色ハくれなゐ 情ハ愛

松丹子

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第三章 凶悪な正義

17 恋人の肩書

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 日頃の行いのせいか、ヨーコさんの隣を許されてから一年半の間も、友人からの合コンのお誘いはしつこいくらいにあった。
 十一月のある日、やはり大学時代の友人からの誘いを断ると、電話がかかってきた。
『おい、安田。最近ずいぶんつき合い悪くない? どうしちゃったの』
「いや……その」
 ごにょごにょと言葉を濁す俺に、遊び友達はあきれたようにため息をついた。
『まさか彼女できたとか言うなよ。お前が禁欲的になるのも一人の女に没頭するのも想像つかないんだけど。他で発散する方法でも見つけたの? だいたいの女、一度抱いたらもう充分って笑って捨ててたのに』
 友人の言葉はぐさりぐさりと胸に刺さる。
 俺って結構サイテイな人間だったのかも……
 もちろん相手の女に対してではない。あくまでヨーコさんに対しての罪悪感だ。
『で、クリスマスなんだけど。当然来るよな?』
「え? クリスマス?」
 そういやそんなイベントもあった、と困惑した俺に、友人は畳みかけるように言った。
『そう、予定空けとけよ。絶対お前好みの女連れてくから。すげぇ色っぽいの。楽しみにしとけ』
 一方的に言うや、通話は切れた。通話の終了を告げる機械音を聞きながら、息を吐き出した。
 彼女、ねぇ。
 彼女……だったらいいんだけど。
 彼女に、なってほしいんだけど……
 どうにも、ヨーコさんは回答を曖昧に先延ばしにするのだ。
 それを押し切る勇気もなく、俺は……よほどご機嫌なときにしか交わされない愛撫やキスを心待ちにしながら、共に過ごしている。
 切なさに一人、また息を吐き出した。
 友人つき合いは面倒くさいと思う俺だけど、電話をくれたこいつはなかなか面倒見がよくて、何かと便利な男だ。
 その関係に固執するつもりもないけど、俺が気にしているのは友人のことよりも、決定打に欠けるヨーコさんとの関係だった。

 半年前。
 恋人という肩書が欲しいと言ったとき、彼女は花が云々と言って、答えを先延ばしにした。
 その後、恐る恐る聞いてみたときには、俺の言ったことなんてすっかり忘れていたらしい。
 切れ長の目を丸くしてまたたきをし、そんなことも言うてたなぁ、とーー口には出さずとも、思っているとはっきり分かる体で一息つくと、
「まだ考え中や」
 と一言だけ口にして、会話を終えた。

 もうね。そのときのガッカリ感といったらないよね。
 そのそっけない応答はまあ、いつものことだから気にしないとしても。
 あ、かんっぜんに忘れられてたなって見てとったあのときの、何とも虚しい切なさ。
 あれはもう、他で感じたことなかったよね。
 もー、ヨーコさんてばいちいち、俺の初めてを経験させてくれちゃう。

 そんな12月のある週末のこと、ヨーコさんと共に夕食をとっていたとき、俺のスマホが鳴った。見やると例の友人からのメッセージだ。
【絶対参加。ドタキャンしたら殺す】
 俺はそれを見てつくづくため息をついた。
「どしたん?」
 ヨーコさんが首を傾げる。
「いや……友達が合コンに誘ってきて。もう去年の春からずっと行ってないんですけど、つき合い悪いって……」
 ヨーコさんは噴き出した。
「楽しんで来たらええやない。若いうちが華やで」
 くすくす笑う姿にため息をついて、俺はスマホを机に置き、おずおずとヨーコさんを見た。
 白い肌はアルコールと暖房のせいか、少しだけ赤く染まっている。
「あのぅ……ヨーコさん」
「うん?」
 俺は決意と共に顔を上げた。
「さすがにもう俺の彼女って思ってもいいっすよね?」
 言いながら、目が潤んでくる。
 あ、どうしよう。これで、もしまた返事を延期にされたら、俺泣いちゃうかも。
 ヨーコさんはしばらくぽかんとした後、ふと顔を反らした。
 その表情からは、何を考えているのか読めない。
 え、何その反応。次が読めないんだけど。怖いんだけど。
 遠い目をしたヨーコさんは、しみじみ呟くように答えた。
「あんたも懲りひんなぁ」
 それはどこかで聞いた言葉だ。
「だって……ヨーコさんのこと、好きだから」
 語尾は段々小さくなっていく。ヨーコさんは、好きと言われることをあまり喜ばない。それは何故だかわからないけど、彼女なりの感覚があるのだろう。
「好き、なぁ」
 言いながら、ヨーコさんはワイングラスを傾けた。
「いつ……いなくなってもええねんで」
 ヨーコさんの言葉の意味をとらえかねて、俺は首を傾げる。
 ヨーコさんはうつむくことを拒むように、俺から顔を反らしていた。
「うちに飽いたら、いついなくなってもええねんで」
 その横顔に違和感を覚えて視線を下げた。
 ヨーコさんはグラスの足元に添えた手に、もう片方の手を添えていた。
 自分の手を包むように添えられたその手が、ごくわずに、でも確かに震えていることを見て取って、俺はまたヨーコさんの横顔を見る。
 その顔はあくまで、無表情なままだった。
 いつものように。
 以前のように。
「飽きるわけ、ないじゃないですか」
 俺は震えているその手を包み込みたい衝動をおさえ、自分のワインを口にした。
「飽きるんだったら、とっくに飽きてます」
 言って、小さく息をつく。
 ヨーコさんは横目でちらりと俺を見た。
 その目を静かに見返す。
「教えて欲しいくらいですよ。ーーどうやったら、ヨーコさんと離れる気になるのか」
 言いながら、自分の顔がくしゃりと歪んだのが分かった。
 下唇を噛み、うつむく。
「……俺、馬鹿だけど、ヨーコさんのことを大切にしたい気持ちは嘘じゃないです」
 沈黙が訪れた。
 ひと息。ふた息。
 呼吸だけが、静かに繰り返される。
 ヨーコさんが、すこしだけ深く息を吸った。
 何か言うらしいと気づき、そろりと目を上げる。
「阿呆やなぁ」
 そこに微笑む女神を見て、俺は笑った。

