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(13)ノクチルカ 〜 いのちの光 〜
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拓実は今朝も、モヤモヤというよりはモンモンとした思いで目が覚めた。
しかし別に心に病や影を持っている訳ではない。
むしろ逆かもしれない。
彼は自身で自覚するほど他人より性欲が強かったが、それを発散できずに持て余していた。
それゆえの心の乱れであって、25歳の男として健康な証とも言えなくもない。
ただそれが彼を悩ますのは、単純に性欲だけの問題ではなかったからだ。
性欲だけが原因だったら、毎晩寝る前に動画でも観ながらブッ放せばだいたい解決できる。
しかし心を癒やされたい、心の「空腹」を満たされたいという渇望にも似た思いを強く抱えていた。
もはやそれは「恋」ともいうべき状態だった。
しかも強く激しく純粋な。
その原因を作った10歳上の女性とは一夜限りの逢瀬だったが、「永楽桃子」という名の彼女の名刺を、彼は持っている。
彼女は世間一般ではほぼ無名ながらデザイナーで、携帯の番号も、メルアドも、SNSのアカウントまで名刺に載っている。
そこに連絡したいが、おそらく彼と同じく一夜限りのつもりだっただろう彼女には迷惑な行為だろうとは分かっているつもりだった。
連絡しても返事はないだろうし、それでより一層苦しむだろうという思いもあった。
そのように連絡先を知りながら自制している状況に、彼は苦しんでいた。
苦しみながら、闇夜の海面に現れた夜光虫の光のような泡沫の思い出を心の中で何度も反芻しながら眠りにつき、そして苦しみながら目覚めることを繰り返していた。
・・・
半月ほど前、彼は上司と泊まりがけの出張に出た。
拓実にとって、社会人になって初めての本格的な出張だった。
彼は中堅の水処理装置メーカーのセールスエンジニア。
全国に星のように散らばる顧客のフォローをし、同時に並行して新規顧客を開拓する。
今回の出張の途中で彼は、午前中に立ち寄った顧客からの急な要請に伴う予定の変更で上司と別れ、ひとり内湾航路のフェリーに乗って都市のホテルで一泊することになった。
そのホテルには上司とそれぞれ部屋を取っていたが、上司はそれをキャンセルするという事だった。
宵闇迫る港で現地行動用のレンタカーから降ろされ、対岸の都市・・・小一時間の航海を要するのだが、そこへ向かうフェリーに乗った。
本来なら、上司と一緒にレンタカーごと乗り込んでいたフェリーだったのだけれど。
春も盛りで、桜前線も関東を通り越して東北へ向かおうという時期だった。
暖かいので、客室には入らず遊歩甲板で過ごすことにした。
ほぼ定刻に、出港。
防波堤の灯台を過ぎてフェリーは速度を上げ、遊歩甲板にはやや冷たい風が吹き抜けた。
拓実のようにそこで過ごそうとしていた船客はひとり、またひとりと客室に消え、後には彼ひとりが残された。
・・・いや、もうひとりいた。
長い黒髪をきれいな髪留めで首の後ろで束ね、それを海風になびかせる女性が、甲板の端にある柵越しに暗い夜の海を眺めていた。
旅行中なのだろう、粗編みのニットの上着にスキニージーンズという出で立ち。
ついつい彼は、体型に密着したジーンズによって顕されたその女性のヒップラインの優美な曲線に目を奪われてしまう。
年齢は後ろ姿で見た感じ彼よりもひとまわりくらいは上だろうけど、いやそれだけの年齢を重ねた凛とした美しささえ見て取れた。
彼は、女性のからだの中で特に「お尻」にそそられるタイプだった。
それまで付き合ってきた女性とのセックスでは、バックがいちばんの好みだったくらい。
そのため、たまたまの行きずりの顔も知らないその女性の後ろ姿を見ても、そのお尻に見とれてしまった。
(うしろからパンパン突いたら、最高だろうなぁ・・・)とかなんとか、そんな邪な思いとともに。
しかし彼はそのうちに、女性の不振な挙動に気が付いた。
柵越しに海を眺めながら時折、海の方に身を乗り出すような事を何度もしていた。
拓実はハラハラした・・・あのきれいなお尻ごと、海に飛び込んでいってしまうのではなかろうかと。
彼はベンチから立ち上がり、その女性から少し離れたところから海を覗いてみた。
いや本当は当然、海を覗くふりをしながらその女性の様子を伺おうとしたのだが。
しかし海面に目をやった途端、彼は目を奪われてしまった。
夜の海面は当然真っ黒いのだが、船が蹴立てる波がその中に白く浮かび上がっていた。
いや、正確には波が青く明るく光りながらフェリーの後ろに遠ざかる光景を目にしたのだ。
(こ、これは・・・?)
初め、この世のものとは思われない光景に見えた。
真っ黒な海が船首で切り裂かれ波が生まれるが、その波が明らかな青い光を放っているのだ。
青白く光る波は舷側を通り過ぎ、船尾の向こうでその光を徐々に失っていく・・・。
彼は呆気にとられたように、その青い光が生まれて消えるまでの一部始終に目を見張った。
「あの女性」は、これを見ていたのか・・・!
ひょっとすると身投げしようとしていたんではないかと疑っていた自分が恥ずかしかったが、しかしそれは彼自身の心のうちにしまっておくことにした。
そしてそれを眺めるうちに、ふと「あの女性」と目が合った。
思わず照れ笑いする彼に、女性も頷きながら微笑みを返した。
彼は女性の方へ近寄っていった。
いや、女性の方も彼に近付いてきたので、声をかけてみた。
「きれいですね・・・なんでしょう、これは」
「ノクチルカ・・・夜光虫ですよ、これは。東南アジアの紀行文を読むとよく出てくるんですけど、今の時期、この辺りの海でも現れるんですよ」
「へぇ・・・ヤコウチュウ・・・」
「植物性のプランクトンで、衝撃が・・・たとえば船に当たった波に揉まれるとかすると、こんな光を出すんですよ」
「へぇ・・・そうなんですね。不思議だなぁ」
「ふふふ・・・そうでしょうね。理屈を知っている私ですら、不思議で神秘的な気持ちになれるんだから。言ってみれば、『いのちの光』でしょうか。荘厳ささえ感じさせられます」
気がつけば、拓実とその女性は肩が触れ合うほど近付いていた。
無意識のうちに手を回したくなるのを、慌てて制する。
初対面の女性の肩に手を回す・・・どうしてそのような行為に走ろうとしたのかと、彼自身非常に焦った。
しかし唯一その答えとして彼が感じたのは、彼女に対する共感だった。
ヒップラインがきれいだとしても、ひと回りくらい年の離れた女性にどうしてそんな感情を無意識に持ってしまうのか。
理屈っぽく考えようとする彼の目の前で船が大きな波を割り、ひときわ鮮やかな青い光が生まれて目の前を後方へと流れていった。
「わぁ!」
ふたり叫んだのは、同時だった。
光が船尾の方で消えるのを見届けてから、女性の方から声をかけてきた。
「見ました? 今の、すごかったですねぇ!」
「いや、本当に・・・夏の花火を思い出しちゃいました!」
「花火・・・花火、たしかにそうですね。鮮やかで、そして儚くて・・・でも私、別のものを思い出したんですよ」
「なんです?」
「当ててみてください」
女性は含み笑いをして見せた。
離れたところにある照明の光を受けたその表情が若い娘どもには真似などできなさそうなくらいコケティッシュで、彼は焦りとともに体温が上がるのを感じた。
「・・・分からないです」
「私は子供の頃に見た、夏祭りの縁日の露店で売っていた光る輪っかとかボールとか、そういうグッズが暗闇の中で光っている様子を思い出しましたよ」
「へぇ・・・」
よく分からないが、それがその女性なりの感性から出たものだろう。
なんだか、それはそれで尊重しようかという気分になった。
その間にも船は進み、青い光はふたりの目の前を流れていった。
女性はボディバッグからカメラを取り出し、撮影を始めた。
「それにしてもきれいだなぁ・・・」
拓実の独り言が、船のエンジンの音や波の音、風の音をくぐり抜けて女性の耳に届いたらしい。
相槌を打つように、女性は言った。
「でも、この船に乗っている人のほとんどが客室にこもってしまって、この光景を見ていないんですよ。もったいない」
