色ハくれなゐ 情ハ愛

松丹子

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第四章 死が二人を分かつまで

04 初恋

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 ヨーコさんと二人、斎場に向かうと、兄姉もその家族も揃っていた。
 少し前までは賑やかに駆け回っていた甥姪も、すっかり良識を身につけて、礼服に見を包み神妙にしている。
「ああ、ジョー。お疲れ」
 俺に気づいた良次兄さんが手を上げる。一時期結婚して家を出た良二兄さんは、離婚後ずっと母と二人で住んでいた。不動産系の営業をしていて、フットワークが軽く顔が広い。
「うん……母さんは?」
「こっち」
 良次兄さんは言って、歩き出した。
 その横顔が、一気に老け込んだように見える。
 良次兄さんの年齢を思い出す。ヨーコさんより一つ年上なだけなのに、とてもそうは見えなかった。
「……兄さん、老けたね」
 柩が見えると同時に呟くと、良次兄さんはあきれたように俺を見た。
「お前、相変わらずマイペースだな」
 俺は首を傾げた。ヨーコさんが後ろで苦笑している。
「すみません。悪気はないんです……だから余計、たちが悪いんですけど」
 フォローになっていないことを言ったヨーコさんに、良次兄さんが苦笑を返している。
「知ってる。ヨーコちゃんも苦労するね」
「いえ……こういうジョーだから救われるところもありますし」
 俺はぷくっと頬を膨らませて見せた。
 立ち話を始めた二人をその場に残して、俺は柩へと足を向ける。
 白っぽい綺麗な柩に入っている母は、ただ眠っているような姿なのに、蝋人形のように見えた。
 血の気がない、ってこういうことか。
 柩の横に手を添えて、母をじっと見つめる。
 笑ったときによく寄った目尻のシワと頬のシワ。白くなった髪と眉。唇にはうっすらと、死に化粧が施されている。
 父が死んだとき、俺は二十代後半だった。
 ガンが分かった後、父の死までは一年程度。
 覚悟する期間はあったけど、思春期の頃、柔道の腕を試して俺を投げ飛ばしていた姿から思えば、その死はあまりに呆気なかった。
 柩の端にあごを乗せ、動かない母を見る。
 髪はぱさぱさに乾き、口の中には綿か何かが入っているようだった。
 本当に、もう動かないんだ。
 改めて思い知って、唇を引き結ぶ。
 まぶたの裏には母の姿が浮かんでいた。
 楽しそうに酒を酌み交わしていた年始の姿。
 ヨーコさんの耳元に手を当て、ひそひそと楽しそうに離していた少女のような姿。
「……母さん、よかったね」
 母がよく、言っていたのを思い出す。
 「憎まれバアサンになるのは嫌だから、ぽっくり逝きたいわ」と。
 笑って言っていたのを思い出す。
 「お父さんってば、いつ迎えに来てくれるつもりかしら。よぼよぼになったらあっちに行っても楽しめないのにね」と。
 笑いながら、伴侶を失った切なさを、目に秘めていた母を。
 父の葬式でも、母は泣かなかった。
 穏やかに微笑んで、黙って父の頬を撫でていた。
「ありがとう、お父さん。幸せだったわ」
 静かに囁いたその声に泣いたのは、むしろ俺の方だった。
 俺はゆっくりと、母の頬に手を伸ばす。 
 でも、さわれなかった。
 手を止めた俺の横から、ヨーコさんが手を伸ばし、両頬を包む。
「お義母さん……」
 俺はヨーコさんの横顔を見る。穏やかで切ない微笑みをたたえた彼女が、優しく母の頬を撫でていた。
「一緒に、京都行くの、楽しみやったのに残念ですけど……」
 俺は柩にあごを乗せたまま、目を閉じて彼女の声を聞く。
「でも、ようやくお義父さんと会えますね。よろしく伝えてくださいね」
 うっすらと目を開くと、彼女の目に涙が浮いているのが見えた。
 綺麗だなぁ、と見惚れていると、ヨーコさんが俺を見る。
 母の頬から離した手を、柩の縁を掴む俺の手に重ねた。
 その手が触れて始めて、自分の手の震えに気づく。
 ヨーコさんは切なげに微笑んだまま、俺の肩に頬を寄せた。
「……大丈夫?」
「……うん……」
 俺の手を覆ったヨーコさんの手を握る。
 ヨーコさんは指を絡めた。
「……大丈夫」
 頷いて、片手を母の頬に伸ばす。
「……母さん。ヨーコさんのこと、父さんに自慢しといて」
 触れた頬は、もう生きているもののそれではない。
 俺は唇を引き結んだ。下唇を噛み締める。俯く。
 ヨーコさんが俺の頭を抱き寄せた。
「泣いてええねんで」
「……ぅん……」
 遠巻きに、甥も姪も俺たちを見ている。
 そうわかっていても、涙は止められなかった。
 片手で目を覆い、小さく嗚咽を漏らしながら泣く。
 ヨーコさんは黙って俺の背中を撫でてくれていた。