 綺麗だ。
 やっぱり、ヨーコさんは綺麗だ。

「うちといても、何もいいことあらへんで」
「ヨーコさんといるだけで幸せだから、いいんです」
「ずいぶんお手軽な幸せやな」
 どこがお手軽なもんか。
 隣にいる権利を、どれだけ苦労して手にしたか。
 心からの笑顔が見られるようになるまで、どれだけ時間がかかったか。
 ヨーコさんが晴れやかに笑うーー
 特別なその瞬間に感動して、いまだに俺は震える。
 でも、言葉にはしなかった。
 できなかった。できる気がしなかった。
 どれだけ俺がヨーコさんのことを想っているか、なんて、到底言葉になどできそうにないから。
 ただそっと、その机上の手に手を伸ばした。
 ヨーコさんは俺にそっと覆われた手を、反射的に引きかけて止め、上目遣いで俺を見た。
「……彼女になってくれます?」
 ヨーコさんは一瞬だけ目を泳がせてから、
「……好きにしや」
 言って、また食事を再開した。
「よし」
 俺はスマホを取り出した。
「ちょっと待っててください」
「は?」
 言って立ち上がり、通話可能の表示がある手荒い前へたどり着く。
 しばらくコールすると、友人が出た。
「俺、行けないから」
 先手を取られて、友人はあっけに取られたらしい。一瞬の間ののち、
『はっ? 何、どういうこと?』
「俺、彼女できたから。大事にしたい人だから。他の女とかどうでもいい」
『は? 嘘だろ? またまたーー』
 友人の声が急に離れていったかと思うと、俺のスマホを耳に当てて微笑むヨーコさんがいた。
「初めまして」
『え? あれ? あの……安田は……』
「ジョー? いますよ」
 ふふ、とヨーコさんは笑う。
「すみませんけど、今回の飲み会はうちと出かける予定やから行けへんて言うてます。また別の機会に誘うたげてくれはる?」
 柔らかいヨーコさんの声が、ゆったりと言う。
 電話口の向こうで、友人が驚いている気配がした。
『あーーえーーはぁ……あの、ええと……わかりました。安田によろしく……』
「ええ、どうも」
 ヨーコさんは楽しげな表情で電話を切った。
 スマホを俺に差し出しつつ、いたずらっぽい笑顔で見上げて来る。
「どうや?」
 俺は笑ってスマホを受けとった。
「助かります」
 スマホをポケットに突っ込みながら、ヨーコさんの顔を覗き込む。
「事実ですか?」
「何がや?」
「ヨーコさんと予定があるっていうのは」
 ヨーコさんは驚いたようにまばたきをし、俺を見上げる。
「……いつやの?」
「クリスマス」
 今年の株主総会は、例年より一足早まり、クリスマスはゆっくり過ごせることになったーー
 とは、アーヤから聞いて知っている。
 ヨーコさんの顔を見つめながら、どきどきと胸が高鳴った。
 恋人と過ごすクリスマス。
 そんな夢を陳腐と笑う程度に、自分の馬鹿さに自嘲していると、
「ええよ」
 しばらく首を傾げていたヨーコさんはぽつりと言ってきびすを返した。
「え? ーーえ?」
「ご飯食べよ。お腹空いたわ」
「あ、はい。あ、あの?」
「何度も言わんで」
 すたすたと席に戻るべく歩き出す後頭部を見ながら、じわじわと喜びが胸中を満たしていく。
「ーーはい。はいっ」
 俺は緩んだ笑顔で頷いて、後に続いた。
「何かいいとこ探しときますね。たまにはロマンチックに過ごしたいなぁ」
「……」
「イルミネーションとかどうですか。ヨーコさんあんまり好きそうじゃないかな。人ごみは避けましょうね。ごちゃごちゃ要らない人間がいてもうっとうしいだけだし」
「……」
「楽しみだなぁクリスマス。あ、当然お泊りですよね? ホテルとかじゃなくてもいいんですけど、時間気にせず過ごしたいな。ね、ヨーコさん」
 ご機嫌な俺が一方的に話し掛ける横で、ヨーコさんはいつも通り、あきれた顔をしていた。
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