「いや、ほんと」
大勢の船客の中で、ひょっとしたらふたりだけが光景を共有できている・・・それは心躍ることだった。
しかし・・・彼は残念な思いだった。
船が進む先には、目的地の街の明かりが迫りつつあった。
到着したら、ふたりは離れ離れになってそれぞれの明日を生きていくことになるのだ。
そこへ、女性が話しかけてきた。
まさに渡りに船だった。
「このフェリーには、車で乗ったんですか?」
「いいえ・・・だから、連絡バスに乗って市街地まで行くんですよ」
「ところでこちらへはお仕事で? 地元の方ではないですよね?」
「そうなんですよ。だから、勝手も分からないし。・・・一応、駅前のホテルは予約してあるんですけど、駅への行き方も不安だし」
「・・・なら、駅前までだったら私の車で送りましょうか?」
「ええっ、いいんですか? でも悪いですよ」
形だけは遠慮したが、この女性と共有する時間が新たに得られるのならば誘いに乗らない手はなかった。
女性も、大仰に首を横に振って見せた。
「悪いなんて、とんでもない。私もひとりで淋しいし、あなただって楽なんじゃないですか?」
「甘えちゃって、いいんですか?」
子供の頃に嫌というほど聞かされた「知らない人についていってはいけません」のフレーズが、心の中にフラッシュバックする。
しかし恐縮して見せながら、心の中では(しめしめ)と思っている。
軽快な音楽とともに、到着が近い事を知らせる船内放送が自動音声で流れた。
ふたりは、船底の車両甲板への階段を降りていった。
・・・
女性が乗ってきたという車は、福岡ナンバーの赤いアルトだった。
拓実は助手席のシートベルトを締めながら、訊いた。
「地元の方ではなかったんですね、そちらも」
「ええ。取材と言うか、素材探しの旅行なの」
「えっ、なんか、そういうお仕事されてるんですか?」
「・・・まぁ、デザイナーの端くれみたいな事してるけど。デザイナーと言っても、ウェブデザインしたり、自費出版本の装幀とかしたり、建物の内装のデザインしたり・・・広く浅く、デザインのなんでも屋みたいな事だけど」
そこで初めて、桃子という彼女の名前を知った。
専門学校で建築意匠の勉強をし、卒業後に福岡のデザイン会社に勤めてから数年前に独立したとも話してくれた。
話しながら、桃子は慣れたふうに夜の幹線道路に車を走らせた。
夜光虫の幻想的な光とは異なる街のまばゆい明かりを横目に彼も初めて名を名乗り、仕事の説明をした。
「へぇ・・・セールスエンジニア、ですか」
「はい、『技術営業』とも言いますが、日本語では。技術的な側面から営業チームをサポートしたり、納入した装置のトラブル解決や改善の提案をしたり・・・」
「なんか、すごくかっこいいですね! 憧れますよ」
「そうですか? へへ・・・」
いい気になって、思わず顔がにやけてしまうのが自覚できる。
そこで彼は、桃子に訊いてみた。
「ところで、どこに泊まる予定なんですか?」
宿が近ければいいなと、多分に下心を抱きながら。
もし近くだったら、送ってくれたお礼という名目で夕食に誘ってもいいかなという思いも一緒に。
「それが、まだ決まってないんですよ。行きあたりばったりの旅だから」
「・・・あ、それじゃ、僕が泊まる予定のホテル、当たってみましょうか? 上司がキャンセルしたはずだから、そこが埋まっていなければ・・・」
「わぁ、嬉しいです! いいんですか?」
「お安い御用ですよ! 送ってもらったんだから、当然です!」
体よく断られるかなと思いながらの提案だったから、桃子の肯定的な反応が意外で、いやそれよりも嬉しくもあった。
あまりの幸運に震える指でスマホを操作し、ホテルに電話。
運良く、シングルが空いていた。
桃子の名前をスタッフに伝えて、予約完了。
「ありがとうございます! 最近感染症の行動制限が緩和されてから、予約が取りづらくなってきてたんですよ。おかげで今夜は車中泊しなくても良くなりました」
「えっ、車中泊とかするんですか?」
「しますよ。で、朝になったら開いている銭湯に行って体を伸ばしたり・・・あと平日だったらラブホが結構空いているので、そこに一人で泊まったりとか」
さりげなく出てきたラブホという単語にドッキリしたが、それも含めて行動的なんだなと新たな彼女の魅力に触れた気分だった。
そのうちに、車は駅前までたどり着いた。
ホテルと提携している立体駐車場に車を停め、並んでホテルに向かった・・・ラブホでないのが残念だけど。
そこは本当は一緒に泊まるはずだった上司が定宿にしていて、朝食のコンチネンタルブレックファストの素晴らしさを聞かされていた。
やはりその上司のキャンセルした枠が当たったのだろうか、部屋は隣どうしだった。
それぞれの部屋に入る前に、桃子は拓実を誘った。
「ここの地下に良さげな居酒屋があるみたい。晩ごはんついでに、ちょっとだけ飲まない?」
「いいですよ・・・いいですよ、もちろんおごります!」
「だめだめ。ご馳走してあげるから」
「ええ・・・でも・・・」
「年長者がおごるって言ってるんだから、大人しく従うべきじゃない?」
そこで彼はハッとした。
そう言えば車の中の会話で、桃子は彼よりちょうど10歳も年上だと知ったのだった。
けれども彼女と一緒にいておしゃべりしていると、すこしも年齢差を感じないのだった。
外見とは関係のない、魂のレベルでの結びつきをどうしても感じてしまう。
・・・
翌日は拓実は始発のフェリーで渡ってくる上司と合流して出張の続きの客先回り、桃子も車の運転があるというのでさほど飲まなかった。
ただ、郷土料理の数々を堪能しながらのおしゃべりは酒がなくても楽しかった。
楽しい会話の合間に桃子は時折、ふと落ち着いた表情を見せる瞬間があった、
そんな円熟した大人の雰囲気も、拓実には魅力的に映った。
いい気分で店を出たふたりが、寝る前のひとときを同じ部屋で過ごしたのは自然の成り行きだった。
誘ったのは桃子だったが、彼女が誘わなくても拓実が誘っていただろう。
先に桃子がシャワーを浴びた。
髪を後ろで丸く結び、バスタオルを巻いて浴室から出てきた彼女は拓実に身を寄せた。
「ね、私・・・この下には何も着けてないのよ」
挑発しながらも少女のようにはにかむ彼女の肌は、しっとりと潤っていた。
そして彼を抱き寄せてキスをしてきた・・・はじめはほんの軽く・・・しかし桃子の舌は生き物のようにうごめいて拓実の口の中に入ってきた。
彼も舌で応え、互いに手を回し、体ぜんたいで絡み合う。
しかしネクタイを外しているとはいえ、服は着たままだ。
「拓実くんも、シャワーを浴びてらっしゃい・・・私、待ってるから」
彼は桃子に従い、浴室に向かった。
棚の片側には彼女が脱いだ衣類や下着が畳んで重ねてあり、もう片側の空いているところに自分のものを畳んで置いた。
はやる気持ちを抑えながら、熱めのシャワーを浴びる。
しかし浴室を出る段になって、はたと困った。
シングルルームだから、バスタオルは1枚しか無くそれは桃子がからだを巻くのに使っていた。
脱いだものを下着だけでももう一度着けようかと思ったが、しかしベッドで待っている桃子はバスタオル以外は何も着けていないと言ったではないか。
仕方なくフェイスタオルで前を隠すようにしてドアを開けて部屋に戻ったが、しかしいかにもこれからコトに及ぶ格好という気もしてひとりで興奮してしまう。
それに合わせて股間あたりに血流が集中してしまうのを感じ、ジロジロと見られないように素早くベッドへ。
ベッドの上で半分めくった上掛けに脚を突っ込むように、桃子はバスタオルを巻いたまま仰向けになっていた。
ちょうどベッドの半分を拓実のために空けるようにしていたので、彼もそこに横になる。
横になりながら、ついつい彼女に腕枕をしてしまう。
もうこれは彼の癖・・・今まで付き合ってきた女性たちはみんな彼の腕枕で安らかな表情になっていたので、それが見たくて、そして安らぎを共有したくてついつい腕を差し出してしまうのだ。
桃子も、年上であるのをすっかり忘れたように甘え顔で頭を寄せてくる。
拓実はもう片方の手で彼女の肩を引き寄せ、互いの顔が至近距離で正面を向いた。
