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第一章 旅立ち
03 再確認
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それ以降、ヨーコさんはほとんど毎週のように実家のある京都を行き来することになった。
よくも悪くも忍耐強い彼女だ。キツイと口にすることがないので、逆に心配だった。
鬱々と悩んでいると見えるときには、美味しいものを準備したり、好きそうな入浴剤を買ってみたりした。
何度か気分転換に外出を提案しようとたがやめた。彼女の体力を消耗させないことも大切な気がしたのだ。
話せば楽になるというのなら、話を聞くのもやぶさかではなかったが、感じていることを言葉にするのが苦手な彼女のこと。言葉に変えるプロセスすら、疲れるもののようだった。
だから結局、何も言わずに側にいた。まれに甘えて来るときは、俺なりにめいっぱい甘やかしてあげた。
介護を経験せずに両親を見とった俺に、彼女のストレスは想像もできない。
自分よりも大きな存在だった親の背中が、だんだんと小さくなっていく。
子どもに戻っていく、と言えばまだ聞こえはいいが、わがままになる、乱暴になる。それは態度だけでなく言葉もであって、ぶつけられる言葉をいちいち真に受けていては、周りがもたない。
その日によって機嫌も言うことも変わる。
「他人に家の中を晒すのは恥ずかしい」と拒否し続けた義母をどうにかなだめ、ヘルパーを活用し始めたとはいえ、義父の介護を担う義母の消耗は激しく、それを支えるヨーコさんも相当に消耗した。
介護に終わりは見えない。いつかは終わるが、それがいつなのかは分からない。少しずつ手を離れていく子どもを見守るのとは違う。
喜びがあるとしても、その日、その時間だけのこと。今日は機嫌がよくても、体調がよくても、明日どうなるか分からない。
その1時間後にはおかしな行動をすることもある。
「急にまともに会話できることもあってな。おかしいなぁ」
そう言うヨーコさんの笑いもどこか乾いている。なにか面白みを感じなければ辛いだけなのだろうと思い、あえてそのことを指摘する気はない。
どこかで、彼女の苦しむ時間が短ければいいと思っている自分がいる。それはすなわち、義父が他界するときだろう。
実母を施設に入れることにはそこまでためらわなかった義母だが、夫の入所についてはためらった。やはり世間体が気になるらしい。
が、ヨーコさんは苦笑していた。
「でも、それだけやないかもしれへん」
俺には他の理由が分からなかったが、ヨーコさんはそれ以上何も言おうとしなかった。そしてそのまま、俺の肩に頭を預けてきた。
横に座る彼女の頭の重みが心地好かった。俺はその肩を抱き寄せて、ごわつく髪に頬を寄せた。
彼女の髪は、出会った頃よりも少しだけ、柔らかくなったような気がしたが、それでも俺の頬にちくちくした。
その小さな痛みを確かめるように、俺は彼女の頭に頬擦りした。
京都を行き来する彼女は、帰ってくると機嫌がいいときもあったし、疲れきっているときもあった。
それは義父の様子よりは義母の気分にあるらしい。そう気づいたが、俺にできることは何もない。
俺はとにかく、彼女が安心して帰って来られる家を維持することに使命感を抱いて過ごした。
年末も差し迫ったある日。帰ってきた彼女は、しばらくほぅっとソファの上に座っていた。彼女の好きな紅茶をいれてやると、ようやくほっとした顔を見せてくれた。
「なぁ、ジョー」
紅茶のカップを両手で包み込みながら、彼女は言った。
「……仕事、辞めてもええか」
俺はまばたきした。
今まで、彼女がどういう気持ちで仕事を続けてきたか知っている。
俺がプロポーズするまで結婚する気もなかった彼女にとって、自分で生きていける稼ぎがあることは、とても重要だったはずだ。
その頑なさには、彼女の生き方に理解を示さない義母への反発もあったと見ている。
「俺は、構いませんよ」
俺はできるだけ軽い口調で答えた。
彼女は俺の微笑みを見て、目をさまよわせ、ふと笑う。
その笑顔はほとんど泣きそうだった。
「……うん」
ヨーコさんが頷く。俺はその頭を抱き寄せた。
彼女の想いは様々あるだろう。本当に辞めてしまっていいのか、聞いた方がいいのかもしれない。
それでも、俺より断然思慮深い彼女のこと。夏から今まで、悩みに悩み、考えに考えた結果であるに違いない。
仕事を辞めて彼女の負担が軽くなるのかは分からない。それでも、彼女がそうしたいと言うのなら、希望を叶えてあげたかった。
彼女を甘やかしてあげられるのは俺だけなのだから。
「よかった」
彼女は静かに呟いた。
若いときにはただ欲情するだけだったハスキィボイスが、今は地球上のどんな音より愛おしい。
「ジョーと結婚して、よかった」
思わぬ言葉に、俺は動きを止めた。
そんな言葉を、聞ける日が来るなど、思っていなくて。
「なんや。泣いとるんか」
頬を伝う温もりを、ヨーコさんの指が拭ってくれる。
「だ……だって」
「ふふ」
動揺している俺に、ヨーコさんは笑う。
「おおきに」
俺は困惑した。
「何がですか」
感謝されることなど、何もしていない。
ヨーコさんは涙で潤んだ目で俺を見た。
「うちのこと……愛してくれて」
俺は笑った。
笑ったつもりだった。
「馬鹿言わないでください」
細い身体を抱きしめながら、俺は彼女に言った。
「俺にとってはそんなの、呼吸よりも当たり前のことです」
ヨーコさんは笑った。
