KNOCK

菅井群青

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21.もう一度

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 部屋に入ると屋外の気温よりも随分と暑い。長い間住み続けたこの部屋はいつも通りだ。少し歪んだ壁時計も、朝バタバタと出て行ったままのベッドも何もかも一緒なのに結衣は新鮮な気持ちで見つめていた。

 ドレスを脱ぎ、Tシャツとジャージに着替えると物置の引き戸に手をかける。もう随分とこの部屋を開けることはしなかった。掃除や家具を買った時だけしか開けることはしない。いつのまにか決めていた自分との約束だ。
 部屋の一角にある白い布に手をやるとゆっくりと引っ張った。布は思ったよりも軽くてあっという間に床へと滑り落ちていく。あまりに簡単すぎて結衣は笑ってしまう。

(どうしてこんな簡単なことができなかったのか……)

 牧田のあの言葉が結衣を奮い立たせた。

 悔しいだろう! 俺は……悔しい。【影花】を超えるものを創り出せばいい。模倣品だなんて誰も言わせないものあんたなら作れるだろ!?──立ち上がれよ!

 牧田の直球な言葉が結衣の心に刺さった。

 あの日、恋人の白川に【影花】を初めて見せた。白川が息を飲む姿を見て嬉しかった。

 短大でデザインを学んだだけの私と、立派な芸大出身の白川とではあまりにもレベルがかけ離れすぎている。そんな彼の【影花】を見る目に、少しでも認められたような気がして嬉しかった。

 彼は是非ともコンテストに出すべきだと言った。《Design.mochi》のデザイナーを補佐するためのスタッフとして就職しただけの結衣にとって、デザイナーをさし置いて申し込むことは出来なかった。現に、当時の結衣は仕事中にデザイン画すら描くことが許されない身だ。いつかデザイナーに昇格した時にこの【影花】をみんなに見て欲しいと思っていた。その時、白川は真剣だったが結衣の話を聞き納得したようだった。だから、まさかあんな事を彼が考えているとは夢にも思わなかった。

 ある朝彼がやって来て、知り合いの店に【影花】を飾ってくれないかと言ってきた。ずっとこの部屋にあるよりも、多くの人に見てもらう方がいいと提案する白川の説得に結衣は根負けした。
 二ヶ月間の約束で貸すことになり、その店にも結衣は足を運んだ。手の込んだ日本料理の数々に感動し、演出の一端を任された気がして胸が高鳴っていた。
《Design.mochi》のチーフとしての白川を、そして私の恋人である白川を絶対的に信用しすぎた。

 五ヶ月が過ぎた頃、昼頃に会社中が大騒ぎになっていた。慌てて雑誌を広げる同僚の後ろから何気なく覗いた。その雑誌には白川がトロフィーを片手に壇上で微笑む写真が掲載されていた。
 同僚たちが嬉しそうにその雑誌を買い求めていたようで、あちこちでその雑誌を手に騒いでいる。白川の隣のページには写真とともに受賞作の写真と文字が書かれていた。

【影花】作者  白川龍樹

 寒気がした。
 何だ? これは何なのか。
 自分の【影花】が写っているのに、それを白川さんが作った──?

 そんな馬鹿な、なぜこんな嘘が載っているのだろう。あれは今店に飾られていて近々戻って来る予定だ……。白川さんの紹介で──白川さんの……。

 私、白川さんに──騙されたの?

 白川が会社に現れた時に皆に祝福されている笑顔を見て結衣は何かが崩れ去った音がした。白川との交際は会社には内緒だった。その方がいいと思っていたが、今はそれが苦しい。
 ちらりと目が合った白川の瞳には結衣の姿など写っていなかった。

 白川のマンションに行き、泣き縋り【影花】を返してくれと懇願するが最初こそ優しく微笑み「君のためだ、僕が有名になって嬉しいだろう」と言っていたが、しつこく足にすがりつくと白川の仮面はほろほろと崩れていく。

「もう手遅れだ、【影花】はもう私のものだ。今更君が名乗り出て誰が信じる? そんな事をすれば君だってタダじゃ済まない。デザイナーの夢が絶たれるぞ」

 悪いなと言った白川の顔は二度と忘れない。なぜ今まであの男の微笑みを愛おしく思っていたのか。そこからどうして部屋に戻ったのか、覚えていない。


 随分と前の記憶なのに、まだ白川から浴びせられた言葉を鮮明に覚えている。今考えると馬鹿馬鹿しい。結衣はデニムの布で包まれた彫刻刀に触れる。柄の部分に残る黒いシミに触れるとぴたりと指の形に合う。台の下に重ねて置いたままの木を取り出し一本の筋を彫る。押し出して木の屑を指でつまみ匂いを嗅ぐ。大好きな木の香りで胸がいっぱいになる。再び刀を木に入れ込むと、涙で手元が見えなかった。
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