「拓実くん、今夜・・・こんな事まで付き合ってもらって、本当にいいの?」
「僕だって嬉しいです。桃子さんみたいに魅力的な人とひとつになれるなんて」
「魅力的・・・? お世辞だとしても、嬉しい」
桃子はとろけそうな顔をさらに寄せて、キスをしてきた。
それに応えてから、拓実は気になっていた事を訊いてみた。
「でも実は僕、コンドーム持ってないんです」
「・・・大丈夫よ。私、避妊薬飲んでるから・・・あっ、でも誤解しないで。私もともと生理が重くて、そのために」
「誤解なんて、しませんよ」
「それから病気も気にしないで。私、偶然出会った人とこんな事になるなんて初めてだから・・・」
初めて・・・本当だろうか? 拓実の頭に疑問が過ぎったが、それはすぐに霧散した。
いま桃子は彼に向かって心も体も開いていて、そんな彼女の全てに向かって彼は進んでいくしかなかった。
彼は桃子の首筋、耳たぶ、乳首に繰り返しキスをしながら、背中、腰、豊満なお尻、そして性器へと愛撫を重ねた。
彼女の肌は手のひらに吸い付くような感触がしたが、それは肌が持つ質感によるものか、彼女の心にまで密着しようとする彼の心がもたらしたものかは、分からない。
「あっ・・・あっ、あっ・・・ああ・・・」
すでにバスタオルも外れてしまい全裸となった桃子に、拓実は愛撫するように全身の肌を擦り寄せる。
彼女も彼の性器を扱くように掴み、あるいは陰嚢を手のひらで包むように弄る。
「そろそろ、ちょうだい・・・拓実くんのモノで、私イキたいの・・・」
桃子が訴えかけるように呼びかけたのは、彼女が上のシックスナインをしている最中。
拓実は彼女の完熟したような性器に顔を埋め、貪っているところだった。
襞のひとつひとつは厚く充血し、それに這わせていた舌を引っ込める。
そして軟体生物が蠢くようにヒクヒクしながら露を溢れさせるその中心を、じっと見つめた。
いつまでたっても返ってこない拓実の返事を待たずに桃子は彼の腰に跨がり、斜め上を指向して屹立する性器を手で自分の入り口に充てがうとゆっくり腰を下ろしていった。
拓実にとってコンドームなしで女性に接するのは初めての経験で、性器が桃子の熱く濡れた粘膜に直に触れる快感と心理的な快感とが相乗効果をもたらす。
「ああ・・・(桃子さん・・・)」
「あ・・・ああ・・・」
拓実が桃子の中に完全に収まってから、彼女はいったん静止した。
彼に体の芯を貫かれて固まったような、桃子の肉体が目の前にそびえるようにして在った。
彼女は日ごろジムトレーニングやヨガで鍛えていると言っていたが、確かに体はよく締まっており、加えて年齢相応の貫禄も漂わせていた。
さらに瞳は潤み、ふくよかな顎のふくらみもまた印象的だった。
桃子は拓実を見下ろした。
彼女を見上げながら、思わず呟いた。
「きれいです・・・桃子さん」
「またお世辞を・・・」
言いつつ桃子は自分の性器にわざと力を入れ、彼の性器を絞るように締め付けた。
妖しく笑いながら、2度、3度・・・そして、腰を前後に揺すり始めた。
「うっ・・・!」
拓実は自分の気を逸らそうと、そして桃子を責めようと、手を目の前の両の乳房に伸ばした。
手のひらで包み、指先で乳首を転がす。
しかし彼女は腰を振りながら上体を前に倒して拓実に覆いかぶさり、体の前どうしを軽く密着させて彼の動きを制した。
彼女のキスまで受けて、目を閉じてすべてを委ねるしかできなかった。
彼の性器は桃子の体の中の闇を突き進み、その先端からはノクチルカのような青いいのちの光が発せられているような幻が彼の脳裏に浮かんだ。
そして、ふたり同時に心を融け合うような快感の中で、彼は桃子のからだの中に思い切り射精した。
・・・拓実はその夜、部屋に戻らずに桃子と一緒に裸で身を寄せ合うようにして眠った。
心から安らげる、幸せな眠りだった。
そして翌朝、再び交わった・・・今度は彼の大好きなバックで。
桃子はイクまで、獣のように悶えようとするのを必死に我慢していた。
その後はそれぞれシャワーを浴び、フロント脇の食堂でコンチネンタルブレックファストの朝食を一緒に取り、そしてそれぞれの日常へ戻った。
別れ際に、半分おどけて名刺交換などしたりして。
・・・
桃子のことが忘れられないままの日々、それはなんとも味気なくて乾いていて彩りもない世界だった。
そしてある日の終業間際、拓実は先日の出張で行動をともにした上司に自販機コーナーに呼ばれた。
「どうした、最近? 心ここにあらず、てな感じじゃないか、まさに」
冷たい缶コーヒーを手渡しながら、聞いてきた。
そもそもはその上司の予定変更が発端だったが、それを答えるわけにはいかずに俯いた。
「・・・なんでもありません」
「なんでもないわけないだろうが。顔色も悪いし、他のみんなも気にしているけどな」
「・・・個人的なことなんで」
「なんだ、やっぱり原因があったか・・・まぁしかし、プライベートに立ち入るつもりはないからな。でも何か相談事があるなら、言ってみろ。失恋と借金以外だったら、聞いてやれないこともない」
「・・・いえ、今はいいです」
「そうか・・・けど、いつでも言ってこいよな。このままじゃ、会社にとってもよろしくない」
そのまま上司は未開封の缶コーヒーを持ったまま、喫煙所の方向へ去っていった。
拓実は同じく未開封の缶コーヒーとともに、自席に戻った。
パソコンのキーボードの前に、宅配業者の薄い包みが置いてあった。
おそらくは会社に届いたものを総務部の誰かが持ってきたらしいのだが、若手の彼に直接そのようなものが届くのは珍しい。
その包みの差出人を見て、拓実は心臓が激しく跳ね上がるのを感じた。
デザイン事務所の名前・・・桃子の個人事務所から届いたものだった。
軽い気持ちで渡した名刺を頼りに送ってきたのだろう、品名にはもっともらしく「販促用グッズ見本」とあった。
職場に送るのだから、怪しまれないようにカモフラージュしたつもりだろう。
しかし、販促用グッズとは・・・?
彼は自分の仕事を『技術営業』と説明したと覚えているが、『営業』の部分だけが彼女の記憶に刻みつけられたのだろうか。
早く開けてみたいが、職場だ。
中に何が入っているかは分からない。
処理すべき仕事はあったが、今日中にというものではない。
上司が喫煙所から戻ると彼は「今日は帰ります」と告げ、就業時間きっかりに職場を後にした。
夕方のラッシュで混み合う地下鉄に揺られながら、彼はカバンの中に忍ばせた包みのことを気にし続けていた。
一夜限りでもう二度と会えないかもしれないと思っていた桃子からの、直接のメッセージ。
早く開けて見たい・・・各駅停車の地下鉄が、これほどもどかしく思えたことはなかった。
自宅最寄りの駅に着くと、夕食の買い出しもせずに自宅のワンルームマンションに直行。
はやる気持ちを抑えながら・・・包みごとビリビリと引き裂いて中を取り出したいという欲求をこらえ、桃子を想いながらハサミで丁寧に開ける。
そうして深呼吸してから取り出したのは、白い封筒に入ったポストカードと一筆箋だった。
「おお~・・・」
ポストカードの1枚目、それに彼は思わずため息とともに小さな声をあげた。
あの夜の海のフェリーから撮ったと思われる、ノクチルカのいのちの光に彩られた波の写真を使ったポストカードだった。
それも、多重合成のような処理をして青白く光る波を暗い海の上に効果的に重ね合わせ、静止画なのに光が流れているように見える。
見た途端に心に光が波とともに生まれて通り過ぎ消えていくような、幻想的な一枚。
他のポストカードは街の夕明かりや農村の道端の道祖神などの風景などで、それはそれで良かったがノクチルカと比べるとどうしても見劣りしてしまう。
そして拓実は、桃子と過ごしたあの一夜の記憶も鮮烈に思い出した。
年上らしく落ち着いていて、そして彼の心も全身も包み込んでくれるように懐が深かった桃子。
会えないかもしれないと思っていたのに、こんな形で会えるとは。
心の中にフラッシュバックするノクチルカの燐光を感じながら、一筆箋にも目を落とした。
ふたりの間に秘められた行為に直接は触れないが、あの夜のお礼が綺麗な字でしたためられていた。
(会いたい! また会いたい!)
