色ハくれなゐ 情ハ愛

松丹子

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第三章 支えと報い

05 信託

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 骨になった義父と、その遺影を抱えた帰路。
 家まではタクシーを使った。
 義母とヨーコさんが後ろの席に座り、俺は助手席へ乗り込む。
 時間はちょうど仕事の終業時間に近い。空は夕方らしい朱色に染まっていた。
 つい数週間前の夏の盛りには、この時間ならまだ日中とさして変わらない空だったのに。
 ヨーコさんが京都で過ごすようになって1年半。ヨーコさんが家にいるときには、彼女のために手料理を作るのが俺にとっての最優先業務であって、よほどの場合を除き会社を出たものだったが、1年半の一人暮らしはそのリズムをやや狂わせた。
 今や、週の半分、定時で帰宅すればいい方だ。
(ヨーコさんが帰ってきたら、もとに戻せるかなぁ)
 思って気づく。そんなのいつになるかわからない。考えるだけ切なくなるからやめておこう。
 でも、ヨーコさんの顔が見られるという励みがあれば……がんばれそうな気はした。
 何を差し置いてもまず帰る、みたいな。とにかくヨーコさん見てから次考える、みたいな。
 夕日を眺めながららちもなく考えているうちに、ヨーコさんの実家のある地区の標識が見えた。
 俺がヨーコさんの実家を訪れたのは3度だけ。挨拶したとき、9ヶ月前の年末年始、そして今回だけだ。
 年季の入った瓦屋根つきの建物を見る度、他人を拒否するような、そんな空気を感じる。
 それでも、最初に来たときはあまり気にならなかった。とにかくヨーコさんが「いい思い出がない」というその場所で辛い気持ちにならないようにと、そればかり考えていたから、自分がこの家や彼女の家族に対して感想を抱くことはなかったのだ。
 でも、それから15年経ち、9ヶ月前に訪れたとき、不思議な感覚があった。ヨーコさんが1年もの間、その場所にいることが、直感的に心配になったほどだ。
 陰気な家、とか、冷たい家、とか、表現しようと思えばあるだろうけど、あえて言葉にしてしまうと、悪いイメージになりそうだからやめておく。
 ただ、少なくとも、ヨーコさんがのびのび過ごせる時間はここにはないのだろうということは分かった。
 甘やかしてあげたいと、俺なりに配慮し続けた結果、彼女は東京の家でだいぶリラックスしてくれるようになった。意外と甘えん坊なのではないかと思うときもあるくらいに。そんな彼女が、また心に、感情に蓋をしてしまってはいないかと、心配になったのだ。
 会ってみれば、多少その気はあったものの、心配したほどひどくはなかった。それもこれも、彼女自身が意図的にモードチェンジしていたからだろうと思う。俺と二人きりになるや、ほっとした顔で微笑む姿を見てーーまあその、ときめいたのみならず、相変わらず男のそれが反応して困ったりしたわけだけどーー彼女はきちんと過去と向き合い、その上に生きているのだと、改めて気づかされた。
 気づくと同時に、安堵もした。彼女がこの十数年のうちに浮かべるようになった笑顔の足元は、そう簡単に崩れるものではないだろう。
 例えば……俺がいなくなっても。
 サイドミラーには、後部座席にいるヨーコさんが見える。ヨーコさんは気遣わしげに、義母を見ていた。
 義父を失い、必要な弔いを済ませた義母は、一回り小さくなって見えた。涙らしい涙はほとんど見せなかったが、口数もいつもに増して少なかった。
 そして、俺とのヨーコさんが交わす夫婦の気配に、どこか切ない目をしていた。
 義父母に夫婦らしいやりとりを見たことはほとんどなかったが、それでもやはり、半世紀を共に過ごしてきた人なのだ。好悪や愛情というものだけでは割りきれない何かがあるのだろう。
「そこの信号、右にお願いします」
 家に近づいてきて、後ろからヨーコさんがドライバーに指示を出した。俺は思わず目を閉じて、彼女の声を聞く。
「次の小さい通りも右折で……四軒目です」
 耳に心地いい変わらぬアルト。タクシーが右折して徐行になる。非常灯をつけて停車する。俺が財布を出すより先に、ヨーコさんが義母から預かった財布から紙幣を出した。
 俺は会計を妻に任せてタクシーを降り、義母を迎えに外へ出る。細い通りに入ってくる車は近隣住人のものだけだ。俺がドアを開けると、義母は骨壺を手にしたまま立ち上がろうとしたが、膝を伸ばすにバランスを崩しかけ、俺が肘と骨壺を下から支えた。
 一瞬、義母の目が俺を見上げる。叱られるかと思ったが、黙ってそのまま、俺の手を支えに体勢を整えてドアを閉めた。
 トランクのドアが開き、俺が荷物を下ろしに向かったとき、義母は俺を呼んだ。
「安田さん」
 俺は足を止めて振り返る。
「なんですか」
 義母は俺に向けていた視線を、一瞬だけ手元の白い箱にさげ、また俺を見つめた。
「葉子を頼みます」
 義父と違い、頭を下げることはなく。
 まっすぐではあったが、どこかすがるような、それでいて決意を固めたような、複雑な視線を俺に向けた。
 その目はどこか、昔のヨーコさんのそれに似ていた。
 俺は微笑む。
「もちろんです」
 幸せになります、二人で。
 初めて挨拶したときと同じ言葉を言おうと口を動かしかけたとき、会計を済ませたヨーコさんが車内から出てきて首を傾げた。
「どないしたん。疲れたやろ、はよ、中で休み」
 義母はあっさりと向きを変え、タクシードライバーに頭を下げると玄関へ向かった。俺は肩をすくめて、トランクから荷物を出し、ヨーコさんと共にその後ろに続いた。
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