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第一章 

92.涙

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 晶は朝から山形の近辺を洗っていた。

 噂通り、性格は荒くて粗暴な上に大のヤクザ嫌い。ワーカホリックで親しい友人は警察関係者にはいないようだ。離婚歴があり息子が一人……と。それ以上はなかなか目新しい情報は入ってこない。やはり周りで情報をかき集めても限界だ。夕方まで待ち晶は山形の尾行を敢行することにした。

 仕事を定時で終えて警察署を出た山形は慣れた様子でとある小料理屋の暖簾をくぐる。こじんまりとした外観でガラスの引き戸のそばに小さな鹿威しが置かれている。小さな窓もなく中の様子は見られない。

 よし、そろそろ──行くか。

 しばらくして店内へと入っていく。入った角のカウンターに山形はいた。ほんの十数分でかなり酔いが回っている。酒が強いタイプではないらしい……ご機嫌でカウンター越しに女将に声を掛ける。

「女将、白滝を一つくれ」

「あいよ」

 小皿が何枚か置かれ、ビール片手にご機嫌だ。晶は離れた席に着くととりあえず注文する。着物姿で白の割烹着をつけた女将が「若いから力つけないとね!」と南蛮漬けをサービスしてくれた。味付けも濃すぎなくて家庭的で食べやすい。盛り付けられた唐揚げは皿の色とマッチしていて光り輝いて見える。

 女将はビールも一杯サービスしてくれた。ご厚意に甘えて頂く。

「あれ?……これって……」

注文した唐揚げを落とさないように皿を持ち上げる。店で使われていた皿は高人の作品だった。

あの晩も机いっぱいに高人の皿に盛られたご馳走が並んでいた。淡いピンクとブルーが上手く溶け合い今にも動きだしそうだ。この店の作品も新緑のような艶めいた緑が美しい作品だ。

「あ、気づいた? 若林先生のお皿よ。特別に店に卸して頂いているのよ」

 女将は菜箸を持ったまま嬉しそうに微笑む。山形を盗み見ると首まで赤く染まっている。ピッチが早いわけでもないのにあっという間に出来上がっている。

「女将、もしかして作者に会ったことあるの?」

「いえいえ、まさか! 縁があって使わせていただいてるの」

 山形は蕩けた瞳で吊り下げられたテレビから流れる野球中継を見ていた。しばらく様子を見ていたが誰とも話さずひたすら呑んでいるだけだった。

 これ以上いても意味がないかもしれない……。

 晶はそのままお会計をすませると店を出ていく。その背中を山形はちらりと一瞥したのち再びテレビへと視線を戻した。

 アルコールが入ったら頭を冷やすため歩いていると拳人から連絡が入る。晶はその足でタクシーを拾い約束の場所に向かった。もちろん、オレンジジュースを買いに行くのも忘れない。警察は相変わらず張り込みを続けているようだ。

 屋敷に着くと拳人は自分の部屋へと晶を通す。茶色のソファーに腰掛けると部屋にはジャズの音楽が響いていた。紺のスーツに銀縁の眼鏡がこの部屋と音楽にマッチしている。仕事のできる若手社長のようだ。今晩は拳人一人だけのようだ。

「ご苦労だったな」 

 拳人が晶から微かにビールの匂いを感じ取ると呆れた様子だ。

「病み上がりのくせに……あまり飲むな」

「すみません……」

 本来なら電話で済むが、せっかくなのでこの場を借りて報告する。山形の件を報告すると拳人は複雑な顔をしていた。あんな態度の男でも私生活を知ると不憫に思えたのだろう。

「仕事中毒な男はつらいな……家族の支えが欲しいだろうな」

「ええ……。あと、何か用事がありましたか?」

 晶の声に拳人は咳払いをして晶の向かいに腰掛けた。少し緊張しているようだ。

「話というのはお前の霊力の事なんだが」

「はい……?」

「……ここだけの話だが、俺の母親は……まだここにいるのか?」

 晶を見つめる瞳には希望と不安が混ざり合っている。いないと言えばきっと、成仏できてよかったと言うだろうが……本音はここにいて欲しいと思うだろう。
 晶が黙っていると拳人が晶から視線をそらした。声にしなくても晶の表情で悟った。