渇望に似た気持ちが、また激しく沸いてきた。
一筆箋の隅に貼られたQRコードのシール・・・いいように解釈すれば、彼女こそ彼と連絡を取りたがっているのではないか?
拓実はスマホにそれを認識させた。
しかし画面に現れたのは、彼女に思い焦がれながら何度も開いた彼女のインスタグラム。
(いや・・・それでもやはり僕を呼んでいる!)
それは確信だった。
迷わずメッセージを送った。
彼女と同じように礼を述べ、そして「こちらに来るようなことがあれば連絡ください 桃子さんさえ良ければ 待ってます」の一文を添えた。
社交辞令ではない、本当の思いが伝わることを祈りながら。
そして数分も経たずに、返信があった。
「ありがとうございます。
そう言っていただけて、嬉しいです。
とってもとっても。
実は再来週に仕事でそちらに行きます。
会えたらいいですね。
予定が固まり次第、連絡しますね」
あまりの喜びに、彼は持っていたスマホを多少の力を込めて放り投げた。
幸いベッドの上にそれは着地し、壊れずに済んだ。
・・・
それからの2週間は心も明るくなったし、見るもの、聞くもの、感じるもの全てが光り輝き躍動していた。
これを恋と言うならば、それまでの人生におけるいくつかの恋愛なんて子供のままごとに等しいようにも思えた。
店は、新鮮な魚と全国の地酒や焼酎が売りの居酒屋の、2人向けの個室を予約した。
もちろん、今度は彼が支払いするつもりだった。
そして迎えた、約束の日。
ほぼ時間通りに、桃子はやってきた。
週末前の駅前の家路を急ぐ人の群れの中でも、彼は彼女を見つけ出すことができた。
軽く手を振ると、彼女は急ぎ足で彼の目の前まで近付いた。
「お久しぶりです」
「こちらこそ、よく来てくださいました」
「お仕事の打ち合わせが思ったより長引いてしまって、遅れるんじゃないかと思って急いで来たの」
「どんなに遅くなっても、待つつもりでしたよ。ところで、仕事はうまくまとまりそうですか?」
「ええ、まだ表立っては言えないけど、いままでで一番大きい仕事を任されそう」
「・・・それじゃぁ、立ち話もなんですんで、食べながらゆっくり話しましょうか」
ふたりは繁華街の雑踏をかき分けるように、店まで歩いた。
そしてあの夜の、地下の居酒屋の続きのような、楽しいひととき。
しかし仕事で大きなチャンスを掴みかけた桃子は、あの夜よりも明るく饒舌だった。
彼も楽しく、彼女と会話を弾ませた。
そこで桃子がトイレに立ってひとり取り残された時に、前触れもなく突然ある疑念・・・直感のような疑いが浮かんできた。
・・・実はあの夜、彼女の表情には明るさの裏に翳りがあったのではなかったか?
どこからどうしてそんな思いが飛び出してきたのか、分からなかった。
スルーしようと自分で思ったが、しかしそれができないまま、考えた。
あの時の彼女が見せた落ち着きは年上の女性ゆえのものなんだろうなと、あの時は感じたかもしれない。
けれども今の桃子にはその落ち着きがまるでない・・・仕事の喜びで舞い上がって隠されているのではなく、元からなかったかのように。
そういえば、彼女はフェリーで暗い海を眺めていた・・・あの暗い海に身を乗り出して、波とともに消えゆくノクチルカの光・・・いのちの光を見送っていた。
・・・まさか?
氷だけになった焼酎のグラスをカラカラと揺すりながら、拓実は心が沈みかけるのを感じた。
そこに戻ってきた桃子は、彼を見逃さなかった。
「どうしたの?」
「・・・なんでもないです」
「なんか暗い顔して」
「いや、ただ、今日の桃子さんこないだより楽しそうだなって。仕事がうまく行きそうだからかな、なんてしみじみと」
桃子はしかし、複雑な笑みを浮かべた。
そしてしばらくの沈黙の後、告白するように彼に言った。
「実はね、私、拓実くんに感謝しないといけないのよ」
「・・・感謝?」
拓実は訝った。
桃子は半分残った冷酒のグラスをあおった。
「拓実くんは、命の恩人かもしれないから」
「・・・どういう意味ですか?」
「私、あの夜、死んでいたかもしれないから」
「えっ!」
「驚くのも無理ないわね。でも、本当に死んでいたかは分からない・・・仕事でスランプに陥って、実家の母親が亡くなって、長く付き合ってきた彼氏とも別れてしまって、いろいろと寂しくて・・・何をやってもダメ、もがけばもがくほど悪循環に嵌ってしまって・・・夜の海を見ているうちに、波がおいでおいでと呼んでいるような気がして・・・でもやっぱり、死ぬのは怖かった」
「はぁ・・・でもあの波、きれいだったじゃないですか。あの波が、呼んでいたんですか?」
「船の舳先で生まれて、ずっと後ろの彼方で消えていくその繰り返しが、人の一生のように思えてね。それで私も波と一緒に消えていってしまいたい、でも死ぬのは怖い、その間でフラフラしていた時に、拓実くんが目の前に現れた」
身を乗り出していたのはやっぱり、そうだったのか。
拓実は背筋に冷たい汗を感じた。
「で、人の目があるせいで死ねなくなっちゃった。そして一緒に波を見ているうちに、寂しさを紛らせたい、心を癒やされたい、ただそれだけで拓実くんに近づいたっていうわけ」
「そうだったんですね。でも、その後は楽しかったですよ」
「私も、楽しかった。もう少しだけ、生きててもいいのかなぁと思った。・・・違う、もう少しだけ、じゃなくて・・・」
そこで桃子は一瞬、遠くを見るような目をした。
そして深い息に続けて言った。
「あの晩、私、避妊薬飲んでるから大丈夫、って言ったよね・・・覚えてる?」
「はい・・・」
「実はあれ、嘘だった」
「嘘って・・・」
「私は私自身で『賭け』をしようとしていたのよ。もし妊娠したら、もう私一人の命じゃないから、死ぬのは止めようと」
「もし妊娠しなかったら・・・?」
拓実は、腹の底に重苦しい緊張と、額に脂汗が浮かぶのを感じた。
しかし桃子は、またため息を吐いて続けた。
「それは、分からない。でもそれほどまでに、私は死にたいと思っていて、でも実のところ生きたいと迷っていた。そんな賭けに拓実くんを利用しようとして、本当に申し訳ないと思ってる」
「で、いまここにこうしているって事は・・・?」
「安心して。あれから生理が来たけど、でも死のうと思う気持ちもとうに無くなっていた。拓実くんと出会って、そして一晩一緒に過ごして、私は生きようと決めたんだ・・・」
「でもそれほど迷うくらいだったら、初めから『生きる』の一択で良かったんじゃないですか?」
「・・・本気で死にたいという思いに囚われたことのない人は、気軽にそう言うよね。・・・いいえ、それは拓実くんは悪くない、そう考えるのが普通の人の普通の感覚だから」
「・・・」
「とにかく拓実くんは私の命の恩人。たとえそうでなくても、少なくとも心の恩人。あれから帰ってから、今度の仕事が突然舞い込んできたから・・・死んでたら、その幸運を逃すところだった・・・ありがとう」
「僕こそ、ありがとうございます」
「何がありがとうなの?」
「桃子さんみたいな人と巡り会えたのが幸せなんです」
「もう、お世辞ばっかり!」
しんみりとした桃子の表情に、明るい笑顔が戻った。
彼女は小瓶に残った冷酒を拓実のグラスに注ぎ、メニュー表を開いた。
「私、そろそろシメのデザートいきたいなぁ・・・このあんみつパフェ、シェアしない?」
「いいですよ」
拓実は卓上の呼び出しボタンを押した。
店員が来るまでの間、桃子は彼にささやいた。
「ねぇ、今夜、なにか予定はあるの?」
「特にはないですけど・・・」
「今夜のホテル、ダブルルームを取ってるのよ。付き合ってくれる?」
「もちろん・・・ただ、条件があります」
「条件・・・なぁに?」
「これから先もずっと、僕と付き合ってください」
「もちろんよ!」
そこへ店員が引き戸を開いた。
心の中にノクチルカの明るい光を、小さなプランクトンの生命の光を感じながら、彼は注文を告げる桃子を眩しく眺めた。 (了)
しかし別に心に病や影を持っている訳ではない。
むしろ逆かもしれない。
