

「──メロン、苺。好き」

「……は?」

 貴弘は風香が俄然酔いが回ったままだと知る。ほろ酔いのレベルじゃない。先程とは違う意味で頭を抱えた。貴弘は赤くなった顔に手で風を送りながら熱を冷ますと風香の布団を再度きちっと肩まで掛けてやる。

 ダメだ。馬鹿らしい……だから、酔っ払いに付き合ってもダメだって分かってたのに……。あームカつく。

 貴弘は照明を消すと風香の部屋を後にした。リビングに戻ると風香の仕事用のトートバッグが横倒しになり中身が周りに散っている……風香を玄関からソファーに運ぶときに蹴飛ばしてしまったらしい。鞄の中には駅のホームで見た買い物袋があった。貴弘は見なかったことにして散らばっていた化粧ポーチや雑誌をどんどん放り込む。その雑誌を押し込んで貴弘は手を止めた。もう一度雑誌を取り出すと奥歯をぎりっと噛みしめた……その雑誌にはピンクの付箋が貼られていた。悪いと思いながらも貴弘はそのページを開いた。中を確認し、すぐさま雑誌を閉じ、再び鞄へと押し込んだ……。付箋には風香の字で【森くんNG】とだけ書かれていた。


 明くる朝……風香はほかほかの布団に包まれて目が覚めた。自分の部屋を確認して窮屈なスーツを着たままの自分の姿に気がつき飛び起きた。

「うわ、うわ……」

 服を確認し、乱れた頭を確認し……目覚まし時計に目をやると顔を青ざめた。慌てて部屋を出ようとすると物音に気付いた貴弘が風香の部屋のドアを開けた。リビングから貴弘が現れて余計に風香はパニックになる。時刻はもう九時を回っていた……。

「ちょ、……っ、頭イタ……遅刻よ!」

「土曜日で休みだろ。ほれ、コレ飲めよ。二日酔いだろう」

 慌てふためく風香をよそに私服姿の貴弘が風香の目の前にマグカップを差し出す。中身を覗くと白濁しておりスポーツドリンクだった。風香はようやく冷静になりソファーに腰掛けた。太陽の日差しがベランダから差し込んでいるのを見て、ようやく今日が土曜日で休みである事……昨日誤ってアルコールを飲んでしまったことを思い出した。風香が頭を抱えているのを横目に貴弘が隣に座って優雅にコーヒーを飲んでいる。その様子はまるでソファーを半分切り取ったように貴弘が別世界にいる様に見えた。人生初の二日酔いに風香は苦しんでいた。

「……昨日のこと覚えてるのか?」

「……思い出してる。車で送ってもらったような……気がした。いや、そうだ。あぁ……馬鹿みたい」

「ちなみに……メロンと苺は?」

「何よそれ。高級フルーツでも食べたの?」

 風香は記憶のかけらを集めているがうまくいかない。大きな失態を犯してしまったと顔を青ざめる風香に貴弘は冷めた視線を送る。

 頑張った告白の記憶はものの見事に消去されたらしい。憶えていなくて良かったのか悪かったのか分からないが、中途半端に残るぐらいならない方がいいだろう。貴弘は風香を横目にコーヒーを啜った。

「キス魔だからな……さぞかし忙しい夜だったろう」

「な、そんな事してないわよ! ……あーっ……」

 風香は大声で反論してしまい、二日酔いの頭痛が前頭部を襲った。眉間を押さえて痛みが引くのを待つ。

「あんまり触るな。酷くなる」

 貴弘は掌を大きく広げて風香の頭を掴んだ。まるでバスケットボールを掴んでいるようだ。目を開けて貴弘を見るとコーヒーを飲みながらまっすぐ前を見て座っている。横にいる風香と視線を合わせようとしない。だが、こうして触れられていると不思議と頭痛が和らいだ……風香は静かに礼を言うと貴弘は頭を掴んだまま何も言わなかった。風香は嬉しかった……言葉は冷たいが貴弘の手は温かかった。

「そういえば、昨日速水さんから犬用品預かった」

「あ、そうなの? 嬉しい。……昨日速水さんと、デート?」

「……違う。たまたま会っただけだ」

 風香は貴弘が速水の名を出すと少し緊張することに気付いていた。付き合い出すのも時間の問題なのかもしれない。貴弘と速水は友達以上の関係なのは分かった。貴弘がこうして何度も仕事以外で会うのはいい印象を持っているからだろう。風香は心がチクリと痛んだ。

「私が留守の時に会わなくったっていいのに……気を使わないでよ」

「気を使ってんのは、どっちだ?」

 貴弘は突然風香をソファーの上で押し倒した。突然感じた貴弘の重みと仰向けになった自分の背中に感じるソファーの革の冷たい感覚に驚いた。一体何が起こったのか分からなかった。押し倒した貴弘は明らかに怒っているようだ。その瞳は真剣で冗談には見えなかった。風香は体を起こそうとしたがそのまま体重をかけられて起こせない。二日酔いのせいなのか押し倒されたせいなのかこめかみが拍動している……驚きすぎて声が出なかった。

「た、か──」

「気を使って、俺が彼女を連れ込めないから……か? それとも風香が男を連れ込めないからか? だから──なのか?」

「何、何が?」

 貴弘が舌打ちをするとリビングの椅子に置いていた風香のカバンから丸めた雑誌を取り出してそれをダイニングテーブルの上に置いた。風香がその雑誌を目にしてみるみる顔が強張っていく……。貴弘は説明をしろと言わんばかりに腕を組み風香の言葉を待っていた。その雑誌は賃貸情報誌だった……。

「近いうち、それこそ昨日……話そうと思ってたの……私、引っ越したいの。引っ越してそんなに経ってないけど……ごめん」

 貴弘は風香の言葉にショックを隠せない。覚悟はしていたが予想通りの内容に思わず奥歯を噛み締めた。

 


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