「相変わらずやな」
その目から涙が溢れた。
互いの頬に伝う涙の跡を唇で辿り、頬を寄せて、互いの温もりに浸った。
よくも悪くも忍耐強い彼女だ。キツイと口にすることがないので、逆に心配だった。
鬱々と悩んでいると見えるときには、美味しいものを準備したり、好きそうな入浴剤を買ってみたりした。
何度か気分転換に外出を提案しようとたがやめた。彼女の体力を消耗させないことも大切な気がしたのだ。
話せば楽になるというのなら、話を聞くのもやぶさかではなかったが、感じていることを言葉にするのが苦手な彼女のこと。言葉に変えるプロセスすら、疲れるもののようだった。
だから結局、何も言わずに側にいた。まれに甘えて来るときは、俺なりにめいっぱい甘やかしてあげた。
介護を経験せずに両親を見とった俺に、彼女のストレスは想像もできない。
自分よりも大きな存在だった親の背中が、だんだんと小さくなっていく。
子どもに戻っていく、と言えばまだ聞こえはいいが、わがままになる、乱暴になる。それは態度だけでなく言葉もであって、ぶつけられる言葉をいちいち真に受けていては、周りがもたない。
その日によって機嫌も言うことも変わる。
「他人に家の中を晒すのは恥ずかしい」と拒否し続けた義母をどうにかなだめ、ヘルパーを活用し始めたとはいえ、義父の介護を担う義母の消耗は激しく、それを支えるヨーコさんも相当に消耗した。
介護に終わりは見えない。いつかは終わるが、それがいつなのかは分からない。少しずつ手を離れていく子どもを見守るのとは違う。
喜びがあるとしても、その日、その時間だけのこと。今日は機嫌がよくても、体調がよくても、明日どうなるか分からない。
その1時間後にはおかしな行動をすることもある。
「急にまともに会話できることもあってな。おかしいなぁ」
そう言うヨーコさんの笑いもどこか乾いている。なにか面白みを感じなければ辛いだけなのだろうと思い、あえてそのことを指摘する気はない。
どこかで、彼女の苦しむ時間が短ければいいと思っている自分がいる。それはすなわち、義父が他界するときだろう。
実母を施設に入れることにはそこまでためらわなかった義母だが、夫の入所についてはためらった。やはり世間体が気になるらしい。
が、ヨーコさんは苦笑していた。
「でも、それだけやないかもしれへん」
俺には他の理由が分からなかったが、ヨーコさんはそれ以上何も言おうとしなかった。そしてそのまま、俺の肩に頭を預けてきた。
横に座る彼女の頭の重みが心地好かった。俺はその肩を抱き寄せて、ごわつく髪に頬を寄せた。
彼女の髪は、出会った頃よりも少しだけ、柔らかくなったような気がしたが、それでも俺の頬にちくちくした。
その小さな痛みを確かめるように、俺は彼女の頭に頬擦りした。
京都を行き来する彼女は、帰ってくると機嫌がいいときもあったし、疲れきっているときもあった。
それは義父の様子よりは義母の気分にあるらしい。そう気づいたが、俺にできることは何もない。
俺はとにかく、彼女が安心して帰って来られる家を維持することに使命感を抱いて過ごした。
年末も差し迫ったある日。帰ってきた彼女は、しばらくほぅっとソファの上に座っていた。彼女の好きな紅茶をいれてやると、ようやくほっとした顔を見せてくれた。
「なぁ、ジョー」
紅茶のカップを両手で包み込みながら、彼女は言った。
「……仕事、辞めてもええか」
俺はまばたきした。
今まで、彼女がどういう気持ちで仕事を続けてきたか知っている。
俺がプロポーズするまで結婚する気もなかった彼女にとって、自分で生きていける稼ぎがあることは、とても重要だったはずだ。
その頑なさには、彼女の生き方に理解を示さない義母への反発もあったと見ている。
「俺は、構いませんよ」
俺はできるだけ軽い口調で答えた。
彼女は俺の微笑みを見て、目をさまよわせ、ふと笑う。
その笑顔はほとんど泣きそうだった。
「……うん」
ヨーコさんが頷く。俺はその頭を抱き寄せた。
彼女の想いは様々あるだろう。本当に辞めてしまっていいのか、聞いた方がいいのかもしれない。
それでも、俺より断然思慮深い彼女のこと。夏から今まで、悩みに悩み、考えに考えた結果であるに違いない。
仕事を辞めて彼女の負担が軽くなるのかは分からない。それでも、彼女がそうしたいと言うのなら、希望を叶えてあげたかった。
彼女を甘やかしてあげられるのは俺だけなのだから。
「よかった」
彼女は静かに呟いた。
若いときにはただ欲情するだけだったハスキィボイスが、今は地球上のどんな音より愛おしい。
「ジョーと結婚して、よかった」
思わぬ言葉に、俺は動きを止めた。
そんな言葉を、聞ける日が来るなど、思っていなくて。
「なんや。泣いとるんか」
頬を伝う温もりを、ヨーコさんの指が拭ってくれる。
「だ……だって」
「ふふ」
動揺している俺に、ヨーコさんは笑う。
「おおきに」
俺は困惑した。
「何がですか」
感謝されることなど、何もしていない。
ヨーコさんは涙で潤んだ目で俺を見た。
「うちのこと……愛してくれて」
俺は笑った。
笑ったつもりだった。
「馬鹿言わないでください」
細い身体を抱きしめながら、俺は彼女に言った。
「俺にとってはそんなの、呼吸よりも当たり前のことです」
ヨーコさんは笑った。
「相変わらずやな」
その目から涙が溢れた。
互いの頬に伝う涙の跡を唇で辿り、頬を寄せて、互いの温もりに浸った。
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