彼は自身で自覚するほど他人より性欲が強かったが、それを発散できずに持て余していた。
それゆえの心の乱れであって、25歳の男として健康な証とも言えなくもない。
ただそれが彼を悩ますのは、単純に性欲だけの問題ではなかったからだ。
性欲だけが原因だったら、毎晩寝る前に動画でも観ながらブッ放せばだいたい解決できる。
しかし心を癒やされたい、心の「空腹」を満たされたいという渇望にも似た思いを強く抱えていた。
もはやそれは「恋」ともいうべき状態だった。
しかも強く激しく純粋な。
その原因を作った10歳上の女性とは一夜限りの逢瀬だったが、「永楽桃子」という名の彼女の名刺を、彼は持っている。
彼女は世間一般ではほぼ無名ながらデザイナーで、携帯の番号も、メルアドも、SNSのアカウントまで名刺に載っている。
そこに連絡したいが、おそらく彼と同じく一夜限りのつもりだっただろう彼女には迷惑な行為だろうとは分かっているつもりだった。
連絡しても返事はないだろうし、それでより一層苦しむだろうという思いもあった。
そのように連絡先を知りながら自制している状況に、彼は苦しんでいた。
苦しみながら、闇夜の海面に現れた夜光虫の光のような泡沫の思い出を心の中で何度も反芻しながら眠りにつき、そして苦しみながら目覚めることを繰り返していた。
・・・
半月ほど前、彼は上司と泊まりがけの出張に出た。
拓実にとって、社会人になって初めての本格的な出張だった。
彼は中堅の水処理装置メーカーのセールスエンジニア。
全国に星のように散らばる顧客のフォローをし、同時に並行して新規顧客を開拓する。
今回の出張の途中で彼は、午前中に立ち寄った顧客からの急な要請に伴う予定の変更で上司と別れ、ひとり内湾航路のフェリーに乗って都市のホテルで一泊することになった。
そのホテルには上司とそれぞれ部屋を取っていたが、上司はそれをキャンセルするという事だった。
宵闇迫る港で現地行動用のレンタカーから降ろされ、対岸の都市・・・小一時間の航海を要するのだが、そこへ向かうフェリーに乗った。
本来なら、上司と一緒にレンタカーごと乗り込んでいたフェリーだったのだけれど。
春も盛りで、桜前線も関東を通り越して東北へ向かおうという時期だった。
暖かいので、客室には入らず遊歩甲板で過ごすことにした。
ほぼ定刻に、出港。
防波堤の灯台を過ぎてフェリーは速度を上げ、遊歩甲板にはやや冷たい風が吹き抜けた。
拓実のようにそこで過ごそうとしていた船客はひとり、またひとりと客室に消え、後には彼ひとりが残された。
・・・いや、もうひとりいた。
長い黒髪をきれいな髪留めで首の後ろで束ね、それを海風になびかせる女性が、甲板の端にある柵越しに暗い夜の海を眺めていた。
旅行中なのだろう、粗編みのニットの上着にスキニージーンズという出で立ち。
ついつい彼は、体型に密着したジーンズによって顕されたその女性のヒップラインの優美な曲線に目を奪われてしまう。
年齢は後ろ姿で見た感じ彼よりもひとまわりくらいは上だろうけど、いやそれだけの年齢を重ねた凛とした美しささえ見て取れた。
彼は、女性のからだの中で特に「お尻」にそそられるタイプだった。
それまで付き合ってきた女性とのセックスでは、バックがいちばんの好みだったくらい。
そのため、たまたまの行きずりの顔も知らないその女性の後ろ姿を見ても、そのお尻に見とれてしまった。
(うしろからパンパン突いたら、最高だろうなぁ・・・)とかなんとか、そんな邪な思いとともに。
しかし彼はそのうちに、女性の不振な挙動に気が付いた。
柵越しに海を眺めながら時折、海の方に身を乗り出すような事を何度もしていた。
拓実はハラハラした・・・あのきれいなお尻ごと、海に飛び込んでいってしまうのではなかろうかと。
彼はベンチから立ち上がり、その女性から少し離れたところから海を覗いてみた。
いや本当は当然、海を覗くふりをしながらその女性の様子を伺おうとしたのだが。
しかし海面に目をやった途端、彼は目を奪われてしまった。
夜の海面は当然真っ黒いのだが、船が蹴立てる波がその中に白く浮かび上がっていた。
いや、正確には波が青く明るく光りながらフェリーの後ろに遠ざかる光景を目にしたのだ。
(こ、これは・・・?)
初め、この世のものとは思われない光景に見えた。
真っ黒な海が船首で切り裂かれ波が生まれるが、その波が明らかな青い光を放っているのだ。
青白く光る波は舷側を通り過ぎ、船尾の向こうでその光を徐々に失っていく・・・。
彼は呆気にとられたように、その青い光が生まれて消えるまでの一部始終に目を見張った。
「あの女性」は、これを見ていたのか・・・!
ひょっとすると身投げしようとしていたんではないかと疑っていた自分が恥ずかしかったが、しかしそれは彼自身の心のうちにしまっておくことにした。
そしてそれを眺めるうちに、ふと「あの女性」と目が合った。
思わず照れ笑いする彼に、女性も頷きながら微笑みを返した。
彼は女性の方へ近寄っていった。
いや、女性の方も彼に近付いてきたので、声をかけてみた。
「きれいですね・・・なんでしょう、これは」
「ノクチルカ・・・夜光虫ですよ、これは。東南アジアの紀行文を読むとよく出てくるんですけど、今の時期、この辺りの海でも現れるんですよ」
「へぇ・・・ヤコウチュウ・・・」
「植物性のプランクトンで、衝撃が・・・たとえば船に当たった波に揉まれるとかすると、こんな光を出すんですよ」
「へぇ・・・そうなんですね。不思議だなぁ」
「ふふふ・・・そうでしょうね。理屈を知っている私ですら、不思議で神秘的な気持ちになれるんだから。言ってみれば、『いのちの光』でしょうか。荘厳ささえ感じさせられます」
気がつけば、拓実とその女性は肩が触れ合うほど近付いていた。
無意識のうちに手を回したくなるのを、慌てて制する。
初対面の女性の肩に手を回す・・・どうしてそのような行為に走ろうとしたのかと、彼自身非常に焦った。
しかし唯一その答えとして彼が感じたのは、彼女に対する共感だった。
ヒップラインがきれいだとしても、ひと回りくらい年の離れた女性にどうしてそんな感情を無意識に持ってしまうのか。
理屈っぽく考えようとする彼の目の前で船が大きな波を割り、ひときわ鮮やかな青い光が生まれて目の前を後方へと流れていった。
「わぁ!」
ふたり叫んだのは、同時だった。
光が船尾の方で消えるのを見届けてから、女性の方から声をかけてきた。
「見ました? 今の、すごかったですねぇ!」
「いや、本当に・・・夏の花火を思い出しちゃいました!」
「花火・・・花火、たしかにそうですね。鮮やかで、そして儚くて・・・でも私、別のものを思い出したんですよ」
「なんです?」
「当ててみてください」
女性は含み笑いをして見せた。
離れたところにある照明の光を受けたその表情が若い娘どもには真似などできなさそうなくらいコケティッシュで、彼は焦りとともに体温が上がるのを感じた。
「・・・分からないです」
「私は子供の頃に見た、夏祭りの縁日の露店で売っていた光る輪っかとかボールとか、そういうグッズが暗闇の中で光っている様子を思い出しましたよ」
「へぇ・・・」
よく分からないが、それがその女性なりの感性から出たものだろう。
なんだか、それはそれで尊重しようかという気分になった。
その間にも船は進み、青い光はふたりの目の前を流れていった。
女性はボディバッグからカメラを取り出し、撮影を始めた。
「それにしてもきれいだなぁ・・・」
拓実の独り言が、船のエンジンの音や波の音、風の音をくぐり抜けて女性の耳に届いたらしい。
相槌を打つように、女性は言った。
「でも、この船に乗っている人のほとんどが客室にこもってしまって、この光景を見ていないんですよ。もったいない」
「いや、ほんと」
大勢の船客の中で、ひょっとしたらふたりだけが光景を共有できている・・・それは心躍ることだった。
しかし・・・彼は残念な思いだった。
船が進む先には、目的地の街の明かりが迫りつつあった。
