売り言葉に買い言葉

菅井群青

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20.口説き口説かれ 風香side

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「あ、えっと……今日は忙しいからまた今度で……あ、ちょうど冷凍庫の整理をしようと思ってたの」

「大掃除にはまだ早いだろ」

 風香は部屋を見渡してどうにかこの状況を回避しようと画策するが貴弘には効かないようだ。貴弘は風香との距離を詰める……ソファーが軋む音と布の擦れる音だけが聞こえる。テレビの電源をなぜ消してしまったのか後悔する……全ての感覚が鋭くなってしまう。貴弘の香りや太腿に当たった温もり……。二人掛けのソファーの片側に偏って座る私たちはどうかしている。

 風香は必死でどうこの場を切り抜けようか考えるがいい案が浮かばない。

 え……? ちょ、ちょっと!

 貴弘は私の手をぎゅっと握った。貴弘の視線はずっと私から離れない……あまりに真剣で言葉が出なくなる……。握られた手は大きくて温かくて自分の手とは全く別物だ。貴弘の親指が自分の甲を優しく撫でると恥ずかしさで顔が熱を持ったのが分かった。口説かれるのなんて初めてだし、それが初恋の相手だなんて世の中で私ぐらいだろう。貴弘に顔を赤らめているのがバレないように俯く。

「風香……」

 貴弘の柔らかい声が聞こえて顔を上げると頬に手が添えられた。鼻先が触れ合うほどの距離まで貴弘が近づく……風香はキスをされると思い目を瞑るがいつまで経ってもキスをされなかった。貴弘の息遣いは確かに感じる……。

 え……な、何?

 貴弘は無言のまま指先で私の頬や鼻先……唇へと優しく触れていく……貴弘の手が再び頬に戻ったのが分かると風香はゆっくりと目を開けた──目の前の貴弘はなぜか愛おしそうに私の顔を見つめていた。何も言わないのが余計に胸を高鳴らせた。心臓が痛くて痛くて仕方がない……。これは、口説いているの?

「……可愛い」

 貴弘が小さな声で囁いた。その言葉に風香は唇を結び耐える。キスをするよりももっと恥ずかしい。まさか貴弘の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。自分のことを言われているわけではないはずなのにこんなにもむず痒く、心臓が飛び出しそうだ。触れたい、見つめられたい、キスしたい──。

「風香、好きだ」

「……っ」

 貴弘は真剣な表情でそう呟いた。短くて、単純で貴弘らしい告白だ。私が何も言えずにいると体を屈めて額に口付けた。額に感じる貴弘の唇の柔らかさに思わず肩が震える……鳥肌が立つ……。目を閉じていると額、頬へとキスが降りてきた。キスの合間に貴弘は切なそうに言葉を紡ぐ……身を切るように本当に切なげで聞いているこちらまで胸が震える。


「好きだ」

「本当に……」

「頼むから……俺のものになって」

 風香は恥ずかし過ぎて目を開けた。思っていたよりも貴弘の顔がそばにあった。視線が合うと貴弘は目を瞑り風香の唇にキスをした。甘い、とにかく甘い。
 今までの荒々しいキスじゃない……ゆっくりと沁み込んでいくようなキスだった。風香は抱きしめられて背中を撫でられる。

 このままずっとこうしていられたらいいのに。貴弘とこうしていたい──。

 自分の心に湧き上がる気持ちに気付く。本当はもっと早くから想っていた。私は、貴弘が好きだ──好きなんだ。昔も、今も。

 風香は自分の気持ちに気づくと同時にこの恋は叶わないことを悟った。

 貴弘のこんな顔は、見たことが無い。私には見せない顔だ。きっと貴弘はこの口説きを香水の香りの人を思ってしているに違いない。私に向けられたものじゃない……。私の名前が呼ばれても、私を見つめていたとしてもそれは私じゃない……貴弘が口説きたい相手は、私じゃない──。

「……風香……」

「え……あ──」

 風香の目尻から涙が溢れると貴弘は驚き、顔を歪ませた。背中に回された大きな手も、触れ合っていた胸板も離れていき一気に寒くなる。
 貴弘は困惑していた。前髪をかき上げてじっと何も写っていないテレビ画面を見つめていた。画面には二人の姿が映っているだけだった。きっと意味が分からず困らせてしまった……貴弘は私に口説けと言われて従っただけだ……ただ、私が辛くなってしまった……。貴弘は私の頬に触れて涙を拭った。その表情は悲しそうで辛そうだった。

「ごめん、貴弘……」

「謝らなくていい。やり過ぎたな、悪い」

 貴弘は立ち上がると自分の部屋に向かって歩き始めた。風香は思わず立ち上がり貴弘の服の裾を掴んだ。一瞬貴弘が怯んだが、その掴んだ手を離させると吹き出すように笑った。

「風香を口説くなんて間違いだったな、おかしいよな、ただの幼馴染みなのに……忘れてくれ、恥ずかしいから」

 風香が声をかけようとすると頭を優しく撫でられた。その温もりはすぐに消えてしまった──貴弘は優しく微笑んだまま部屋へと消えた……その日は貴弘と顔を合わせることは出来なかった。
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