色ハくれなゐ 情ハ愛

松丹子

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第四章 二人の生活

08 君の隣

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 カフェの中はそこそこ人で賑わっている。
 が、お目当ての人はすぐに目に入った。
 ーー誰よりも大切な人。
「おかえり」
 俺が言うのと、彼女が言うのは同時だった。
 そして同時に噴き出す。
「帰って来るの、明日だったんじゃないんですか」
「そうやけど」
 ヨーコさんは微笑んで俺を見上げた。華奢な首筋が見えて、思わず触れたくなる。
「早う会いたくてな」
 ああ、またそんな、可愛いことを言う。
 俺は照れを隠すように笑って、ヨーコさんが手にしていたキャリーバッグを引き受けた。
 ヨーコさんは当然のように、俺の肘に腕を手を添えてくる。
「珍しいですね」
「何が?」
「そうやって……人前で、甘えてくるの」
 甘える、というには控えめすぎる挙動だが、彼女にとっては充分だ。
 ヨーコさんはふわりと笑った。
「せやな」
 言って、さらに腕を絡めてくる。
 二人でカフェを出ると、駅へ向かって歩き出した。
「京都の両親見てて、ちゃんと伝えなあかんな、て思てな」
「伝える?」
「せや」
 ヨーコさんは頷いて、照れ臭そうに俺を見上げた。
「ちゃんと伝えられる内に伝えんと、やっぱり後悔するもんやな、てな」
 言うと、顔を隠すように俺の腕に頬を寄せる。
「……だから、伝えられる内に、好きやて伝えておこう思たんや」
 俺はその腕をやんわりと解き、その肩を抱いた。
 ヨーコさんが顔を上げた瞬間を見計らい、唇を落とす。
 数秒のキスの後、顔を離した俺を、ヨーコさんが睨みつけた。
 その頬は、少女のように赤く染まっている。
「……だからって、やりすぎや」
「そうですか? これくらい、当然だと思うけどなぁ」
「そういうのは……人前ですることやない」
 ぷく、とわずかに頬を膨らませる。
 俺はまた笑った。
「人前じゃないところだったら、これくらいじゃ収まりませんよ」
 ヨーコさんがあきれたような顔をして、ふ、と笑った。
「相変わらず、好きやなぁ」
「そりゃ好きです。ヨーコさんだって好きでしょ?」
「うちは……どうやろうなぁ」
 ヨーコさんはくつくつ笑いながら、また俺の肘に手を添えた。
「いつもより少しだけ、男前やからなぁ」
「何がですか?」
「ジョーが」
 俺は思わぬ言葉に目を丸くした。
「俺が、ベッドの上では男前って?」
「あんたなぁ。その直接的な言い回し、はしたないで」
 俺的には充分間接的な言い回しなんだけど。
 ヨーコさんはくすくすと笑って、手を口に当てると、俺の耳元で囁いた。
「イク前に、うちの名前を呼ぶとき、一番セクシーやで」
 いたずらっぽく言って、ぱっと離れて歩き出す。
 俺は呆気に取られて止めた歩みを再開して彼女を追った。
「そういうの、もっと若いときに言ってください」
「嫌や。ただでさえ離してくれへん癖して」
「そりゃ離しませんよ。離すわけないじゃないですか」
 逃げるように早足になったヨーコさんの手を取り、指に指を絡めた。
「愛してます、ヨーコさん。ーーこの命尽きるその時まで、縛られるならあなたがいい」
 ヨーコさんは驚いたように俺の顔を見上げる。
 視線が交わされ、二人で笑った。
「いつだか聞いた台詞やわ」
「いつだか言いましたもん」
「縛られたいんやったなぁ」
「そうですね、縛られたいです」
 ヨーコさんの目が俺を見上げる。
「今も?」
「もちろん」
「阿呆やなぁ」
 言いながら、ヨーコさんは俺の腕に腕を絡めた。
 俺がその頭に口づけを落とすと、ヨーコさんはまたくつくつ笑う。
「あ、そうだ。ヨーコさん、2月にパーティがあるんですって。マーシーも俺も、カップル参加マストなんで、年末年始ドレス見に行きましょうね」
「なんや、それ」
 ヨーコさんは困惑したように眉尻を下げた。
「あんた、説明が雑すぎやで」
「青がいいかなぁ。黒もいいけど、セクシー過ぎるとちょっとなぁ。んー、楽しみですね。何着まで試着してくれます?」
「あんたほんま……」
 ヨーコさんは一瞬言葉を失い、苦笑した。
「ほんま、阿保やなぁ」
 その言葉を聞いて、俺は笑う。
「阿保て言われて、なんでそんな嬉しそうなんや」
「ヨーコさんに言われる阿保は褒め言葉だと思ってますから」
 当然のように言うと、ヨーコさんが噴き出した。
「……阿保やなぁ」

 妻の笑顔を見ながら、俺は思う。

 出会った頃の俺は、想像もしていなかった。
 彼女がこんなにも明るく笑う日が来るだなんて。
 きっと彼女自身も、想像してなかったに違いない。
 俺とこうして、穏やかに隣を歩く日が来るなんて。
 彼女の荷物が入ったキャリーバッグが、ガタガタと舗装された床を進む。
 彼女はご機嫌に俺の腕に腕を絡めている。口ずさんでいるクラシックの鼻歌が、ときどき俺まで聞こえる。
 少し彼女の方に顔を寄せると、今も変わらない彼女の香りが俺の鼻腔をくすぐった。

「ね、ヨーコさん」

 俺は彼女の耳元に口を寄せ、囁く。

 今夜も……しよ?

 FIN.
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