到着したら、ふたりは離れ離れになってそれぞれの明日を生きていくことになるのだ。
そこへ、女性が話しかけてきた。
まさに渡りに船だった。
「このフェリーには、車で乗ったんですか?」
「いいえ・・・だから、連絡バスに乗って市街地まで行くんですよ」
「ところでこちらへはお仕事で? 地元の方ではないですよね?」
「そうなんですよ。だから、勝手も分からないし。・・・一応、駅前のホテルは予約してあるんですけど、駅への行き方も不安だし」
「・・・なら、駅前までだったら私の車で送りましょうか?」
「ええっ、いいんですか? でも悪いですよ」
形だけは遠慮したが、この女性と共有する時間が新たに得られるのならば誘いに乗らない手はなかった。
女性も、大仰に首を横に振って見せた。
「悪いなんて、とんでもない。私もひとりで淋しいし、あなただって楽なんじゃないですか?」
「甘えちゃって、いいんですか?」
子供の頃に嫌というほど聞かされた「知らない人についていってはいけません」のフレーズが、心の中にフラッシュバックする。
しかし恐縮して見せながら、心の中では(しめしめ)と思っている。
軽快な音楽とともに、到着が近い事を知らせる船内放送が自動音声で流れた。
ふたりは、船底の車両甲板への階段を降りていった。
・・・
女性が乗ってきたという車は、福岡ナンバーの赤いアルトだった。
拓実は助手席のシートベルトを締めながら、訊いた。
「地元の方ではなかったんですね、そちらも」
「ええ。取材と言うか、素材探しの旅行なの」
「えっ、なんか、そういうお仕事されてるんですか?」
「・・・まぁ、デザイナーの端くれみたいな事してるけど。デザイナーと言っても、ウェブデザインしたり、自費出版本の装幀とかしたり、建物の内装のデザインしたり・・・広く浅く、デザインのなんでも屋みたいな事だけど」
そこで初めて、桃子という彼女の名前を知った。
専門学校で建築意匠の勉強をし、卒業後に福岡のデザイン会社に勤めてから数年前に独立したとも話してくれた。
話しながら、桃子は慣れたふうに夜の幹線道路に車を走らせた。
夜光虫の幻想的な光とは異なる街のまばゆい明かりを横目に彼も初めて名を名乗り、仕事の説明をした。
「へぇ・・・セールスエンジニア、ですか」
「はい、『技術営業』とも言いますが、日本語では。技術的な側面から営業チームをサポートしたり、納入した装置のトラブル解決や改善の提案をしたり・・・」
「なんか、すごくかっこいいですね! 憧れますよ」
「そうですか? へへ・・・」
いい気になって、思わず顔がにやけてしまうのが自覚できる。
そこで彼は、桃子に訊いてみた。
「ところで、どこに泊まる予定なんですか?」
宿が近ければいいなと、多分に下心を抱きながら。
もし近くだったら、送ってくれたお礼という名目で夕食に誘ってもいいかなという思いも一緒に。
「それが、まだ決まってないんですよ。行きあたりばったりの旅だから」
「・・・あ、それじゃ、僕が泊まる予定のホテル、当たってみましょうか? 上司がキャンセルしたはずだから、そこが埋まっていなければ・・・」
「わぁ、嬉しいです! いいんですか?」
「お安い御用ですよ! 送ってもらったんだから、当然です!」
体よく断られるかなと思いながらの提案だったから、桃子の肯定的な反応が意外で、いやそれよりも嬉しくもあった。
あまりの幸運に震える指でスマホを操作し、ホテルに電話。
運良く、シングルが空いていた。
桃子の名前をスタッフに伝えて、予約完了。
「ありがとうございます! 最近感染症の行動制限が緩和されてから、予約が取りづらくなってきてたんですよ。おかげで今夜は車中泊しなくても良くなりました」
「えっ、車中泊とかするんですか?」
「しますよ。で、朝になったら開いている銭湯に行って体を伸ばしたり・・・あと平日だったらラブホが結構空いているので、そこに一人で泊まったりとか」
さりげなく出てきたラブホという単語にドッキリしたが、それも含めて行動的なんだなと新たな彼女の魅力に触れた気分だった。
そのうちに、車は駅前までたどり着いた。
ホテルと提携している立体駐車場に車を停め、並んでホテルに向かった・・・ラブホでないのが残念だけど。
そこは本当は一緒に泊まるはずだった上司が定宿にしていて、朝食のコンチネンタルブレックファストの素晴らしさを聞かされていた。
やはりその上司のキャンセルした枠が当たったのだろうか、部屋は隣どうしだった。
それぞれの部屋に入る前に、桃子は拓実を誘った。
「ここの地下に良さげな居酒屋があるみたい。晩ごはんついでに、ちょっとだけ飲まない?」
「いいですよ・・・いいですよ、もちろんおごります!」
「だめだめ。ご馳走してあげるから」
「ええ・・・でも・・・」
「年長者がおごるって言ってるんだから、大人しく従うべきじゃない?」
そこで彼はハッとした。
そう言えば車の中の会話で、桃子は彼よりちょうど10歳も年上だと知ったのだった。
けれども彼女と一緒にいておしゃべりしていると、すこしも年齢差を感じないのだった。
外見とは関係のない、魂のレベルでの結びつきをどうしても感じてしまう。
・・・
翌日は拓実は始発のフェリーで渡ってくる上司と合流して出張の続きの客先回り、桃子も車の運転があるというのでさほど飲まなかった。
ただ、郷土料理の数々を堪能しながらのおしゃべりは酒がなくても楽しかった。
楽しい会話の合間に桃子は時折、ふと落ち着いた表情を見せる瞬間があった、
そんな円熟した大人の雰囲気も、拓実には魅力的に映った。
いい気分で店を出たふたりが、寝る前のひとときを同じ部屋で過ごしたのは自然の成り行きだった。
誘ったのは桃子だったが、彼女が誘わなくても拓実が誘っていただろう。
先に桃子がシャワーを浴びた。
髪を後ろで丸く結び、バスタオルを巻いて浴室から出てきた彼女は拓実に身を寄せた。
「ね、私・・・この下には何も着けてないのよ」
挑発しながらも少女のようにはにかむ彼女の肌は、しっとりと潤っていた。
そして彼を抱き寄せてキスをしてきた・・・はじめはほんの軽く・・・しかし桃子の舌は生き物のようにうごめいて拓実の口の中に入ってきた。
彼も舌で応え、互いに手を回し、体ぜんたいで絡み合う。
しかしネクタイを外しているとはいえ、服は着たままだ。
「拓実くんも、シャワーを浴びてらっしゃい・・・私、待ってるから」
彼は桃子に従い、浴室に向かった。
棚の片側には彼女が脱いだ衣類や下着が畳んで重ねてあり、もう片側の空いているところに自分のものを畳んで置いた。
はやる気持ちを抑えながら、熱めのシャワーを浴びる。
しかし浴室を出る段になって、はたと困った。
シングルルームだから、バスタオルは1枚しか無くそれは桃子がからだを巻くのに使っていた。
脱いだものを下着だけでももう一度着けようかと思ったが、しかしベッドで待っている桃子はバスタオル以外は何も着けていないと言ったではないか。
仕方なくフェイスタオルで前を隠すようにしてドアを開けて部屋に戻ったが、しかしいかにもこれからコトに及ぶ格好という気もしてひとりで興奮してしまう。
それに合わせて股間あたりに血流が集中してしまうのを感じ、ジロジロと見られないように素早くベッドへ。
ベッドの上で半分めくった上掛けに脚を突っ込むように、桃子はバスタオルを巻いたまま仰向けになっていた。
ちょうどベッドの半分を拓実のために空けるようにしていたので、彼もそこに横になる。
横になりながら、ついつい彼女に腕枕をしてしまう。
もうこれは彼の癖・・・今まで付き合ってきた女性たちはみんな彼の腕枕で安らかな表情になっていたので、それが見たくて、そして安らぎを共有したくてついつい腕を差し出してしまうのだ。
桃子も、年上であるのをすっかり忘れたように甘え顔で頭を寄せてくる。
拓実はもう片方の手で彼女の肩を引き寄せ、互いの顔が至近距離で正面を向いた。
「拓実くん、今夜・・・こんな事まで付き合ってもらって、本当にいいの?」
「僕だって嬉しいです。桃子さんみたいに魅力的な人とひとつになれるなんて」