「若──お母さんはもう、成仏されていると思います」

「そうか……すまない。ただ、確認したかったんだ……この状況を母さんが見れば悲しんだだろうから。だから、俺のそばにいなくて、本当に良かったよ……」

 拳人が少しずつ言葉を紡ぐ。その姿は悲しみに溢れていた。言葉に出せない思いが伝わる。友人として、メゾンとして慰めたい気持ちになる。

「……若、メゾンさんに会いたくないですか?」

 きっと酔っていた──病み上がりで酔いが回りきっていたんだと思う。

 そうじゃなきゃ、こんな事聞けなかった。自分の口から出た言葉を違う誰かが発したように感じた。過ちを犯したと気付いたのは拳人の声が聞こえてきた時だ。

「メゾンは、良いやつだった。俺はヤクザだと言いたくないほど。だからもう会いたくないんだ……。俺はヤクザだから」

「……ヤクザと知ってもメゾンさんがそれでもいいと言われたら? 側にいたいと言われればどうしますか……?」

 言葉の最後の方は尻込みしてどうしても小声になってしまった。晶は俯いた……。拳人は腕を組んでしばらく無言だったが首を横に振ると少し笑った気がした。寂しげな、そんな笑顔だった。

「そうだとしても、俺はアイツともう会う気はないんだ……」

(メゾンには普通の世界で笑っていてほしい……幸せになってほしい……こんな危険な世界にいちゃダメだ……)

 拳人は晶に自分の気持ちを吐露してしまい戸惑っているようだった。

「なんでお前にこんな話をしているんだろうな」

拳人は恥ずかしそうに微笑んだ。晶は拳人の笑顔から目が離せない……それ以上は何も言えなかった。

「あー、なんだ、メゾンは……元気か? アイツはタフでどこでも生きていけるやつだったから大丈夫だろう」

 拳人はメゾンとの思い出を思い返しているようだった。

 拳人は──気づいているのか、全て過去形で話していることに。敢えてそうしているのか、自然とそうなったのかは分からない。思い出を振り返るような目をしていた。

「──お元気、そうですよ。そう聞いています」

 自分でも驚くほど明るい声が出た。上手く笑えただろうか、顔がうまく動いていない気がする。いつか私がメゾンなんだと、謝って、そして言えなかったあの言葉を伝えれる日が来ると信じていた。

 決して言ってはいけないその言葉が胸の中を叩く。

「──メゾンさんから、伝言があります」

「……なんだ? メゾンから……?」

 拳人の目が鋭くなる。目の前の湯呑み掴み一口茶を口に含むと晶の言葉を待っている。

「隠し事ばかりで、ごめんなさい。大切にしてくれたのに、ごめんなさい──あなたが好き、だった」

「なんだ、と?」

 晶は拳人が苦しまないように過去形で話す。晶が消息を絶って拳人は本当に辛そうだった。もうあんな姿は見たくない。 

 晶はもう、このまま拳人の前にメゾンとして姿を現さないと決めた。

「さようなら、トモ──」

 拳人が瞬きを繰り返している。何かをじっと耐えているような、焦るような表情で晶から視線を外せない。

「……と仰っていました。確かにお伝えしました。失礼します」

 晶はそのまま一礼すると屋敷を飛び出して夜道を走りだした。なぜかジェイや銀角たちは姿を現さなかった。こんな顔を見たら馬鹿にするに決まっている。きっと…そうに違いない……。

 街灯の光がゆらりとぼやけている。歩道の四角のタイルも丸く、全てがぐにゃりと歪みだした。この世界の全てがぼやけて真実さえも覆い隠してくれなければ、私はそばに居られない。

 どうかこのまま覆い隠したままでいてほしい、私の気持ちとともに──。
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