「ジョーは意外と泣き虫や、て、お母さんと話しててんで」
 俺の背を撫でながら、ヨーコさんは呟いた。
「わがままやのに、自分が大切にするものは本当に大切にするんやて、下手したら自分以上に大切にするんやて、言うてはった」
 俺は思わず笑った。ヨーコさんが静かに差し出したハンカチを受け取り、目に当てる。
「いつの間にそんなこと、話してたの」
「いつやったかなぁ。一緒にお出かけしたときやったと思うで」
 ヨーコさんは微笑んだ。
「そうそう、ひな人形の展覧会に行ったときやったかな。おばあちゃんの持ってた日本人形、ジョーが気に入ってはったのを、おばあちゃんが亡くなった後見つからんで捨てたて言うたら、しばらく部屋から出て来ぃへんかったって」
 俺は目をぱちくりする。そういえばそんなこともあったかもしれない。
「ジョーお兄ちゃん」
 一番末の姪っ子が、俺のところに寄ってきた。
 気まずそうにしているその背中を、みんなが見ている。きっと声をかける役目を押し付けられたのだろう。
「これ……良次おじちゃんが、持ってけって」
 強引な叔父には、甥も姪も敵わない。俺は苦笑しながら差し出されたそれを目にし、驚きに数度まばたきした。
「……え? これ、あったの?」
「なんか、よくわかんないけど、持ってけば分かるって」
「いや、わかんないよ。分かるけどわかんない」
 俺は彼女の手から、博多人形を受けとる。
 手芸が好きだった祖母が作った木目込み人形。博多人形の白い顔に、鮮やかな和柄の布がはめこまれている。
「なんだぁ、捨ててなかったんだ」
 俺は笑いながらそれを顔の前へ持ち上げた。おかっぱの女の子。不思議と切なさを感じさせる切れ長の目、わずかに紅の乗った頬、小さな唇。
 そのときいきなり、ヨーコさんと出会ったときに感じた既視感を思い出し、俺はヨーコさんを見た。
 ヨーコさんがわずかに、首を傾げる。
「……あー」
「何や?」
 首を傾げる彼女の顔の隣に人形を掲げ、笑った。
「だから、見覚えがあるような気がしたんだ」
「……うちを?」
「うん」
 俺は笑いながらヨーコさんの手に人形を渡す。
「小学校の卒業アルバムの写真にそっくり」
「……おかっぱだけやろ」
「違うよ。そっくりだよ。ヨーコさんに」
 ヨーコさんは困惑したように、唇を尖らせた。照れてもいるのだろう。頬がわずかに赤い。
「こんなにぷっくりしてへん」
「でも、この子が人間で、大人になったら、ヨーコさんになるよ」
 ヨーコさんはあきれたような顔で俺を見上げた。
「あんたなぁ」
 何か言おうとして、言葉に迷ったらしい。嘆息すると、また人形の顔をじっと見つめた。
「もしかして、この子がジョーの初恋なん?」
「そうかも。妬ける?」
「妬くわけないやろ」
 言いながら、ヨーコさんは微笑んで人形の頭を撫でた。
 良次兄さんが遠くから見ていることに気づき、俺は声をあげた。
「兄さん、これどこにあったの?」
「年度末の大掃除で出てきた荷物、年始に整理してたら出てきたんだよ。母さんが見つけた」
 良次兄さんは答えて笑う。
「お前に謝らなきゃって笑ってたぞ。次に会ったとき渡そうって言って。俺はもう要らないんじゃないかって言ったんだけどな」
 歩み寄りながらそう言って、ヨーコさんに微笑む。
「だってジョーにはもう、ヨーコちゃんがいるもんな」
 俺はヨーコさんとその手の内の人形を見て、良次兄さんに向き直った。
「じゃあ、兄さんにあげようか?」
「俺ぇ? 俺はいいよ」
 良次兄さんは笑う。
「どうせなら人形より生身の人間がいい」
 俺も笑って、ヨーコさんの肩を引き寄せた。
「そりゃそうだ」
 俺達を見上げるヨーコさんに微笑みかける。
 ヨーコさんは俺と良次兄さんを順に見て、手元の人形に目を落とした。
「……なら、うちがもらっても?」
 その髪を撫でて、回答を求めるように俺たちを見上げる。
「気に入ったの?」
 良次兄さんが意外そうに言うと、照れ臭そうに微笑んだ。
「なんか……他人の気がせえへん」
 俺は慌てて、兄とヨーコさんの間に割り込む。
「駄目」
「何が」
「ジョー?」
「駄目。今の顔は俺だけしか見ちゃ駄目。良次兄さんあっちに行って」
 精一杯良次兄さんを睨みつけると、良次兄さんもヨーコさんも、あきれたような顔をした。
「変わんねぇなあ、お前は、ほんと」
 それぞれ言って、昔よくしたように俺の髪を掻き混ぜる。
 もう三十も後半の弟の頭を。
「箱、あっちにあるから。好きに持ってけ」
「うん。ありがとう」
 俺は頷いて、柩の中に横たわる母を見た。
「母さんも……ありがとう」
 微笑むと、母がわずかに微笑んだような気がした。
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