「魅力的・・・? お世辞だとしても、嬉しい」
桃子はとろけそうな顔をさらに寄せて、キスをしてきた。
それに応えてから、拓実は気になっていた事を訊いてみた。
「でも実は僕、コンドーム持ってないんです」
「・・・大丈夫よ。私、避妊薬飲んでるから・・・あっ、でも誤解しないで。私もともと生理が重くて、そのために」
「誤解なんて、しませんよ」
「それから病気も気にしないで。私、偶然出会った人とこんな事になるなんて初めてだから・・・」
初めて・・・本当だろうか? 拓実の頭に疑問が過ぎったが、それはすぐに霧散した。
いま桃子は彼に向かって心も体も開いていて、そんな彼女の全てに向かって彼は進んでいくしかなかった。
彼は桃子の首筋、耳たぶ、乳首に繰り返しキスをしながら、背中、腰、豊満なお尻、そして性器へと愛撫を重ねた。
彼女の肌は手のひらに吸い付くような感触がしたが、それは肌が持つ質感によるものか、彼女の心にまで密着しようとする彼の心がもたらしたものかは、分からない。
「あっ・・・あっ、あっ・・・ああ・・・」
すでにバスタオルも外れてしまい全裸となった桃子に、拓実は愛撫するように全身の肌を擦り寄せる。
彼女も彼の性器を扱くように掴み、あるいは陰嚢を手のひらで包むように弄る。
「そろそろ、ちょうだい・・・拓実くんのモノで、私イキたいの・・・」
桃子が訴えかけるように呼びかけたのは、彼女が上のシックスナインをしている最中。
拓実は彼女の完熟したような性器に顔を埋め、貪っているところだった。
襞のひとつひとつは厚く充血し、それに這わせていた舌を引っ込める。
そして軟体生物が蠢くようにヒクヒクしながら露を溢れさせるその中心を、じっと見つめた。
いつまでたっても返ってこない拓実の返事を待たずに桃子は彼の腰に跨がり、斜め上を指向して屹立する性器を手で自分の入り口に充てがうとゆっくり腰を下ろしていった。
拓実にとってコンドームなしで女性に接するのは初めての経験で、性器が桃子の熱く濡れた粘膜に直に触れる快感と心理的な快感とが相乗効果をもたらす。
「ああ・・・(桃子さん・・・)」
「あ・・・ああ・・・」
拓実が桃子の中に完全に収まってから、彼女はいったん静止した。
彼に体の芯を貫かれて固まったような、桃子の肉体が目の前にそびえるようにして在った。
彼女は日ごろジムトレーニングやヨガで鍛えていると言っていたが、確かに体はよく締まっており、加えて年齢相応の貫禄も漂わせていた。
さらに瞳は潤み、ふくよかな顎のふくらみもまた印象的だった。
桃子は拓実を見下ろした。
彼女を見上げながら、思わず呟いた。
「きれいです・・・桃子さん」
「またお世辞を・・・」
言いつつ桃子は自分の性器にわざと力を入れ、彼の性器を絞るように締め付けた。
妖しく笑いながら、2度、3度・・・そして、腰を前後に揺すり始めた。
「うっ・・・!」
拓実は自分の気を逸らそうと、そして桃子を責めようと、手を目の前の両の乳房に伸ばした。
手のひらで包み、指先で乳首を転がす。
しかし彼女は腰を振りながら上体を前に倒して拓実に覆いかぶさり、体の前どうしを軽く密着させて彼の動きを制した。
彼女のキスまで受けて、目を閉じてすべてを委ねるしかできなかった。
彼の性器は桃子の体の中の闇を突き進み、その先端からはノクチルカのような青いいのちの光が発せられているような幻が彼の脳裏に浮かんだ。
そして、ふたり同時に心を融け合うような快感の中で、彼は桃子のからだの中に思い切り射精した。
・・・拓実はその夜、部屋に戻らずに桃子と一緒に裸で身を寄せ合うようにして眠った。
心から安らげる、幸せな眠りだった。
そして翌朝、再び交わった・・・今度は彼の大好きなバックで。
桃子はイクまで、獣のように悶えようとするのを必死に我慢していた。
その後はそれぞれシャワーを浴び、フロント脇の食堂でコンチネンタルブレックファストの朝食を一緒に取り、そしてそれぞれの日常へ戻った。
別れ際に、半分おどけて名刺交換などしたりして。
・・・
桃子のことが忘れられないままの日々、それはなんとも味気なくて乾いていて彩りもない世界だった。
そしてある日の終業間際、拓実は先日の出張で行動をともにした上司に自販機コーナーに呼ばれた。
「どうした、最近? 心ここにあらず、てな感じじゃないか、まさに」
冷たい缶コーヒーを手渡しながら、聞いてきた。
そもそもはその上司の予定変更が発端だったが、それを答えるわけにはいかずに俯いた。
「・・・なんでもありません」
「なんでもないわけないだろうが。顔色も悪いし、他のみんなも気にしているけどな」
「・・・個人的なことなんで」
「なんだ、やっぱり原因があったか・・・まぁしかし、プライベートに立ち入るつもりはないからな。でも何か相談事があるなら、言ってみろ。失恋と借金以外だったら、聞いてやれないこともない」
「・・・いえ、今はいいです」
「そうか・・・けど、いつでも言ってこいよな。このままじゃ、会社にとってもよろしくない」
そのまま上司は未開封の缶コーヒーを持ったまま、喫煙所の方向へ去っていった。
拓実は同じく未開封の缶コーヒーとともに、自席に戻った。
パソコンのキーボードの前に、宅配業者の薄い包みが置いてあった。
おそらくは会社に届いたものを総務部の誰かが持ってきたらしいのだが、若手の彼に直接そのようなものが届くのは珍しい。
その包みの差出人を見て、拓実は心臓が激しく跳ね上がるのを感じた。
デザイン事務所の名前・・・桃子の個人事務所から届いたものだった。
軽い気持ちで渡した名刺を頼りに送ってきたのだろう、品名にはもっともらしく「販促用グッズ見本」とあった。
職場に送るのだから、怪しまれないようにカモフラージュしたつもりだろう。
しかし、販促用グッズとは・・・?
彼は自分の仕事を『技術営業』と説明したと覚えているが、『営業』の部分だけが彼女の記憶に刻みつけられたのだろうか。
早く開けてみたいが、職場だ。
中に何が入っているかは分からない。
処理すべき仕事はあったが、今日中にというものではない。
上司が喫煙所から戻ると彼は「今日は帰ります」と告げ、就業時間きっかりに職場を後にした。
夕方のラッシュで混み合う地下鉄に揺られながら、彼はカバンの中に忍ばせた包みのことを気にし続けていた。
一夜限りでもう二度と会えないかもしれないと思っていた桃子からの、直接のメッセージ。
早く開けて見たい・・・各駅停車の地下鉄が、これほどもどかしく思えたことはなかった。
自宅最寄りの駅に着くと、夕食の買い出しもせずに自宅のワンルームマンションに直行。
はやる気持ちを抑えながら・・・包みごとビリビリと引き裂いて中を取り出したいという欲求をこらえ、桃子を想いながらハサミで丁寧に開ける。
そうして深呼吸してから取り出したのは、白い封筒に入ったポストカードと一筆箋だった。
「おお~・・・」
ポストカードの1枚目、それに彼は思わずため息とともに小さな声をあげた。
あの夜の海のフェリーから撮ったと思われる、ノクチルカのいのちの光に彩られた波の写真を使ったポストカードだった。
それも、多重合成のような処理をして青白く光る波を暗い海の上に効果的に重ね合わせ、静止画なのに光が流れているように見える。
見た途端に心に光が波とともに生まれて通り過ぎ消えていくような、幻想的な一枚。
他のポストカードは街の夕明かりや農村の道端の道祖神などの風景などで、それはそれで良かったがノクチルカと比べるとどうしても見劣りしてしまう。
そして拓実は、桃子と過ごしたあの一夜の記憶も鮮烈に思い出した。
年上らしく落ち着いていて、そして彼の心も全身も包み込んでくれるように懐が深かった桃子。
会えないかもしれないと思っていたのに、こんな形で会えるとは。
心の中にフラッシュバックするノクチルカの燐光を感じながら、一筆箋にも目を落とした。
ふたりの間に秘められた行為に直接は触れないが、あの夜のお礼が綺麗な字でしたためられていた。
(会いたい! また会いたい!)
渇望に似た気持ちが、また激しく沸いてきた。
一筆箋の隅に貼られたQRコードのシール・・・いいように解釈すれば、彼女こそ彼と連絡を取りたがっているのではないか?
拓実はスマホにそれを認識させた。
しかし画面に現れたのは、彼女に思い焦がれながら何度も開いた彼女のインスタグラム。
(いや・・・それでもやはり僕を呼んでいる!)
それは確信だった。
迷わずメッセージを送った。
彼女と同じように礼を述べ、そして「こちらに来るようなことがあれば連絡ください 桃子さんさえ良ければ 待ってます」の一文を添えた。
社交辞令ではない、本当の思いが伝わることを祈りながら。
そして数分も経たずに、返信があった。
「ありがとうございます。
そう言っていただけて、嬉しいです。
とってもとっても。
実は再来週に仕事でそちらに行きます。
会えたらいいですね。
予定が固まり次第、連絡しますね」
あまりの喜びに、彼は持っていたスマホを多少の力を込めて放り投げた。
幸いベッドの上にそれは着地し、壊れずに済んだ。
・・・
それからの2週間は心も明るくなったし、見るもの、聞くもの、感じるもの全てが光り輝き躍動していた。
これを恋と言うならば、それまでの人生におけるいくつかの恋愛なんて子供のままごとに等しいようにも思えた。
店は、新鮮な魚と全国の地酒や焼酎が売りの居酒屋の、2人向けの個室を予約した。
もちろん、今度は彼が支払いするつもりだった。
そして迎えた、約束の日。
ほぼ時間通りに、桃子はやってきた。
週末前の駅前の家路を急ぐ人の群れの中でも、彼は彼女を見つけ出すことができた。
軽く手を振ると、彼女は急ぎ足で彼の目の前まで近付いた。
「お久しぶりです」
「こちらこそ、よく来てくださいました」
「お仕事の打ち合わせが思ったより長引いてしまって、遅れるんじゃないかと思って急いで来たの」
「どんなに遅くなっても、待つつもりでしたよ。ところで、仕事はうまくまとまりそうですか?」
「ええ、まだ表立っては言えないけど、いままでで一番大きい仕事を任されそう」
「・・・それじゃぁ、立ち話もなんですんで、食べながらゆっくり話しましょうか」
ふたりは繁華街の雑踏をかき分けるように、店まで歩いた。
そしてあの夜の、地下の居酒屋の続きのような、楽しいひととき。
しかし仕事で大きなチャンスを掴みかけた桃子は、あの夜よりも明るく饒舌だった。
彼も楽しく、彼女と会話を弾ませた。
そこで桃子がトイレに立ってひとり取り残された時に、前触れもなく突然ある疑念・・・直感のような疑いが浮かんできた。
・・・実はあの夜、彼女の表情には明るさの裏に翳りがあったのではなかったか?
どこからどうしてそんな思いが飛び出してきたのか、分からなかった。
スルーしようと自分で思ったが、しかしそれができないまま、考えた。
あの時の彼女が見せた落ち着きは年上の女性ゆえのものなんだろうなと、あの時は感じたかもしれない。
けれども今の桃子にはその落ち着きがまるでない・・・仕事の喜びで舞い上がって隠されているのではなく、元からなかったかのように。
そういえば、彼女はフェリーで暗い海を眺めていた・・・あの暗い海に身を乗り出して、波とともに消えゆくノクチルカの光・・・いのちの光を見送っていた。
・・・まさか?
氷だけになった焼酎のグラスをカラカラと揺すりながら、拓実は心が沈みかけるのを感じた。
そこに戻ってきた桃子は、彼を見逃さなかった。
「どうしたの?」
「・・・なんでもないです」
「なんか暗い顔して」
「いや、ただ、今日の桃子さんこないだより楽しそうだなって。仕事がうまく行きそうだからかな、なんてしみじみと」
桃子はしかし、複雑な笑みを浮かべた。
そしてしばらくの沈黙の後、告白するように彼に言った。
「実はね、私、拓実くんに感謝しないといけないのよ」
「・・・感謝?」
拓実は訝った。
桃子は半分残った冷酒のグラスをあおった。
「拓実くんは、命の恩人かもしれないから」
「・・・どういう意味ですか?」
「私、あの夜、死んでいたかもしれないから」
「えっ!」
「驚くのも無理ないわね。でも、本当に死んでいたかは分からない・・・仕事でスランプに陥って、実家の母親が亡くなって、長く付き合ってきた彼氏とも別れてしまって、いろいろと寂しくて・・・何をやってもダメ、もがけばもがくほど悪循環に嵌ってしまって・・・夜の海を見ているうちに、波がおいでおいでと呼んでいるような気がして・・・でもやっぱり、死ぬのは怖かった」
「はぁ・・・でもあの波、きれいだったじゃないですか。あの波が、呼んでいたんですか?」
「船の舳先で生まれて、ずっと後ろの彼方で消えていくその繰り返しが、人の一生のように思えてね。それで私も波と一緒に消えていってしまいたい、でも死ぬのは怖い、その間でフラフラしていた時に、拓実くんが目の前に現れた」
身を乗り出していたのはやっぱり、そうだったのか。
拓実は背筋に冷たい汗を感じた。
「で、人の目があるせいで死ねなくなっちゃった。そして一緒に波を見ているうちに、寂しさを紛らせたい、心を癒やされたい、ただそれだけで拓実くんに近づいたっていうわけ」
「そうだったんですね。でも、その後は楽しかったですよ」
「私も、楽しかった。もう少しだけ、生きててもいいのかなぁと思った。・・・違う、もう少しだけ、じゃなくて・・・」
そこで桃子は一瞬、遠くを見るような目をした。
そして深い息に続けて言った。
「あの晩、私、避妊薬飲んでるから大丈夫、って言ったよね・・・覚えてる?」
「はい・・・」
「実はあれ、嘘だった」
「嘘って・・・」
「私は私自身で『賭け』をしようとしていたのよ。もし妊娠したら、もう私一人の命じゃないから、死ぬのは止めようと」
「もし妊娠しなかったら・・・?」
拓実は、腹の底に重苦しい緊張と、額に脂汗が浮かぶのを感じた。
しかし桃子は、またため息を吐いて続けた。
「それは、分からない。でもそれほどまでに、私は死にたいと思っていて、でも実のところ生きたいと迷っていた。そんな賭けに拓実くんを利用しようとして、本当に申し訳ないと思ってる」
「で、いまここにこうしているって事は・・・?」
「安心して。あれから生理が来たけど、でも死のうと思う気持ちもとうに無くなっていた。拓実くんと出会って、そして一晩一緒に過ごして、私は生きようと決めたんだ・・・」
「でもそれほど迷うくらいだったら、初めから『生きる』の一択で良かったんじゃないですか?」
「・・・本気で死にたいという思いに囚われたことのない人は、気軽にそう言うよね。・・・いいえ、それは拓実くんは悪くない、そう考えるのが普通の人の普通の感覚だから」
「・・・」
「とにかく拓実くんは私の命の恩人。たとえそうでなくても、少なくとも心の恩人。あれから帰ってから、今度の仕事が突然舞い込んできたから・・・死んでたら、その幸運を逃すところだった・・・ありがとう」
「僕こそ、ありがとうございます」
「何がありがとうなの?」
「桃子さんみたいな人と巡り会えたのが幸せなんです」
「もう、お世辞ばっかり!」
しんみりとした桃子の表情に、明るい笑顔が戻った。
彼女は小瓶に残った冷酒を拓実のグラスに注ぎ、メニュー表を開いた。
「私、そろそろシメのデザートいきたいなぁ・・・このあんみつパフェ、シェアしない?」
「いいですよ」
拓実は卓上の呼び出しボタンを押した。
店員が来るまでの間、桃子は彼にささやいた。
「ねぇ、今夜、なにか予定はあるの?」
「特にはないですけど・・・」
「今夜のホテル、ダブルルームを取ってるのよ。付き合ってくれる?」
「もちろん・・・ただ、条件があります」
「条件・・・なぁに?」
「これから先もずっと、僕と付き合ってください」
「もちろんよ!」
そこへ店員が引き戸を開いた。
心の中にノクチルカの明るい光を、小さなプランクトンの生命の光を感じながら、彼は注文を告げる桃子を眩しく眺めた。 (了)
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